2008年6月8日日曜日

正義とは何か


使徒言行録23・12~35

「この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです」(27節)。

今日は、日曜学校の子どもたちがいちばん前の席に座っています。この礼拝が終わった後に、日曜学校の花の日の行事をします。日曜学校タイム、バザー、作品展示。みんなで楽しい時間を過ごしましょう!

日曜学校の皆さん。今日、皆さんにお話ししたいことは、皆さんに心からお願いしたいことです。ぜひ覚えておいてください。それは、皆さんにはぜひ将来“良い大人の人”になってほしいということです。

皆さんにはぜひそういう人になってほしいと願っている“良い大人の人”とは、他の人の話をちゃんと聞くことができる人です。とくにちゃんと聞いてほしいのは、いま困っている人や、いま助けてほしいと願っている人の話です。そしてその話を聞いた後に、その人のためにしてあげられることは何かをよく考えて、それが分かったときには一生懸命に助けてあげてほしい、ということです。そういうことができる人が“良い大人の人”です。私はそう信じています。

そういう大人の人が、聖書に登場します。今日は、その人の話をします。

今から約二千年前に、世界中を旅して、わたしたちの救い主イエスさまのお話を広めた人がいます。パウロ先生です。しかし、パウロ先生がしていることを、よく思わなかった人々がいました。その人々はイエスさまのことが大嫌いでした。パウロ先生のことも嫌いでした。だからその人々はパウロ先生のことを捕まえて殺そうとしました。陰でこそこそと相談して、四十人以上も仲間を集めて。パウロ先生は一人でした。四十人対一人です。とてもずるいと思います。

その人々がパウロ先生を捕まえて殺そうとしていることを知った、パウロ先生の味方がいました。それは、パウロ先生の親戚の人だったようです。聖書には「パウロの姉妹の子」と書いています。男の子か女の子かは分かりません。男の子なら甥(おい)、女の子なら姪(めい)と言います。その人(「子」と書いていますが、小さな子どもだったのか、大人になっていたのかということまでは分かりません)が、その話をパウロ先生に知らせました。「おじさんを殺そうとしている人々がいます。四十人以上も集まっています。何とかしたほうがよいですよ」と。

その話を聞いたパウロ先生は、「困ったことになった」と感じたと思います。パウロ先生は何も悪いことをしていなかったからです。良いことをしていました。救い主イエスさまのお話を多くの人々に広めていたのです。

パウロ先生は殺されるのが怖かったのでしょうか。どうもそういう話ではありません。殺されるのが怖かったから、死ぬのが怖かったから、「困ったことになった」と感じたのではなさそうです。パウロ先生は一人でも多くの人にイエスさまのお話を広める仕事を続けたかっただけです。自分が殺されてしまったら、死んでしまったら、仕事を続けることはできません。また、少しも悪いことをしているわけではないのに、良いことをしているのに、嫌われたり・憎まれたり・殺されたりするのは誰でも嫌なことです。どうしてそんなことをされなければならないのか、意味が分かりません。

だからパウロ先生は、助けを求めました。詳しい話は省略しますが、パウロ先生が助けを求めたのは、「千人隊長」と呼ばれていた人でした。クラウディウス・リシアさんという名前の人でした。

この人が“良い大人の人”であると私は思います。話を聞いたリシアさんは、すぐに、パウロ先生を助けることにしました。パウロ先生を殺す計画を立てていた四十人以上の人からパウロ先生を守ることにしました。そのためにリシアさんがしたことは「四七〇人」(!)の人に集まってもらい、みんなで力を合わせて一人のパウロ先生を守ることでした。

四十人の相手に四七〇人、というのは、ずるいでしょうか。そんなことはありません。パウロを殺そうとしている人たちは、陰でこそこそしていました。どこに隠れているか、待ち伏せしているか分かりません。そういう人たちからパウロ先生を守るためには、大勢の人で見張っている必要があったのです。また千人隊長リシアさんがしようとしたことは、パウロ先生を殺そうとしていた人々をやっつけたり捕まえたりすることではありませんでした。その人々と戦争をすることではありませんでした。たった一人のパウロ先生の命をみんなで守ることでした。この先生には、だれかに捕まえられたり殺されたりしなければならない理由はないことが分かったからです。

だれかに捕まえられたり殺されたりしなければならない理由がある人もいる、という話をしたいわけではありません。パウロ先生にはそういう理由は全くありませんでした、という話をしているだけです。先生がしていたことは、イエスさまのお話を広めることだけでした。本当にそれだけでした。イエスさまを信じて生きる人生は素晴らしいものです、ということを一人でも多くの人々に伝えることだけでした。

そういうことをしている先生のことを捕まえて殺そうとする人々は、やっぱりちょっとどこかおかしいということに、千人隊長リシアさんは気づいたのです。だからパウロ先生のことを、みんなで力を合わせて守ることにしました。

今日、日曜学校の皆さんにお願いしたいことは、皆さんにはぜひ、そういう大人の人になってほしい、ということです。よいことをしている人を憎んだり、その人に悪いことをしたり、殺そうとしたりする、そういう悪い大人ではなく、今困っている人を一生懸命に助けてあげることのできる、良い大人の人になってほしいのです。

そういう人が、私は「正義の味方」であると思います。正義の味方とは、悪い人をやっつける人ではなく、悪いことをしていない人、よいことをしている人を守ってあげることができる人です。また、いろんな人が言っていることをよく聞いて、その人々がしていることをよく見て、それが正しいことか、間違っていることかをきちんと見分けて、正しいことをしている人のほうの味方になってあげることができる人です。

日曜学校に通ってくれている子どもたち、またこの教会に通ってくださっている大人の人たちも、私はやはり、「正義の味方」になってほしいと願っています。私自身もそういう人になりたいと願っています。教会は神さまのこと、イエスさまのことを信じる人たちの集まりです。神さまのこと、イエスさまのことを信じているわたしたちは、この世の中でも正しい生き方をしなければならないのです。

聖書には、この千人隊長リシアさんは、神さまのこと、イエスさまのことを信じていた、とは書かれていません。教会に通っていた、とも書かれていません。でも、私はこの人のことを立派な人だと思いますし、良い大人の人だと思います。神さまのこと、イエスさまのことを信じなくてもよいとか、教会に通わなくてもよいという話をしたいのではありません。神さまのこと、イエスさまのことを信じているわたしたち、教会にまたは日曜学校に通っているわたしたちは、この千人隊長リシアさんと同じか、それ以上に正しい生き方をしなければなりません、と言っているのです。

立派な大人の人になるとか、良い大人の人になるというのは、えらそうな人になることではありません。周りの人たちがその人の前でひれ伏すとか、言うことを聞くとか、そういう人になってほしいと言っているのではありません。そんなことは、はっきり言えば、どうでもよいことです。また、私はそういうのは、あまりよいこととは思いません。

パウロ先生は、このリシアさんに助けてもらえたことが、たぶんうれしかっただろうと思います。

これから先も、イエスさまのお話を多くの人々に伝えることができる!

「皆さん教会に来てください。イエスさまのお話を聞いてください。神さまを、イエスさまを信じてください。聖書の言葉をみんなで学び、神さまに喜ばれる正しい生き方をしましょう」。こういう話を、これからも続けていくことができる!

そのことがパウロ先生にとっては本当にうれしいことだったと思います。パウロ先生は「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(コリントの信徒への手紙一9・16)と書いた人です。イエスさまのお話ができなくなることが、他のどんなことよりもつらいことだったのです。

(2008年6月8日、松戸小金原教会主日礼拝)