もしパウロの時代にブログがあったら(1) (2011年7月30日)
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2011/07/blog-post_30.html
もしパウロの時代にブログがあったら(2) (2011年7月31日)
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html
「もしパウロの時代にブログがあったら」をめぐる穏やかな対話 (2011年8月2日)
http://ysekiguchi.blogspot.jp/2011/08/blog-post_02.html
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ありゃりゃ、えー、「2011年8月2日」と書いてある。この記事、もう一昨年のものですかね、時間が経つのは早いですね。
何の気なしに、ブログの過去記事を読み直していました。
この「対話」のお相手(zubi先生)が「パウロのカーニヴァル性」とか「価値観の宙づり」とかおっしゃったとき、正直言ってぼくは、その意味が分からなかったんです。
それで、ちんぷんかんぷんな答えをしてしまいました。
でも、さっき読み直してみて、「あ、違う」と分かりました。
ぼくの「パウロ超訳」の意図は、「カーニヴァル性」でも「価値観の宙づり」でもありません。
「からかう」意図も、「侮る」意図も、「蔑む」意図も、ぼくには皆無だからです。
もしそのように読まれてしまうとしたら、ぼくの負けです。
意図を伝えることができない、拙い文章力しか持ちえていないぼくの敗北です。
聖書や教会や宗教を、からかいや侮蔑という方法で「引きずりおろさなければならない」ほどの”権威”であると、いまだかつて感じたことがないからかもしれません。
もしぼくが、そのようなものを、そのような意味での”権威”だと思っていたら、そもそも牧師になどなろうと思ったはずがないです。
”権威”の座に着きたくて牧師になろうと思った人、います?
「手挙げてください」って言ってみたい。
ぼくの友達には、いないなぁ(笑)。
聖書や教会や宗教を、からかいや侮蔑という方法で「引きずりおろさなければならない」と思っている人は、悪い意味での権威主義者ですね、たぶん。
ぼく、そうじゃないもん。権威主義者に見えます、ぼく?
違う違う、ぜんっぜん違う。
パウロって普通の人でしょ。教会に通っている人たちも普通の人。
普通の人が、普通の人に、普通の言葉で話をすれば、こんな感じになるんじゃないかなと想像しながら「普通の言葉で」超訳してみただけです。
ぼくは”権威”をからかったことはないです。侮蔑したこともない。そんなこと、したくないもん。
つい、からかいたくなるのは、悪い意味での権威主義者のことだけです。
「大丈夫かよ?」と心配になってしまうだけです。