2008年7月13日日曜日
喜びまで考えぬけ
マタイによる福音書14・13~21
「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』イエスは言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』イエスは、『それをここに持って来なさい』と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」
今日開いていただきましたのは、おそらく皆さまも繰り返し学んで来られた個所です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、五つのパンと二匹の魚をもって男性が五千人、女性や子どもたちを合わせればおそらく一万人くらいはいたでありましょう人々の空腹をたちどころにいやしてくださった、ひとつの奇跡物語です。
この出来事をイエスさまはまさに奇跡として行ってくださいました。そのことをわたしたちは信じる必要があります。しかし、この物語には、この点以外にも注目すべき豊かな内容があります。今日はその中のひとつを取り上げたいと思います。
イエスさまがお聞きになったのは、バプテスマのヨハネが殺されたという知らせでした。なぜヨハネが殺されなければならなかったのかをご説明する時間はありません。今考えてみたいのは、その知らせをお聞きになったイエスさまのお気持ちです。
間違いなく言えそうなことは、深く傷ついておられただろうということです。つらくて悲しい思いをもっておられたに違いありません。心も体も疲れ果てておられたでしょう。だからこそイエスさまは、「ひとり人里離れた所に退かれた」のです。
ただし、より正確に言いますと、「ひとり人里離れた所に退かれようとした」です。それは実現しませんでした。群衆がイエスさまを追いかけ、押し寄せて来ました。イエスさまは、おひとりになることができなかったのです。
しかし、イエスさまは本当に忍耐強くふるまわれました。だれよりも御自身がお疲れになっていたでありましょうのに、大勢の群衆を見て「深く憐れんでくださり」、病気の人をいやしてくださいました。イエスさまとはそういう方なのです。
イエスさまの周りには「群衆」がいました。それは非常に大勢の人です。わたしたちの仕事のなかで何が疲れるかといって、ひと相手の仕事くらい疲れるものはないと思います。相手が人間である。それぞれの人々にそれぞれの人生があり、苦労があり、考え方や価値観があります。それがまた一人一人違うのです。その一人一人の存在を受け入れ、理解し、助け、力づけること。これは重労働なのです。
イエスさまはその仕事を一生懸命に果たしてくださいました。そしていつの間にか日が暮れていました。しかもその場所は、イエスさまがそもそも「ひとり人里離れたところに退こうとされた」場所でした。繁華街ではありませんでした。そのため、弟子たちが提案したのは、群衆を解散させ、各人の夕食は各人で、村で買ってもらいましょうということでした。彼らとしては当たり前のことを言ったつもりだったと思います。
ところが、そのときイエスさまが弟子たちにお答えになったことは、おそらく弟子たちにとっては厳しいと感じる内容でした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」。
これがなぜ「弟子たちにとっては厳しいと感じる内容」なのでしょうか。ぜひ考えてみていただきたいことは、夕方になるまで「弟子たち」は何をしていたのだろうかということです。その答えは今日の個所には何も記されていません。しかし全く分からないわけでもありません。「弟子たち」は、イエスさまが一生懸命に働いておられたときに何もせずにぼうっとしていたわけではなかったはずです。
「弟子」の仕事は、イエスさまをお助けすることです。それ以外の何ものでもありません。イエスさまが一生懸命働いておられたとき、そのイエスさまをお助けする弟子たちもまた、一生懸命に働いていたに違いないのです。
考えられるのは次のことです。イエスさまとしては、そもそもヨハネが殺されたという出来事のなかで傷つき、疲れておられました。しかし、その御自分の心と体を鞭打って、群衆の一人一人を助ける仕事を果たされました。そしてそのときイエスさまの弟子たちも同様に、イエスさまと共に一生懸命働いて、心も体も疲れ果てていました。そのとき弟子たちは、おそらくほとんどダウン寸前だったのです。
ところが、その弟子たちに対してイエスさまは、群衆の夕食の準備を「あなたがたが」、つまり、あなたがた弟子たちがしなさいと言われたのです。
「いやいや、イエスさま、ちょっと待ってください! わたしたちも疲れているのです。わたしたちもボロボロです。そのわたしたちがどうして群衆の夕食の世話までしなければならないのでしょうか。そこまでサービスする必要や責任は、わたしたちにはないのではないでしょうか。サービス過剰ではないでしょうか。群衆たちはいわば勝手についてきただけではないでしょうか。自分の食べ物を買いに行くことは自己責任ではないでしょうか。ぜひ『どうぞご自由に』と言ってください。食べたい物を、食べたいだけ、どうぞご勝手に食べてもらったらよいのではないでしょうか」。
おそらく弟子たちは、そのように言いたかったのです。
ところが、イエスさまは、弟子たちをあえて酷使なさったのです。「わたしたちも疲れている」という文句を言わせなかったのです。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。そこまで世話をすること、すなわち、人々の心の世話だけではなく体の世話、食事の準備まですることが、あなたがた弟子たちの責任であり、使命でもあるということを、イエスさまは明らかになさったのです。
しかし弟子たちは、横暴とも感じられるイエスさまのご命令を前にして、明らかに抵抗しています。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。この弟子たちの言葉はイエスさまに対する抵抗の言葉として読むことが可能です。
弟子たちがイエスさまに提案したことは、群衆たちには「村に」食べ物を買いに行かせましょう、ということでした。ところが、イエスさまは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われました。その言葉は、弟子たちの耳には、明らかに「彼らの食べ物を、あなたがたが村まで行って買ってきなさい」と聞こえたはずです。
そんなことができるものかと、彼らは抵抗しているのです。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」の「ここ」に込められている意味は、わたしたちは「ここ」から一歩も動きませんし、動けませんということです。「わたしたちだって一生懸命に働いたのです! わたしたちもボロボロです。群衆もお腹をすかしているかもしれませんが、わたしたちのお腹もすいています。イエスさま、これ以上わたしたちに何をさせようとなさっているのでしょうか。いいかげんにしてください」。彼らはこのように言いたいのです。
こういうのを今の言葉でいえば“キレる”というのです。弟子たちはイエスさまの言葉にキレたのです。「わたしたちはここから、もう一歩も動きません。ここにある、この五つのパンと二匹の魚、これで何とかできるようでしたら、どうぞ何とかなさってください。わたしたちはもう知りません」。これは一種のストライキです。座り込みのようなものです。横暴な命令にはこれ以上従うことができませんという、抵抗の姿勢です。
そのような弟子たちの態度をご覧になったイエスさまが遂に行ってくださったのが最初に申し上げた奇跡です。イエスさまは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡し、群衆に配らせました。それによってすべての人のお腹が満たされたのです。
この奇跡の意味は何でしょうか。もちろんいろんな読み方が可能でしょう。しかし私は今日、その中のひとつのことだけを申し上げておきます。それは、人々のお腹を満たすという仕事を弟子たちが引き受けないならば、すなわち、「そこまではわたしたちのなすべき仕事ではない」と彼らが拒否するならば、「その仕事をわたしがする」というイエスさまの態度決定の表われであるということです。弟子たちがストライキをもってその部分の働きを拒絶するならば、御自身ひとりでそれをするということです。
言い換えるならば、イエスさまのもとに集まった人々の心の世話だけではなく体の世話、たとえば典型的に「食事の準備」という点は、いつもイエスさま御自身と共に生きている弟子たちが本来果たさねばならない仕事であるということです。
ここまで申し上げれば、皆さまにはすぐにご理解いただけるでしょう。私が考えていることは、今日の個所に登場する「弟子たち」の姿は、わたしたち自身の姿、現在の教会の姿と重ね合わせて見ることができるだろうということです。この個所を読みながらわたしたちが考えなくてはならないのは「教会の役割と使命とは何か」という問題です。
もっとも私自身は、花見川キリスト教会の礼拝に参りましたのは今日が初めてであり、皆さんがふだんどのように活動しておられるかを全く存じません。皆さんへの批判や要望のようなことを申し上げる意図はありません。そういうことではないということを、ぜひ信頼していただきたいと願っています。ごく一般論としてお聴きいただいたいのです。
私が申し上げたいことは、教会の役割と使命は、人間の心に関わるだけではなく、人間の体にも関わるということです。このあたりから教会のみんなで一緒に食事をとる機会を増やすべきだという話題に切り替えても構いませんが、私が申し上げたいことはそのようなことだけではなく、もっと根本的なことです。
わたしたち教会の者たちが真剣に考えなければならないことは、信仰と生活の関係であり、教理と倫理の関係であり、神の御言葉と現実の関係です。教会が取り組むべき課題は、精神的なことだけではなく、肉体的なことでもある。生活の問題、倫理の問題、現実の問題は、付け足しのようなものではなく、本質的なものであるということです。それらの問題に取り組むことを、わたしたちは面倒くさがるべきではないのです。
教会がとことんまで追い求めてよいこと、追い求めるべきことは、わたしたちの「喜び」です。「喜びまで考えぬくこと」、すなわち、どうしたらわたしたちが「喜びに満たされた教会」になるのか、またわたしたちが生きている現実が「喜びにあふれたもの」になるのかを徹底的に考えぬくことが重要です。その際に重要なことは、「喜び」とは心の問題だけではなく、体の問題でもあるということです。
愚痴のようなことを言いだせば、きりがありません。愚痴はできるだけ抑えましょう。それはわたしたちに何の益ももたらさないでしょう。できるだけ楽しいことを考え、語り合いましょう。それが豊かな益をもたらすでしょう。
(2008年7月13日、花見川キリスト教会礼拝説教、東関東中会講壇交換)