2009年1月4日日曜日

初めに言(ことば)があった


ヨハネによる福音書1・1~5

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

今日からヨハネによる福音書を学んでいくことにしました。この福音書は、全体で21章あります。全体を学ぶには、またかなりの時間がかかってしまうと思います。どうか最後まで(ひとりも欠けることなく!)お付き合いいただきたく願っております。

この書物を学びはじめることをお伝えしましたとき、教会のある方が「私にとって何度読んでも未だによく分からない福音書です」とメールでお知らせくださいました。だからこそこれからの学びを楽しみにしていますという旨、書き添えてくださいました。しかし、事実はその方のおっしゃるとおりです。なるほどたしかに、ヨハネによる福音書は、何度読んでもよく分からない書物です。学び続けていくためには、いくらか忍耐が求められるかもしれません。

ごく大雑把で常識的なことから申し上げておきます。新約聖書のなかに救い主イエス・キリストのご生涯を描きだす「福音書」と呼ばれる四つの書物があり、その四番目に位置づけられるのがヨハネによる福音書です(そのため「第四福音書」と呼ばれます)。時代的に見ても四つのうち最後に書かれたのがヨハネです。書かれた時期は西暦一世紀の終わり頃であるという見方が有力です。

他の三つはマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書です。これらは性格的に似ているものです。似ていることには当然理由があります。今の聖書学者たちの見方によりますと、最初にマルコが書かれ、次にマタイ、三番目にルカが書かれました。しかも、最初のマルコはともかく、マタイはマルコを参考にしながら書き、さらにルカはマルコとマタイの両方を参考にしながら書いたのです。まるごと引き写しているところも少なくありません。このように互いに見比べ合いながら書かれたものが似ているのは当然です。この三つの福音書は、教会の長い歴史の中で「共観福音書」と呼ばれてきました。

それではヨハネによる福音書はどうでしょうか。四つのうちでいちばん最後に書かれたものが他の三つを参考にして書かれていることは当然というべきです。しかし、他の三つとは全く似ていないとは言えないにしても、かなり違いがあることは間違いありません。聖書学者が目をつけるところは、他の三つの福音書(共観福音書)とヨハネによる福音書(第四福音書)との違いの原因ないし理由は何かという点です。

これについてはいろんな人がいろんなことを言ってきました。それらを紹介することはできません。しかしその中で私にとっていちばん納得が行くというか腹にうまく納まるというか説明しやすいと感じてきましたのはヨハネによる福音書が書かれた時代の時代的な背景からの説明です。すなわち、西暦一世紀の終わり頃の教会が直面した厳しい現実とこの福音書との関係という点です。これについてもややこしいことはなるべく言わないでおきます。一つの点だけ。

ごく一般論的に考えていただきますとき、ある書物が書かれるとき、それを書く人にはその人自身の言いたいこと(著者自身の主張)があるということは、お分かりいただけるはずです。もちろん「福音書」とは、イエス・キリストの生涯を描きだす目的で書かれるものですので、著者の主張などは、本来はできるだけ後ろに引き下がったところにあるべきものなのです。実際たしかに、共観福音書の場合には著者自身の主張が出てくるようなところがあってもどこか遠慮がちであり、イエスさまの背中のうしろに隠れるような仕方で出てきます。しかしヨハネの場合はそれが前面に出てくる。遠慮なく出てくる。ここに違いがあると言えます。

そしてその違いの原因が、ヨハネによる福音書が書かれた時代的背景にあるという説明が私にとっては最も理解しやすいものです。西暦一世紀末、それはキリスト教会がまさに存亡の危機に直面していた時代です。この時期のキリスト教会はさまざまなグループに分かれ、その中に異端も発生して混乱の極みにあった。そのように考えていただいて間違いありません。その様相たるや、もしその時代の教会がさまざまな異端との戦いに敗北していたとしたら、その後の千九百年間のキリスト教の歴史は存在しなかったであろうと言われているほどです。

なかでも、この時代にはすでに流行の兆しを見せていた「グノーシス主義」との戦いは熾烈を極めたものでした。グノーシス主義については一度どこかできちんと説明しなければなりませんが、今日は簡単に済ませます。いちばん理解しやすいと思われるところだけ言いますと、それは要するに、この地上の人生を軽んじる立場です。グノーシス主義者は、「天国」だとか「天使」だとか、この地上の現実を超えた向こう側の事柄には強い関心や憧れを抱くのですが、地上の人生、世界の現実に対しては、ほとんど絶望に近いものを感じとったり、無関心を決め込んだり、それはもっぱら汚れたものであるゆえに憎むべきものでさえあると考えたりする。要するに、それ――地上の人生!――を軽んじていたのです。

もちろんある見方をすれば、「天国」や「天使」をもっぱら強調する人々こそが宗教的に熱心であったりしますので、そちらのほうが正しいのではないかと感じることがあるかもしれません。しかし、グノーシス主義はやはり、キリスト教会にとっては異端です。教会が重んじるべきことは、「天国」があり、「天使」がいるというようなことだけではありえないからです。「地上の世界」があり、そこに「人間」がいるということ、このことも教会は十分重んじなければならないのです。

もちろん、ヨハネによる福音書の歴史的な背景は、グノーシス主義との戦いということだけで説明できるものではありません。もっといろんな要素が複雑に絡み合っています。しかし、この要素――グノーシス主義との戦いという要素!――が確かにあったということは語りうることです。ややこしいことは分かりませんとお感じの方のために別の言葉を用意しておきます。それは、「この福音書の裏側には地上の人生を軽んじる人々との戦いという意図があります」ということです。

ただし、ここでもう一つだけややこしいことを申し上げなければ、この先に話を進めて行くことができません。今日明らかにされてきていることは、この福音書を書いたヨハネはグノーシス主義との戦いという意図ないし動機をもってこの書物を書きながら――実にややこしいことに!――そのことのためにグノーシス主義者たちが当時好んで用いていた言葉をあえて採用したのだということです。

どういうことかお分かりいただけますでしょうか。分かりにくい話を理解していただくためには譬えを用いるとよいのでしょうけれども、あまりうまい譬えが思いつきません。たとえば仏教の人々にわたしたちがキリスト教信仰を説明しようとする場合、わたしたちが普段用いているキリスト教用語を用いるのではなく、相手がいつも用いている仏教の言葉で説明するとどうなるかという問題を考えていただくとよいかもしれません。もちろん相手は仏教でなくても別の宗教でも構いません。あるいは「キリスト教」を名乗る異端(統一協会、エホバの証人、モルモン教など)の人々の場合を考えてもよいでしょう。

わたしたちが体験的に知っていることは、キリスト教信仰をキリスト教の用語で説明しようとしても相手が理解してくれない場合があるということです。相手の言葉を用いて語ること、わたしたちの教会の用語を異なる宗教や異なる立場の人々の用語へと“翻訳すること”によって初めて相手に伝わるものが生まれる場合があるのです。

ヨハネによる福音書を理解することの困難さの最も深い原因はおそらくそのあたりです。しかしそれは同時に、面白さでもあるはずです。共観福音書におけるイエス・キリストは、旧約聖書的な背景を持ちつつ、キリスト教会の言葉で描き出されたものです。しかしヨハネによる福音書は、まさにこの点が違うのです。この書物には、当時の異端の人々が好んで用いていた言葉が積極的に採用されているのです。しかし採用の意図はヨハネが異端に巻き込まれていたからではありません。事情は正反対です。ヨハネの意図は異端の人々を正しいキリスト教信仰へと招き入れるためでした。この点はものすごく力をこめて強調しておきたいことです。

今日は、うんと回りくどい話になりました。しかし、せめてこれくらいのことだけでもお話ししておかないかぎり、今日の個所を理解していただくことはできそうもないと思いました。今日の個所に記されているのは、共観福音書の場合にはイエス・キリストの御降誕の次第、つまり、わたしたちがクリスマスのたびに学ぶ、天使や博士や羊飼いが登場する、あの聖誕物語、あれと内容的に同じことです。ところがヨハネの場合は、全く異なる表現で書かれています。この違いは何なのかを理解していただくために今日のこれまでのすべての説明があったとお考えいただけると幸いです。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この「言」(ロゴス)とはイエス・キリストのことです!ヨハネの意図は次のように説明できます。「初め」とは天地創造よりも前です。3節に出てくる「万物は言によって成った」とあるのが天地創造の出来事です。それ(天地創造)より前の時点を指しているのが「初めに」です。天地創造より前にイエス・キリストがおられた。イエス・キリストは父なる神と共におられた。イエス・キリストは神御自身であった。


「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ヨハネの意図をくみつつ大胆に言い換えますと、次のような感じになります。天地万物はイエス・キリストによって形づくられた。形あるものでイエス・キリストによらないものは何一つなかった。ヨハネが述べていることは、神の御子イエス・キリストは、父なる神と共に天地創造のみわざに関与しておられたということです。別の言い方をしておきます。この地上にあるすべてのもの、すべての人は天地創造に関与なさったイエス・キリストと無関係に存在しているわけではないということです!「わたしはイエス・キリストなど信じていませんので、そういうものとは一切関係ありません」と言っている人の人生にも、イエス・キリストは関わっておられるのです!「この国はキリスト教の国ではありません」と言っているような国や社会にも、イエス・キリストは関わっておられるのです!

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」イエス・キリストのうちに人間を照らす光としての命があった。その光が暗闇の中に輝いている。しかしその暗闇は光を理解しなかった。この最後の「光と闇」の対比などは、これこそグノーシス主義者たちが好んで用いた言葉であると言われています。しかし、ヨハネの意図は、彼らとは全く異なります。ヨハネが語ろうとしていることは、天地万物の創造に関与してくださった神の御子イエス・キリストだけが光り輝いていて、地上の世界はひたすら暗黒であるということではありません。むしろ逆です。ヨハネはむしろ「暗闇の中で輝く光」としてのイエス・キリストの光がすでに世界を照らしはじめているのだと言っているのです。世界は全くの暗黒ではありえない。夜明けは来ている。希望のあさひは地上を照らしている。わたしたちの人生は輝いているのです!

(2008年1月4日、松戸小金原教会主日礼拝)