2008年6月1日日曜日

復活の望みを抱いて生きる者


使徒言行録22・30~23・11

「翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。『兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。』すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。パウロは大祭司に向かって言った。『白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。』近くに立っていた者たちが、『神の大祭司をののしる気か』と言った。パウロは言った。『兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに「あなたの民の指導者を悪く言うな」と書かれています。』パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議会で声を高めて言った。『兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。』パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。」

今週学びましたとおり、使徒パウロがエルサレム神殿にいたユダヤ人たちの前で語ったことは、このわたしが救い主イエス・キリストとの出会いによって回心し、ダマスコの地でキリスト者となる洗礼を受けましたということでした。そして、そのイエス・キリストがこのわたしを遠く異邦人のためにお遣わしになりました、ということでした。

そのパウロの言葉を聞いたユダヤ人たちは、声を張り上げ、「こんな男は、地上から取り除いてしまえ。生かしてはおけない」と言い始めました。そのユダヤ人たちの様子を見た千人隊長は、このパウロが生まれたときからローマ帝国の市民権をもっていることを知り、そのような人を裁判なしに処刑することはできないことが分かったので、パウロをユダヤ人の手から匿いました。今日の個所に描かれているのは、その翌日の出来事です。

この千人隊長の名前はクラウディウス・リシアでした(23・26)。この人は、この後にも大きな役割を果たす人ですので、ぜひこの名前を覚えておいてください。リシアの関心は「なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか確かなことを知りたい」ということだけでした。異邦人リシアの目から見ると、パウロのほうが間違っているというふうにはどうしても見えなかったのです。その意味でリシアは物事を公平かつ客観的に見る目をもっていたと言えるでしょう。

このリシアの視点は重要です。それは物事を外から見て判断する目です。想像してみていただきたいのはこの場面の様子です。パウロは一人でした。一人のパウロに大勢の人が寄ってたかって暴力を働いている。文字どおりの多勢に無勢でした。

リシアにとって我慢できなかったのは、おそらくこの点です。単純に言ってユダヤ人のやり方は卑怯です。弱い者いじめです。たとえ仮に百歩譲ってユダヤ人たちの言っていることが正しく、パウロのほうが間違っていたとしても、ユダヤ人たちのこのようなやり方は汚すぎると、リシアには感じられたに違いありません。

外から客観的に見る目が果たす役割は、事柄の内容的な核心部分にまでは踏み込まないものです。しかしそれは、どちらのやり方が卑怯であり、公平性に欠き、犯罪性をもっているかを冷静に見抜くことができます。たとえそれがどれほど正しい真理であったとしても、それを暴力的に人に強要したり、それを受け入れない人を暴力的に迫害したりすることは、端的に言って犯罪なのです。

宗教には、よくも悪しくも、自分たちの信じていることに対する絶対的な確信が伴うものです。しばしば、自分のほうが間違っていると認めることができなくなりますし、熱狂に陥ります。熱狂の中では公平な判断ができません。そこに外から客観的に見ている人の目がどうしても必要になります。

それは、もしかしたら、わたしたちの家族の目かもしれません。あるいは、友人たちや会社の同僚の目かもしれませんし、社会の人々の目かもしれません。病院の先生や学校の先生、あるいは弁護士のような人々。そういう人の目から見ると、わたしたちの姿が良い面だけではなく、悪い面もしっかり見えているということがありうるのです。

そういうことを指摘された場合には、反発するのではなく静かに耳を傾けるべきです。宗教の問題、教会の問題でわたしたちの頭がカッカしているようなとき、そのような人々がわたしたちの姿を冷静に見て、助け船を出してくれる場合があるのです。

決して間違うべきではないと思うことは、神を信じている人々の言葉や行いは常に絶対的に正しく、神を信じていない人々の言葉や行いは常に絶対的に間違っているというふうに考えてはならないということです。ユダヤ人も十分な意味で神を信じる人だからです。

このときリシアは、一緒に来た兵士と百人隊長と共に、武器をもって、パウロの身柄をユダヤ人たちから引き離しました。私自身は、武器をもって人々を威嚇する軍隊の存在を肯定する者ではありません。しかし、そうでもしないかぎりパウロは弁明の機会さえ与えられないまま殺されていたに違いないと思うとき、リシアが果たしてくれた役割には感謝しなければならない面があると考えざるをえません。

そして驚くべきことに、ローマ軍の千人隊長リシアは、当時、祭司長たちと最高法院の議員全体を召集する権限をもっていました。リシアはその権限を行使して彼らを召集した上で、その人々の前で弁明することをパウロに命じたのです。

パウロが最高法院の議員たちの前で語りはじめたとき、大祭司アナニアはパウロの口を打つように命じました。この仕打ちはイエス・キリストがお受けになったのと同じです。ヨハネによる福音書18・19以下をご覧ください。当時大祭司であったカイアファの義理の父である元大祭司アンナスがイエスさまにいろいろと質問し、それにイエスさまがお答えになったところ、大祭司の下役の一人が「大祭司に向かってそんな返事のしかたがあるか」と言ってイエスさまを平手で打ちました。そのときイエスさまは次のように言われました。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(ヨハネ18・23)。

今日の個所でパウロの口を打つように命じた大祭司アナニアは、アンナスやカイアファよりも少し後の時代に大祭司になった人ですが、先輩たちの築いた悪い伝統を忠実に受け継いでいたことが分かります。返事の仕方が悪いと言っては暴力をふるう。だれかが自分の前で語っている言葉の内容が気に食わないと言っては暴力をふるう。ここまで来ると、ほとんどやくざです。知性のかけらもない。腹立たしいかぎりです。

実際、パウロは非常に腹を立てたようです。相手がだれであろうと、恐れをなして黙るような人ではありません。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」とパウロは言いました。

イエスさまも、同じようなことを言われたことがあります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」(マタイ23・27~28)。

パウロが大祭司アナニアに向かって言った「白く塗った壁よ」は、イエスさま律法学者やファリサイ派の人々に言われた「白く塗った墓よ」と内容的にほとんど同じことです。外側は美しく見えるが、内側は壊れかけ、崩れかけの弱い柱しかない。そのような建物はすぐに崩れる。あなたがたの権威など張り子の虎であると言っているようなものです。

とても勇気ある発言であると思います。しかし、イエスさまの場合と大きく異なるのは、パウロの背後にはローマ軍の千人隊長が仁王立ちしていて、彼の命を守ってくれていたことです。だからでしょうか、パウロがかなり辛辣な言葉を言っても、それですぐに彼の口が打たれることはありませんでした。イエスさまの背後には、だれ一人、後ろ盾になってくれる人はいませんでした。状況はかなり違います。

イエスさまと比べてパウロはずるいと言いたいわけではありません。パウロという人は、自分の置かれている状況を冷静に分析し、また自分にとって好都合な要素が少しでもあれば最大限に利用し、その点では徹底的に計算づくで、語るべきことを語ることができた人であると思われるのです。それは決して悪い意味ではなく、賢いやり方なのです。

そして、パウロは、近くに立っていた者たちから「神の大祭司をののしる気か」と忠告されたとき、「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした」と答えました。

考えられることは二つです。第一は、本当にパウロはこの人が大祭司だと知らなかったということです。第二は、要するに“とぼけた”ということです。

このときパウロが当時の大祭司はだれであるかを知らなかった可能性は、もちろんあります。かつてパウロは、ダマスコのキリスト者を迫害するために、ダマスコの会堂宛ての手紙をもらうために「大祭司」のところへ行ったことがあります(9・1)。そのときパウロは間違いなく、当時の大祭司に直接会っています。しかし、もしかしたらその後、大祭司が別の人に交替したかもしれません。パウロとしては自分が知っている大祭司ではない別の大祭司から口を打たれそうになったので「白く塗った壁よ」と言った。しかし、その人が新しい大祭司であると教えられたので、自分の言ったことを反省したのかもしれません。

しかし、もう一つの読み方としてパウロが“とぼけた”という可能性も否定しきれないと思います。かつてパウロがダマスコの会堂宛ての手紙を書いてもらったときの大祭司の名前が使徒言行録のどこにも書かれていないからです。もしかしたら同じ大祭司アナニアだったかもしれません。その昔、頭を下げて手紙を書いてもらった大祭司を今度は「白く塗った壁よ」と批判する。

もしこれが正しいなら、パウロの立場や心境に起こった大きな変化を読み取ることができそうです。かつての上司に対する事実上の決別宣言です!

ここにも、パウロが計算づくで語っている様子が描かれています。自分がこれから発言することが、サドカイ派とファリサイ派のあいだに亀裂をつくるものであることをパウロは熟知しています。そのことを意識しながら、故意にそういうことを言っているのです。しかし、サドカイ派とファリサイ派の違いについて詳しく申し上げる時間はありません。パウロが語っている言葉の中の重要なポイントに集中したいと思います。

パウロが語っている言葉は「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判をかけられているのです」というものです。つまり、彼の容疑は復活信仰であったということです。復活を信じることが罪であると言われているのです。もっとはっきり言えば、キリスト教を信じることが罪であると言われているのです。

しかし、復活信仰は罪でしょうか。冗談ではありません。言ってよいことと悪いことがあります。キリスト教の全体がこの点にかかっていると言っても過言ではありません。

この裁判は、パウロにとっては、一歩も後ろに引き下がることができないものでした。命をかける価値のある裁判だったのです!

(2008年6月1日、松戸小金原教会主日礼拝)