2008年5月25日日曜日

行け、わたしがあなたを遣わす


使徒言行録22・17~29

「『さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。」わたしは申しました。「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいていたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。」すると、主は言われました。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」』」

エルサレムでのパウロの演説がもう少し続いています。先週の個所までに語られていたことは次のようなことでした。

熱心なユダヤ教徒であった頃のパウロが、ダマスコのキリスト者たちを迫害するための旅をしていた途中、救い主イエス・キリストとの神秘的な出会いを体験しました。そしてキリストはパウロに「ダマスコに行け」とお命じになりました。ダマスコではアナニアというキリスト者に出会いました。パウロはアナニアから「洗礼を受けなさい」と強く勧められ、そのとおり洗礼を受けました。今日の個所に語られているのは、その後に起こった出来事です。

パウロは、ダマスコからエルサレムに戻って来ました。そしてエルサレム神殿で祈っていました。するとパウロは、そこで再び、生ける真の救い主イエス・キリストと出会ったのです。

ここに注目すべき表現が出てきます。それは、パウロがイエス・キリストとの出会いの際に「我を忘れた状態」になったと言っている点です。ここでわたしたちが考えてみなければならないことは、パウロが語っている意味での「我を忘れた状態」とは、どのような状態のことなのかということです。

間違いなく言えることは、これは一種の興奮状態であるということです。自分で自分をコントロールすることが難しいほどに感情的に高ぶった状態であると言ってよいでしょう。ただしパウロの場合それは、夢見心地の状態、快楽・快感の状態ではなかったと言うべきです。むしろどこか取り乱した感じです。精神的ないし感情的に暴走しかかっている状態とも言えるでしょう。

しかし、だからといって、パウロはそのとき、物事を筋道立てて考えることもできなくなってしまうほどに、支離滅裂の混乱状態になっていたわけではありませんでした。19節以下の言葉を読むかぎり彼は、我を忘れた状態の中でもきちんと物の考える力や判断する力を失ってはいませんでした。

ただし、かなり追い詰められた状態はあったように感じます。窮地に追い込まれた状態と言ってもよい。自分で自分に答えを出すことができない状態。どうしてよいのか分からない状態。それは、おそらく心理的・精神的にはきわめて危険な状態でもあったはずです。いずれにせよ、かなり不安定な状態であったと思われるのです。

パウロはなぜ「我を忘れた状態」にあったのでしょうか。その理由が次のように語られています。

ここで分かることは一つです。パウロの心に向かって語られたイエス・キリストの言葉が「急げ。すぐエルサレムから出て行け」というものだったので、彼の精神状態が不安定になってしまったのだろうということです。

ポイントは「急げ」です。あるいは「すぐ」です。わたしたちも、まだ準備ができていないときに「急げ」だ「すぐに」だと急きたてられますと、非常に嫌な気分になりますし、心が不安定になります。そのことと今日の個所に描かれているパウロの様子とはどうやら関係があります。

パウロにとってこのイエス・キリストの御言葉の意味は、はっきり分かるものでした。パウロはダマスコで洗礼を受けてキリスト者になりました。その際アナニアから「あなたは見聞きしたことについてすべての人に対してその方の証人となる者だからです」という言葉を聞きました。それを聞いた上で、エルサレムでパウロが聞いた次の言葉が「急げ」だったわけです。

つまり、イエスさまのおっしゃった「急げ」の意味は「イエス・キリストの証人としての仕事を、一刻も早く始めなさい」です。もっとはっきり言えば、「あなたは今すぐ伝道者になりなさい」なのです。

そのような言葉を聞いたことと、パウロが「我を忘れた状態」になったこと、すなわち、心理的・精神的に不安定で危険な状態になったこととが、おそらく非常に深い関係にあると思われるのです。

わたしたちの場合にも同じことが当てはまるでしょう。「洗礼を受けてキリスト者になること」と、狭い意味での「伝道者になること」とは、全く無関係であると語ることはできませんが、しかしまた、全く一つのことであると語ることもできないでしょう。

たとえば、今日、この日曜日に洗礼を受けてキリスト者になったばかりの人がいるとします。その人に対してわたしたちが「それでは、来週の日曜日の礼拝で説教してください」とお願いすることは通常ありえません。時間が必要です。またいろんな意味での心の整理が必要です。さらに、おそらく特別な訓練が必要です。そのようにわたしたちは考えるでしょうし、そのご本人も考えるでしょう。

また、わたしたちはいわゆる幼児洗礼を重んじてきました。洗礼は子供にも(嬰児にも)授けるものですし、「授けるべきである」と教えてきました。しかし、子供に(嬰児に)説教をお願いすることはありえません。わたしたちはこの点から言えば、「洗礼を受けてキリスト者になること」と「伝道者になること」は、完全に区別しなければならない面もある、と言わねばならないのです。

その区別をした上で皆さんに考えていただきたいことは、もし、皆さんに対してイエスさまが、まだ皆さんが洗礼を受けたばかりの頃に「急げ。いますぐ伝道者になりなさい。いますぐ!早く!急いで!」と激しく急き立てられたとしたら、どのような気持ちになるだろうか、ということです。

ちょ、ちょ、ちょ、ちょ・・・ちょっと待ってくださいと言いたくならないでしょうか。何かいろいろと言い訳をして、逃げたくならないでしょうか。場合によっては腹が立ってきさえしないでしょうか。「うるさい!」と怒鳴り返したくならないでしょうか。

19節以下でパウロが語っていることも、実をいえば、いま申し上げた意味での「言い訳」なのだということをご理解いただきたいのです。

いや、いや、いや、いや・・・いやイエスさま。いきなりそんなことを言われましても、このわたしが伝道者の仕事などをすぐに始めることができるはずがないではありませんか、と言っているのです。

だって、わたしはつい最近まで、キリスト教の熱心な迫害者だったのですよ。そのことを非常に多くの人々が知っているではありませんか。わたしが元いたユダヤ教団の人々も、いま属しているキリスト教会の人々も、みんなそのことを知っています。どちらの人々も、このわたしの語る言葉など信用してくれるはずがないではありませんか。

わたしに伝道の仕事など無理です。少なくとも時間が必要です。何十年か後に、わたしが過去にしていたことなど何も知らない若い世代の人々が増えてきた頃にならば、伝道者になることを考えてもよい。しかし、今すぐになんて、そんなことができるはずがないではありませんか。

そのようなことをパウロは考え、いますぐ伝道の仕事に就くことを勧めるイエスさまに対して、激しく抵抗しているのです。この激しい抵抗と、パウロが「我を忘れた状態」になったこととが、どうやら深い関係にあるのです。

これまで申し上げてきたことをご理解いただけるならば、激しく抵抗しているパウロに対して語られているイエスさまの御言葉には、叱咤激励の意図がある、つまり、励まし(激励)の面と同時に、お叱り(叱咤)の面もあるということにお気づきいただけるでしょう。

お叱りの面のほうを先に説明しておきます。「お前は何を言っているのか。わたしはお前の事情など聞いていない。このわたしが『あなたを遣わす』と言っているのだ。わたしの命令に逆らうのか」ということです。

しかし、もちろんそれだけではありません。この御言葉には励ましの面が必ずあります。「わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが伝道者として立つことについて、誰にも文句を言わせない。わたしがあなたを護る。あなたの伝道者としての生涯をこのわたしが護る」ということです。

この点で、パウロの伝道者としての召命は、旧約聖書のエレミヤの預言者としての召命に似ています。

エレミヤも、預言者になるようにと神さまから命じられたときに、激しく抵抗しました。エレミヤは神さまに「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1・6)と答えましたところ、神さまは「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と言われました。

そして、神さまはエレミヤの口の中に「神の言葉」という団子のようなものを無理やり押し込んだ上で、「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」と言われました。エレミヤは、自分から進んで預言者になったイザヤとは違い、いわば無理やりその仕事を押しつけられたのです。

パウロも同じです。パウロの伝道者としての召命にも、エレミヤと同じように無理やり押しつけられた面があります。否応なしに。嫌々ながら。断りきれず。「ならざるをえない」という状況に追い込まれて。

すべての伝道者、すべての預言者が必ずそのような切迫感や悲壮感をもってその仕事に就いたわけではありませんし、そうである必要はありません。単純に「伝道者になりたい」という願いをもって伝道者になる人がいないわけではないし、いてもよいと、私は考えています。

しかし、です。パウロの場合はそうではなかったのです。エレミヤも違いました。彼らは神さまに、力ずくで組み伏せられました。パウロは地面になぎ倒され、エレミヤは神の言葉を無理やり押しつけられて、「わたしの言葉」を語るように命ぜられたのです!

(2008年5月25日、松戸小金原教会主日礼拝)