2013年2月10日日曜日

自分はいかに弱く小さな存在か


マタイによる福音書26・31~46

「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った。それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。』更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』」

今日お読みしました個所に描かれているのは、イエスさまが弟子たちと一緒にオリーブ山のふもとのゲツセマネの園で、神さまに三度祈りをささげられたときの状況です。

その前にイエスさまは弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。新共同訳聖書が「つまずく」と訳している言葉の意味は、むしろ「見捨てる」です。「あなたたち全員が今夜わたしを見捨てます」とイエスさま御自身がおっしゃったのです。

するとペトロが言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。そのペトロの言葉を聞いた他の弟子たちは、腹を立てたかもしれません。「ペトロよ、あなただって我々と同じではないか。なぜ自分だけを特別扱いするのか」。そのように思ったかもしれません。しかし、彼らはそのようなことを、たとえ心の中で思ったかもしれないとしても、最初はそのようなことを口に出して言うことはありませんでした。

しかし、イエスさまはペトロに言い返されました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。ペトロは反論しました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。

すると他の弟子たちも「同じように言った」と書かれています。彼らとしては「ペトロだけが特別ではない。わたしたちも同じ気持ちである」とイエスさまに対して言いたかったのでしょう。ペトロに対しては「あなた一人だけ抜け駆けするような言い方はやめてくれ」と言いたかったのでしょう。

イエスさまは、それ以上のことはおっしゃいませんでした。押し問答を続けようとはされませんでした。しかし、イエスさまは、彼らが御自分を見捨てることになると確信しておられました。

ここで考えてみたいと思うことは、このようにおっしゃりながら、イエスさまが弟子たちに願っておられたことは何だったのでしょうかという問題です。考えてみたいのは次のようなことです。

イエスさまは弟子たちには御自分と一緒に死んでほしいと願っておられたのでしょうか。イエスさまのことを「知らない」と言わないでほしかったのでしょうか。

イエスさまのことを弟子たちが「知らない」と言わないということは、彼らもイエスさまと同じように逮捕され、処刑されることになることを意味しています。イエスさまは彼らにも御自分と一緒に十字架の上で死んでほしいと願っておられたのでしょうか。それなのに、あなたたちは、わたしを見捨てる。あなたたちは、なんと冷たい、なんと卑怯な人間たちなのか。そのように、イエスさまは弟子たちをにらみつけ、恨み、さげすみ、腹を立てておられたのでしょうか。

そうではありません。すべて正反対です。イエスさまは弟子たちには死んでほしくなかったのです。生きてほしかったのです。「一緒に死ぬ覚悟」などしないでほしかったのです。「知らない」と言ってほしかったし、見捨ててほしかったし、逃げてもらいたかったのです。

もちろんそれは、弟子たちの側からいえば、イエスさまに対する裏切り行為であったことは間違いありません。彼らはこのあと実際にイエスさまを見捨てて逃げてしまったとき、激しく後悔しましたし、強い罪意識にとらわれました。ペトロは三度イエスさまを知らないと言った後、「激しく泣いた」(26・75)と記されているほどです。

しかし、ペトロに対しても、他の弟子たちに対しても、イエスさまは、御自分を見捨て、裏切った彼らのことを、恨みと怒りに満ちた目でにらみつけられたわけではありませんでした。むしろ、彼らが逃げてくれたこと、「知らない」と言ってくれたことを喜び、ほっと胸をなでおろされたに違いない。弟子たちには、安全なところまで逃げて、生き延びてほしかったのです。

そうでなければ、少なくとも歴史の事実として、イエスさまが十字架の上で死にゆくさまを世界中に宣べ伝えることになる弟子たちが生き残ることはありえませんでした。まさに全滅でした。そうなれば、教会が生み出されることはありませんでした。二千年の教会の歴史もありませんでした。

イエスさまが弟子たちに願われたことは、御自分と一緒に死んでほしいということではありませんでした。自分ひとりで死ぬのは寂しいから一緒に死んでくれ、というようなことを弟子に迫るような方ではありませんでした。自分ひとりが生き延びて弟子たちを見殺しにするような方でもありませんでした。

すべて正反対です。イエスさまは、ひとりで死ぬことを願われたのです。そうでなければ、御自分が十字架に架けられて死ぬことの意味はないと確信しておられたのです。それは、弟子たちを生かすためです。彼らに御自分の遺志を託そうとなさったのです。

ですから、このやりとりの次に記されている、イエスさまが祈っておられる間、弟子たちが居眠りしていたことに対して、イエスさまがやや厳しい言葉を語っておられる個所も、イエスさまが恨み、さげすみ、腹を立てられたのだと、もしそういうふうに読むとしたら、その読み方は間違っています。

そうではありません。弟子たちに対するイエスさまのまなざしは、慈愛に満ちた、温かいものです。彼らを責め、裁き、ののしっておられるわけではないのです。

しかし、そうは言いましても、激しく悩み苦しまれていたイエスさまの近くで、弟子たちが居眠りしていたことは事実です。イエスさま御自身は彼らのことを憎んだり、恨んだりなさいませんでしたが、彼ら自身はひどく後悔したことでしょう。

イエスさまは「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに言われました。一緒に祈ってほしい、起きていてほしいと、イエスさまが願われたことは確かです。「あなたがたはこのように、わずか一時でもわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。これはやはり、厳しい言葉ではあります。

そして、イエスさまは、弟子たちがいる所から少し離れた所でうつ伏せになられ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。

イエスさまは死ぬのが嫌だったのでしょうか。逮捕され、処刑されるのが怖かったのでしょうか。そういうお気持ちを持たれたのではないかという可能性を否定することはできないと思います。変な言い方になりますが、イエスさまは何も「死にたい」と思っておられたわけではないのです。「わたしはもう早く死にたいのだ。だから一思いに殺してくれ」というようなことを願っておられたわけではありません。

それどころか、罪のないイエスさまを逮捕し、死刑にする人たちは、そのことによってその人たち自身が罪を犯すことになります。そのようなことを誰にもさせてはなりません。そのことをイエスさまもお考えになっていたに違いありません。

しかし、イエスさまを憎む人々の勢いが止まる様子はありませんでした。新しい教えを語るイエスという男を殺せば、すべては元のさやに納まる。そのように彼らは信じていました。しかし、歴史の事実はそのようには進んで行きませんでした。むしろ、全く正反対になりました。「神の御心」がそのようなものではなかったからです。

イエスさまの死にゆく姿こそが、新しい教えとして宣べ伝えられるようになりました。イエスさまは弟子たちをかばい、ひとりで十字架にかけられました。一粒の麦が地に落ちて死ぬことによって、多くの実を結び、新しい命を生み出すことになりました。イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲むことによって、イエスさまがこのわたしの中に生きて働いてくださると信じられるようになりました。

それが「神の御心」であるとイエスさまは信じておられましたので、悩みと苦しみをお感じになっても、十字架への道を歩まれたのです。

今日の個所からわたしたちは何を学ぶことができるのでしょうか。私は今日、ごく一般的な結論を申し上げたいと思います。

人は、怒鳴りつけられても、厳しく責められても、反省することも、自分の罪を自覚することも、ありません。体罰で人が良い方向に変わることもありません。人が変わるのは、愛されるときです。愛されて、赦されて、すべてが受け容れられたときに初めて、その愛に応えることのできない自分の弱さや愚かさを自覚するのです。

鶏が泣いたとき、ペトロは激しく泣きました。しかし、それは「わたしは決してつまずきません」という自分で立てた誓いを自分で守れなかったから泣いたのではないのです。「あなたは三度わたしのことを知らないというであろう」とおっしゃったときイエスさまが何を思っておられたかが分かったから泣いたのです。イエスさまはわたしのためにそのように言ってくださったのだと分かったのです。

(2013年2月10日、松戸小金原教会主日礼拝)