2025年3月20日木曜日

クレーマー、ファン・ルーラー、ホーケンダイク

オランダ改革派教会(NHK)の宣教論


【クレーマー、ファン・ルーラー、ホーケンダイク】

いま私が頭を抱えているのは、クレーマーと、クレーマーの影響下で「宣教」(apostolaat)理念を戦後のオランダ改革派教会(NHK)の教会規程に位置づけることに大きな役割を果たしたファン・ルーラーと、ファン・ルーラーのもとで博士論文を書いたホーケンダイクの関係を解明することだったりする。

しかし比較作業が難航。とりあえず日本語版を読み比べるしかないが、クレーマー『宣教の神学』『信徒の神学』(共に小林信雄訳、1960年)もホーケンダイク『明日の社会と明日の教会』(戸村政博訳、1966年)も底本は英語。しかし3者の母語はオランダ語なので、オランダ語に戻して比較する必要がある。

それもそうだが、3者の「生きた」対話ないし対立をなるべく正確に読み取りたいと願うが、それは人と人の感情レベルの交流の要素なので第三者に立ち入れないところがある。何を言いたいかを説明するために一例挙げる。ホーケンダイクが宣教のプロパガンダ的側面を完全に拒絶する(同上書、25頁以下)。

ホーケンダイクはmissions(宣教)とpropaganda(宣伝)の峻別をマルティン・ケーラーの用法に従って理解する。前者は尊敬とへりくだりをもって種をまくことだが、後者にはそれらが欠け、自分を押し付け、自分をよりどころとし、自分の言葉を頼りにするという。おそらく多くの人が納得する説明だろう。

このホーケンダイクの英語版"The Church Inside Out"の出版年は、日本語版と同じ1966年。その6年前の1960年にファン・ルーラーが「プロパガンダと無私」と題するエッセイをユトレヒト新聞で発表。その内容は、驚くことに、宣教におけるプロパガンダ的要素の擁護。しかもだいぶきつい言葉で書いている。

ファン・ルーラーの言い分は「無私の奉仕を理由にプロパガンダから逃避できるのか。それはペテンと自己欺瞞だ。私はフェアに生きていると感じるところに自己欺瞞がある。彼らは悪意など持っていない。悪意がないからこそ人を欺くペテンなのだ」(ほぼママ)という。ホーケンダイクの真逆の線と言える。

いま挙げた2人の文書の発表年はファン・ルーラーが先、ホーケンダイクは後。しかし、両者の対立がこのとき始まったものかどうかは分からない。そして、忘れられるべきでないのは、両者が互いをよく知る関係にあったこと。もうひとつは、この議論に限っていえば、どちらも正しいと言えそうであること。

こういうことを考えているときの私はとても楽しい気持ち。しかし、そのプロセスをネットでだらだら垂れ流していいかどうかは不明。こんなだらだらは、論文にも本にもしようがない。でも、自己弁護として言わせてもらえば、これって大事なことだと思いませんかと、だれかに聞いてもらいたくて書いている。

たまに耳にしてがっかりするのは、宣教なり伝道なりに関して「理屈ではない」とか「勉強好きですね」と言い出されて、宣教論の議論を妨害されたり牽制されたりすること。「難しいことを考えているヒマがあるなら〇〇しなさい」とかね。悩み無用(なやみむよう)とは行かないと思いますけどね。

2025年3月19日水曜日

オランダ改革派教会 1951年版「教会規程」の研究書

H. オーステンブリンク=エヴァース氏の博士論文(2000年)

【オランダ改革派教会 1951年版「教会規程」の研究書】

かなり前にお見せしたことがあるが、オーステンブリンク=エヴァース氏の博士論文『オランダ改革派教会(NHK)1951年版「教会規程」の土台と背景』(2000年)を避けて通れなくなっている。出版後まもなく買ったが、当時の私は日本キリスト改革派教会の教師。NHKとの教団レベルの付き合いがなかった。

当時のNHKは、早い話、日本キリスト改革派教会からすればリベラルすぎて近づけない感じ。2004年にはNHKと、訳せば同じ「オランダ改革派教会」になるGereformeerde Kerken in Nederlands(GKN)と、オランダ王国福音ルーテル教会(ELK)の計3教団が合同して「オランダプロテスタント教会」(PKN)創立。

しかし、今の私は日本基督教団にいる。オランダ改革派教会(NHK)の「改革派」(Hervormd)は「カトリックでもルター派でもない」ぐらいの意味しかなく、非常に広い概念。20世紀のNHKの中に「レモンストラント派」(アルミニウス主義のグループ)がいたりした。NHKの「幅」は日本基督教団に似ている。

今は存在しないので「旧」と付けるべきNHKの1951年版「教会規程」(Kerkorde)の成立過程をオーステンブリンク=エヴァース氏が徹底研究。ナポレオン時代以来手付かずだった古い教会規程を大改訂する委員会に若きファン・ルーラーが属し、「宣教」(apostolaat)の理念を教会規程に明確に位置付けた。

そして、私にはまだ不明な点が多々あるが、その旧NHKの1951年版「教会規程」において、同教団の構造がトップダウン方式から代議員方式へと変更されたり、「戒規」の位置づけが明確になったりしたことが、ファン・ルーラーだけの貢献ではありえないが、彼の果たした役割としばしば結び付けて語られる。

今の日本基督教団の教憲教規のままで十分なのか、問題があるのかは、教団から途中19年も離れていた浦島太郎の私にはよく分かっていない。根本的に見直す必要が生じたときは、オーステンブリンク=エヴァース氏の博士論文は必読書になると思う。オランダ語と法学に強い方にぜひ全訳していただきたい。

私にもできそうなことは資料集め。本を買うことと、本棚に並べることと、背表紙の写メを撮ってSNSで公開することぐらいはできる。それ以上のことは私の役割ではありえない。笑点は落語家さんだけで成立しない。山田くんがいないと。たまに、からかわれて腹を立てて座布団を全部持って行ったりはする。

2025年3月18日火曜日

クレーマー『信徒の神学』ドイツ語版が届く

ヘンドリク・クレーマー『信徒の神学』ドイツ語版(1959年)

【クレーマー『信徒の神学』ドイツ語版が届く】

2025年3月17日(月)クレーマー『信徒の神学』ドイツ語版(1959年)が届く。オリジナルは英語版。日本語版あり。クレーマーのapostolaat(宣教)概念の使い方を確認するため。確認できるかどうかは現物が届かないと分からない。それだけのために高い買い物。『宣教の神学』ドイツ語版もまもなく届く。

アポストラート(apostolaat)を「宣教」という意味で用いた最初の人はクレーマーではない。もっと前に造語されていた。イエスの弟子がアポストロス(ἀπόστολος)で「使徒」。ニケア・コンスタンチノープル信条(381年)に「聖なる、普遍の、使徒的(Ἀποστολικὴν)、唯一の教会」(カトリック訳)。

ナチスドイツからの解放の翌年の1946年2月18日オランダ改革派教会(NHK)に「教会規程委員会」設置。同年3月「教会規程解説書作成小委員会」設置。後者は8名。この中にミスコッテ、ファン・ルーラー、ヘンドリクス・ベルコフ(年齢順)がいた。彼らの神学的激闘を経て1951年版『教会規程』が生まれた。

オランダ改革派教会(NHK)の戦後再建の中心に教団書記フラーヴェメイヤー(Gravemeijer [1883-1970])、神学者バニング(Banning [1888-1971])、信徒宣教師クレーマー(Kraemer [1888-1965])がいた。3人は戦時中、抵抗運動に参加し投獄。牢内で意気投合。バニングは1946年労働党(PvdA)初代議長。

クレーマーは世界教会協議会(WCC)創立の1948年の前年1947年、WCCのシンクタンク「エキュメニカル研究所」初代所長に就任。WCC創立大会はアムステルダム(コンサートホールConcertgebouw)で開催。WCC初代総幹事ヴィサー・トーフト(Willem Visser 't Hooft)はオランダ改革派教会(NHK)の神学者。

1948年WCC創立総会に小崎道雄氏が出席。

小崎道雄氏:

1922-1924 日本基督教団霊南坂教会伝道師

1924-1931 同 副牧師

1931-1961 同 主任牧師

1946-1954 日本基督教団総会議長

1948-1961 世界教会協議会(WCC)中央委員

1948-1959 日本基督教協議会(NCC)初代議長

1960年(9-11月)、ヘンドリク・クレーマー来日講演。「それは...教団ならびに数教区一団となって、各所において、合計十数回も行われたが、その中心になったのは、10月11~14日、天城山荘で行われた協議会であり...各教区から80名をこえる人々が参集した」(『日本基督教団史』1967年、274頁)。

クレーマー来日(1960年)の前年の1959年11月1日から1週間、「日本宣教百周年記念大会」が、日本基督教団富士見町教会(記念礼拝、記念式典、記念講演会)や日比谷野外音楽堂(教会学校生徒大会、5千人)で開催。11月2日の記念講演の講演者は、WCCのヴィサー・トーフト(オランダ改革派教会(NHK))。

このように集まってくる情報に照らすかぎり、ファン・ルーラーが1953年5月にドイツで行ったドイツ語講演の題”Theologie des Apostolates"を日本語に訳す場合は、ヘンドリク・クレーマーのapostolaat概念に当てられてきた訳語「宣教」を当てるべきであることが明白である。別の話にされては困るのだ。

訳語自体はある意味どうにでもなる。「宣教」ではなく「伝道」であると言い張られたら阻止できない。この議論で大事な点は、クレーマーのapostolaat概念は教会自身が政治や社会の問題に取り組むことを必ず含んでいること。もし「伝道」という訳語でその事態を適切に表現できるなら、それでも問題ない。

2025年3月16日日曜日

悪と戦うキリスト

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「悪と戦うキリスト」

マタイによる福音書12章22~37節

関口 康

「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(32節)

先週の説教の中で「バイクのシミュレーター教習」について話したとき、「シュミレーターではありません」と口頭で付け加えました。Simulatorは「シュミ」(趣味?)ではなく「シミュ」です。m(エム)は1つです。「同時に」という意味のsimultaneous(サイマルテイニアス)な仕方で、ある事象を他の時間や場所で再現するための手段が「シミュレーター」です。

もうひとつ気を付けたい言葉は「コミュニケーション」です。「コミニュケーション」と言っている人が時々います。m(エム)は2つです。語源はラテン語communicatio(コムニカティオ)です。近い表現に、共同体をあらわすcommune(コムーネ)や、交わりをあらわすcommunio(コムニオ)があります。使徒信条の「聖徒の交わり」は、communio sanctorum(コムニオ・サンクトールム)です。共産主義はCommunism(コミュニズム)の訳です。

今日の箇所に関係があるので申し上げています。今日は「コミュニケーション」の話です。この箇所に記されているのは、「悪魔に取りつかれている人」(ギリシア語「ダイモニゾメス」)が、目が見えず口が利けない状態で主イエスのもとに連れて来られ、病が癒されたとき、デマを流した人々がいたという話です。

誤解を避けるために最初に申し上げたいのは、西暦1世紀のユダヤ人は、すべての病気や苦しみの原因は「悪霊の憑依(ひょうい)」であって「偶然」ではないと考えていたということです。あえて「悪霊に取りつかれている人」(ダイモニゾメス)と記されているときは、「重い病気を抱えている人」という意味で理解すべきであって、特殊な病気を指すわけではありません。

「デマ」はドイツ語Demagogie(デマゴギー)の略です。故意の虚偽情報のことです。そのとき流されたデマの内容は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)というものでした。

デマの発信源は「ファリサイ派の人々」でした。彼らはユダヤ教の主流派であり多数派で、権力を保持し、社会的影響力が大きかったのですが、そういう立場を悪用して、イエスを死刑にするための策略として意図的にデマを流しました。なぜなら、当時のユダヤ教では、魔術を使うことと、悪魔の手下になることは、死刑に値すると考えられていたからです。

ファリサイ派の作戦は、「イエスは悪魔の手下だから悪霊を追い出せる」というデマを流すことでした。それは、群衆の間でイエスの名声を失わせ、死刑でイエスを殺害するという作戦です。

まさに「コミュニケーション」の問題です。コミュニケーションにとっての最大かつ最悪の障害は「デマ」です。「コミュニケーション」にぴったり当てはまる日本語が存在しません。「意思疎通」や「情報交換」などと訳されますが、そういう言葉には収まりきらない、非常に広い意味です。人と人との信頼関係の土台となるものです。

だからこそ、信頼関係で結ばれている人間社会を破壊するために、自分の手を汚さずに行えて、最も効果的な方法はデマを流すことです。私が申し上げているのは「そういうことをしてはいけない」という意味です。デマが人を追い詰め、死に至らしめることがあるということを、私たちは強く自覚しなければなりません。

しかも、ここで私たちがあまり安心しないほうがよいのは、デマを流した張本人がファリサイ派の人々だったという点です。彼らは聖書の研究者であり、宗教の専門家です。そういう人たちが聖書を用いて、「神」の名においてデマを流すので、悪質さの度合いが尋常でないのです。

イエスさまは彼らの考えを見抜いて反論されました。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか」(25-26節)。

私が子どもの頃に「デビルマン」というテレビアニメがありました。子どもの頃に覚えた主題歌が耳に焼き付いて離れません。「悪魔の力を身につけた正義のヒーロー、デビルマン」。しかしそういうことは現実には起こらない、というのがイエスさまのお考えです。悪魔と悪魔が戦ってどちらが勝っても残るのは悪魔なのだから正義が実現することはありえない、という冷静な三段論法です。

「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」(27節)と続きます。最初に申し上げたとおり当時のすべての病気が「悪霊の憑依」によると考えられていたことと関係します。イエスさまがおっしゃっていることの意味はこうです。「あなたがた自身も悪霊を追い出して病気の人を治しておられるはずですが、どうなさっているのでしょうか。『悪魔の手下だから悪魔を追い出せる』という理屈がもし成り立つのであれば、あなたたちこそ悪魔の手下だということになりはしませんか」。とても冷静な論理です。

しかしイエスさまは、ファリサイ派のデマに対して腹に据えかねるものがおありになったと言わざるをえません。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(31-32節)とおっしゃいました。

この言葉の背景に「赦される罪と赦されない罪」についてのユダヤ教の教えがあります。西暦1世紀のユダヤ教のラビは「聖霊」を「預言と啓示の霊」であると理解していました。彼らにとっての「赦されない罪」も「聖霊に言い逆らうこと」でしたが、その意味は「トーラー(律法)に逆らうこと」でした。トーラー(律法)は「言葉に言い表された神の御心(意志)」としてとらえられていましたので、それに逆らう罪は赦されません。

しかし、今の説明はユダヤ教の教えですが、イエスさまのおっしゃっていることとは違います。イエスさまも「聖霊に対する冒瀆」を「赦されない罪」だと言っておられますが、問題はその意味です。この意味が私はこれまで分かりませんでした。しかし、やっと分かった気がします。

イエスさまが「赦されない罪」だと言っておられるのは、病気でずっと苦しんできて、それがやっと癒されて、そのことを心から喜んでいる人たちを傷つけるようなことを言い放つことです。実を見て木を知る。良い結果が出たのは良い原因があったことを意味する。悪い原因は悪い結果しか生まない。つまり、悪魔に病気を治せるわけがない。それなのに、長年苦しんできたこの私の病気がやっと癒されたことを「悪魔に病気を治してもらった」かのように言う。けちをつけて、喜んでいる人を傷つける。それが、イエスさまがおっしゃる「赦されない罪」です。

「喜ぶ者と共に喜ぶこと」(ローマ12章15節)が難しいと感じるのは「ねたみ」の仕業であるとファン・ルーラーが書いています(拙訳参照)。「喜びを人に分かつと喜びは2倍になる」とドイツの詩人ティートゲが教えました。それができないどころか、喜んでいる人を苦しみの中に引きずりおろすようなことをしてしまう。それは「ねたみ」の仕業です。

これこそがイエスさまの言われる「赦されない罪」です。イエスさまはこのことを、警告としておっしゃっています。非難ではありません。イエスさまはどこまでも寛容です。

(2025年3月16日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年3月15日土曜日

ファン・ルーラーの文章に魅了される日々を送っている

ファン・ルーラー研究文献

【ファン・ルーラーの文章に魅了される日々を送っている】

誤解を避けたいと思ってはいる。実は最近、会議や訪問で外出しているときや礼拝の説教や週報を準備しているとき以外の多くの時間をファン・ルーラーの訳読に注ぎ込んでいる。その意味でサボっていない。だってこれほどの正論はないと思うほどなので。ゆがんだ心がまっすぐになる。炎上するタイプかも。

そもそもファン・ルーラーは自分の所属するオランダ改革派教会(NHK)の人々に読んでもらうためにほとんどの文章を書いた。それをたとえば日本基督教団の我々が読んでも理解できるはずがない。互換デバイスが必要だ。それとファン・ルーラーはジョークが多い。真面目な人が読むとカチンと来るだろう。

扱いに困る言い回しもある。たとえば、今夜読んでいる箇所で、改革派教会の「長老」(de ouderling)の役割を「美容師が女性の髪を整えるように(zoals de kapper de haartooi van dames styleert)、神の栄光のために人間の生を整えること」と表現している。私はこういうのは気になって仕方がない。

そのまま紹介したいと思える感動的な文章もある。改革派教会に「長老」がいるおかげで、強制の面が強くなりがちなビショップ中心の教会より「心を込めて」(hartelijkheid)という性格を教会に与えるという。「長老」は真理を強制せず、話し合って説得しようとする。その分、話が長いという。確かに。

重要な問題提起の宝が次々見つかる。ファン・ルーラーの「教会外のもの」(de buitenkerkelijke)と「教会的でないもの」(het buitenkerkelijke)の区別を私は25年前から重要だと考えて来たが説明が難しい。「教会外のものは教会外にとどまり続けるべきだ」と彼は言うが、あっという間に誤解される。

25年前、ある青年キャンプで主題講演を依頼され、その中でこの話をしたら、怪訝な顔をされた。その場で意見は出なかったが、冷たさや差別のような意味で受け取られた可能性がある。ファン・ルーラーの意図は「神が創造された世界の中にはキリスト教化される必要がない領域がある」ということなのだが。

1969年12月6日付け新聞記事(ファン・ルーラーが62歳で亡くなる1970年12月15日のほぼ1年前)にも「牛の搾乳、畑仕事(lit.穀物の収穫)、商売、機械操作、美の体験、善行」は「教会外のものだ」と記している。「キリスト教化されたバイク」が存在するかどうかという問いに置き換えることができるかも。

長くなったので、そろそろやめる。「長老は話が長い」とファン・ルーラーが書いていることは教師(牧師)にも当てはまる。彼のオランダ語を日本語に訳すよりも、彼の神学を学んだ者たちが自分の言葉で書くなり語るなりするほうが、誤解が少なくて済むと思う。私がいま言おうとしているのはそれだけだ。

2025年3月14日金曜日

2年目のニンジャ牧師

サイドパニア(後部トランクケース)を外したニンジャ1000

【2年目のニンジャ牧師】

教会内にその意識は無いし、無くてよいし、過去にそのような言説をもって教会を方向付けようとした牧師がいた形跡も無いし、無くてよいが、これまでの「経緯」と実際に継承されてきている「空気感」だけからいえば、いわゆる改革派・長老派の流れの、本流に近いものを受け継いでいる教会だと私は思う。

最初は「美竹教会伝道所」。開設者は、東北学院教会(現 仙台広瀬河畔教会)で受洗、青山学院高等部で聖書科教員を長年務め、日本基督教団の「補教師」(按手礼を受けていない教師)に生涯とどまった方。当教会の初期の会員がたの洗礼式は、美竹教会の浅野順一教師の司式による。美竹教会は旧日本基督教会。

教会の特徴はとにかく簡素。礼拝に儀式を意識させる要素はなく、牧師らしさを誇示する服装を好む牧師がいた形跡もない。下町情緒を色濃く残す商店街を出てすぐの通りに面した教会で、奥まった位置にあるわけではないが、教会堂が街並みにあまりに溶け込み、どこに教会があるのか分からないと言われる。

私にとってありがたいのは、当教会が戦後の開拓教会であること。私の岡山の出身教会も、日本基督教団教師としての初任地の高知の教会も、改革派教会教師として働いた2教会(山梨、千葉)も、直前の日本基督教団昭島教会も、すべて戦後の開拓教会。教団内「旧〇〇派」の支配と格闘してきた経緯がある。

日本基督教団の戦後開拓教会の出発は教派枠を超える。私の前任地の昭島教会は阿佐ヶ谷(旧メソジスト)と淀橋(旧ホーリネス)各会員の祈り、横田基地教会宣教師と日本人青年との出会い、旧東京教区(特に銀座の大村勇牧師、富士見町の島村鶴亀牧師)の協力と、旧救世軍の若き伝道者の献身で始まった。

そのような「混合した」教会に疲れを覚えたことが、私がいちど日本基督教団から日本キリスト改革派教会に移籍した理由に含まれていたことを否定しないでおくが、それを言うなら戦後の改革派教会の「混合」の度合いも教団と大差なかった。「混合」の現実からの逃避は全く不可能であると自覚させられた。

いま書いていることで誰かにあてこすったり、どこかを批判したりする意図は無い。私にとって最もネイティヴな「戦後開拓の混合主義教会」の流れをある意味でくみつつ、礼拝中もそうでないときも普段着でいられて、肩がこらない教会の牧師として2年目を迎えることができて良かったと言いたがっている。

2025年3月13日木曜日

『ファン・ルーラー著作集』の訳者の条件(仮説)

2023年3月13日付けのFacebook投稿

【『ファン・ルーラー著作集』の訳者の条件(仮説)】

これが2年前(2023年3月13日)。この時点で7巻を残すのみだった。しかし、先日届いた最新の巻は「7A」。まだ続きがある。何度も書くが『ファン・ルーラー著作集』の刊行開始は2007年。当初は2012年ごろ完成予定と予告されていた。しかし、今年2025年になっても完成しないし、どんどん量が増えている。

私は「乗り掛かった船なので」と付き合ってきたが、乗る船を間違えたようだと後悔の念を深めている。いずれにせよ私ごときは全く手に負えない。かろうじて大型バイクの免許を取ってニンジャ1000に乗ることはできるようになったが、ファン・ルーラーはジェット旅客機だった。これは大変なことになった。

日本語版の必要性を訴えた責任は私にある。しかし、現時点で7巻、11冊。もっと増える。仮にひとり1冊担当するとしても15名前後の訳者が必要。オランダ語を理解でき、神学と哲学の基礎知識があり、教会に通っている人。教会を知らない人にはファン・ルーラーは分からない。とてつもなくハードルが高い。

2025年3月11日火曜日

「遊び」と「宣教」の関係

『ファン・ルーラー著作集』7A巻(2024年)

【「遊び」と「宣教」の関係】

いま思いついたばかりなので確証はない。ファン・ルーラーが「遊び」(spel)を強調し、彼自身も遊び楽しむ神学者だったが、そのことと彼がオランダ改革派教会(NHK)教会規程の改訂作業に中心的に取り組み、「宣教」(apostolaat)を教会規程に明確に位置付けたことの関係がこれまで分からなかった。

でも、少し分かった気がする。「宣教」(apostolaat)と「遊び」(spel)の関係は、礼拝に楽しい要素を加味するとか、教会学校でゲームをするとか、教会や支分区・教区や任意団体の単位でキャンプを行うというようなこととは違う。それは遊びというより仕事。少なくとも教会の中の人々は遊べていない。

「それは牧師の働き方改革のようなことか。休日が欲しいのか」と言われるかもしれないが、それもピントがずれている。私の感覚で言わせていただけば、全く違う。それでは何なのかは、まだ分からない。とりあえず「遊び」を「仕事」よりも価値が低いもののように考えるのをやめることから始まると思う。

ファン・ルーラーは牧師をしたのち大学教授になり、有名なラジオ牧師になったので生活に困ることはなかったはずだが、海外旅行はしなかった。自転車で教え子の教会を訪問するのが「旅行」だったと伝えられている。学生時代は自分がサッカー選手だったが、後年は病気がちでプレイではなく観戦を愛した。

ファン・ルーラーが「ビリヤード」を愛していたことは現在刊行中の『ファン・ルーラー著作集』全7巻(未完)発売開始後に知られるようになった。自宅に台を持っていたかどうかは私は知らない。よく友人と集まって楽しんだらしい。そのとき「おいしいのをごくりと飲んだ」とも伝記文書に記されている。

「自転車旅行」も「サッカー観戦」も「ビリヤード」もそれを教会行事にするという話ではないし、それ自体にキリスト教に固有な意味はおそらくない。キリスト教グッズ業者の利益にもならない。しかし、ファン・ルーラーなら「これも宣教(apostolaat)だ」と言うのではないかと私は思う。確証はない。

私に思い浮かぶ言葉は「意外性」。失礼な話なのだが、「牧師さんなのに歌が上手なのですね」と言われたことがある牧師がいるだろう。「毎週礼拝で讃美歌を歌っていますから」と答えても信じてもらえない。歌以外でもいろいろ「意外だ」と思われている。それが、我々なりの「遊び」の成果なのだと思う。

2025年3月9日日曜日

荒れ野の誘惑

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教 「荒れ野の誘惑」

マタイによる福音書4章1~11節

関口 康

「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある』」(10節)

今日の箇所に記されているのは主イエスが悪魔に誘惑される物語です。教会生活が長い方々は繰り返し学んで来られました。しかし、何度読んでも釈然としないとお感じの方が多いのではないでしょうか。「悪魔」とは何なのか。記されていることは事実なのかなど、多くの疑問がわき起こる箇所です。

先週ご紹介しました、私が頼りにしているオランダ語の聖書註解シリーズのマタイ福音書の巻(著者J. T. Nielsen)を今回も読みました。大変興味深いことが書かれていましたので、ご紹介いたします。

こう記されていました。「イエスは霊に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)の「導かれて」(ἀνήχθη アネクテ)が受動態で記されているのは「神が聖霊によってイエスを荒れ野に導いた」という意味だろう。しかし、それはヨルダン川の下流の地域から上流の砂漠地帯への移動だけを必ずしも意味せず、「幻の出来事」(een visionair gebeuren)としてとらえることも可能である、というのです。

いかがでしょうか。この物語の中で主イエスは「荒れ野」だけでなく「エルサレム神殿」にも「非常に高い山」にも連れて行かれますが、すべて物理的に移動したと考えなければならないことはなく、「聖霊の導きによって幻の中で移動した」と考えることができるなら、この箇所の読み方が大きく変わってくるはずです。

ここで私がつい思い浮かべるのは、バイクのたとえです。バイクの免許を取る人が必ず受講するのは「シミュレーター教習」です。バイクは四輪車よりも明らかに事故に遭う確率が高いです。しかし、だからといって、実際に事故に遭ってケガをしてみるという体験学習はありえません。それで生み出されたのが、コンピュータが描き出す「ヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)」の中で「事故に遭ってみる」という学習方法です。

私もその教習を受けました。結構こわかったです。細い道でバスが停留所に止まっている。そのバスを追い越そうとすると、突然子どもが飛び出してくる。急ブレーキをかけると車体が転倒する。シミュレーターが実際にガタガタ揺れます。また、指導員が「スピードを80キロまで上げてください」と言うので、指示通りにする。すると、急カーブで曲がり切れなくてガードレールに激突して谷底に落ちる。そういうトレーニングでした。

いま私が申し上げているのは、今日の物語は間違いなく「ヴァーチャル・リアリティ」の出来事であるということではありません。その可能性があると解釈されていることをご紹介しているにすぎません。しかし、「ヴァーチャル・リアリティ」は虚偽や詐欺だと考えるのは間違いです。実際にケガをしたりモノを壊したりしてみるわけに行かない中での、有効な訓練手段です。

今日の説教題「荒れ野の誘惑」の「誘惑」は新共同訳(1987年)の表現です。聖書協会共同訳(2018年)(※「聖書協会共同訳」は長いので以下「SKK訳」と略します)では「試み」と訳されています。「試み」とはテストです。それは、イエスは本当に「救い主」にふさわしいのかどうかを見極めるテストです。

主イエスは「四十日間、昼も夜も断食した後」(SKK訳「四十日四十夜、断食した後」)空腹を覚えられました(2節)。すると「誘惑する者」(SKK訳「試みる者」)が来ました。テスト開始です。  

「悪魔」はディアボロス(διάβολος)。「ディア(δια) 」(through、~を通して) +‎ 「バロー(βάλλω)」(throw、投げる)で「投げつける」(door elkaar werpen)というのが悪魔の原意です。悪魔はピッチャーです。イエスさまはバッター。いざ、勝負!

問題は3問。場面が「荒れ野」「エルサレム神殿」「非常に高い山」と切り替わります。この3つの場所の関係性が、私は今までよく分かりませんでした。しかし、やっと分かった気がします。

「荒れ野」は砂漠です。グラフで表すとしたら零(0)。神が働いてくださらなければ何も生まれない、何も起こらないという意味で「虚無」(Nothing)。「エルサレム神殿」は、宗教の最高峰。宗教の百(100)。「非常に高い山」は、その場所自体よりも大切なのは、そこから見えるものです。「世のすべての国々とその繁栄ぶり」を見渡せる場所。政治の百(100)。

主イエスは空腹。お腹の中は零(0)。「欲望」が百(100)の状態。その状態で、上記の3か所(荒れ野、神殿、山の上)に行くと人は何を欲するか。「救い主」なら何を欲するか。試されているのは、そのことです。

第1問「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」で問われていることは何でしょうか。いろんな読み方がありうると思います。しかし、忘れてはならないのは、これは「イエスはキリストとしてふさわしいかどうか」のテストだということです。

つまり、問われているのは、空腹のときのイエスが「救い主」として自分に与えられた力を何のために用いようとするかです。自分のお腹を満たすためか、それとも、自分のことは後回しにして、枯れ木に花を咲かせ、飢えた人の心に喜びの福音を伝え、その人を助けることこそが救い主の使命なのか。

イエスさまは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節)と、聖書の言葉の引用をもってお答えになりました。合格です。

第2問「神の子なら、神殿から飛び降りたらどうだ。天使が助けてくれる(詩編91編)と聖書に書いてある」。主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』(申命記6章16節)とも書いてあると、聖書の言葉でお答えになりました。

「神殿」は宗教の百(100)。そこで、聖書のひとつの箇所と他の箇所の解釈とがぶつかり合う。そのとき、より正しい答えを聖書から導き出せる存在こそが「救い主」にふさわしいというのが、第2問の模範解答ではないでしょうか。

第3問「もしひれ伏してわたしを拝むなら、全世界をお前にくれてやる」。救い主というのは、要するに世界の独裁者になることなのだ。悪魔に心を売り渡し、頭を下げ、善悪を逆転させて、目的のために手段を選ばず、全世界の政治と経済を自分の思い通りに動かし、支配する。それがまさに「救い主」であり、まさに「神」である。

主イエスは「退け、サタン」と一喝されました。それが答えです。悪魔に心を売り渡してでも権力を得ることの正反対です。悪魔に頭を下げて拝まなければ得られないような権力は要らない。全く無力であることのほうを私は選ぶ。それがイエスさまの答えでした。

すると、悪魔が離れ去り、天使が来てくれました(11節)。テスト終了。結果は「合格」。天使が一緒にお祝いしてくれました。

しかし、ここで話を終わらせてはいけません。テストを受けたのは、イエスさまだけです。「メシア=キリスト=救い主」にふさわしいかどうかの見極めなので、「私たちとは関係ない」と考えがちです。しかし、それは違います。

見落とされてはならない点があります。それは、悪魔の試験の答えとしてイエスさまが引用なさった聖書の教えのすべては、私たち人間こそが守るべき教えである、ということです。この箇所の読者にとって大切なことは、わたしたちがどう生きるべきか、です。

私たちにできることを申し上げて終わりにします。

①悪魔に心を売り渡さないこと。

②「目的のために手段を選ばない」という考えを受け入れないこと。

③財産よりも権力よりも大事なものがあると信じること。

(2025年3月9日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年3月7日金曜日

教会自身に固有な目的がある

『ファン・ルーラー著作集』全7巻(現在7A巻まで)

 

【教会自身に固有な目的がある】

今夜読んだファン・ルーラーの文章は、”Apostolisch en apostolair”という題。初出は1969年8月30日付け新聞記事。彼の文章と長い付き合いの私は理解可能だが翻訳不可能。ファン・ルーラーも難しさは分かっていて、例文をあげている。De kerk moet apostolair zijn omdat ze apostolisch moet zijn.

このapostolischとapostolairは別の概念であるとファン・ルーラーが言っている。試しにグーグルに訳してもらったら「教会は使徒的でなければならない。なぜなら、教会は使徒的でなければならないからだ」という答案を出して来た。これは不正解。何の意味もない、ただの同語反復をしているだけになる。

この文章の趣旨を要約して紹介するのも難しい。とにかく両者は異なる概念なので区別しなければならないこと。ファン・ルーラー自身の宣教論はapostolischのほうであって、apostolairは過激な急進性があるということ。ファン・ルーラーは教会を守り抜く人。彼の神学は教会嫌いの人には嫌われるだろう。

この点においては私もファン・ルーラーと同じ線に立っているので、彼の神学が嫌いな人から私も嫌われるだろう。教会自身に固有の目的がある。教会のすべての目的は常に外部にあるのであって、教会は手段であるというわけではない。教会は、説教、聖礼典、カテキズム、教憲教規が重んじられる場である。

どれほど語学をきわめても、神学を理解することはできない。「教会」に主体的に参加しないかぎり。ファン・ルーラーの文章を読むたびにその確信を深める。

(2025年3月7日 5:35 a. m.)