2008年6月29日日曜日

キリスト教の核心


使徒言行録25・13~27

「『告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです』」(18~19節)。

今日の個所の使徒パウロは、まだカイサリアにいます。牢獄に閉じ込められています。しかしそうしておくことが、カイサリアに駐在していたローマ人総督フェストゥスの知恵でもありました。牢獄から出してしまいますと、パウロがユダヤ人たちに暗殺される危険性があったのです。

フェストゥスのなかにパウロが宣べ伝えているキリスト教信仰を擁護してあげようなどという意思があったわけではありませんでした。おそらくそのようなことは、彼にとってはどうでもよいことでした。フェストゥスにとって重要な意味を持っていたことは、今日の個所の中に、少なくとも二つ記されています。

第一は、被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず引き渡されるのはローマ人の慣習ではない(16節)ということです。

第二は、囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わない(27節)ということです。

このフェストゥスの判断は、わたしたち現代人にとっては非常に納得できるものであり、うれしいことでさえあります。

この二つの点に共通していることがあります。それは、裁判やその結果としての処分は、できるだけ公明正大でなければならないということです。内容はどんなことであれ、誰かが誰かに一方的に責めたてられるばかりで、弁明や釈明の機会を与えられないまま、または罪状が明らかでないままで、処分を受けなければならないというようなことがあってはならないということです。たとえどんな人であっても闇から闇へ葬り去られるというようなことは間違っているということです。また、疑わしきは罰せず、です。

救い主イエス・キリストがお受けになった裁判とその結果としての十字架刑は、これとは全く異なる判断のもとに行われました。ポンティオ・ピラトがフェストゥスのような人であったとしたらどうなっただろうかと思わないではいられません。

もっとも、イエスさまは、十分な意味での弁明の機会が与えられたとしても、何もおっしゃらなかったかもしれません。イエスさまは、御自身の十字架刑を「父なる神の御心」として、全くお受け入れになっていたからです。

しかし、イエスさまが弁明ということを全く行われなかったからといって、そのことを理由にわたしたちが、弁明することは見苦しいことであるとか、恥ずかしいことであると考えるべきではありません。パウロは、どんな状況であれ、どんな場所であれ、遠慮なく堂々と弁明しました。それは、決して見苦しいことでも恥ずかしいことでもありません。

それどころか、パウロにとっては、そこで口を開くことをせず、弁明の機会を逃すことのほうが間違っていると考えていたに違いありません。なぜなら、パウロにとって「弁明」とは、単なる自己弁明ではなく、キリスト教信仰の正しさについての弁明であり、それがそのまま、彼にとっての“伝道”だったからです。

この点では、わたしたちも同じであるはずです。しかし、わたしたちは、このあたりの確信において怪しくなってしまいがちです。遠慮しすぎの面があります。これは皆さんに言っていることではなく、私自身に向かって言っていることです。

たとえば、わたしたちが日曜日に教会に通っているのは、わたしたちの個人的な趣味でしているというようなことではありません。救い主イエス・キリストにおいて神御自身が、わたしたちにそれを命じていることであるゆえに、していることです。そのような信仰は教会に通っていない人々には理解してもらえないことかもしれませんが、だからといって、わたしたちがその人々に対して必要以上に遠慮すべきではありません。よい意味で堂々としていればよいのです。

また、わたしたちは“伝道”のなかに押しつけがましい要素があることを、つい恐れてしまいがちです。しかし、そのことをわたしたちは、必要以上に恐れすぎるべきではありません。何か悪いことでもしているかのようにコソコソする必要は全くないのです。

もちろん、わたしたちの周りには、聞かれもしないことをこちらから畳みかけるように伝えようとすると、嫌がったり逃げて行ったりする人々は大勢います。うまくやる必要があるでしょう。

しかし、もし聞かれたら、はっきりと答えましょう。「あなたが信じていることについて話してほしい」とマイクを渡されたら、そのときは堂々と話しましょう。弁明の場が与えられたら遠慮なく語りましょう。それこそが“伝道のチャンス”だからです。そのような時と場所で、口ごもったり、ごまかしたり、逃げの一手を打ったりすべきではありません。聞かれたことに答えればよいだけです。

ところで、今日お読みしました範囲内には、パウロ自身の言葉は、一言も書かれていません。そのような範囲を私があえて選びました。私にとってたいへん興味深いと感じるものがあったからです。たいへん興味深いと感じたのは今日の範囲内に登場する三人の人物(アグリッパ王、ベルニケ、フェストゥス総督)のうち、ベルニケを除くアグリッパ王とフェストゥス総督がパウロについて語り合っている会話そのものです。

これを読みながら私がとくに面白いと感じたのは、パウロ本人がいないところで、この二人がいわば勝手にパウロのことをあれこれ言っている点です。また、二人ともパウロに対して明らかに興味をもっている点です。さらにフェストゥスがパウロから頼まれもしないのにパウロの生命と立場を擁護してくれようとしている点です。

おそらくわたしたちにも、これと同じようなことが時々、あるいはしょっちゅう、あるのかもしれないと、私には感じられました。どなたでもいいです。横田先生でも高瀬先生でもいいです。どなたか長老さんでもいいです。皆さんのうちのどなたかでもいいです。その方がいないところで、その方のことが話題になり、その方のことについていわば勝手に話が進んでいるとしたらどうでしょうか。しかも、その話は悪いほうに進んでいるのではなく、良いほうに進んでいる。こういうことは、しばしば起こるものです。

関口牧師の話が関口牧師のいないところで勝手に(?)どんどん進んでいる。「あの牧師は、どうやら最近、礼拝中に倒れたらしい。大丈夫だろうか。心配である」。先々週浜松で行われた大会役員修養会で、会う方会う方から「倒れたんだって?大丈夫?」と心配していただきました。岐阜県の先生も、香川県の先生も、長老たちも心配して声をかけてくださいました。「(関口牧師が倒れた話は)みんな知ってるよ」とも言われました。

私のことを、私の知らないところで、心配してくださっている方がいる。こういうのは、面映ゆいし、全く不思議なことだと感じました。

私の話はともかく。フェストゥス総督とアグリッパ王とが、パウロのことを、パウロがいないところで、あれこれと一生懸命に喋っている。とくにフェストゥス総督は、パウロについてユダヤ人の告発者たちがなんだかんだと文句をつけて言い立てたが、そのなかに予想していたような罪状は見当たらなかったとか、パウロとユダヤ人たちが争っているのは彼らの宗教上の問題のようだとか、パウロが間違っているかどうかを調査する方法が私には分からないとか、こういうことをいろいろと一生懸命言っているように見える。この様子が面白いと私には感じられたのです。

わたしたちにも同じようなことがあるのではないでしょうかと言いましたのは良い意味で言ったことです。申し上げたいことは、そのようなことは多かれ少なかれわたしたちにはあるのだから、わたしたち自身がいないところでわたしたちのことを勝手に話題にして、勝手に話を進めている人々に良い意味で任せたらよい面もあるでしょうということです。

もし弁明の機会が与えられたならば、そのときには、遠慮なく、堂々と語るべきです。しかし、わたしたちが全く関知しないところであれこれと噂話をしてくれていたり、良い意味でも悪い意味でも勝手に話を進めてくれていたりしている人々のところにまで、無理に押し入って、何でもかんでも聞き出す必要は全くありません。任せたらよいし、放っておけばよい。「どうぞご自由に」と思っていればよい。気にしすぎたり疑心暗鬼になったりする必要はないのです。

悪い意味で自意識過剰になるべきでもありません。どこかで誰かが私のことを心配してくれていることはありがたいことだと感謝していればよいのです。

そしてまた、そういうときに、今日の個所に出てくるフェストゥスのような人もいると考えることができたら、わたしたちの気持ちは、かなり楽になるはずです。

わたしたちは「世の中の人はすべて悪い人である」と考えるべきではありません。教会やその信仰のことを悪く言う人も、もちろんいます。しかし、人の悪口を黙って聞くことそれ自体が嫌だと感じる人も、必ずいるのです。教会の悪口を大きな声で言う人がいれば、その周りには、悪口を言っているその人のことを「嫌だなあ」と思っている人が何人かいると思ってほぼ間違いありません。

「世の中の全員がわたしたちの信仰の敵である」などと夢にも思うべきではありません。わたしたちの全く関知しないところで、わたしたちのことを応援してくれている人がいたり心配してくれている人がどこかにいるだろうと安心していればよいのです。

わたしたちは「人を信頼すること」を学ぶべきなのです。人に対していつでも必ずけんか腰で立ち向かうような態度は、間違っているのです。

18節から20節までに書かれていることに、ぜひ注目してください。先ほど少しだけですが触れたところです。この個所から分かることは、フェストゥスはパウロとユダヤ人たちとの間の「言い争い」の本質をきちんと正しく把握していたということです。「彼(パウロ)について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした」と。問題となっていることは「彼ら自身の宗教に関すること」と「死んでしまったイエスとかいう者のこと」であると。「このイエスが生きていると、パウロは主張している」と。「わたしはこれらのことの調査の方法が分からなかった」と。

事柄の本質は、まさにフェストゥスの言っているとおりです。パウロは何も悪いことをしていません。救い主イエス・キリストを信じる信仰を宣べ伝えているだけです。イエス・キリストは死人の中から復活され、今も生きておられますと語っているだけです。それがキリスト教信仰の核心だからです。イエス・キリストの死者の中からの復活、また、死者そのものの復活を信じないようなキリスト教は、キリスト教ではありません。

キリスト教と復活を信じない人がおり、また信じることができない人がいるということは、ある意味で仕方がないことです。しかし、もしそれらを信じることができるならば、人生に希望が与えられ、喜びが与えられるのです。これらのことを信じない人は、人生において大きな損をするのです。

そして、そのことをひたすら語り続けることこそが、教会の使命であり、伝道者の使命なのです。この件に関しては、黙れと言われても黙ることができません。パウロにとっては語らないことは不幸なのです。信じることをやめろと言われても、それをやめることができないのです。

この点は、わたしたちも全く同じです。

(2008年6月29日、松戸小金原教会主日礼拝)