2010年10月5日火曜日

クラウドの不安

「クラウド」のことを二回続けて書きましたが、手放しで絶賛する意図はありません。今すでに、非常に深い不安、ひいては恐怖心さえ抱いています。



「財布」と「金庫」のたとえをそのまま用いていえば、「クラウド」の場合、金庫は金庫でも、自分の家の中に置かれているものではなく、いわゆる貸し金庫であり、あるいは銀行に預けるようなものです。



しかし、銀行も「つぶれる」ことがあるではありませんか。また、銀行内部に悪意を持つ行員は一人もいないと誰が言えますか。特捜部の検事でさえも全幅の信頼を置くなどとんでもないことであるということが明るみに出る昨今です(私には単純に、彼らの仕事が「かっこいい」と見えていました)。



同じことが「クラウド」にも当てはまるでしょう。私がクラウドに感じる最大の不安は、「その金庫は信頼できるのか」ということです。



私が自分の仕事に「クラウド」を利用するという場合の内容は、企業にお勤めの方々とは全く比べものにならないほど、ごく小規模のものです。とくにこの数年、出張や移動がけっこう多くなってきましたので、原稿の「最新版」をオンラインストレージに置いて、どのパソコンからでも(外出先のネットカフェなどからでも)アクセスできるようにし、「最新版」を更新したいという、ただそれだけです。しかし、その程度の私でも、クラウドに不安を感じるのは、上記の理由からです。



自分が書いている原稿(内容は何であれ)の「最新版」を自分のパソコンの中にではなく、いわば「他人の」(オンラインストレージサービスを提供してくれている会社の)データセンター(のコンピュータ)の中に置いてしまうことが恐怖です。



それが嫌なら最新版の「コピー」(ないしバックアップ)を自分のパソコンの中に置けばいいではないかと言われてしまうでしょうけれども、これは従来とは逆の順序なので、狼狽に近い感覚をおぼえます。従来は、自分のパソコンの中にあるのがオリジナル版であり、それと同じものが他人のパソコンの中にある場合は、そちらのほうを「コピー」(ないしバックアップ)と呼んでいたはずです。しかし、「クラウド」では他人のパソコンの中にあるのがオリジナル版となり、自分のパソコンの中にあるものが「コピー」扱いにならざるをえません。ここに、なんともいえない気色悪さがあります。



それが嫌なら自分でサーバーを立てるしかないのでは、と言われかねませんが、そこから先の話は、素人の私にはついていけません。



私にとっての最良は、私の原稿(自分の文章という意味ではなく、ファン・ルーラーをはじめとするオランダプロテスタント神学の翻訳原稿という意味です)が、私のパソコンの中からも、また「クラウド」のパソコンの中からもすっかり無くなってしまうこと、つまり、すべてが印刷され、表紙のついた本になることなのですが、そのうち人は紙の本を持たなくなり、すべて電子図書として読むようになるのでしょうか。



そうなると、やっとデジタル界から外界に出ることができた(「人間になった」)原稿たちを再び逆戻ししてしまうことになりますね。



やっぱり、なんだか気色悪いです。