2008年7月6日日曜日

パウロ、王の前で語る


使徒言行録26・1~11

ユダヤの王アグリッパがパウロに「自分のことを話してよい」と言ったので、パウロは話しはじめました。場所はカイサリアです。パウロの話を聞いていたのは、アグリッパとベルニケ、ローマ人総督フェストゥス、千人隊長たち、そしてカイサリアのおもだった人々でした(25・23)。

「アグリッパはパウロに、『お前は自分のことを話してよい』と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。」

パウロが差し伸べた手、また足には鎖がかけられていました(26・29)。パウロはとても惨めな気持ちを、半分以上は持っていたに違いありません。

しかしパウロは実に堂々としています。おそらく彼にとっては、相手がだれであれそういうことは全く関係なかったのです。パウロは、人間を恐れるということを知りませんでした。それは彼の性格にも関係していたかもしれませんし、また彼がこれまで受けてきた様々な訓練や試練の結果かもしれません。

けれどもやはり、わたしたちが考えなければならないことは信仰です。生ける真の救い主イエス・キリストへの信仰が、パウロを強くしたのです。

パウロがアグリッパに言わなかったことは「この鎖を外してください」ということでした。「この鎖さえ外してくださるなら、こんな信仰など喜んで捨てます」ということでした。パウロにとって自分の命よりも大事なもの、それが信仰でした。信仰が、彼の存在を支えていたのです。

今日取り上げますのは、アグリッパの前でパウロが語った言葉の前半部分です。この中でパウロは、いろんな意味で“微妙なこと”を語っています。何が微妙なのでしょうか。最初に二つだけ、注目すべきポイントを挙げておきます。

第一は、パウロ自身のいわゆる“立ち位置”に関する問題です。彼自身はどこに立っているのかという問題です。とくにポイントはパウロが繰り返し用いている「ユダヤ人」という言葉です。

なぜこの「ユダヤ人」という言葉が問題になるのかというと、申し上げるまでもないことですが、パウロ自身もユダヤ人だったからです。ユダヤ人であるパウロが「ユダヤ人」の話をしているのです。それは、日本人である私が「日本人」の話をするのと同じです。その言い方には明らかに(精神的に)“距離を置こうとする”気持ちが含まれています。

そして、もう一つ重要なことは、このときパウロの目の前にいたアグリッパ王もユダヤ人であったということです。問題は、ここでパウロはすべてのユダヤ人とアグリッパ王にけんかを売っているのでしょうかということです。そのように読めなくもありません。

しかし、パウロの言い方は非常に微妙なものです。明らかに距離を置きながら、しかしまたパウロは、自分自身も十分な意味でユダヤ人であるという明確な自覚をもって語っています。そこには痛みがあり、悩みがあり、苦しみがあります。彼が語っている批判的な言葉の銃口が、彼自身にも向けられているのです。

第二のポイントは、今日取り上げます個所ではとくに、パウロ自身の過去について語られているということです。

パウロはかつて熱心なユダヤ教徒であり、また熱心なキリスト教迫害者でした。わたしたちが考えなければならない問題があります。パウロは自分のそのような過去について、今ここで胸を張って堂々と語っているのでしょうか、という問題です。

頭でも掻きながら、「いやあ、じつは私もねー、その昔はキリスト教なんか全く信じていなかったし、教会とか通っているような人間なんて殺してやりたいくらい大嫌いだったんですよー、あははー」とでも言うような感じで。ニヤニヤしながら。

私はこの個所をどう読んでも、そのように読むことはできません。パウロは明らかに、自分の過去を恥じています。ここにも痛みがあり、悩みがあり、苦しみがあります。反省と悔い改めがあります。しかし、それならばなぜパウロは、そのような恥ずかしくて痛く苦しい自分の過去をあえて口にするのでしょうか。彼は何を言いたいのでしょうか。

「『アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。』」

最初にパウロは、アグリッパ王がユダヤ人の慣習も論争点もすべて知っている人であると言っています。これは明らかに相手の立場や知識を尊重している言葉です。皮肉や嫌味を言っているのではありません。けんか腰で突っかかっているのでもありません。

「『さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。』」

次にパウロは、すべてのユダヤ人がパウロ自身の存在と、彼の「若いころからの生活」を知っていると言っています。聞き方、または読み方によっては、少し威張っている感じの言葉に響かなくもありません。パウロは自分が有名人であると言っているのです。私のことを知らないようなユダヤ人は一人もいないと言っているのです。

しかし、パウロは、今この時点、つまりアグリッパ王の前に立って話しているこの時点での事実を述べているだけです。今この時点のパウロは、たしかに有名人です。すべてのユダヤ人がパウロの存在を知っています。パウロがかつて熱心なユダヤ教徒であり、熱心なキリスト教迫害者であったことを、今この時点におけるすべてのユダヤ人たちが知っているのです。

そのことを、パウロは知っていました。つまり、今ここでパウロがアグリッパに対して語ろうとしていることの意図は、パウロの身に起こった変化をすべてのユダヤ人が知っているという事実に注目してもらおうとしているということです。パウロの意図をより正確に言うとしたら、「この私が有名人である」ということではなく、「この私に起こった変化をすべてのユダヤ人が知っている」ということです。

「『今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです』」。

ここでパウロの微妙な言い方が一つの極まりに達しています。パウロは「私たちの先祖」と言い、「私たちの十二部族」と言っています。ポイントは「私たち」です。この「私たち」の中にパウロ自身が含まれ、すべてのユダヤ人が含まれ、さらにアグリッパ王も含まれているのです。

パウロの気持ちが伝わってきます。「神さまがわたしたちに約束を与えてくださったではありませんか。わたしたちは、その約束の実現を求めて、同じ神さまに仕えているのではありませんか。アグリッパさん、あなたもそうでしょう。違うのですか」と。

「私パウロは、わたしたちみんなの共通の目標をめざして歩んできた者でありますのに、私がその中に属し、また私が今なお心から愛している同胞であるユダヤ人から訴えられ、この手や足に鎖をかけられ、裁判を受けているのです。こんなのありですか。いくら何でもひどすぎるのではないでしょうか」と。

「『神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。』」

ここで再びパウロは、死者の復活の問題を持ち出しています。強調がこめられているのは「神が」という点です。

「死者の復活」という点に強調がこめられていないと言っているのではありません。しかし、ここでパウロが問題にしていることは、神は全知全能のお方ではないのだろうかという点であると思われます。全能とは「なんでもおできになる」ということです。パウロの問いかけの意図は、神が「なんでもおできになる」ということを、また「なんでもおできになる」神という方を、あなたがたは信じていないのですかということです。

「いくら神でも死者を復活させることはできない」ともし考えるならば、神の全能性を否定することです。「できないこともある神」は、神ではないのです。

「『実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒瀆するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。』」

パウロは、自分自身の過去に触れます。過去の痛い事実の記憶を思い起こしています。ニヤニヤしながらではなく。反省と悔い改めをもって。それは、ほとんど彼のトラウマのようなものであったに違いありません。そうであるはずなのに、パウロはあえて自分の傷に触れる。

私のなかに改めてわき起こって来る問いは、パウロという人は、いったいどういう人なのだろうかということです。「普通の人ならば」という言い方はあまり用いたくありません。「日本人ならば」などは、もっと言いたくありません。私自身が「普通の人」や「日本人」の中に含まれていないかのようです。ですから、今は「私ならば」と言います。私ならば、パウロのように語れるだろうか。そのような疑問をもちます。

私ならば、自分にとって不都合なことは、なるべく語らない。人が気に入るようなことを選んで語る。すぐにでも命乞いをする。いざとなったらすぐにでも信仰を捨てる。そういうふうにならないだろうかと、自分で自分が心配になります。

パウロは、明らかに違うのです。批判の銃口を自分自身にも向ける。思い出したくない自分の過去を自分でえぐり、告白する。

その目的は、一つしか考えられません。パウロは愛するユダヤ人たちを救いたいのです。

私も百八十度変わった。神が変えてくださった。あなたがたも変わる。世界も変わる。

パウロは、目の前にいるアグリッパ王にも“伝道”しているのです。

そのために、自分のすべてをさらけだしているのです。

(2008年7月6日、松戸小金原教会主日礼拝)