何をもって「電子書籍」と呼ぶか、その定義にもよると思いますが、(有料の)「電子書籍」、ぼくは結局、買う気も、利用してみようという意欲も、全く起こらないですね。無料で公開されている夏目漱石の小説とか、パラパラ(という音までする)めくってみましたが、途中でやめてしまいました。
ぼくにとって「本」の存在とは、ある意味で、第一義的に「背表紙」なんです。なぜなら、たとえば、ぼくの書斎にある大量の本は、一度にすべてを読めるわけではないからです。本棚に並んでいる「背表紙」と、そこに書いてあるタイトルや著者名だけを眺めながら、何年も、何十年も過ごして来ました。
買ってから実は一度も開いていない本も、ぼくの本棚の中にある。だけど、「背表紙」だけは何十年も見続けてきた。そして、その中に書かれていることは何かを、開くことも読むこともしないまま、ずっと想像し続けてきた「本」があります。だけど、電子の本には、そういうことはできないと思うのです。
だから、逆に言えば、「背表紙がない本」とか「背表紙に本のタイトルが書かれていない本」は、ぼくにとっては「本」として認識しづらいものでもあります。「背表紙」が付く厚さまであって「本」です。でも、新聞や(パソコンやら芸能やらの)雑誌は「電子書籍」で十分です。紙の新聞は読んでいません。
2014年1月30日木曜日
2014年1月24日金曜日
神学に取り組む《権利》はどうしたら獲得しうるか
「神学」は万人に公開されているもので、だれでも取り組むことができます。
ファン・ルーラーは「神学」を「最もポピュラーな学問」と呼んでいます。
することは、本を読むことと、字を書くことです。他にどうすることもできません。
本を読むことは、立ってでもできるし、座ってでも、歩きながらでもできます。
字を書くことは、どうでしょう、なるべくなら座ってのほうがいいような気がします。
でも、立ってでも歩きながらでも字を書くことができる人がいるなら、それもよし。
とはいえ、はっきりしていることは、
神学への取り組みとして本を読むことと字を書くことには、長大な時間がかかる、
ということです。
そして、それは「没頭すること」なしには、たぶんモノになりません。
しかし、困ったことがあります。
本を読み、字を書いている人の姿は、
ハタから見ると「何もしていない」ように見えることがあります。
だから、その人は「売れる本」を書かねば「仕事している」と認められません。
ですが、「売れる本」を書くために、たとえば小説家のような人は、
ほとんどすべての時間を「本を読み、字を書くこと」に費やしています。
「神学」も、たぶん同じです。
そうすることが「仕事」であると認めてもらう《権利》を獲得することなしに、
長大な時間を「本を読み、字を書くこと」に費やすことはできません。
しかし、その《権利》は、どのようにして獲得すればよいのでしょうか。
やっぱり修道院が必要でしょうかね。
インディーズ系の神学は、いつまで経ってもオタク呼ばわりですかね(自暴自棄)。
ファン・ルーラーは「神学」を「最もポピュラーな学問」と呼んでいます。
することは、本を読むことと、字を書くことです。他にどうすることもできません。
本を読むことは、立ってでもできるし、座ってでも、歩きながらでもできます。
字を書くことは、どうでしょう、なるべくなら座ってのほうがいいような気がします。
でも、立ってでも歩きながらでも字を書くことができる人がいるなら、それもよし。
とはいえ、はっきりしていることは、
神学への取り組みとして本を読むことと字を書くことには、長大な時間がかかる、
ということです。
そして、それは「没頭すること」なしには、たぶんモノになりません。
しかし、困ったことがあります。
本を読み、字を書いている人の姿は、
ハタから見ると「何もしていない」ように見えることがあります。
だから、その人は「売れる本」を書かねば「仕事している」と認められません。
ですが、「売れる本」を書くために、たとえば小説家のような人は、
ほとんどすべての時間を「本を読み、字を書くこと」に費やしています。
「神学」も、たぶん同じです。
そうすることが「仕事」であると認めてもらう《権利》を獲得することなしに、
長大な時間を「本を読み、字を書くこと」に費やすことはできません。
しかし、その《権利》は、どのようにして獲得すればよいのでしょうか。
やっぱり修道院が必要でしょうかね。
インディーズ系の神学は、いつまで経ってもオタク呼ばわりですかね(自暴自棄)。
「一気に」ファン・ルーラーが分かります
思想とキリスト教研究会機関誌『途上』第28号に掲載された
拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」
をご一読いただいた方々から感想が届いています。
2人の方が「一気に読みました」と同じ言葉を書いてくださいました。
うれしいです。
「一気読み」できます。
「一気に」ファン・ルーラーが分かります。
みなさま、ぜひ「一気に」お願いします。
『途上』第28号、1,700円(税別)です。
2014年1月17日金曜日
阪神・淡路大震災の記憶
ぼくも「阪神・淡路大震災の記憶」を書きます。
1995年1月16日(月)と17日(火)、
ぼくは岡山市内にいました。
「ニケア信条を学ぶ研修会」(講師 関川泰寛先生)に出席するためでした。
その前日の1月15日(日)は、前年(1994年)12月26日(月)に生まれたばかりの長男に、父(ぼく)の手で幼児洗礼を授けた日でもあります。
つまり、当時、長男は生後3週間。
その子と妻を高知県南国市の牧師館に残して、ぼくは「ニケア信条を学ぶ研修会」に出席するために岡山市にいました。
一日目の学びが終わり、岡山市に実家があるぼくは、他の出席者と別れ、実家で宿をとりました。
翌朝5時46分。ぼくはまだ就寝中。
「枕が揺れる~」という違和感がありました。でも、目が覚めるというほどではなく、夢の中のようでした。兵庫県の隣県にもかかわらず、岡山市内の揺れはその程度でした。
その直後、テレビをつけた父が
「おお、康。神戸がたいへんだ」
と言ったことを忘れることができません。
それで飛び起き、眠い目をこすりながら支度して、
「ニケア信条を学ぶ研修会」の会場の蕃山町教会に行きました。
当然、二日目の学びは中止。この会の出席者は、遠くは和歌山あたりから大阪、兵庫くらいまでの教師・信徒でした。
自分の家と連絡がつかない!
道路も電車も止まっている。どうする。
それでみんなで思いついたのは、紀伊半島や大阪方面からの出席者を、岡山から瀬戸大橋経由で徳島港まで送り、フェリーで帰っていただくことでした。
ぼくは四国からの参加組でしたので、ぼくの車にも紀伊半島在住の何人かの方が乗り、徳島港まで行きました。
そのことに必死になっている間、意識の外に置いてしまっていたのは、高知の牧師館の二人のことでした。
高知もかなり揺れたそうです。
帰宅後、長男は「ああ、こわかったー」とは言いませんでしたが(生後3週間でしたので)、妻の表情が若干こわかったことを、忘れることができません。
大きな被害に遭われた方々のことを知るにつけ、胸が痛みました。
そして、「いろんな意味で」阪神・淡路大震災は、ぼくの人生の転機になりました。
1995年時点で父が「神戸がたいへんだ」と言ったことの背景には、その数年前からぼくと神戸改革派神学校(日本キリスト改革派教会立)との関係がありました。
2年後の1997年1月にその神学校の2年に編入しました。
編入後、神学生から震災時の苦労を教えてもらいました。
2014年1月14日火曜日
日記「奇跡が起こりました!」
奇跡が起こりました!信じるか信じないかは、あ・な・た次第。
【事件編】
たった今です(2014年1月14日火曜日の夕方)。
「ごめんくださーい。郵便局でーす」
「(なんだろ?)はーい。どうぞー」
カチャ(教会の玄関が開く音)
「お荷物でーす。サインお願いしまーす」
「はーい。サイン、ここでいいですかー」
「そうでーす。ありがとうございましたー」
「どもー」
で、デカイ小包がドスン。
「(なんだろ?)」
ビリリ(粘着テープをはがす音)。
え、え、え、えーーーーーっ???!!!
【解決編】
デカイ小包の中身は、二人の有名なギリシア人でした。
それはもうスゴイ勢いで箱から飛び出して、すっくと立ちました。
召還したのは、ぼくじゃないです。
昨日お祈りはしました。
だけど、まさか翌日に二人が来てくれるだなんて、めっちゃびっくりしました。
ありがとうございました!とてもうれしいです。
【番外編】
今日来てくれた二人のギリシア人と、以前からのぼくの部屋の住人との比較です。
「月報」コンプリートです!うしっ!
「新刊案内」もほとんど揃ってました。やたっ!
【事件編】
たった今です(2014年1月14日火曜日の夕方)。
「ごめんくださーい。郵便局でーす」
「(なんだろ?)はーい。どうぞー」
カチャ(教会の玄関が開く音)
「お荷物でーす。サインお願いしまーす」
「はーい。サイン、ここでいいですかー」
「そうでーす。ありがとうございましたー」
「どもー」
で、デカイ小包がドスン。
「(なんだろ?)」
ビリリ(粘着テープをはがす音)。
え、え、え、えーーーーーっ???!!!
【解決編】
デカイ小包の中身は、二人の有名なギリシア人でした。
それはもうスゴイ勢いで箱から飛び出して、すっくと立ちました。
召還したのは、ぼくじゃないです。
昨日お祈りはしました。
だけど、まさか翌日に二人が来てくれるだなんて、めっちゃびっくりしました。
ありがとうございました!とてもうれしいです。
【番外編】
今日来てくれた二人のギリシア人と、以前からのぼくの部屋の住人との比較です。
「月報」コンプリートです!うしっ!
「新刊案内」もほとんど揃ってました。やたっ!
地に足をつけるとは、ゆっくり歩くことのようだ
19世紀を「ついこないだ」とか言ってしまう。
そんな加速装置を持つ「神学」だ「哲学」だに頭を悩ましていると、
どこにも行ってないのに時差ボケが起きる。
時差ボケ解消の有効な方法は「歩くこと」だと、今さらながら気づく。
ここは50年前のニュータウン。
今はオールドタウンだ。
年齢についての話題を書くと傷つく方がおられるので、書かないでおく。
交差点の信号待ちをしていたとき、
ぼくの目の前にいた80歳くらいの男性が、タバコを吸いながら、
携帯電話で大きな声で話していた。
「おれはあの店ヤだよ。
だってタバコ吸えないでしょ。
他の店探してよ。
タバコ吸える店がいいよ。」
その話題をえんえんと続けていた。
その話を聞いていて(聞き耳を立ててたわけではない)
やっと、加速装置を解除できたような気がした。
地に足をつけるとは、ゆっくり歩くことのようだ。
まあ、これはこれで、けっこう楽しいな。
2014年1月10日金曜日
日記「マンガ版『純粋理性批判』を夢中で読んでいます」
おっ、今日は久々にちょっとだけ冴えてるぞ。
暗算とか大の苦手のぼくですが、最近は経験則で「いくらぐらい」が分かるようになりました。
だいたい予算どおりでした。よし。
経験則に頼りすぎると「経験したことがないことは分からないので興味もない」というような懐疑論や無関心に陥る。
しかし、全く経験なしにア・プリオリに「それはこうに決まっている」と言い張る独断論的認識論は、危なっかしくて仕方ない。
しかも、財布のお金を有効活用するには何をどのくらい買えばよいのか、いかにコストを削減するのかなどをミクロ的に丁寧に考え抜く「分析的認識」が必要である。
しかし、重要なことはそれだけではない。
これらの買い物をどのような料理に仕上げるかをトータルかつマクロ的に見通す「総合的判断」もまた同時に必要である。
マンガ版のカント『純粋理性批判』を夢中で読んでいます。面白いですよ。
「第22回 カール・バルト研究会」報告
2014年1月10日金曜日、「第22回 カール・バルト研究会」を行いました。出席者は以下のとおりです(五十音順、敬称は略させていただきます)。
小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
齋藤 篤(ドイツ・ケルン市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道亀田町)
なんと、カール・バルト研究会、丸一年続いてしまいました。
次回(1月24日金曜日)、「第23回」でカール・バルト研究会の一周年記念会を行います。
いつもと同じようにカール・バルトの本を「批判的に」読むだけのことですけどね。
一年間、ありがとうございました。
2014年1月9日木曜日
子どもの頃の記憶
意識的に考えないようにしていたことなので、本格的に忘れてました。
でも「考えないようにしていたこと」を思い出しちゃった。困った脳だ。
子どもの頃、「あなたの尊敬する人は?」という質問をけっこう受けた。
学校とかいろんなところでのアンケート用紙とかの質問だったかも。
その質問に答えられなくて、答えられなくて、答えられなくて嫌だった。
なんでこんな質問するのか、答えさせるのかが、全く分からなかった。
踏み絵よりもこの質問が、ぼくは嫌だ。
この質問を強要する人間に対して憎悪を抱くレベルだ。
なんでこんなに嫌なんだろう、憎いんだろう。 なんなんでしょうね。
今日(いま)ふと気づいたのは、その答えかもしれないことだ。
書きませんけどね。ぼく、怪人二十面相らしいしね。だれが言うか。
でも「考えないようにしていたこと」を思い出しちゃった。困った脳だ。
子どもの頃、「あなたの尊敬する人は?」という質問をけっこう受けた。
学校とかいろんなところでのアンケート用紙とかの質問だったかも。
その質問に答えられなくて、答えられなくて、答えられなくて嫌だった。
なんでこんな質問するのか、答えさせるのかが、全く分からなかった。
踏み絵よりもこの質問が、ぼくは嫌だ。
この質問を強要する人間に対して憎悪を抱くレベルだ。
なんでこんなに嫌なんだろう、憎いんだろう。 なんなんでしょうね。
今日(いま)ふと気づいたのは、その答えかもしれないことだ。
書きませんけどね。ぼく、怪人二十面相らしいしね。だれが言うか。
2014年1月8日水曜日
どうしたら行けるのだろう 教えてほしい
悲しいとか悔しいとかいうほどの強い思いはありませんが、教会が常に新しい価値を生み出していく姿勢(価値創出的)ではなく、既存価値を追いかけるだけの姿勢(価値追認的)であることは、なんだかつまらないです。はっきりいえば、教会なんかやってる意味ないです。世の価値を教会に持ち込んで「へ~」だ「は~」だ言ってるだけなら。
でも、だからといって、いかにもしょぼいものをつくってごく近い身内だけで自己満足にひたっているというのも、おかしいといえば、たしかにおかしい。
文脈は違いますが、青島刑事の言うところの「許してくれるのはな、パパのお友達だけだ」ってやつです。
「両方大事ですね」と、他の件なら大抵そう言うぼくですが、本音をいえば、どっちもイヤですね。でも、強いて選べば、後者(しょぼいほう)です。たぶん、だからぼくはダメなんでしょうけどね。
背負ってるものが、いまだにほとんどない。無責任の極みです。気楽ではありますよ。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(旧約聖書 ヨブ記1章21節)です。
あ、でも、ぼくがどうであるかはどうでもいい。問題は、教会はどうなのかです。
いちばん理想的なのは、真に価値創造的でありつつ、あらゆる価値を凌駕すること、かな。
それ、なんなんでしょうね。そういう何かこそ「権威」の名にふさわしいと、ぼくは思います。
「ガンダーラ」みたいだ。
その国の名はガンダーラ
どこかにあるユートピア
どうしたら行けるのだろう
教えてほしい
仏教化してきたのかな、ぼく。
でも、だからといって、いかにもしょぼいものをつくってごく近い身内だけで自己満足にひたっているというのも、おかしいといえば、たしかにおかしい。
文脈は違いますが、青島刑事の言うところの「許してくれるのはな、パパのお友達だけだ」ってやつです。
「両方大事ですね」と、他の件なら大抵そう言うぼくですが、本音をいえば、どっちもイヤですね。でも、強いて選べば、後者(しょぼいほう)です。たぶん、だからぼくはダメなんでしょうけどね。
背負ってるものが、いまだにほとんどない。無責任の極みです。気楽ではありますよ。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(旧約聖書 ヨブ記1章21節)です。
あ、でも、ぼくがどうであるかはどうでもいい。問題は、教会はどうなのかです。
いちばん理想的なのは、真に価値創造的でありつつ、あらゆる価値を凌駕すること、かな。
それ、なんなんでしょうね。そういう何かこそ「権威」の名にふさわしいと、ぼくは思います。
「ガンダーラ」みたいだ。
その国の名はガンダーラ
どこかにあるユートピア
どうしたら行けるのだろう
教えてほしい
仏教化してきたのかな、ぼく。
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