2008年7月8日火曜日

人間的なるものを全面的に否定する罪

先月末に二週連続で行った研究発表と講演(カルヴァンファン・ルーラー)で私が最もお伝えしたかったことは、もちろん、「人間的なるもの」という言葉を“批判的・否定的・糾弾的な”意味で用いてきた、日本の教会にも色濃く流れ込んでいるある種の「教会的伝統」に対する強い批判の気持ちです。「そういう言葉遣いはもうやめようではないか」という具体的な提案です。この批判と提案の根拠、つまり、「人間的なるもの」という言葉を悪い意味で語る伝統は打破されなければならないと主張するための神学的な根拠を、16世紀のカルヴァンと20世紀のファン・ルーラーという二人の神学のなかに見出すことができると申し上げたいのです。しかしまた、カルヴァンには「人間的なるものイコール(=)罪深いもの」という、この同一性の主張が全く無いとは言いきれません。この点のカルヴァンの“苦しい分裂”にファン・ルーラーは「否」を突きつけたのです。「人間的なるもの」は「罪深いもの」とイコール(=)ではありません。これは「キリスト論的視点」か、それとも「聖霊論的視点」かという問題には、直接的には関係ありません。むしろ、直接的に関係しているのは、おもに創造論です。「神は人間的なるものを初めから本質的に罪深いものに創造された」わけではないのです。被造性の本質は「はなはだ善きもの」(erant valde bona)なのです。もちろん、創造後の「堕落」の問題は無視できません。しかし、「堕落」の意味は、「被造性(creativity)の喪失」です。それゆえ、イエス・キリストの贖いのみわざ(redemptio)によって成就した「堕落からの救い」の意味は、「喪失した被造性の“回復”」です。このことを改革派神学は「再創造」(recreatio)と呼んできたのです。ファン・ルーラーは、この線に全く立っています。「人間的なるもの」は「罪深いもの」とイコール(=)ではありません。「我々人間は当然(naturally)罪を犯すのだ」と語ってはなりません。罪をナチュラライズしてはなりません。「我々人間は罪のあらゆる誘惑に打ち勝たねばならない」と語らなければなりません。罪の問題はいささかも軽視してはならないのです。しかし、そのこと(罪の問題をいささかも軽視しないこと)と、「人間的なるもの」という言葉をもっぱら“否定的・批判的・糾弾的な”意味で用いてもよいとすることは別問題です。たとえば、「人間的なるものを全面的に否定する罪」があると思います。「人間嫌いの罪」があると思います。「地上の生を否定/軽視する罪」、「自暴自棄になる罪」、そして「ただ天上の生のみを憧れる罪」、「早く地上を去りたいと懇願する罪」があると思うのです。いま書いたことは、原理的な問題というよりも、現実の問題です。この現実の問題に対してキリスト論的視点からだけで答えを出せるでしょうか。私の見方では、わたしたちがキリスト論的視点から聖書を読み、人生と世界について考えているときに常に随伴してくる宗教的感情は、「殉教」です。「自らの殉教を喜んで受け入れる罪」を語るつもりはありません。しかし「地上の生への執着心」それ自体を「罪」と呼ぶことはできないと思っています。どのような逆境の中にあっても、人は生きてよいし、生きなければならないし、生き延びる道を探し続けなければなりません。「後期高齢者」という用語を不愉快に思っている方が、教会にも大勢おられます(教会も「少子高齢化」です)。私は「後期高齢者」になられた方々には「地上の生への執着心」をできるだけ多く持っていただきたいと願っています。「早く天国に行きたい。周囲に迷惑をかけないままポックリ逝きたい」。こういう話を(人前で)するのはやめてもらいたい。「後期高齢者」になられた方々には、どうぞ遠慮なく、周囲の人々に迷惑をかけていただきたいと願っています。ただし、愚痴ばかり言わないで。謙遜に「人の世話になること」を覚えてほしいものです(これ私の愚痴ですね、すみません)。