2008年7月6日日曜日

「カルヴァンとファン・ルーラーをつなぐ線」とは何か

「カルヴァンとファン・ルーラーをつなぐ線」と書きました。その意味として私が考えているのは、(ドイツ神学中心の)エキュメニカルな神学思想史における線ではなく、16世紀から20世紀までの四百年間の「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde Kerk)という一教団における線です。もちろんこの教団の歴史の中にも「合理主義、進歩主義、人間中心主義」の影響がなかったとは言えません。しかし、それらをオランダ改革派教会は「ハイデルベルク信仰問答、オランダ信仰告白、ドルト教理基準」という彼ら固有の伝統的な教理的枠組みのなかで受け入れたり退けたりしてきたと見るべきでしょう。19世紀のオランダ改革派教会における支配的潮流の一つは「倫理神学」(ethische theologie)というものですが、これとて彼らはあくまでも「改革派神学」の教理的枠組みのなかで展開しています。シュライエルマッハーやリッチュルやヘルマンやトレルチの影響さえ、オランダ改革派教会にとっては間接的なものです。ファン・ルーラーの神学には「ハイデルベルク信仰問答の神学の20世紀版」という面があります。よく知られているように、ハイデルベルク信仰問答は、「慰め」や「喜び」というようなまさに《人間的なるもの》をきわめて積極的に語るものです。また「御父による創造」・「御子による贖い」・「御霊による聖化と完成」という、内在的三位一体と経綸的三位一体を充当論的に(appropriately)組み合わせて語る視点もハイデルベルク信仰問答において顕著です。カール・バルトの“回心”とまで言われた彼の「神の人間性」(1956年)という論文は、私も何度も読みました。しかし、バルトの場合の「神の人間性」は、イエス・キリストにおける「受肉」や「インマヌエル」に基礎づけられるものです。そして、このイエス・キリストにおける「受肉」や「インマヌエル」という場合の「神の人間性」は、ファン・ルーラーに言わせれば「永遠のロゴスが母マリアから摂取した“サルクス”(肉)」にすぎないものです。これは、イエス・キリストという唯一無二(ユニーク)な存在における歴史的に一回限り存在した(今も、そして永遠に、御子と共に存在し続けている)サルクスです。しかし、そのサルクス(御子が摂取した肉)は、我々自身の「人間性」とは全く異質のものであり、「人間の人間性」を論じるための土台にはなりえないものです。バルトは「聖霊」についても語っています。しかしそれは、イエス・キリストにおいて成就された《客観的な》救いのみわざの・聖霊における《主観的な》適用によって可能となる・人間の認識手段としての位置づけに甘んじるものです。ところが、《客観》と《主観》の関係は、実際には同一物(一枚のコイン)の表裏の関係にすぎません。同じことを「主語を取り換えて」言い直しているようなものです。ファン・ルーラーの「キリスト論的視点」と「聖霊論的視点」の区別の意図の一つは、バルトのこの論法に対して異議を申し立てることにありました。聖霊のみわざを“主観的なるもの”に限定してしまうことを、ファン・ルーラーは問題視したのです。「霊」という字を見るとただちに“主観的なるもの”を連想するのは、日本の教会もしばしば陥ってきたスピリチュアリズム(心霊主義)の罠です。