2025年8月7日木曜日

嫉妬

2025年4月17日 ChatGPTに
石ノ森章太郎風に描いてもらった自画像

【嫉妬】

以前はもっと多かった。私は現在、4つのブログを管理している。自分の日記現在の教会カルヴァン学会拙訳ファン・ルーラー著作集。各記事のアクセス数が分かるので、嫉妬心が生まれる。最多アクセス獲得記事がどれも有名人に関係する。私ではない。承認欲求という言葉は苦手だが、それが高まる。

カルヴァン学会のブログならカルヴァン、ファン・ルーラー著作集のブログならファン・ルーラーがそれぞれの最多アクセスを得るかというと、それほど単純ではない。講演会に来ていただいた講師の知名度や、記事の有用性の高さによる。「〇〇大学教授」の肩書きがモノを言う。記事の有用性の件は別の話。

赤裸々に書いておく。拙訳ファン・ルーラー著作集ブログの過去最多アクセスページは「神学用語」。オランダ語の文献に基づいて作成したラテン語とオランダ語と日本語の対訳。多くの方にご活用いただけるのはうれしいこと。神学用語に嫉妬している私。「神学用語め、人気を集めちゃって」と思っている。

私の日記と現在の教会のブログで過去最多アクセスを獲得したのは北村慈郎先生のお名前を拝借しているページ。私が北村先生に嫉妬するのがおかしいことは承知している。足元にも及ばない。関連しているかもしれないのは、次にアクセスが多いのが私の自己紹介ページ。「何者だ」と反応されているようだ。

2025年8月6日水曜日

ヘドラの記憶

2024年6月4日、伊豆大島で撮影。青い海を守りたいですね!


【ヘドラの記憶】

「ゴジラ対ヘドラ」(1971年)を昨夜初めて観た。私は5歳で幼稚園の年長組だったが、実は岡山で祖母と映画館まで行き、チケットを買って席に座ったが、冒頭3分で直視に堪えなくなって帰ったことをはっきり覚えている。祖母には申し訳ないことをした。それ以来ヘドラはトラウマで、54年間逃げてきた。

何がそんなに怖かったのかがやっと分かった。なんとなく覚えていたが、そのとおりだった。東京湾のヘドロに埋まりながら浮かぶマネキン、古時計、そしてヘドラの赤い目。子どもの頃から目が怖い。実家にあった海外童話シリーズの「ヘンゼルとグレーテル」の挿絵の目が怖くて、あの巻だけ開かなかった。

3分で逃げ出した映画だったので、ストーリーを知らなかった。意外なほど明るかった。若き社会運動家たちが「ゴーゴー喫茶」や富士山麓で「公害反対ゴーゴー」を歌って踊る。なかなかシュール。5歳児には社会派すぎた。その年のクリスマスに洗礼を受けた私だが、ヘドラの恐怖には勝てなかった。

「ゴジラ対ヘドラ」が私のトラウマになった理由は、冒頭の東京湾の描写のせいだけではない。祖母に申し訳ないことをしたという思いが残り続けた。私に手こずったからか、帰り道で祖母が転んで怪我をした。私のせいではないと言ってくれたが、罪悪感がいつまでも抜けなかった。そのヘドラとやっと向き合えた。

それにしても、今年の夏の恐怖すべき異常な暑さは何。もしみんなでゴーゴー喫茶や富士山麓で「公害反対ゴーゴー」を歌って踊れば異常気象が緩和されるなら、ありがたいことだ。そういうのを冷笑したくはない。でも、私は教会で讃美歌をうたうほうがいいと思っている。

2025年8月1日金曜日

試行錯誤 ①メーリングリスト

2011年1月29日、千葉県松戸市で撮影


【試行錯誤 ①メーリングリスト】

「インターネットの歴史」を客観的に描くような話は、その筋の専門家が大勢いるように見えるので任せる他はないが、私個人がどうしてきたかは覚えているし、私の人生がなぜこんなふうになったかという話と密接な関係があったりする。断片的に書いて来た気がするが、通史で書くのは初めてかもしれない。

1990年から1996年まで高知県内の教会にいた頃、早い人はすでに「礼拝説教ウェブサイト」の取り組みを始めていたが、私はネットにつながるパソコンを持っておらず、「NEC文豪ミニ」などのワープロで仕事をしていた。1996年から10か月だけ働かせていただいた福岡県内の教会で「パソコン通信」を始めた。

「パソコン通信」だかなんだかよく分からないなりに、そういうのが必要だと痛感したのは高知にいた頃だった。当時の教団は激しい論争の最中だったが(今そうでないというわけでもない)、何が起こっているのかが高知にいるかぎり分からない。情報格差が激しすぎた。私が求めていたのは「情報」だった。

福岡で1996年の夏に「パソコン通信」をやっと手に入れたが、私の知りたい領域に入ってみたら、すでに荒れていた。牧歌的な要素は無いと思えた。「なんだこれは」の世界だった。しかし、文字のやりとりだけだったので、これからいろいろ発展するかもしれないので、それに期待しようという気持ちだった。

1997年から1998年まで神戸の神学校にいた頃、イミンク先生が講演に来てくださった。講演レジュメにメールアドレスが書かれていた。私のパソコンはネットにつながっていなかったはずなので、誰かのを借りたかもしれないが、オランダに戻られたイミンク先生にメールしたらすぐお返事をくださって驚いた。

1998年7月から山梨の改革派教会で働き始めた。そこでも情報格差を痛感した。着任早々、同年発売「ウィンドウズ98」搭載の巨体デスクトップを買い、ピーヒャラ言うダイアルアップでネットにつなぎ、1999年2月には牧師4名を発起人として「ファン・ルーラー研究会」というメーリングリストを立ち上げた。

しかし、そこからがきつかった。私は単純かつ純粋に「情報格差」を少しでも解消し、教会の言説に対して責任的な応答ができるようでありたかっただけだが、誤解する人々が現れた。私に名誉欲があると見えたらしい。そんなわけないがな。それと、情報がネットに「奪われる」と感じた人もいたようだった。

私はオランダ語辞典を1997年に神戸で買い、首っ引きでパッチワークのような翻訳を始めた翌年の1998年に山梨に移ったので、教えを乞いたいだけだった。しかし、国内の研究者はネットでは情報は一切くださらなかった。情報防衛をお始めになった。それで私はやむをえずネット上で試行錯誤の公開を始めた。

具体的に言えば「私は何も知りませんので教えてください」というスタンスでメーリングリストに投稿しはじめた。パッチワーク式にオランダ語1単語に対して日本語1単語を貼り合わせる「翻訳」で、日本語になっていないままの文章をメーリングリストに流して「これってどういう意味でしょうかね」と問う。

そういう私のやり方に不快感を抱いた方々が実際におられ、直接的にも間接的にも反発された。「人前で試行錯誤なんて恥ずかしいことをするものではない。我々が欲しい情報は完成された訳文なり論文なりだけであって、あなたの試行錯誤とかどうでもいい」と思われたようだった。その気持ちは理解できる。

それともうひとつ、メーリングリストの「管理」もほとんどメールでの連絡という方法を採ったので、メンバーが増えるにつれて(最終的に登録者が100名を超えた)、「翻訳と研究」にかかる労力よりも「管理」の労力のほうが重くなり、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが分からなくなっていった。

「ファン・ルーラー研究会」のメーリングリストは1999年から2014年まで15年続いたことになっているが、良かったのは最初の5年ぐらいで、あとはほぼ休眠状態。私の管理能力が無かったことをお詫びするしかない。個人的な試行錯誤はせいぜい2、3人の前でするものであって100人強の前でするものではない。

私のネット利用の経緯をもっとコンパクトに書けると思ったが、いろいろ思い出して長くなったので、ここでいったん終わる。

2025年7月31日木曜日

孤独

2012年8月15日、千葉県松戸市で撮影。記事とは関係ありません。


【孤独】

孤独を言うなら、子どもの頃から孤独だった。自分の宗教を言えなかったことがすべて。誰とも話が合わないと思って、意図的に話題をずらした。同級生には恵まれたし、一緒に悪さしたし(すみません)、いじめられた覚えはない。いじめたつもりが効いていなかっただけかどうかは不明。タフだった可能性はある。

しかし、それはそれでおかしいと思っていた。教会で聖書の話を聞いて讃美歌をうたってお祈りするだけのことを白眼視されている気がする。被害妄想だと言われればそれまでだが、宗教全般やキリスト教への露骨な冷笑と、何か言えばかかってこられそうな空気はあったと思う。1970年代から80年代にかけて。

教会には友達はいなかった。実家から距離が遠い教会に通っていたし、お楽しみの要素を避けるタイプの教会でヨコのつながりが無かった。役員だった父親の教会奉仕で連れて行かれたときの暇つぶしは、教会の押し入れにあった、たぶん牧師のご子女が読んだ後の「週刊マーガレット」を読むことだった。

私が教会の押し入れの「週刊マーガレット」を読んだのは、小学生だった1972年から1978年まで。物語には興味を持てず絵を見ていただけだが、絵の質感を今でも思い出せるのは「エースをねらえ!」「エリート狂騒曲」「つる姫じゃ~っ!」「ベルサイユのばら」。とても真似できないが、影響を受けた。

中学も高校も県内ではそこ以上がないことになっていた進学校にいたはずだが、受験勉強をした記憶がない。そんなのどうでもよかった。ずっと感じ続けた孤独感と関係あったと思う。聖書とキリスト教と教会は心の支えになっていなかった。どちらかというと、それらを自分が支えなくてはならない気がした。

2025年7月30日水曜日

空白

構造上は「居間」だが、くつろぎの空間とは程遠い

 【空白】

自分以外の誰のせいでもないが、教団を出たり戻ったりしたのが関係して、妻子以外に「半生」と言えるほど長い年数に及ぶ共通記憶を共有していると思える方が、私には存在しない。両親は亡くなった。恩師の多くも亡くなられた。単身赴任が長くなって来ていて、妻子との共有記憶にも空白部分が増えてきた。

SNSつながりの中には、最古で私の小学生時代を覚えてくださっている方もおられるし、中高大の同級生もいるが、10年から30年ほどまで空白部分がある。風のうわさはあれど事実かどうかは分からない。「言わなくても分かる」記憶を共有している密な関係が続いている方々が羨ましいと少しぐらいは感じる。

今書いた「自分以外の人々との共有記憶の空白期間」の多さのゆえに「孤独」を感じている今の私だが、悪いことだけではない。青少年時代からの親しい関係が30年、40年と続くうちに教団のヒエラルキーまで決定してしまう可能性が無いとは言えない。そういう組織票的な関係性の中に組み込まれずに済んでいる。

年齢の近い牧師たちは私に付き合いにくさを感じていそうに思える。教団から19年抜けていた間も牧師は続けていたので経験値は同じだが、ヒエラルキー的には私はリセット扱いだろうから。私は小学生にも敬語で話すタイプだが、少しでも下に見えると「お前」とか言いたいタイプの人には面倒くさいだろう。

2025年7月29日火曜日

転々としてきた牧師

カワサキニンジャ1000(2012年式)。記事とは関係ありません。


【「転々としてきた牧師」てんてんてん】

東京神学大学の卒業生の初任地を学長が決める伝統が今も続いているかどうかは知らないが、私の頃はそうだった。私の初任地は自分で選んでいない。夏期伝道実習先ですらなかった。完全な初対面。赴任時24歳。35歳年上の主任牧師の下で働き始めた。24+35=59。そうか、主任牧師は今の私の年齢だったか。

東神大在学中の奉仕教会は、出身教会の牧師から命じられた旧ホーリネス教会に2年半、東神大から斡旋された旧メソジスト教会に3年半。私の初任地を決めた学長は左近淑先生。私の卒業年の1990年の秋に59歳で突然亡くなられた。私は後ろ盾を失う形で「改革派・長老派」を打ち出す初任地での働きを開始した。

私が初任地に赴任したのが1990年4月。その教会の主任牧師のお連れ合いが岡田稔先生のご長女だったことから、私と改革派教会のつながりが生まれた。岡田稔先生(1902-1992)は、神戸改革派神学校初代校長で、戦後最も早く日本基督教団から離脱して日本キリスト改革派教会を創立した人々の神学的牽引役。

しかし今書いていることに改革派教会は関係ない。私の初任地の主任牧師は「弟子訓練」の影響を受けて「7つの燭台計画」という論文を書き、これから6つの教会を開拓し、相互関係を維持するために改革派教会のウェストミンスター信仰規準(信仰告白、大・小教理問答)を用いるという幻を抱いておられた。

こだわるべき主義主張は私に無かったし、初めて赴任した教会で59歳の主任牧師の下で24歳の伝道師にできるのは「助けること」と「仕えること」だけだと思ったので、教会内外から多くの批判を受けていた(その事情も赴任後に認識した)「7つの燭台計画」を面白がって、どうしたら実現できるかを考えた。

私なりの結論は「無理」だった。日本基督教団の内部でウェストミンスター信仰規準と長老主義の理念を具体的な形にするのは無理。しかし、私はまだ20代の駆け出しの牧師。初任地の教会や主任牧師が私の人生の責任を取ってくれるとは思えなかった。それで、改革派教会に個人的にお世話になることにした。

これが、1997年に私が日本基督教団から日本キリスト改革派教会に移籍した理由の1つ。私が考えたわけでない「7つの燭台計画」なる幻の実現の道すじを考える中で、長老主義の意味での「中会ないし連合長老会(プレスビテリ)」の意義を知ったこと。その実現の場は日本基督教団の中には無いと悟ったこと。

その私を使えると神さまが思ってくださったようだった。1998年7月に日本キリスト改革派教会で最初に赴任した教会が「東部中会」所属。その4年後の2006年に東部中会から「東関東中会」が分離・新設。その分離作業を管理する委員会の書記に私が任命された。2004年には私が「新しい中会」側の教会に転任。

私が神学研究に没頭しはじめたのも「新中会設立」の流れに巻き込まれたことと関係ある。「改革派教会の《中会》は(日本基督教団の《教区》などと違って)神学的一致が必要だが、神学力が不足しているあなたがたに新中会設立は無理」と罵倒する人々がいて、黙ってもらうために神学せざるをえなかった。

こういうことを時々書きたくなるのは、悔しい思いを持っているからである。私の経歴が「転々としている」という印象になることは分かっている。「新しい教会」を生み出すことと「新しいプレスビテリ」を生み出すことのために努力した、つもりだった。私の名前や働きを思い出してもらいたいのではない。

2025年7月26日土曜日

原付は高速に乗れない

ニンジャ400Rとジョグ50のコラボ(2023年9月12日撮影)

【原付は高速に乗れない】

2018年3月から単身赴任。四輪を廃車。転居先で譲り受けた自転車に3年半。2021年10月原付ヤマハジョグ50を譲り受けて2年乗る。2023年8月普通二輪免許取得、ニンジャ400R購入。同年10月大型二輪免許取得、ニンジャ1000購入、今秋2周年。「自転車→原付→中型→大型」とステップを踏んでいる(言い方)。

趣味でステップアップしたつもりはない。副業との関係とコロナの影響。副業先が片道5キロのアマゾン倉庫だったときは自転車。次の副業先が片道10キロになりしばらく電車、コロナ始まり密を避けたく原付。副業先が片道60キロになっても電車と原付。原付の往復120キロはきつく、二輪免許が欲しくなった。

当たり前だが、原付は高速に乗れない。片道60キロは、東京の多摩地区から茅ヶ崎への通勤だったので、圏央道を使えば苦も無く行ける。スマホのナビもしきりと高速に誘導しようとする(やめてくれ)。原付は30キロ制限で、二段階右折で、車体が軽くて大型トラックの風圧でちょっと浮く(勘弁してくれ)。

逆に言えば、片道60キロ原付通勤を経験しなかったら、二輪免許を取ろうとは思わなかった。こういう経緯を知らない人から「いい歳してニンジャ1000か」的な目を向けられる。言い分は理解できる。「分かってくれとは言わないが、そんなにおれが悪いのか」(チェッカーズ)と心の中で歌っている。以上。

2025年7月24日木曜日

がらんどう

各個教会は「教室」の規模がいいと思う

 

【がらんどう】

未明3時ごろ、寝付けなくて、ふだん観ないテレビに画面を切り替えたら、NHK「ヨーロッパ トラムの旅」でポーランド・クラクフ。名所の多くが教会堂で、興味をひかれたが、あの古くて大きな会堂を維持するための費用はどれぐらいかとか、ミサ出席者はどれぐらいかとか考えてしまい、余計に目がさえた。

キリスト教と教会の「見せ方・見え方」を気にしないネット発信者はいないと思う。私なりに気を遣っているつもりだが、格調の問題は難しい。日本の「歴史的な」教会でもプロテスタントで200年はまだない。古ければ古いほど格調が高いと言えるかどうかも謎。「教会は見世物ではない」と言いたくもなる。

テレビを観なくなって久しいが、ネットの番組も最近までほとんど観なかった。やっと後者をいくつか観るようになったが、課金のハードルが大きく、情報のつまみ食いをしがち。いったん課金すると何年分も観られるが、消費スピードが速いし、発信者の思考パターンにそのうち飽きて、観るものが無くなる。

私の毎週の「板書説教」をユーチューブで配信すればいいのではとすすめてくださった方がおられる。うれしい気持ちでお聴きしたが、ありえない。人によるだろうが、私に限っては、教会の説教も、学校の授業も、ビデオカメラが回っていないからできる。「見世物ではない」と同じ言葉を繰り返したくなる。

だいぶ前から言ったり書いたりしてきたことだが、無名で影響力がない人間なので何度言っても構わないだろう。日本だけかどうかは分からない。長年の悲願と、多くの信仰の先達の尊い捧げものの蓄積であろうことは考慮するとしても、大きな礼拝堂を建てるだけ建てて、文字通りのがらんどうになっている。

「ここから先はある人々以外は入ってはいけない」領域とか「専門家以外決して触れてはならない」器物が設けられたりしている(そうでない教会も多い)ためデリケートで、かつ巨大な建物を維持するために、人を増やして献金を集めなくてはならないという、火を見るより明らかな本末転倒が起こっている。

「3密を避ける」原則は、いったん導入されるとなかなか元に戻らない。献堂時に「詰めれば何人座れる礼拝堂」だったとしても、今はその半分以下で「満堂」という感覚ではないか。問題は、現状の感覚の「満堂」に達している教会が今どれほどか。「ハードルが高すぎる」と苦しんでいる教会が多くないか。

足立梅田教会で、3密を避けつつ「満堂」を目指せば、最近の中高の1クラスの生徒数ぐらい。互いを尊重しながらのコミュニケーションがスムーズ。当教会創立者が長年青山学院高等部の聖書科教諭をなさったことと関係ある気がする。創立者も「板書説教」をなさっていた。しばらくぶりに私の代で再開した。

私が過去に、トータルで6年間、複数のキリスト教主義学校で聖書の授業をしながら考えたのは、各個教会の礼拝堂はキリスト教主義学校の「教室」に近いのか、それとも「チャペル」に近いのか、ということ。「どちらでもあるが、どちらでもない」というのが最適解だろうが、けむに巻く論法は好まない。

私は、各個教会は「教室」の規模がいいと思う。大会議なり冠婚葬祭なり音楽コンサートなりは、各専門業者所有の建物がいくらでもあるだろう。「(巨大な)礼拝堂を用いてそれら(冠婚葬祭やコンサート)をすること自体が伝道である」という論法を過去20年ぐらい聞かされてきたが、それは事実だろうか。

2025年7月23日水曜日

1965年生まれのサブカル遍歴


【1965年生まれのサブカル遍歴】

4つ上の兄との2人兄弟で、マンガやアニメや音楽などは、ある意味当然、兄の影響を強く受けた。ウルトラセブン1話の音声が入ったソノラマシートを聞かせてもらった。「ウィンダム戻れ!」とカプセル怪獣を呼び戻すモロボシダンのセリフが好きで何度も聞いた。松本零士の『男おいどん』も兄のを読んだ。

とはいえ、兄との4歳の差は、体力が違いすぎて一緒に遊べた時期は少なかったし、関心の差も大きくなった。宇宙戦艦ヤマトが再放送でヒットした1975年に私は小4、兄は中2。同年のグレンダイザーがマジンガーZ、グレートマジンガーよりカッコよく思えることを当時兄に話したらあまり興味なさそうだった。

私がリアタイで観て好きになった最初のアニメは、1968年(私3歳)の巨人の星、サイボーグ009、サスケだと思う。同年のゲゲゲの鬼太郎や妖怪人間ベムは、観るには観たが、好きになれなかった。翌1969年(私4歳)のハクション大魔王は好きだったが、ルパン3世、タイガーマスクは4歳児には不向きだった。

1970年(私5歳)のみなしごハッチは観るたびに私が泣いたと母が覚えていた。同年いなかっぺ大将、翌1971年天才バカボンが幼稚園。小1(1972年)でガッチャマン、マジンガーZ、ド根性ガエル。小2(1973年)のアニメはピンと来ず、ウルトラマンタロウに行った。小3(1974年)はゲッターロボとロボコン。

そこからの1975年のヤマト再放送とグレンダイザー。その頃から私の左目の視力が右目と比べて極端に落ちたことに両親が対応。家からテレビが撤去され、私が高校を卒業するまでテレビが無かった。ダイアポロン(1976年)、ザンボット(1977年)などは全部観ておらず、友人の家や祖母の家で断片的に観た。

小6(1978年)の999とハーロックも祖母宅で断片的に観た。映画は観た。アニメージュ創刊号(1978年)をリアタイで買った。1979年(中1)のガンダムも祖母宅で断片視聴。1980年以降アニメを観なくなった。視聴再開は20年の空白後、2000年のワンピースとデジモン。私の子どもが関心を持ち、一緒に観た。

20年の空白期間を経てアニメ視聴再開、と言っても、実際にはほとんど観ていない。子どもたちが観ているテレビの音声が私の書斎まで聴こえて来て、たまに気まぐれな興味をもつ程度。覚えているのは、ケロロ軍曹、コナン、けいおん!ぐらい。エヴァンゲリオンあたりは10年ほど前にネットで観ただけ。

2025年7月8日火曜日

この人を見よ

ニーチェとボンヘッファーの『この人を見よ』

【この人を見よ】

ボンヘッファーのドイツ語版の編者註に「LBでボンヘッファーが下線を引いた箇所は…」と出て来て「LB何?」になった。ボンヘッファーがリビングバイブル(The Living Bible)を愛読していた可能性があるかとよぎったが、すぐ打ち消した。ルター訳聖書をLBと略すのね。ドイツ神学知らなくてすみません。

加齢で目が弱る前に勉強しとけよと30年前の自分に言いたいが、当時はネットが無かったので今ほど調べられなかった。元気なうちは勉強より楽しいことに誘惑されて身も心も費やすだろう。くたびれた頃に追い詰められて、自分の体を打ち叩いて勉強することになる。これからの人の反面教師だけにはなれる。

蔵書を減らそうとしているほどでキルケゴールは買わないことにしてきたが、ボンヘッファーがキルケゴールのドイツ語版から引用していることが分かり、引用元テキストのネット公開版を読むも、原著のどの文献に基づくものかが分からない。情報が欲しくて日本語版の著作集が欲しくなっている。やめとけ。

国籍問わず昔の本にありがちだったと認識しているが、訳書なのに(なのに)原著についての情報が「訳者序文」に見当たらず、自分の言いたいことだけ言う訳者がいたと思う。キリスト教会に舌端火を吐くキルケゴールの言葉に自分の思いを託したいのは理解できなくないが、少し冷静になってねと言いたい。

何をしているのかといえば、ヨハネ19章5節の釈義。ラテン語訳ecce homoがタイトルのニーチェの自伝と、ボンヘッファー『倫理』(Ethik, 1949)の一節がある。後者抜粋版が新教新書『この人を見よ』。後者ドイツ語版編者註にキルケゴールもecce homoを用いているとあり、引用元の確認を完了したところ。

ボンヘッファー『倫理』の新訳が出ているのは知っているが、高くて手が出ない。旧訳とドイツ語版でなんとかする。「この人を見よ」と歌う旧讃美歌121番(21-280番)もecce homo。視野が広がるのはありがたいが、沼の中にいるようだ。朝からまだ何も食べていない。冷蔵庫もカラ。買い物に行かなくては。