なんとも後味が悪い文章を読んでしまった。
森一弘氏の教皇批判である(キリスト新聞、第3260号、2013年3月2日付け、第一面)。
「教義の人」の限界?
「『教義の人』としての教皇の辞任の背後には、現代世界における教会の『教義』の限界があったように思われる。」(森氏)
森氏が「教会の教義」と書く場合、それは常に狭義のカトリック教義の意味のみに限定されているようなら、有難い。いっそ、そうであってもらいたいと心から願う。
しかし、そうではなく、全キリスト教会、ないし全宗教の「教義」を意味しているのであれば、ハタ迷惑な話である。
森氏曰く「次に、教会は、教義に軸足を置いた人物を選ぶか、福音に軸足を置く人物を選ぶのか」。
キャッチーなフレーズではあると思うが、まるで「教義」と「福音」は対立関係にあるかのようだ。
「伝統的な教義はそんな人々〔※弱い立場にある人々〕を慰め照らし導く力を失い、ヨーロッパの教会離れは着実に進行している」(森氏)は確かな事実だ。
しかし、もしそうであるならば、森氏には、「教会は、これまで以上にもっと、教義と教義学に徹底的に取り組まねばならない」と言ってほしかった。
「教義の人」「教義に軸足を置いた人物」を十把一絡げにして切り捨てる論法ではなく。
「カトリック教会の従来の教義理解には限界がありました。弱い立場にある人々への視点が欠けておりました。わたくしどもはこれから教義の刷新、教義の改革に取り組んでまいります」とでも書いてほしかった。
「教義」ではなく「福音」で、という二者択一ではなく。
出るのはため息ばかりだ。