2008年6月22日日曜日

説教における「反射性」の問題

オランダの改革派神学者A. A. ファン・ルーラーが聖霊論において重んじた概念の一つは「反射性」(reflexiviteit)です。この概念の正確な意味を説明することは難しいですが、とりあえずすぐに言えそうなことは「跳ね返ってくること」であり、いくらか敷衍して言えば「(コミュニケーションにおいて)一方通行でないこと。レスポンスがあること」くらいでしょうか。



この「反射性」を現代の説教学に応用した一人が、ドイツの説教学者R. ボーレンです。説教はたしかに「反射性」を有しています。すなわち、神の言葉(verbum Dei)としての説教は、決して一方通行的なものではない。聖霊論的な「反射性」におけるコミュニケーション的な相互性を有するものであると言わねばならない何かです。この言い方はややこしいかもしれません。説教者は、説教において会衆との(心の中での)対話を行うものであるというくらいに言うほうがよいかもしれません。



しかも私自身の感覚では(“私自身”の“感覚”では、です)、説教者と会衆との対話とは、単なる(心の中での)「言葉のやりとり」だけではありません。あくまでもたとえですが、会衆は説教者のネクタイの色やネクタイピンの有無、あるいはブラウスの色や眼鏡のデザインなどに関心があります。説教者の髪型、そして髪の色や量(?)に関心があります。説教者の目線や目つき(?)にも関心があります。語り口のスピードや声の高さ(または低さ)を気にしています。あるいは、会衆は説教者がいま語っていることと、これまで語ってきたこと、また他の説教者の口から聞いた説教の内容との“整合性”があるかどうかを直感的に見抜きます。



以上はほんの一例です。すべてを逆にして考えることができます。説教者は会衆の存在を意識しながら語ります。会衆の存在における上に挙げたような事柄のすべてを気にしています。疲れた表情をしておられる方を見ると、まず最初に「私の説教のどこかに問題があるからか」と疑ってみますが、同時に「昨日までの一週のあいだに何かつらいことでもあったのか」と説教の最中に想像をめぐらします。それが、説教の内容に影響を及ぼすのです。会衆の表情が全く見えておらず、ただひたすら(徹夜で書き上げた)説教原稿だけに目を落として棒読みしているだけの“説教”を「説教」と呼ぶことはできません。



語っている最中に選挙演説やウグイス嬢の大音量の黄色い声が聞こえてきて、説教が中断されそうになることもあります。突然の暴風雨や地震が起こり、わが家の安否を気遣ってソワソワしはじめる会衆の表情や態度も、説教者にははっきりと見えています。しかしまた、その説教者の目を会衆は見ています。「そんなに気にしなくてもよい」というアイコンタクトを送ってくださる方もいますが、「そろそろ説教を締めくくってほしい」と無言で訴えておられる方もいます。その真剣な訴えに気づくこともなく、自分が書きあげた説教原稿を何が何でも最後まで読みとおす“説教者”は、「良い説教者」でしょうか。私には疑問が残ります。



説教における「反射性」は、まさにこれらすべての要素を含んでいます。そこで起こるのは言葉の反射だけではなく、“空気”の反射が起こるのです。そのような“雰囲気”(atmosphere)ないし “環境”(environment)のなかで説教は、よく弾むスーパーボールのように部屋中をビヨンビヨンと飛び回るのです。



私自身は、このようなことが説教においては不可欠であると信じています。また、それゆえにこそ、私は、「インターネット伝道」というものはきわめて困難、またはほとんど不可能であると考えています。電気信号のやりとり、せいぜい“文字”や“画像”や“動画”のやりとりは「説教」を成り立たしめるほどの“雰囲気”ないし“環境”までは伝達できないと信じているからです。



「自分の掲示板への書き込みにだれもレスポンスしてくれない」という理由で孤独を感じて暴走した人がいましたが、それは孤独を感じる人のほうが悪いのです。インターネットとはそういうものであるという認識が足りない、または欠如しているのです。「反射性」は、最少でも“同じ部屋にいる”というくらいのことなしには、ほとんど期待できません。残念ながらというべきかもしれませんが、それが現実です。