2008年7月7日月曜日

説教は「受肉」しない

ファン・ルーラーの「キリスト論的視点」と「聖霊論的視点」の区別の意図の一つは、「キリストの人間性」としての(それ自体は独立した人格性(ペルソナ)を有さない)“肉”(サルクス)と我々自身が有している「人間の人間性」とを厳密に区別することでした。この両者を区別することに、どのような実際的な意味があるのでしょうか。即座に挙げることができる一つの例は、もし我々が事柄を神学的に厳密に語ろうとするならば、我々が行う説教は決して「受肉」しないということです。我々の説教は「受肉」しません。なぜかというと、我々の説教は(三位一体の神の第二位格としての)“永遠のロゴス”そのものではありえないからです。もしそのようなものであるとするならば、我々の説教は完全にアンタッチャブルなものになってしまいます。誰もそれを批判することができない、まさに無謬で無誤の言葉に化けてしまいます。また、その場合には、説教者の存在は“肉”(サルクス)にすぎないものとみなされざるをえません。そのとき説教者は、まるで理性や感情をもたない機械じかけの存在でなければならないかのようです!我々の説教は「受肉」するのではなく、いわば「内住」するのです。説教は、聖霊のみわざにおいて、語る者の「人間的なるもの」を通り抜けて、聴く人の「人間的なるもの」のなかへと注ぎ込まれ、混ぜ込まれ、練り込まれるのです。我々は、説教において説教者自身の「人間的なるもの」が反映されることを、なんら恐れるべきではありません。たとえば、説教において「と思います」と語ること、「わたしの証し」を織り交ぜること、あるいは葬儀説教の中で「故人について」語ることは、なんら非難されるべきことではありません。いかに厳密かつ徹底的な釈義を経ようとも、我々の説教が“純粋な神の言葉”へと蒸留されることはありえません。説教とはそのようなものであると思い込んでいる人には、何か大きな勘違いがあるのです。そのように教え込んだ教師の責任は重大です。ファン・ルーラーの言葉を借りると、説教は、どこまでも「人の手垢がついた言葉」であり続けるのです。