2011年4月9日土曜日

「我々にとってイエス・キリストは重要ではない」?

「どう言ったらいいか分からない難しさ」のようなものを感じながら、それでもそれを何とか表現しなければならないときに、もどかしさを覚えることというのは、ままあります。たぶん誰でもそうでしょう。

牧師という仕事は「物書き」を名乗るほどのものではないし、もし名乗れば一笑にふされるだけでしょうけど、少なくとも私は毎週日曜日の説教は完全原稿(40字×40行にフォーマットしたA4判のコピー用紙3枚)で臨むし、他にもいろんなところに定期・不定期で書いています。牧師は「物書き」ではないけれど、しかし、書くことに慣れていない人には務まりにくい仕事ではあるかもしれません。

しかし牧師は、こと日本においては完全に「知的文化人」ではないし、ありえない。宗教を名乗るだけで「反知性」の代表者とみなされるケースも多いし、政教分離と資本主義の世の中では、政治からも経済社会からも宗教は締め出される。

今の日本では「お前はキリスト教だから、牧師だから」といって石を投げつけられたりすることまではもうありません。しかし、「そういうのがお好きな人は、どうぞご自由に。でも押しつけられるのはごめんだからね」と初めから相当距離をとられている。

その意味では牧師が「文化人」であるはずはない。「文化の外」にいる存在であることは間違いありません。

それでもあえて「文化の中」に入っていこうとする牧師たちは、「物書き風」になるか、大学や高校・中学などの「先生風」になるか、ジーンズをはいた(差別的意図は皆無です)「ボランティアワーカー風」になるか、あとは何かなあ・・・自分の子どもの学校のPTA活動に参加するとかそれくらいのことしか見当たりませんが、そんなふうに擬装(カムフラージュ)して、入って行くしかない。

ともかく、生(き)のままの宗教教義を表に持ち出すことは、ほとんど不可能です。まるで劇薬か危険物扱いだし、持ち出した途端、すっと空気が冷たくなる。その気温の変化を楽しむタイプの人もいるようですが、私には悪趣味としか思えません。

いま書いていることにあえてタイトルをつけるとしたら「現代の民主主義的・資本主義的文化社会における宗教の失語状況」とでもなるかもしれませんが、しかし、「失語状況」と言うにしては、私は明らかに書きすぎです。目・肩・腰に激痛がはしるくらい書き続けている。稿料など全くもらったことがないし、もらえる当ても無いのに、書き続けている。

そう(ポン!)、ですから、私がやっていることはそもそも「宗教」ではないのだと言って開き直るのも一つの手です。でも、だったらこれは何なのだ(?)と自問せざるをえない日々でもあります。

最初から脱線してしまい、書こうとしたことをうっかり忘れるところでした。「どう言ったらいいか分からない難しさ」。

実は、翻訳の問題を考えていました。

いまは東京の教会で牧師をしている清弘剛生さんと一緒に12年前に始めた「ファン・ルーラー研究会」という、ただのメーリングリストなのですが、それを今でも細々と続けています。20世紀オランダのプロテスタント神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラーの神学書を日本語に翻訳することを目標とする(志だけはやたら高い)グループです。メンバーは120名ほどいてくださるのですが、最近はメーリングリストに閑古鳥を鳴かせていることを苦にしています。

そのメーリングリストのやりとりの中で、もう10年以上前から悩み続け、今も解決していないのが、オランダ語のhet gaat om...をどう訳すかという問題です。ドイツ語をご存じの方はEs geht um...と同じ意味だと思っていただけば、我々の悩みを理解していただけるはずです。

これ、どう訳すんですか。ホントに分からないです。辞書を見れば「・・・が問題だ」とか「重要なことは・・・である」とか書いているのですが、「・・・が問題だ」とか「重要なことは・・・である」という日本語そのものが、どこかしら意味不明です。

しかも、ファン・ルーラーという人は、我々が読んでいてドキッとするようなことを繰り返し書く人だったので、そのショックや刺激を残して訳したいとも(おそらく訳者なら誰でも)思うのですが、そのショックや刺激があまりにも強すぎると、読者を失いかねないところもある。

それはどういうことかといえば、たとえばファン・ルーラーは、次のように書きます。

Voor ons, het gaat niet om Jesus Christus. Het gaat om dit wereld. Onze aardse werkelijkheid!

これをあまりひねくらないで直訳すると、「我々にとってイエス・キリストは重要ではない。重要なのはこの世界である。我々の地上の現実が重要なのである!」というふうになってしまいますが、ギョギョですよね。教会の中から激怒を買いかねません。

声を大にして言いたいことですが、このような文章を書くときのファン・ルーラーの意図は、イエス・キリストが「重要でない」わけでも「問題でない」わけでもありません。

しかし、そうでないなら、それでは何なのかと問われると、どう答えてよいか分からない。「どう言ったらいいか分からない難しさ」に直面するのです。

ファン・ルーラーの言いたいことを別の言葉で言い換えるとしたら、「キリスト教とは、あるいはイエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストに関心を持つことではなくて、イエス・キリストが関心をお持ちになったこの世界、すなわち地上の現実に関心を持つことです」というふうなことなのですが、ここまで噛み砕いてしまうと、一昔前なら「そんなのは意訳だ」と退けられたでしょうし、いまなら「ずいぶん超訳だねえ」と笑われるのがおちでしょう。

でも、どう訳すかはともかく、私自身は、このようなファン・ルーラーの見方に非常に感銘を受けています。

「キリスト教の主要関心事は、イエス・キリストではない」。こう訳すと、誤解されることは必至です。でも、近からず遠からず、です。

「わたしたちが関心をもつべき対象は、イエス・キリストの目から見たこの世界(地上の現実)である」。これでギリギリ、でしょうか。まだ危ない、かな?

「ちょっと、ちょっと、あなたたち、向いている方向が間違ってるんじゃないですか。教会は現実逃避の場所ではありません。もっと外に目を向けなくちゃいけませんよ」と、教会の人たちの社会的無関心を叱りつける調子が、このファン・ルーラーの言葉の中には含まれています。

上のほうに書いた「現代における宗教の失語状況」も、このファン・ルーラーの線で考えていけば、宗教と教会自身の怠慢が招いた状況かもしれない、ということに思い至ります。

政教分離の社会の中で「イエス・キリストだけに関心を寄せ、イエス・キリストだけを語る」と言えば、「そういう話は政治と経済と文化の外側でやってください」と締め出されるに決まっているわけですが、教会側も「締め出されること」に安心している面があるかもしれない。

政治にも経済にも文化にも絡まないで済む、サブカルどころかカルチャーですらないものであり続けようとする、じつにラクチンで安穏とした特殊領域に閉じこもりながら、「現代社会における宗教の失語状況」を嘆いてみせる。でも、それって、言葉の正しい意味で「負け犬の遠吠え」って言うんじゃないでしょうか。

ファン・ルーラーが求めているのは、根源的な発想の転換、視点の(180度の)切り替えです。下手な革命より「革命的」です。

でも、それをどう訳せばよいのでしょうか。考えるたびに、ため息が出ます。ま、でも、楽しいですけどね。