2009年10月13日火曜日

アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(下) 関口 康

第二部 神学



2.1. 神学の本質



2.1.0. 序
2.1.1.
2.1.2.
2.1.3.
2.1.4.
2.1.5.
2.1.6.
2.1.7.
2.1.8.
2.1.9. まとめ



2.2. 啓示、聖書



2.2.0. 序
2.2.1. 啓示(1)
2.2.2. 啓示(2)
2.2.3. 啓示(3)
2.2.4. 啓示(4)
2.2.5. 聖書(1)
2.2.6. 聖書(2)
2.2.7. 聖書(3)
2.2.8. 聖書(4)
2.2.9. まとめ



2.3. 神、創造、人間、罪



2.3.0. 序
2.3.1. 神(1)旧約聖書と新約聖書の神
2.3.2. 神(2)三位一体の神
2.3.3. 創造(1)存在の奇跡性
2.3.4. 創造(2)天国と天使
2.3.5. 人間 歴史の意味としての人間
2.3.6. 罪
2.3.7. 地上の生(1)人生の価値
2.3.8. 地上の生(2)人生の意味
2.3.9. まとめ



2.4. キリスト、聖霊、救済



2.4.1. 序
2.4.2. キリスト(1)
2.4.3. キリスト(2)
2.4.4. 聖霊(1)
2.4.5. 聖霊(2)
2.4.6. 聖霊(3)
2.4.7. 救済(1)
2.4.8. 救済(2)
2.4.9. まとめ



2.5. 教会、終末



2.5.1. 序
2.5.2. 教会(1)
2.5.3. 教会(2)
2.5.4. 教会(3)
2.5.5. 教会(4)
2.5.6. 終末(1)
2.5.7. 終末(2)
2.5.8. 終末(3)
2.5.9. まとめ



2.6. 文化、社会、政治、教育



2.6.1. 序
2.6.2. 文化(1)
2.6.3. 文化(2)
2.6.4. 社会(1)
2.6.5. 社会(2)
2.6.6. 政治(1)セオクラシーと寛容精神
2.6.7. 政治(2)
2.6.8. 教育
2.6.9. まとめ



アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(上) 第一部 生涯





アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(上) 関口 康

第一部 生涯



1.1. 幼少時代



1.1.0. 序
1.1.1. 出身地
1.1.2. 家族と家系
1.1.3. アペルドールン教会
1.1.4. 信仰告白教育
1.1.5. Th. L. ハイチェマ牧師
1.1.6. 職業学校からギムナジウムへの転校
1.1.7. ギムナジウムの同級生
1.1.8. 牧師への召命と大学受験
1.1.9. まとめ



1.2. 学生時代



1.2.0. 序
1.2.1. フローニンゲン大学神学部
1.2.2. Th. L. ハイチェマ教授
1.2.3. J. ホイジンガの影響?
1.2.4. リンデボームの影響?
1.2.5. 指導教授W. アールダース
1.2.6. 卒業論文『ヘーゲル、キルケゴール、トレルチの歴史哲学』
1.2.7. 学生会活動
1.2.8. 教会生活
1.2.9. まとめ



1.3. 牧師時代



1.3.0. 序
1.3.1. 結婚と家庭
1.3.2. クバート教会
1.3.3. ヒルファーサム教会
1.3.4. 説教と牧会
1.3.5. 文筆活動
1.3.6. 政治参加
1.3.7. ラジオ伝道
1.3.8. 神学博士号請求論文『律法の成就』
1.3.9. まとめ



1.4. 教授時代



1.4.0. 序
1.4.1. ユトレヒト大学神学部「オランダ改革派教会担当教授」
1.4.2. 前任者S. F. H. J. ベルケルバッハ・ファン・デア・スプレンケル教授
1.4.3. 旧約聖書神学
1.4.4. 教義学
1.4.5. 教会規程
1.4.6. その他の教科(キリスト教倫理、オランダ教会史、礼拝学など)
1.4.7. 大学教授の教会生活
1.4.8. 突然の死
1.4.9. まとめ



1.5. 対話と論争



1.5.0. 序
1.5.1. K. バルト
1.5.2. Th. L. ハイチェマ
1.5.3. O. ノールトマンス
1.5.4. K. H. ミスコッテ
1.5.5. H. ベルコフ
1.5.6. G. C. ベルカウワー
1.5.7. W. H. フェレーマ
1.5.8. J. モルトマン
1.5.9. まとめ



1.6. 継承時代



1.6.0. 序
1.6.1. カレンバッハ版『神学論文集』の刊行
1.6.2. オランダ
1.6.3. 南アフリカ
1.6.4. アメリカ
1.6.5. 日本、その他
1.6.6. ブーケンセントルム版『著作集』の刊行
1.6.7. 国際ファン・ルーラー学会
1.6.8. 今後の課題
1.6.9. まとめ



アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(下) 第二部 神学



2009年10月11日日曜日

アブラハムが生まれる前から


ヨハネによる福音書8・48~59

「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか』と言い返すと、イエスはお答えになった。『わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光を求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。』ユダヤ人たちは言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』イエスはお答えになった。『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じく私も偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。』ユダヤ人たちが、『あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある。」』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」

今日の個所に記されていますのは、いささか野次馬的な言い方をお許しいただきますなら、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ人たちとの激闘の様子です。両者は激しく言い争っています。論争というよりは口論に近い。ただし、イエスさまはいたって冷静です。ボルテージが上がっているのはユダヤ人のほうです。彼らはついに石を手に取り、暴力に訴えようとしました。しかし、イエスさまは暴力に対して暴力で立ち向かうような方ではありませんので、その場を去って行かれました。

ユダヤ人たちがイエスさまに「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言っている意味については、先週ちょっとだけ触れました。それは、彼らが「わたしたちの父はアブラハムです」(8・39)と言い、また「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(8・41)と言っていることに直接関係しています。これは彼らのいわゆる純血思想です。我々ユダヤ人はあの偉大なる信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継いでいる民族なのであって、他の民族の血はいささかも混ざっていないのであるということを彼らは固く信じていました。そしてその点にこそ彼らの民族としての誇りを持っていました。そして彼らユダヤ人たちは、そのような純粋な我々と比べて、あのサマリア人たちは他の民族の血が混ざってしまっているという意味で純粋でない人々であるとも信じていました。サマリア人たちの血が不純であるということを指してユダヤ人たちは「姦淫」という言葉で表現したわけです。

ところが、彼らはこのときイエスさまがおっしゃったことに非常に腹を立てました。イエスさまがおっしゃったことは「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」(8・44)ということでした。これは、ユダヤ人たちがイエスさまのことを殺そうとしていることを指しておられる言葉です。

この言葉は、逆の方向から考えるとその意味が見えてくるものです。あなたがたは、今まさにこのわたしを殺そうとしている人殺しである。人を殺したいという思いは、神から与えられるものではなく、悪魔からのものである。ところが、あなたがたは、自分たちの父はアブラハムであると言い、アブラハムが信じた神御自身から生まれたものだと主張する。これはおかしい。まるで、あなたがたがこのわたしを殺そうとしているその思いは悪魔から与えられたものではなく、神とアブラハムから与えられたかのようだ。その理屈を突き詰めていけば、神とアブラハムを殺人犯に仕立て上げることになる。それは、あなたがたにとって都合のよい自己正当化の理屈にすぎない。イエスさまの思いを深く汲みとるとしたらこんな感じになるだろうと思われます。

しかし、彼らはイエスさまの言葉に耳を傾けようとしませんでした。それどころか、ますます腹を立てました。そして、悪いのはこのイエスという男のほうであって、我々は悪くないと考えました。この男を我々が殺すのは当然であり、この男が犯した罪に対する正当な裁きを行わなければならないと信じたのです。彼らが石を手にとって投げつけようとしたのは、怒りに任せて衝動的にそうしようとしたのではありません。これが当時の法律に定められた死刑の方法だったから、そうしたのです。

彼らがイエスさまに見出した罪の具体的な内容は、冒瀆罪でした。このイエスという男は神を冒瀆している。そのように彼らは確信するに至りました。彼らの確信の根拠となったイエスさまの言葉が、この個所に二つあります。第一は「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(8・51)です。第二は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(8・58)でした。「わたしはある」とはモーセの前で示された神のお名前である(出エジプト記3・14)ということは、既に説明しましたとおりです。

先に申し上げておきたいのはこのイエスさまの御言葉の真の意図です。まことの救い主であられるイエス・キリストのお語りになる御言葉を守る人は、死ぬことがない。アブラハムが生まれる前からイエス・キリストは「わたしはある」という方である。この御言葉の意味は、ただ単なる生物学的な不老長寿の話ではないということをわたしたちは知っています。「イエスさまの年齢は二千歳でした」というような話はただのオカルトです。イエスさま御自身はそのような意味でおっしゃっているわけではないのです。

ここから先、深刻な話だからこそ冗談めかした言い方をするのをお許しください。皆さんとふだんお話ししているときにしょっちゅう出る話は「わたしはあまり長生きしたくない」ということです。自由に動けなくなり、また自由に考えたり喋ったりできなくなることに多くの方々が恐れさえ抱いています。私はそのようなお話を伺うたびに「まあまあ、そんなこと言わないで長生きしてくださいな」と内心では思っているのですが、しかしまた、全く理解できないと感じているわけでもありません。

このことで私が申し上げたいことは、そのような生物学的な意味(というよりはオカルト的な意味)で考えられる「不老長寿」が仮に実現したからといって、それによって我々が幸せになるのだろうかという真剣な問いかけです。そんなことはないと多くの人々が考えています。長寿の方々を不愉快な思いにさせる意図はありません。しかし、です。人生の時間が長ければ長いほどよいと思っている人は多くありません。そこに何か別の要素が加わらないかぎり、時間が長いだけでは幸せにならないと思っています。

それでは「別の要素」とは何でしょうか。そのことを、わたしたちは知っています。それは、神の愛と憐みと赦しの力によってわたしたち人間が罪の中から救い出されるという要素です。神を知らず、救いを知らず、罪の状態のままで過ごす人生には牢獄の中にいるのに近いものがあるとさえ感じます。そのような人生なら一刻も早く終わりにしたいと願わざるをえないと言いたくなることさえあります。しかし、そのようなときにこそ、わたしたちはイエスさまの御言葉を思い起こすことができるのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。

この場合の「決して死ぬことがない」の意味は、神と共に永遠に生きる者となるということです。罪によって破壊された神との関係が修復され、神と人間との間の関係が正常化するのです。対立関係にあった神と人間との関係が永遠の和解に至るのです。永遠に生きておられる神と共に永遠に生きる者となるのです。これこそがこの御言葉の真の意味です。「わたしの言葉を守るなら」、すなわち、神の御子なるイエス・キリストの御言葉を通して父なる神の御心を知り、それに従う人生を始めるならば、「その人は決して死ぬことがない」、すなわち、神との関係が永遠に修復されて和解に至り、神を喜ぶ人生を永遠に続けることができるのです。

しかし、このような次元の話を、そこにいたユダヤ人たちは全く理解できなかったし、理解しようとしなかったのです。彼らは言いました。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。」アブラハムは死んだし、預言者は死んだではないか。あの偉大な人々も死んだのに、お前は、自分の言葉を守るなら、その人は決して死なないと主張する。お前は何様なのか。我々の父アブラハムよりも偉いとでも言いたいのか、ふざけるなと言っているのです。

これで分かることは、ユダヤ人たちが「永遠の命」ということをどのようにとらえていたかです。それは、先ほど申し上げたとおりのただ単なる「不老長寿」です。しかも、それは、彼らにとっては「ありえないこと」としてだけ考えられています。つまり彼らは「永遠の命」と「不老長寿」を同じものと考えたうえで、そういうことはありえないと思っていたわけですから、要するに彼らは「永遠の命」など全く信じていなかったのと同じであるということが分かります。たとえそのようなことが聖書に書いてあろうとも、宗教家たちが何度説教しようとも、彼らはそれを信じていなかったのです。ただの絵空事のように思っていたのです。

繰り返しになりますが、イエスさまがお語りになる場合の「永遠の命」の意味は不老長寿ではありません。ただし、その一方で我々が誤解すべきでないと思いますことは、それでは「永遠の命」とは何なのかと考えたときに、この世から離れた「あの世」、あるいは物質世界から隔絶された精神世界で、ふわふわとした霊のような状態になっていつまでも生き続けることであるというようなイメージを抱くことも間違いであるということです。しかし、この問題に立ち入る時間が今日はもうありません。イエスさまがおっしゃっていることの核心は、「神との関係」というこの一点にあるとだけ申し上げておきます。神との関係が永遠に続くこと、それこそが「永遠の命」の内容です。

イエスさまが「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とおっしゃったのも同じことです。神の御子は、父なる神と共に永遠に生きておられる方であるゆえに、「アブラハムが生まれる前から」父なる神のもとにおられた方なのです。つまり、イエスさまがおっしゃっていることは、わたしは神であるということなのです。

このことはもちろん信仰の問題です。イエスさまを「わたしはある」と称する方として、すなわち、真の神として、神の御子として、御子なる神として信じることがわたしたちに求められているのです。

(2009年10月11日、松戸小金原教会主日礼拝)

「今週の説教メールマガジン 第200号感謝号」記念巻頭言

高瀬一夫 (日本キリスト改革派千城台教会牧師)



関口先生、そして松戸小金原教会の皆様、「今週の説教メールマガジン第200号」、おめでとうございます。



説教は語る者より、聞く者の聞き方のほうが大きな力となります。聞いてくださる方があって語る者は励みにもなり、支えられている感謝で毎週語ることが許されているのです。説教者は、説教を聴いてくださるお一人お一人のお顔を思い浮かべながら、みことばに聞き、用意をします。



ほとんどの牧師はその説教を公表していません。語り終えるとそれで全てが終わります。私も説教を文書化することをしておりません。しないのではなく、出来ないのです。真剣に学び、教えられ、また神様が語れと命じておられることを文書化しなければならないと、いつも思っています。しかし、なかなか出来ないでおります。私の知人・友人の方々は、語るだけでなく、それを文書化し、さらに多くの人々に公表すべきであると言われます。でも、できない自分を恥ずかしく思っています。



ところが、関口先生は教会内で公表なさるだけではなく、ホームページやブログで広く公表されておられます。このお働きはとても勇気のいることであり、また大変な努力を必要とする仕事です。毎週毎週欠かさずに説教を公表するということは至難の業であります。私は「文章を書くことは恥をかくこと」といわれたことがあります。確かに、文字にしてしまいますと、語った説教と違うイメージが勝手に読む人々によって抱かれ、誤解され、批判されることがあります。それでもなお書き続けられることを200回も続けられたことに敬服いたしております。



このお働きは常人には出来ないことです。強靭な意志と、人並みはずれた努力と、そして神様がその業を励ましてくださり、健康を祝福してくださることによって実現したと思っています。



関口先生はとても多忙なお方です。教会の牧師としてだけでなく、お子様たちの通っておられる学校のPTAのお働き、地域の方々と共に「九条の会」などにも積極的にかかわっておられます。また中会内の働きにも重責を担っておられます。そして何よりもファン・ルーラー研究者・翻訳者としての働きや、カルヴァン学会などの働きをしておられます。



時々、先生からメールをいただくことがあるのですが、夜中の2時、3時に発信しておられることがあります。いつ寝ておられるのだろうと思っています。こんなに忙しい先生なのに説教を毎週欠かさず公表されておられることは真に驚異的です。この「今週の説教 メールマガジン200号」は、先生の血のにじむような忍耐と努力の結晶であると思っています。



私は書斎で疲れたとき昼寝をしますが、以前、先生の説教を子守唄にしてきながら寝ていました。そのことを先生にお伝えしたのが今回のお祝いの言葉を書くように依頼された理由でしょうか。真に失礼とは思いますが、そんな不真面目な聞き方でも「聞いてくださることがありがたい」とおっしゃる先生の心の広さを感心しています。



先生の説教にはところどころ先生と親しく交わっているものにだけに分かる先生の癖がはっきりと現れています。それを感じるものとして説教を聞かせていただいておりますと、本当に楽しくなります。



そして先生の説教は、先生でなければ語れない大胆さ、福音の力強さ、説得力の豊かさを感じます。この様に先生を用いていてくださる神様の御名を心からほめたたえたいと思っています。



200号は単なる通過点です。300号500号1000号をと先生なら出来ると思います。がんばってください。先生の健康のため祈ります。そして先生を支えておられる松戸小金原教会の信徒のお一人お一人の上に神様の祝福がたくさんありますように祈ります。



最後にこのメールマガジンをいつも読んでおられる方々に心から感謝いたします。暖かいお励まし、お祈りが背後にありますこと、感謝です。今後も先生のこのお働きのためぜひお祈りをお願いいたします。



心からのお祝いの気持ちを文章にしました。本当におめでとうございました。そしてこれからもがんばってください。先生のために祈ります。御名をほめたたえつつ。
 
(2008年2月7日 記す)





「今週の説教メールマガジン 第100号感謝号」記念巻頭言

佐々木冬彦 (作曲家・ハープ奏者)



関口先生、メールマガジン100号おめでとうございます!



私は一介の音楽家に過ぎず、説教学だとか最先端の神学について、よく知りません。ですので、もしかしたら的外れなことを書いてしまうかもしれませんが、そのようなところがありましたらどうかお許しください。



正確な数は数えてはいませんが、私はこの15年程の間に、約500くらいの教会(もちろんさまざまな教派)から招かれて、ハープの演奏をして来ました。そして、おそらく300人くらいの牧師の礼拝説教を聴いて来ました。これは、普通(?)のクリスチャンではちょっと経験できないことではないでしょうか。説教演習などではなく、いずれも、第一線の牧会現場で奮闘している牧師たちの、真剣勝負の礼拝説教です。ですから、おこがましいことを書かせていただくとしたら、私は説教に関してはけっこう耳が肥えているのではないかと思っています。(こう書くとやはりおこがましいですね・・・。)



だからと言って、私はこの場で「今まで出会った牧師の中で、関口康は説教者ベスト何番!」などと順位をつけるつもりはありませんし、そのようなことはするべきではないと考えています。それでも、是非ここで書かせていただきたいことは、「関口先生の説教はとても良いです!」ということです。ついでにこの場をお借りして、「関口先生は根っからの牧会者・説教者です!」ということも皆さんにお伝えしておきたいです。



私が演奏奉仕先の教会で、そこの牧師さんから「佐々木さんの教会の牧師は何と言う先生ですか」と尋ねられて、「関口康先生です」と答えますと、婉曲的にですが「関口康と言うのは○○研究会などをやっている、書斎にこもった神学オタク牧師じゃないですか」というような反応をしばしば感じることがあります。それほどまで関口先生の神学研究活動が認知されていると言うことは喜ばしいのですが、「ちょっと誤解されているな」と残念に思います。



関口先生は書斎にこもりきりの牧師ではありません。私を含め、教会員の相談に親身に乗ってくださり、またわれわれのために文字通り東奔西走しておられます。私から見ますと、もう少し書斎にこもらせて、じっくりと執筆活動をさせてあげたいな、と感じるほどです。



関口先生は確かに神学に大変造詣の深い先生です。でも関口先生の説教をお聴きいただけばわかると思うのですが、関口先生が日夜研鑚している神学は、論文を書くための神学でもなければ、神学オタクのためのスコラ的神学でもありません。むしろ、自分の羊の魂を守り、励まし、養い、生かす、そんな説教と牧会をするための神学だと思います。



少なくとも私は、関口先生の説教によって何度か危機を乗り越えてきました。迷っているときには強く背中を押されたこともありました。決して大げさでなく、「ボクの人生を変えた説教」と言える説教もありました。



今、松戸小金原教会の朝の礼拝ではルカによる福音書からの説教が続いています。正直言って、自分ひとりで福音書を読んでいても、イエスさまの言葉の意味や意図がよくわからなかったり、奥が深すぎてどのように受け留めたらよいのか途方に暮れてしまうところが多々あります。しかし、関口先生の言葉でイエスさまの言葉を解説していただくと、とても「腑に落ちる」のです。



どちらかというと、関口先生は説教でそれほど明確に「適用」を語りません。しかしその分私は、いかにそのみことばを自分の人生に適用したら良いか、魂のインスピレーションがかき立てられます。どのように生きたらよいか教えられ、進むべき方向が示され、また疲れているときには慰められます。ときに厳しい言葉もありますが、それでも関口先生の説教は「裁き、怖れさせる説教」ではなく、いつも「励まし、生かす説教」です。



現在インターネットで上では、関口先生の礼拝説教を音声でも聴くことができます。私は個人的には、メルマガで原稿を読むよりは、実況録音した音声で聴く方がずっと良いと感じています。(原稿の方は公開する前に手が入れられ、練り上げられているのでしょうが。)



でも、いくらパソコンで説教が読めたり聴けたりしても、私はより多くの方に是非、松戸小金原教会の礼拝で、「ナマ」で関口先生の説教を聴いていただきたいと願っています。音楽も説教もナマが一番です。



関口先生、今後ともよろしくお願い致します。



(日本キリスト改革派松戸小金原教会長老)





ようやくSkypeを始めました

インターネットに関してだけではなく、ほとんどどんなことについても(神学についても)、最先端のトレンドの五十歩(五百歩かな)遅れくらいのところを歩きたいほうです。真っ先に飛びついたりするようなことは全くありません。



「これが最先端です!大流行中です!」と騒がれている頃には「ふうん」と思いながら横目で見ているだけです。かえって、騒ぎに巻き込まれたくないと警戒心を強めることのほうが多い。ワープロ(NEC文豪Mini)を始めたのも、パソコンに切り替えたのも、携帯電話を持つようになったのも、インターネットを始めたのも、ブログやSNSを始めたのも、「大流行中!」と言われていた時期の数年後のことでした。



と、要らぬ前置きが長くなりそうなので、ここらでやめます。「遅ればせながらSkype(スカイプ)を始めることにしました」という話を書こうとしているところです。



Skypeを始めようと思った理由は、中3の長男が友人との通話のために使い始めたからです。世間の流行にはついて行けなくても何とも思いませんが、息子のトレンドにはついて行きたくなる。これまで感じたことのない、屈折した親心が芽生えたようです。



加えて、というか時系列的にはこちらのほうが先ですが、かなり以前にMSNメッセンジャーだったかをちょっとだけ試してみたことがありますが、当時のネット環境が悪すぎて使い物にならず、それ以来懲りていたという事情がありました。ここに至ってようやく快適なオンライン通話環境を獲得することができたというところです。



このたび取得したSkypeのコンタクト名は「apostolaat」です。



Skypeユーザーとならば、国際・海外問わず何時間でも無料で話し続けることができるようです。こういうのこそが実は、我々牧師のような仕事にとっては打ってつけのサービスなのかもしれません。判断めいたことを書くには早すぎますが。あるいは、これがオンラインの読書会や会議に利用できるものかどうかなど、いろいろ知りたいところです。



なお、この機会に、Windows Live(ウィンドウズ ライブ)メッセンジャーYahoo(ヤフー)メッセンジャー、またGoogle Talk(グーグル トーク)のコンタクト名(ユーザー名)もすべて「apostolaat」に統一しました。ただしいつもすべてのソフトを立ち上げておくことはさすがにできませんので、ふだんはSkypeを常駐させておこうかと考えています。



2009年10月10日土曜日

教団離脱弁証論としての教義学

考えてみれば当たり前のことでもあるのですが、オランダのアブラハム・カイパーとヘルマン・バーフィンクの教義学的著作の至るところに、当時の(いわゆる国教会系)オランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)から彼らが離脱(りだつ)して新しいオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands)を創設したことについての「弁証」ないし「弁護」という意図が見え隠れしています。



歴史を16世紀までさかのぼれば、カルヴァンだってそう。『キリスト教綱要』にはローマ・カトリック教会から袂を分かつことを余儀なくされた者たちの「弁証」ないし「弁解」という面が、当然のことながら少なからずあります。



今度はぐっと現代日本に引き寄せて、岡田稔先生のことを考えてもそう。『改革派教理学教本』(新教出版社、1969年)を頂点とする岡田先生の著作のいわばすべては、日本基督教団から離脱して創設された「日本キリスト改革派教会」の存在理由(レゾンデートル)を弁証することが目的であったと見ることが可能です。



これで気づかされる(ある意味笑える)点は、「教団離脱者は筆まめである」ということです。



何かを言いたくて書きたくて、どうにも抑えきれなくなる。何より、論じるべき問題についての認識(その広さ、長さ、高さ、深さにおいて)が明確である。「要するに何が問われているか」がクリアである。考えを押し進めていく方向もクリアである。



それゆえ、いったん書き始めると止まらない。量の面では「爆発的に」書く。質の面では「徹底的に厳密に」書く。視野の面では「事柄の最初から最後まで」書く。まさに「創造から神の国まで」(From Creation to Kingdom of God)書く。



そのような書きっぷりが「教義学」には必要なのだと、改めて思い知らされます。



教団離脱組のすべてが必ず教義学者として大成するわけではありませんし、教義学を営む者たちのすべてが必ずどこかの教団から離脱しなければならないというわけでもありません。そのような逆命題が真理か否かは、この際どうでもいいことです。



しかし、現時点では直感的な当てずっぽうですが、「教義学として面白い本を書きえた人々の多くが実は教団離脱者であった」という命題は、もしかしたら成り立つかもしれません。





今月のスケジュール

来週あたりから無酸素運動のような日々が始まりますので、いささか緊張気味です。

2009年10月のスケジュール

11日(日)~12日(月) 松戸小金原教会一泊修養会(さわやかちば県民プラザ、柏市)

12日(月)1:00 p.m.    ひたちなか伝道所(茨城県)の教会設立式に出席します

18日(日)10:30 a.m.   松戸小金原教会2009年度特別伝道礼拝 講師 関口 康
                説教「あなたの命を守ってくださる方」 

21日(水)~23日(金) 日本キリスト改革派教会第64回定期大会(大阪YMCA)に出席

24日(土)            仙台市内に宿泊

25日(日)10:30 a.m.   日本キリスト改革派東仙台教会の礼拝で説教させていただきます

      午後         改革派神学研修所東北教室神学講演会 講師 関口 康 
                主題「伝道の神学 喜びの人生をめざす旅人の力」