2023年1月15日日曜日

家族も救われる(2023年1月15日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 7番 ほめたたえよ力強き主に
奏楽・長井志保乃さん 動画・富栄徳さん

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「家族も救われる」

使徒言行録16章25~34節

「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます』」

今日の聖書の箇所は使徒言行録16章25節から34節までです。この箇所に大勢の人が登場します。主役は使徒パウロと同行者シラスです。この二人以外の「ほかの囚人たち」(25節)もいます。「看守」(27節)もいます。そして最後に「看守とその家の人たち全部」(32節)が登場します。

囚人や看守がいるのは刑務所です。つまり、この物語に描かれているのはパウロとシラスが刑務所の牢に入れられ、そこから解放されるまでの出来事です。場所はマケドニア州のフィリピ(16章12節)。パウロの第二回宣教旅行の最中でした。

使徒言行録でパウロが刑務所に収監されるのは、この箇所だけです。ローマ兵に縄で「縛られ」たり(22章22節)、「鎖」をかけられたり(22章30節参照)、「留置」されたり(23章35節)しましたが、「牢に入れられた」とまでは記されていません。しかし、刑務所は人生一度でもごめんです。

パウロとシラスがなぜこのような目に遭ったかを知るためには16章16節から読む必要があります。発端はフィリピにいた「占いの霊に取りつかれている女奴隷」(16節)との出会いです。「占いの霊」(プニューマ・ピュトナ)の意味は「ピュトンの霊」です。ピュトン(英語「パイソン」)はギリシア神話に登場する蛇です。アポロンの神託を守り、アポロンによって殺された蛇です。

そして「ピュトンの霊に憑依された人」というその言葉自体が「腹話術師」を意味します。そして、それが「占い師」です。つまり、この女性(おそらく少女)は、腹話術を使って占いをする人でした。蛇を体に巻き付けて、脇の下から蛇の頭を出して、腹話術で占いの言葉を話して、蛇がしゃべったように見せ、お客さんから受け取った占いの料金を雇用主に渡すために働かされていた奴隷でした。

しかし、それは聖書の教えとは全く異質です。使徒言行録には、キリスト教の伝道者が異教的な魔術的宗教に立ち向かう場面が何度か出てきます。この箇所はそのひとつです。他にも、魔術師シモンVSフィリポ (8章9節以下)、魔術師エリマ VSサウロ(後の使徒パウロ)(13章8節以下)、エフェソでアルテミス神殿の模型を作っていた銀細工師デメトリオVSパウロ(19章23節以下) などがあります。

今日の箇所の女性は、パウロたちにつきまとって幾日も同じことを叫び続けました。それでパウロがたまりかねて、その霊に「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言ったら、「霊が彼女から出て行った」(18節)というのが、パウロとシラスが刑務所に収監された理由です。

「たまりかねて」(ディアポネーセイス)の意味は「不快、不機嫌、憤慨、激怒、当惑」などです。パウロが感情むき出しで腹を立て、おそらく大声で怒鳴りつけたことを表しています。パウロのこういうところは直すほうがよいかもしれません。伝道者の粗暴な性格はつまずきの元です。しかし問題は、パウロがなぜ、または「何」に激怒したかです。ふたつ考えられます。ひとつは、この女性が毎日付きまとい、大声で騒ぎ続けたその迷惑行為そのものです。しかし、それだけではありません。パウロはこの女性の背後にある悪魔信仰と占いの世界そのものにも反対しています。

後者に対する不快感が、付きまとい行為に対してよりも比重が大きいと言えます。「悪を憎んで人を憎まず」は孔子の言葉ですが、パウロにも当てはまります。だからこそパウロは、「イエス・キリストの名によって」この女性に、ではなく「霊」に向かって、この女性から「出て行け」と命じたのです。

すると、この女性から「占いの霊」が出て行き、正気に戻りました。二度と占いができなくなったという意味です。それで激怒したのがこの女性の雇用主です。「悪を憎んで人を憎まず」だと言いました。「占いが悪なのか」と疑問を感じた方がおられるかもしれません。難しい問題です。しかし、明らかに悪いのは、奴隷を脅して働かせて、その奴隷が稼いだ金を巻き上げて生きている悪党どもです。パウロがしたことには、悪党集団からひとりの少女を助け出した面があります。

「金もうけの望みがなくなってしまった」(19節)主人たちは、パウロのしたことが原因だと知って激怒し、捕まえて高官(法務官)のもとに連れて行き、でたらめな理由を並べて、パウロたちを告発しました。群衆も一緒に騒ぎ出したため(22節)、高官たちはパウロたちを裸にし、鞭で打つように命じ、いちばん奥の牢に投げ込み(文字通り「投げた」)、足に木の足枷をはめて看守に見張らせました。

「鞭で打つ」(23節「ラブディゾー」)は、ローマ人のやり方では木の棒または杖(ラボス)で叩くことを意味します。ユダヤ人の鞭打ちは、ひもで叩きます。「杖」は職権のしるしであり、「杖を持つ人」は職権を有する人です。つまり、ローマの「鞭打ち」はローマ帝国の権力を背後に持つ屈辱極まりない刑罰です。パウロがコリント教会に宛てた書簡に「鞭で打たれたことが三度」(Ⅱコリント11章25節)と書いているのも「棒で叩かれた」(ラブディゾー)です。

状況説明が長くなりました。パウロとシラスが刑務所に収監されるまでの経緯の概略は以上です。想像するだけでぞっとする、全く堪えがたい仕打ちだと私には思えます。

ところが、様子が変です。体も心も傷ついたパウロたちが沈み込んでうずくまっていたかというと、正反対でした。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)(?!)。

キリスト者には、大なり小なりこういう面があります。状況から考えれば苦痛のどん底にいるはずなのに、どこかしらひょうひょうとしていて、明るい性格のようだけれども、世間離れしているようでもあり、とらえどころがない。刑務所のいちばん奥の牢に厳重な足枷までかけられて閉じ込められているのに、讃美歌を歌ったりお祈りしたり。それを他の囚人たちが聞き入っていたというのです。笑いごとではありませんが、笑いがこみあげて来て、なごめるものがあります。

すると、次に起こったことが大地震です。刑務所の土台が揺れ、ドアが開き、鎖が緩みました。そのことを神が介入してくださって起こった出来事だという意味で使徒言行録は記しています。

しかし、驚くべき記述がまだ続きます。大地震ですべてのドアが開いた刑務所からすべての囚人が脱走したかといえば、そうではありませんでした。他の囚人も全員いたかどうかまでは分かりません。しかし、パウロとシラスは逃げませんでした。囚人脱走の責任をとらされると思い込み、自害しようとした看守に「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)と呼びかけ、食い止めました。

すっかり驚き、恐怖すら抱いた看守が、パウロに魂の救いを求めました。「先生がた、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)。「すべき」の意味は、神の御心にかなう道は何かです。パウロとシラスの答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)でした。

なぜ「家族も救われる」のかについての詳しい説明はありません。しかし理由は分かります。パウロとシラスの賛美と祈りの声を他の囚人たちが聞き入っていたというあたりにヒントがあります。

ひとりの人が救われると、家庭内にひとり「異次元」に立つ人が生まれます。それが嫌われる原因になるかもしれません。しかし、破局の防波堤になる場合があります。家族みんなが一蓮托生で絶望して破滅の道を突き進むのではなく、たったひとりでも神に期待し、讃美を歌い、祈る人がいれば、常識や社会通念とは異なる、全く別次元からの問題解決の道が生まれ、必ず出口が見つかります。

(2023年1月15日 聖日礼拝)

2023年1月8日日曜日

すべての人の神(2023年1月8日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 211番 あさかぜしずかに
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「すべての人の神」

使徒言行録10章34~43節

関口 康

「預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

今日の聖書の箇所は使徒言行録10章34節から43節です。この箇所に記されているのは使徒ペトロの言葉です。

この言葉が「いつ、どこで、だれに、なぜ」語られたのかを学ぶことは、とても大事です。「文脈」を無視すべきではありません。しかし、今日は踏み込みません。別にお話ししたいことがあります。

文脈に踏み込まなくても分かることがあります。それは、使徒ペトロは初代教会の代表者だったということです。代表者の発言は初代教会の信仰告白の基本線を表していると言える、ということです。

それではこのペトロの言葉の核心部分はどこでしょうか。それを見抜く必要があります。34節から43節のすべてが核心部分であるとも言えますが、長いです。たとえば「20字以内で要約してください」と問われたとき、どう答えればよいだろうかと考えてみることも大事です。

私なりの答えは「イエス・キリストこそ、すべての人の主です」(20字以内)です。「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう」(36節)。

しかし、これだけでは意味不明です。やはり「文脈」が大事です。「神は人を分け隔てなさらない」(34節)、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(35節)、「イエスは方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」(38節)、「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」。

注目すべき言葉は「どんな国の人でも」「すべて」「だれでも」「神は人を分け隔てなさらない」です。間違えてはなりません。これはイエス・キリストの弟子であるわたしたち教会の問題です。教会はだれに伝道するか、だれの悩みや苦しみに寄り添い、助けるかの問題です。そのことについて、教会が差別してはいけないということです。「イエス・キリストはすべての人の主」だからです。

しかも、イエスさまと神さまが区別されてはいますが、36節の「この方こそ、すべての人の主です」の「主」(ギリシア語「キュリオス」)は、神ご自身、あるいは神と等しい存在を指します。したがって、「すべての人の〝主〟」を「すべての人の〝神〟」と言い換えても趣旨に変更は生じません。イエス・キリストにおいてご自身を啓示された神は、人を分け隔てなさいません。

しかも、「イエス・キリストはすべての人の主である」と言われる場合の「すべての人」はキリスト者に限らず、という意味を含んでいます。これも教会の宣教にかかわる問題であることをわたしたちは忘れてはなりません。教会はキリスト者の専有物ではありません。わたしたちは信じているから(because)教会に通うのではなく、信じるために(in order to)教会に通うからです。信仰に至っていない人や、疑いだらけで信じきれない人に居場所がないようなところは「教会」ではありません。

ここまでが今日の聖書箇所の説明です。これから申し上げるのは一冊の本の紹介です。日本語版は2014年10月に発売されましたので、すでにお読みになった方がおられるかもしれません。

昨年亡くなられましたが、アメリカの宗教社会学者ロドニー・スターク教授(Prof. Dr. Rodney Stark [1934-2022])の『キリスト教とローマ帝国』(穐田信子訳、新教出版社、2014年)です。本書の主題は、西暦1世紀にパレスチナの片田舎で産声を上げたキリスト教が西暦4世紀(392年)にローマ帝国の「国教」になった理由は何か、です。その問題をスターク教授は統計学を駆使して解明しました。

それを今日取り上げるのは、特に年頭に際し、わたしたちの「これからの」宣教にとって大いに参考になると思うからです。

スターク教授によると、紀元40年のキリスト者人口はわずか1000人でした。ちょうど今日の聖書の箇所の頃です。ローマ帝国の総人口における比率は0.002パーセント。

しかし、紀元100年に7,530人(0.0013%)、紀元150年には40,496人(0.07%)、紀元200年に217,795人(0.36%)、紀元250年に1,171,356人(1.9%)、紀元300年には6,299,832人(10.5%)、そして「国教化」目前の紀元350年には33,882,008人(56.5%)になりました。

大事なことは、数字そのものよりも「なぜ増えたのか」です。その理由としてスターク教授が挙げているのが、紀元165年を発端として西暦2世紀のローマ帝国に襲い掛かった「ガレン(ガレノス)の疫病」です。死者総数に諸説ありますが、スターク教授は「ローマ帝国の人口の4分の1から3分の1が死滅した」という説に説得力があるとします。この疫病の流行のピーク時には、ローマだけで1日に5千人死んだという報告があるほどの大惨事でした。

その悲惨な状況の中でキリスト者による病者の看護が目覚ましかった、というのが本書の結論です。キリスト者は「死を恐れない」信仰を持っていたので、自分が疫病に感染する危険をいとわず、果敢に病者に近づき、病者がキリスト者であろうとなかろうと分け隔てせず、その人の口に忍耐強くスープを運び、とりなしの祈りをささげたので、その手厚い看護によってキリスト者生存率が高まり、また配偶者を疫病で失った異教徒が手厚い看護をしてくれたキリスト者に愛情を抱き、再婚したり、新しい配偶者が信じているキリスト教へ改宗したりしたため、キリスト者の人口が増えたという結論です。特に、キリスト者女性の働きは目覚ましいものでした。

キリスト者が「増えた」理由はまだあります。キリスト者は「子だくさん」でした。そのことがなぜ異教徒との差になるのかといえば、この時代のギリシア・ローマ世界において生まれた子どもの選別(間引きや中絶)をするのが当たり前だったからです。特に、女の子と障がいを持って生まれた子どもが対象とされました。しかし、キリスト者はそれを断固として禁じ、拒否し、生まれた子どもはすべて受け入れて育てたので、異教徒よりも人口が増えた、という結論です。

もうひとつの大事な点は、「キリスト者はユダヤ人伝道に成功した」という分析です(67頁以下)。キリスト者はユダヤ人への宣教を断念しなかったし、ユダヤ人の中からキリスト教へ改宗する人々が大勢いたことも「増えた」理由であるとします。ユダヤ人は西暦2世紀に国土を完全に失い、世界各地への離散の民(ディアスポラ)になりますが、長い伝統に基づくユダヤ人ネットワークがありました。そのユダヤ人ネットワークの中で、旧約聖書を捨てなくてよく、新約聖書を加えればよいキリスト教への改宗の動きが拡大した、というのです。(以上、関口による要約)

今のわたしたちにとって大いに参考になるではありませんか。神が人を分け隔てしないのですから、わたしたちも人を分け隔てすべきではありません。今はコロナ、戦争、不況の時代です。キリスト者であろうとなかろうと、手厚くもてなし、看護し、性別や障がいの差別などは断固拒否し、命を大切にし、互いに愛し合い、多種多様なネットワークを用いて広く深く永続的なかかわりを築いていくこと。

それこそがわたしたちの「これからの」宣教の目標です。古代教会の歩みから学ぶことは多いです。

(2023年1月8日 聖日礼拝)

2023年1月1日日曜日

新しい希望(2023年1月1日 元旦礼拝・新年礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌第二編152番 古いものはみな(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「新しい希望」

ローマの信徒への手紙12章1~8節

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

今日開いていただいたのはローマの信徒への手紙12章1節から8節です。この箇所から新しい部分が始まります。15章13節まで続き、その後、個人的な知らせと挨拶があります。

「ローマの信徒への手紙は8章まで読めばよい。9章以下は余計な部分で、12章以下は問題外だ」という読み方をする人たちを、私は知っています。

「イエス・キリストの十字架の愛の本質は無条件の赦しである。しかし、ローマ書12章以下には、キリスト者はどうあるべきだ、こうすべきだと細かい指示を伴う行動原理が記されている。それを受け容れたら、新たなる律法主義になるではないか。」

それは言い過ぎです。ローマ書12章以下のキリスト者の行動原理は、信仰義認の教えにとって重要な意味を持ちます。罪人を義と認めて受容してくださる神は、わたしたちを罪と悲惨の中に置き去りにされません。そのほうがはるかに冷たいです。

神はわたしたちを、神の前で誠実に生きる、神の義にかなう証し人へとつくりかえることを望んでおられます。神は応答(レスポンス)を求めておられます。イエス・キリストの十字架の愛によって罪赦されたわたしたちが神の恵みに応答すること(レスポンシビリティ=「責任」)を求めておられます。

もっともパウロは、12章以下の内容を体系的に記していません。大雑把にとらえれば、12章は個人的な生活を扱い、13 章は市民としての義務を扱い、第14 章はメンバーとしての義務を扱っていると言えなくはありません。しかし、パウロ自身がその順序で書こうと構想を練ったとは考えにくいです。

それでも結果的に、ある程度の図式化が可能なのは、出発点が明確だからです。この言葉が語られた状況は、おそらく主の日の礼拝です。礼拝の説教です。そこを出発点とし、説教者自身を含めてすべての人が、自分の家へと、社会へと、国へと出ていき、入り込み、あらゆることにたずさわります。

その意味で、主の日の礼拝は「扇の要」(おおぎのかなめ)です。キリスト者が主の日の礼拝を中心に広がっていく様子が描かれていると考えることができます。だからと言って個々人の行動が計画的に制限されることはありません。すべては自由です。わたしたちは神の操り人形ではありません。教会の中の「強い者」が「弱い者」を従わせることでもありません。

1節の「勧めます」(パラカレイン)の原意は「忠告する」とか「呼びかける」です。日本キリスト教団式文などの「勧告」も同じです。新約聖書では、祈りの助けを求めるときや、神の御心への応答を求めるときに用いられています。特にパウロの手紙で多く用いられています(Iテサロニケ4章1節、11節、5章14節、Iコリント1章10節など)。

「忠告」というかぎり、ある種の命令性があることは確かです。民主的な社会に生きている私たちは命令口調に敏感です。すぐに警戒心を抱きます。ですから、パウロが用いているこの言葉の意味を十分に考え抜く必要があります。表現は難しいです。

「勧める」とは、ある人が他の人に命令することではありません。「神がそのことを命じておられる」と人に告げることを神から委ねられた人の口を通しての、神ご自身による呼びかけが「勧告」です。多くの場合、「兄弟たち」に呼びかけるのは使徒です。しかし、使徒でない教会員にも、忠告(勧告)の賜物が与えられることがあります(8 節)。

キリスト者の生き方の内容は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」ことです。印象的なのは、「いけにえ」や「礼拝」という精神的な言葉が用いられていることです。

パウロの特徴と言えるのは「いけにえ」や「礼拝」という言葉を、旧約聖書における祭儀のイメージから移してくることです。「いけにえ」という言葉に旧約聖書の祭儀を思い起こさせる「神に喜ばれる」「聖なる」「生ける」という3 つの形容詞が結びつけられています。ユダヤ教では、生きたままの傷のない動物が神に献げられ、祭壇の上で屠られ、焼かれました。その香りは神に喜んでいただく甘い香りでした。わたしたちの体は、その動物の代わりです。

わたしたちがするのは自分の体を焼くことではありません。パウロが述べていることの背景にあるのは、肉体そのものは汚れた存在ではなく、罪が肉体の内面を汚すという教えです。しかしわたしたちは、イエス・キリストの十字架によって罪が取り除かれたので、肉体はきよくなりました。しかもそれは外面のきよさではなく、内面のきよさです。そのきよい体を神に献げることが求められています。

しかし、それはわたしたちにとっては、どこまで行っても「~と私は考える」としか言いようがありません。「わきまえる」(2節)は、自分でよく考えることです。新共同訳聖書では消えてしまいましたが、かつて長く広く用いられた口語訳聖書では「あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と訳されていました。

この「霊的」を「合理的」と訳す例があります。なぜ「合理的」(理性にかなう)なのかといえば、神の御心は何なのかを結局最後は自分の頭と心で考えなくてはならないことを言わなくてはならないときです。わたしたちは神を信じるからと言って、理性が操られるわけではないからです。

内面のきよさが求められているのは、それが必ず私たちの行為と関係してくるからです。外面性をいくらつくろっても、内面が変わらないかぎり、何も変わりません。しかし内面が変われば、すべてが変わります。世間に調子を合わせるのではなく、神の御心は何か、何が善かを考え抜く、自分自身の内面に新しく生まれた行動原理に従って生きはじめるときに、わたしたちの人生も世界も変わります。

新約聖書に描かれている初代教会には、まだ「役職」などは存在せず、みんな平等で、他を圧倒する人はいなかったと言われることがあります。もしそれが事実なら、パウロが記している「(わたしが)あなたがたに勧めます」は、正当な権限を与えられているわけでもないのに自分の思い込みで一方的に威嚇しているだけであるかのようです。しかし、それはおかしいです。パウロは明らかに、教会が公式に認めた使徒的権威において語っています。初代教会においてすでに役職があったのです。

使徒の職務以外にも多くの役職がありました。7 節と 8 節に役職名がリストアップされています。それをパウロは「霊的賜物」(カリスマ)と呼んでいます。教会で役職につくことは、尊大になることの反対です。この世的な役職と同じ意味はありませんので、出世とか昇進とか栄転とか左遷とか、そういう考え方を断じて持ち込むべきではありません。

しかし、それではなぜ教会に役職が必要なのかといえば、私たちは神から与えられた恵み(カリス)の賜物(カリスマ)を無視する危険があるからです。人は自分のことを軽視しすぎることがあります。いばる必要は全くありません。しかし、自分には存在意義も価値もないと思い込むのも危険です。自分に与えられた恵みの賜物への過大評価も過小評価もどちらも危険です。

しかも、自分の価値は自分では分からないものです。だからこそ、(健全な)教会の交わりの中に自分の身を置く必要があります。そうすれば、生きる意味が分かります。存在への勇気(Courage to be)が与えられます。

本日の説教題「新しい希望」の意味は、いま最後に申し上げたことです。ぜひ教会の交わりに入ってください。教会の奉仕に参加してください。それが「生きがい」になります。「生きていてよかった」と言える人生になります。

今年もどうかよろしくお願いいたします。

(2023年1月1日 元旦礼拝・新年礼拝)

2022年12月25日日曜日

キリストの降誕(2022年12月25日 降誕節礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

もろびとこぞりて
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「キリストの降誕」 

ルカによる福音書2章1~12節

関口 康 

 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」 

 (2022年12月25日 降誕節礼拝)

2022年12月24日土曜日

クリスマスの意味(2022年12月24日 イヴ礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


「クリスマスの意味」

マタイによる福音書2章1~12節

関口 康

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して御子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」

クリスマスおめでとうございます。クリスマスはわたしたちの救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。

イエスさまがお生まれになった場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは現在のイスラエル国の首都エルサレムから8キロ南に下ったところにあります。

イエスさまがお生まれになった年号は正確には分かりません。ぴったり「2022年前」ではないとされます。現在の歴史家は「紀元前7年から4年までの間」と推定しています。

今夜の聖書の箇所に登場するのは、東の国の占星術の学者たちです。その国はおそらくバビロニア(現在のイラク南部)です。

その人たちが、聖書を調べた結果としてではなく、自分たち自身が取り組んできた「占星術」という方法で、ユダヤのどこかに救い主がお生まれになるに違いないと確信し、バビロニアからエルサレムまで、そしてイエスさまがお生まれになったベツレヘムまで砂漠の中を旅してきた、というのが今夜の聖書の箇所の物語です。

バビロニアからエルサレムまでは1600キロ。1600キロは青森市から山口県下関市まで。新幹線でも大変、ラクダならもっと大変な旅です。

占星術の学者たちは、イエスさまに黄金、乳香、没薬を贈りました。「黄金」は王への贈り物(詩編72編15節)、「乳香」は古代世界で香水にするか、燃やして良い香りを得るためかに用いられました。「没薬」は、亡くなった人に塗る薬。

今夜の聖書の箇所の物語で分かるのは、イエスさまを最初に拝みに来た東の国の学者たちは、聖書を一生懸命勉強してきたわけではなく、聖書の神さまを信じていたわけでもなく、むしろそういうこととは全く無関係に生きて来た人たちだった、ということです。

しかし、それでも片道1600キロの砂漠の旅に出かけようとこの人たちが考えたのは、実際に現地に行ってみなければ事実かどうか分かるわけがないことを、実際に行ってみて自分の目で確かめなければならないと考えた、勇気と冒険心を持つ人たちだったからです。

わたしたちの人生も、途中、何度となく大きな壁にぶつかることがあります。この先、私は、私たちは、どうなるか分からなくて不安になります。

そのときわたしたちに必要なのは、勇気と冒険心です。イエスさまを訪ねてやってきたバビロニアの学者たちの勇気と冒険心からわたしたちが学べることは多いです。

これから何か大きな壁にぶつかったとき、今夜の聖書の箇所を思い出してください。そして、何度も聖書を読んでみてください。

教会は、そのようにして生きて来た人々の集まりです。初めから信仰を持っていたから教会に来たのではなく、悩んで苦しんで教会にたどり着いたのです。

(2022年12月24日 クリスマスイヴ音楽礼拝)

2022年12月11日日曜日

信仰と忍耐(2022年12月11日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 231番 久しく待ちにし
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん


「信仰と忍耐」
ルカによる福音書1章5~25節

関口 康

「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」

今日は待降節第3主日です。4本のロウソクすべてが点るのがクリスマス礼拝、というのがだいたい例年の流れですが、今年のクリスマス礼拝は来週ではなく再来週です。そういう年もあります。

今日の朗読箇所はルカによる福音書1章5節から25節です。ここに描かれているのは洗礼者ヨハネの誕生が天使ガブリエルによって予告されたときのことです。

洗礼者ヨハネは、多くの人に洗礼を授けた人です。洗礼そのものに重いとか軽いとかの差はないと言わなくてはなりません。しかし、ヨハネが世界と教会の歴史において果たした役割という観点からいえば、イエス・キリストに洗礼を授けた人であることは特筆すべきです。

しかも、ヨハネの役割は、多くの人々をイエス・キリストへの信仰へと導く道備えをすることにありました。その意味でイエス・キリストの先駆者としての働きがヨハネに与えられました。

新約聖書に4つある「福音書」の中で特にルカによる福音書は、まずヨハネの誕生を詳しく描いたうえでイエス・キリストの誕生を詳しく描くことによって2人の関係の深さを強調しています。

洗礼者ヨハネとイエス・キリストの共通点は同じ時代に生きたことです。「ユダヤの王ヘロデの時代」(5節a)です。マタイによる福音書も「ヘロデ王の時代」(2章1節)と記しています。

このヘロデは「ヘロデ大王」です。ユダヤ人でしたが、ローマ皇帝(ユリウス・カエサルの後継者の初代皇帝アウグストゥス)と友好関係になることで、パレスチナ全土の支配者になりました。

ヘロデの治世は紀元前37年から紀元4年までの41年間です。エルサレム神殿の改築に取り組んだ人ですが、猜疑心の強さから多くの人を殺害したことでも知られる悪名高い王です。

「アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった」(5節b)。このザカリア(ヘブライ語でゼカリヤ)とエリサベトがヨハネの両親です。

エリサベトが「アロン家の娘の一人」であるという説明は祭司の家庭で生まれ育った人であることを意味します。ユダヤ教の律法と伝統によれば、祭司である男性は必ず祭司家庭出身の女性と結婚しなければならなかったわけではありません。

しかし、この夫婦は「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」(6節)と言われるほど、当時のユダヤ教の考え方に照らして理想的な夫婦とされました。

「祭司」がどのような働きを担う人たちだったのかが、8節以下に記されています。それは要するにエルサレム神殿の礼拝祭儀にかかわる様々な働きです。ただし「祭司」と「祭司長」は区別されます。

「祭司長」はエルサレムに住まなくてはならず、日常的に神殿で働いていました。しかし「祭司」は、どこに住んでもいいし、ふだんは別の職業に就いていても構いませんでした。

「祭司」は24組に分けられ、年2回、1週間、安息日から安息日まで、エルサレム神殿で奉仕しました。奉仕の内容はくじで決めました。特に人気があった仕事が「主の聖所で香をたくこと」(9節)でした。なぜ人気があったのかといえば「祭司」の人数が非常に多かったためで、人生で1度以上この奉仕当番がめぐって来ることはありえなかったからです。ザカリアはその当たりくじを引きました。

しかし、ザカリアと妻エリサベトは心に重荷を負っていました。理由は、子どもが与えられないことでした。あくまで当時の話ですが、子どもがいないというだけで中傷誹謗を受けました。子どもが多く生まれること、特に男子が生まれることが神の特別な祝福とみなされました。反対に、子どもがいないことは神の罰だと考えられました。そういう社会の中で、この夫婦は苦しい立場に置かれていました。

ところが、そのザカリアとエリサベトの身に大きな出来事が起こりました。ザカリアが当たりくじを引いてエルサレム神殿で香をたいていた最中に、神秘的な体験をしました。

主の天使ガブリエルがザカリアに「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」(13節)と言いました。

日本語訳を読むだけでは分からないことですが、「喜び」と訳されているギリシア語は特別な意味を持っている、と解説されていました。世界の終末において世界と人類が完成するとき、神と我々人間が共に分かち合う喜びです。ヨハネの誕生にそれほどの大きな意味があると天使が教えてくれました。

天使が続けます。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」(15~16節)。当時のユダヤ教で「ぶどう酒と強い酒」はイスラエルが神から離れていることの象徴でした。それを絶対に(ウー・メー)飲まないことは、神の前で強い誓いを立てることを表しました。

そして、「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に決めさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(17節)と主の天使ガブリエルは言いました。

この「エリヤ」は、紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍した預言者です。なぜ「エリヤ」の名が出てくるのかと言えば、エリヤは真の神に背を向けて邪神バアルを神とする道へと走ったユダヤ人を真の信仰へと戻した預言者だからです(列王記上18章参照)。

エリヤの働きの特質は、民の進む方向を180度、正反対の方向へと向けかえることでした。それが「悔い改め」すなわち「回心」の意味です。このエリヤの働きをこれから生まれるヨハネが体現すると、父ザカリアに天使ガブリエルが告げました。

驚くべき知らせに、ザカリアは戸惑い、疑う思いさえ抱き、自分も妻ももう老人なので今さら子どもが生まれることはありえないと考え、そのようにガブリエルに言ったところ、ヨハネが生まれるまで口をきけなくされてしまいました。

妻エリサベトは自分が身ごもったとき、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(24節)と言いました。

「よい知らせ」(19節)の意味は「福音」です。これはローマ皇帝を賛美するために用いられた言葉でした。それが全く異なる意味で用いられています。真の神はローマ皇帝ではなくイエス・キリストであり、イエス・キリストの道備えをするのが洗礼者ヨハネです。

そのことを主の天使ガブリエルが告げました。ローマ皇帝とヘロデ大王の二重支配のもとで苦境に陥り、忍耐している人々に真の解放、真の救いをもたらすことを、神が天使を通して約束してくださいました。

だれもがみなこの夫婦のようになれるわけではないかもしれません。彼らは子どもが与えられないことで中傷誹謗を受け、苦しみました。その彼らに神が報いてくださいました。

苦しみを忍び、信仰をもって歩む人々を、主は決してお見捨てになりません。そう信じて生きようではありませんか。

(2022年12月11日 聖日礼拝)

2022年12月4日日曜日

主の恵みの福音(2022年12月4日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 231番 久しく待ちにし
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます


「主の恵みの福音」

ルカによる福音書4章14~30節

関口 康

「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」

今日の箇所に記されているのはイエスさまの宣教活動初期に起こった出来事です。「イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた」(14節a)とあります。このように言われる場合の「ガリラヤ」は広い意味です。パレスチナの北部一帯を指していると言えますし、「ガリラヤ」という言葉には「周辺」すなわち「地方」を意味すると説明されます。

ですから「その評判が周りの地方一帯に広まった」(14節b)とあるのは、ガリラヤという名前の町があって、そこから近隣地域へ広まったという意味ではありません。「イエスはお育ちになったナザレに来て」(16節)も、ガリラヤという町からナザレという村へ移動されたという意味ではありません。ガリラヤ地方の中にナザレという村があり、そこへ行かれました。

「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(15節)とあるのも、ガリラヤ地方にユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がいくつかあり、それらを巡回されて聖書の教えをお語りになることにおいて、みんなから尊敬される存在であられたということです。

しかし、それではなぜ、イエスさまがガリラヤ地方を最初の伝道拠点になさったのか、その理由は何でしょうか。考えられる理由が2つあります。

ひとつは、「周辺」や「地方」や「田舎」と言える地域から伝道することで、首都エルサレムや他の大都市のようなところで起こるのとは異なる、人と社会をめぐる様々な問題があるので、その問題にイエスさまが取り組もうとされたのではないかということです。あえてタイトルをつければ、イエスさまが「田舎伝道」に意義を見出された可能性です。

しかし、もうひとつ考えられる理由があります。ガリラヤ地方がイエスさまが幼少期を過ごされた故郷だったからです。つまり「郷里伝道」です。自分の親、兄弟、親戚、子どもの頃からの友人たち、同じ方言を使う人たち。その人たちに伝道したいとイエスさまが願われた可能性です。

どちらの可能性も否定できません。しかし、今日開いているルカによる福音書を読む限りにおいては、どちらかというと後者「郷里伝道」をイエスさまが願われた可能性が前面に出ています。たとえば、16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。「お育ちになったナザレ」という言葉でナザレがイエスさまの故郷であることが強調されています。

「いつものとおり」は「慣例に従って」とも訳せる言葉ですが、このときの状況を鑑みると、イエスさまが物心つく頃から家族と共に通ったシナゴーグの昔ながらのあり方を踏襲してというニュアンスを読み取れます。イエスさまは宣教活動を開始されたのが30歳。30年程度では教会はやり方を変えません。50年でも100年でも、同じ讃美歌を歌い、同じ聖書を読み、同じ順序の礼拝を行います。

ナザレの会堂でイエスさまが聖書朗読のためにお立ちになり、「預言者イザヤの巻物が渡され」、お開きになりました(17節)。当時の会堂(シナゴーグ)の礼拝は、信仰告白(シェマー)、祈り、律法と預言者の各朗読、そして説教もしくは自由なお話で構成されていました。

すべてのユダヤ人男性は、律法の一部の朗読後、預言者の一部を朗読する権利がありました。律法の朗読は連続的な箇所が朗読されましたが、預言者は朗読者が自分で朗読箇所を選ぶならわしでした。つまり、このときイエスさまが開かれたイザヤ書は、ご自身がお選びになった箇所だということです。

そして、その箇所をイエスさまがご自身で声を出して朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

ただし、これがイザヤ書のどこかを探すのは難しいです。ひとつの箇所ではなく、いくつかの箇所をお読みになったからです。イザヤ書61章1節、58章6節、61章2節です。そしてイエスさまは巻物を巻いて係の人に返し、席に座られました。臨場感がある描写です。

イエスさまご自身が意図的にこのようにお読みになったのか、それともルカが要約しているのかは、どちらの可能性もあります。しかし、イエスさまが強調しようとされた核心部分が何であるかは明白です。それは「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた」という点です。

「貧しい」の他に「捕らわれている人」、「目の見えない人」「圧迫されている人」についても語られています。しかし、それらの人々も「貧しさ」と無関係とは言い切れませんし、「解放」と「視力」と「自由」を手に入れるのはその人々です。それは「心の貧しさ」(マタイ5章3節)でも物質的・金銭的な貧しさでもあります。「貧しさ」の中で傷つき、苦しみ、絶望している人々が解放され、自由を与えられることが「救い」であり、それが「主の恵みの年」を告げることだとイザヤ書が記しています。

この「主の恵みの年」は旧約聖書レビ記25章に規定された「ヨベルの年」を指します。ユダヤ人が奴隷の地エジプトから解放されたことを記念する50年ごとのお祝いの年。「7年×7=49年」の翌年。

そして、イエスさまは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と言われました。すると、そこにいた人々はイエスさまのことを「ほめ」、イエスさまの言葉に「驚き」ました。しかし、彼らの反応はそれだけでした。それ以上は何もしませんでしたし、それどころか、「この人はヨセフの子ではないか」と言い出しました。

この反応はイエスさまに対する疑問や反発です。大工の子ではないか、聖書の専門家ではないではないか。そんな人が「この聖書の言葉が今日実現した」とか言っている。実現できる力をお前ごときが持っているはずがない。お前のことは赤ん坊の頃から知っている、幼馴染み、同郷のよしみだと思っていたのに、我々に上から目線で指図するのはやめてくれと身構え始めている様子がうかがえます。

そのことをお察しになったイエスさまがおっしゃった言葉が「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)です。「自分の故郷」で神のみことばを語る人が嫉妬や嘲笑を受けやすい立場に置かれるのは昔も今も変わりません。横並びの関係だと思っていた相手に前に立たれると困るのです。

今日の箇所から学べることは「伝道の難しさ」かもしれません。イエスさまにとっても「郷里伝道」は難しいことでした。故郷の人々に殺されそうになりました。最も近い関係の相手にこそ、最も伝道が難しい。それはわたしたちも繰り返し体験してきたことです。

何が伝道の障害なのかをよく考えなくてはなりません。わたしたち自身の心が伝道を妨害している可能性があります。みことばを語る人に対する嫉妬ややっかみのような感情が心の中に渦巻いていると、素直に聞くことができないかもしれません。

しかし、「だれが語るか」よりも、「何が語られ、何を信じるか」が大事です。聖書の御言葉がおのずから働くその力を信じることが大事です。わたしたちはだれから算数を学んだでしょうか。小学校時代の先生の名前を思い出せなくても、算数ができればそれでいいのです。それと同じです。

(2022年12月4日 聖日礼拝)

2022年11月20日日曜日

十字架の愛(2022年11月20日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 386番 人は畑をよく耕し
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん




 「十字架の愛」

ルカによる福音書23章32~43節

関口 康

「するとイエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」

今日の聖書の箇所は、昭島教会の週報の表紙イラストに長年描かれている場面です。いつごろから描かれるようになったかを調べました。1967年1月29日号(第792号)からだと分かりました。55年前です。石川献之助先生は49歳。昭島教会が「福島町」から現在の「中神町」に移転した直後です。

同年2月11日(日)に新会堂の献堂式が行われました。1月29日号の週報に「新会堂の十字架は、約10メートルの鉄塔を建設することになりました。献堂式までに完成の予定です」と記されています。3本の十字架が昭島教会の敷地に建てられました。なぜ3本なのかが今日の聖書の箇所で分かります。

まず「2人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」(32節)と記されています。「犯罪人」(κακουργοι)は「強盗」とも訳せますが「熱心党(ゼロテ)」とも訳せます。

「熱心党」はユダヤ教の中の熱心な人たちで、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちが政治的に解放されることを願っていました。もしその意味だとすれば、政治犯だった可能性があります。

彼らの名前は記されていません。古いラテン語の写本の中に、この2人に「ヨアタス」(Joathas)と「マガトラス」(Maggatras)という名前を付けているのがあります。後から考えられたものでしょう。

33節でルカが、他の福音書は「ゴルゴタ」と呼んでいるこの場所をその名前で呼んでいないことが分かります。「されこうべ」は頭蓋骨です。処刑場の形状が頭蓋骨のようだったことから名づけられたと考えられています。別の説として、創世記の「ノアの洪水」の後、ノアがアダムの頭蓋骨をその場所に埋めたことが名称の由来であるという古い伝説がありますが、信ぴょう性は低いです。

2人の犯罪人のうちの 1 人はイエスの十字架の右側の十字架に、もう 1 人は左側の十字架につけられました。マタイとマルコは、十字架にはりつけられる前のイエスさまに「没薬を混ぜたぶどう酒」が差し出されたが、イエスさまが拒否なさったことを記していますが、ルカは記していません。

34節の亀甲括弧が気になる方がおられるかもしれません。この括弧の意味は、新共同訳聖書の底本(聖書協会世界連盟「ギリシア語新約聖書」修正第3版)の立場で、当該箇所が「後代の加筆」の可能性があることを示しています。重要な写本(p75 vid B D* W 0124 1241 579 pc a sa Cyril etc.)で、この節が欠落しています。

しかし、私が最も重んじている註解書(J. T. Nielsen, Het Evangelie naar Lucas II, PNT, 1983)は、この節を除外すべきでないと記しています。キリスト教会の長い歴史と伝統において、イエスさまが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、無知と無自覚ゆえに罪を犯した人々のために祈られたことが疑われたことはありません。

35節以降でイエスさまは3つの方向の人々から嘲笑をお受けになります。第1グループは最高法院(サンヘドリン)の議員たちです。

ルカは「民衆は立って見つめていた」(35節)とあえて記し、民衆が見守っていただけであることを強調しています。声を出して嘲笑したのは最高法院の議員たちだけで、他の人々はそこにいるだけで何もしていません。まるで民衆は中立の立場にいたかのようです。しかし、彼らは野次馬です。イエスさまを嘲笑する人々の側に立っています。

第2グループはローマの兵士たちです。彼らがイエスに飲ませようとした「酸いぶどう酒」(36節)の意味は「酢」です。アルコール分がすっかり抜けて酸っぱくなっています。安く買えるので、兵士や一般の人々には飲まれていました (Strack-Billerbeck II, 264)。

それをローマの兵士たちがイエスさまに飲ませようとしたのは侮辱です。イエスさまを「ユダヤ人の王」だと言いながら、「王」に安物のワインを提供することで侮辱しています。旧約聖書の詩編69編22節に「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」と記されています。苦しんでいる人に「酢」を飲ませるのは敵対的な嘲笑行為です。

そしてローマの兵士たちは、イエスさまの頭の上に掲げられた「これはユダヤ人の王」とギリシア語で書かれた札を見上げ、その字を読みながら、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と嘲笑し、イエスさまに屈辱感を与えようとします。最もひどい場面です。

第3の嘲笑者はグループではなく個人です。イエスさまの隣りの十字架につけられていた犯罪人の 1 人までイエスさまを罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)と言いました。「自分自身すら救えない。それどころか、今まさに十字架にはりつけられて、苦しみと呪いの中にいる。そのことがまさにお前がメシアでないことの証拠だ」と言いたかったのでしょう。

イエスさまを嘲笑した3つの方向のグループないし個人の共通点があるかもしれないと、私なりに考えました。最高法院の議員たちはローマ帝国の傀儡。ローマの兵士たちはローマ皇帝の奴隷。十字架の犯罪人は磔(はりつけ)にされて身動きがとれない。

3者とも圧倒的な力にねじ伏せられている人々です。その人々なりに抵抗を試みたことがあったかもしれませんが、抵抗に失敗しました。失敗者たちです。その人々がイエスさまを嘲笑しました。「我々ができなかったことをやれるならやってみろ。できないだろうけど」と言っているように思えます。

しかし、もうひとりの犯罪人はイエスさまを嘲笑した犯罪人をたしなめました。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)と言いました。その人は、自分の罪を認め、後悔や反省、そして悔い改める心を持つに至った人だと言えるでしょう。

そして、その人が続けた言葉は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)でした。この「わたしを思い出してください」という言葉は多くのユダヤ人が祈りの中で唱え、自分の墓に刻んできた言葉です。その言葉を、この人はイエスさまに言いました。

するとイエスさまは、その人に次のようにお答えになりました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。

これは、イエスさまがその人の罪を赦し、全き救いの中に受け入れ、イエスさまと共に天国に連れて行ってくださる約束です。「今日」は息を引き取る瞬間を指していますので、今すぐ、ただちに、です。イエスさまは、その人と一緒に楽園のパレードの場を飾ることを約束してくださいました。

しかし、それでは、イエスさまを罵ったもうひとりの犯罪人は、どうなるのでしょうか。最高法院の議員たちは、一般民衆は、ローマの兵士たちは、どうなるのでしょうか。「わたしのことを思い出してください」とイエスさまにお願いした人だけ天国に行くことができて、あとはみんな地獄でしょうか。

そうではないことを教えるのが今日の箇所の趣旨です。悔い改めるに越したことはないでしょう。しかし、イエスさまは御自分を罵り、嘲笑した人々のためにも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(34節)と祈ってくださいました。イエスさまはその人々のためにも死んでくださり、その人々を救ってくださいました。イエスさまの十字架の愛は広くて深いです。

(2022年11月20日 聖日礼拝)


2022年11月13日日曜日

復活の意味(2022年11月13日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 518番 主にありてぞ
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん





「復活の意味」

ルカによる福音書20章27~40節

関口 康

「すべての人は神によって生きている」

今日の聖書の箇所は、ルカによる福音書20章27節から40節です。この箇所の解説に入る前に申し上げたいのは2週続けた特別礼拝のことです。

先々週「永眠者記念礼拝」を行い、また先週「昭島教会創立70周年記念礼拝」を行いました。出席者は40名と60名。延べで100名。平均すれば50名。今日から通常礼拝です。

2つの特別礼拝に共通しているテーマがあります。しかもそれは70年という長さの歴史を経て来たゆえに共通しはじめたテーマです。「教会の歴史を祝うこと」と「信仰をもって召された先達がたを記念すること」は、全く同じではないとしても、かなり重なってきたということです。

先週「昭島教会創立70周年記念礼拝」で井上とも子先生が宣教で、わたしたちが毎週日曜日の礼拝のたびに唱える信仰告白としての使徒信条に出てくる言葉について解説してくださいました。それは「われは…聖なる公同の教会…を信ず」についてです。特に強く教えてくださったのは、父なる神とイエス・キリストを信じることと等しい重さで「教会」をわたしたちの信仰の対象と受け入れることの大切さです。

わたしたちにとっては、なかなか受け入れにくい教えです。なぜ受け入れにくいかといえば、教会は「人の集まり」だからです。使徒信条の「教会を信じる」は、教会の人々を神と等しい存在として信仰しなければならないという意味なのかと疑問を持つ方々が必ずおられるでしょう。

人間につまずいたから、人間に傷つけられたから、人間に嫌気がさしたから、教会に来ましたという方々がおられます。しかし、教会に来て「教会を信じなさい」と言われるならば、結局は「人間を信じなさい」と言われているのと同じように感じます。

実際に、教会で傷つけられたことがあります。わたしはこれからどうすればいいのでしょうかと絶望の声を聞くことがよくあります。私も理解できるし、共感できます。しかし、そういう方々のために「教会」があります、ぜひ「教会」に来てくださいと申し上げたくて仕方がありません。

今日の箇所にイエスさまとサドカイ派の人たちのやりとりが出てきます。新約聖書に描かれた西暦1世紀のユダヤ教においてサドカイ派はファリサイ派と並ぶ2大勢力のひとつでした。この2つのグループは対立関係にありました。

両者の違いはいろんな点に現われました。そのひとつが「死者の復活」の教えに対する立場の違いでした。ファリサイ派は「死者の復活」を信じていましたが、サドカイ派は信じていませんでした。ファリサイ派が「死者の復活」を信じていたということは、「死者の復活」を信じる宗教はキリスト教だけではなくユダヤ教もそうであることを意味します。しかし、今日の箇所に登場するのは「死者の復活」を信じないほうのユダヤ教のサドカイ派の人々です。

その人々がイエスさまのところに来て質問しているのは、旧約聖書の律法の解釈についてです。しかし、これは明らかに、イエスさまの教えをあざわらうことを最初から意図した質問であると考える解説者がいます。私も同意します。全く可能性がないとは言い切れないかもしれないけれどもいかにも極端な例を持ち出してイエスさまに突きつけて、どうだ、あなたの教えからその例の答えを見出そうとしても無理だろう、矛盾があるだろうとイエスさまに言うために不遜な態度で寄ってきた人たちだということです。

「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というルールは、申命記25章5節に出てきます。古代社会の家族観を反映しているとしか言いようがありません。しかしサドカイ派の人たちが持ち出したのは、いちばん上の兄から順に7人の兄弟と結婚することになり、なおかつどの夫との子どもも生まれなかった、つまりその家族の跡継ぎをもうけなかった女性は、復活したときだれの妻なのかという問題です。

先ほども言いましたが、これはイエスさまをからかうために言っていることなので、真面目ではありません、ふざけています。子どもが生まれるか生まれないか、だれがだれと結婚するかというような問題はきわめてデリケートで深刻な内容を持っているのであって、ふざけてうんぬんしてよいようなことではありえません。

イエスさまもそういう手合いは相手にしなければいいのですが、そうではないのがイエスさまらしさです。きちんとお答えになりました。イエスさまのお答えは次の通りです。

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(34~36節)。

イエスさまがおっしゃっているのは、次のような意味です。

(1)結婚制度は地上の世界だけのものなので、亡くなった人はその制度から解放されている。

(2)なんぴとも、亡くなった後で、地上の世界以外のところで別の人と結婚することはない。

(3)なんぴとも、亡くなった後で、跡継ぎをもうけることはありえない。

私はイエスさまのこのご説明が面白いと思います。ユーモアすら感じます。サドカイ派は下品な態度でからかいに来ているのに対し、イエスさまが誠実さとユーモアがある姿勢で反論されている気がします。結婚制度が地上の世界だけのものだという点は、神の国(天国)においては、男女の関係は兄弟姉妹の関係のようになる、という教えとおそらく関係しています。

なぜ亡くなった後で跡継ぎをもうけないのかといえば、天国に入った人はもう二度と死なないからです。死ぬのは1回きりです。死が繰り返されることはありません。跡継ぎが必要なのは、人が死ぬからです。もう死なないのであれば、跡継ぎは要りません。死んだあとに恋愛したり、失恋したりすることもありません。

そのことと関係してくるのが、イエスさまが28節でおっしゃっている言葉です。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とおっしゃっています。

なぜ神は人を復活させるのかといえば、それが神の本質だからです。神は「生きている者の神」(28節)なので、死んでしまった人と神はかかわることができなくなるので、それでは困るので、神は死んだ人を復活させて、永遠に関係し続けてくださる、ということです。

人間の視点からいえば、特に熱心な信仰の持ち主は、神に仕え、神のために奉仕しつくして、神のために死ぬのが本望だという考えになりがちですが、神の視点からいえば、神は人に生きてもらいたいのです、死んでもらいたくないのです。死んでもよみがえらせてくださるのです。

わたしたちの悩みの多くは、最も身近な人に関するものです。恋人、夫婦、親子、家族、親戚。イエスさまの教えは、わたしたちが悩んで落ち込んでいるときに明るい光を与えてくださいます。

(2022年11月13日 聖日礼拝)

2022年10月30日日曜日

御国を待ち望む(2022年10月30日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)


日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 320番 主よ、みもとに
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

関口 康

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」

今日は「永眠者記念礼拝」にお集まりいただき、ありがとうございます。特に遠方からご出席くださった方々に特別な感謝を申し上げます。

時々お尋ねがあります。「キリスト教には仏教で毎年行われる何回忌などの法事はないのか」というご質問です。私がいつもお答えするのは、「しなければならない」とか「してはいけない」というルールはなく、すべて自由ですということです。「してもいい」し、「しなくてもいい」です。

そういう答え方をしますと曖昧で分かりにくいと思われて、「キリスト教は難しい」という反応が返って来ます。ご質問の意図は理解しています。面倒な理屈ではありません。だいたいその線を守れば大丈夫と安心できる相場ないし基準をお知りになりたいはずです。

しかし、キリスト教の立場で、どうしても譲ることができないことがあります。教会は経済的・社会的に弱い立場にある方々の生活状況に配慮しなくてはなりません。ご家庭にご負担がかかるようなことを「これは教会のルールだから」というような仕方で押し付けることは、してはいけませんし、したくありません。イエス・キリストは弱い立場の人々の側に立ちます。わたしたち教会はイエス・キリストの弟子です。

しかし、ご遺族にとっては何もしないのは寂しいことですし、不安なことでもあるでしょう。だからこそ教会は合同記念会を毎年行います。全世界の教会で行われます。11月1日が「諸聖徒の日」。「万聖節」とも呼ばれます。西暦4世紀以来の伝統です。

前日10月31日が「ハロウィン」です。またハロウィンと同じ日が「宗教改革記念日」です。すべては関係しています。なぜ宗教改革記念日が諸聖徒の日の前日なのか。ひとつは宗教改革の意図が当時のカトリック教会の死と葬儀についての理解に対する批判だったから。もうひとつは、諸聖徒の日に教会に人が大勢集まるから、です。だからこそマルティン・ルターは諸聖徒の日の前日に教会の前に「95か条の提題」を貼りだしました。しかし、今日は宗教改革について詳しくお話しするいとまはありません。

今日申し上げたいのは、キリスト教の歴史が二千年以上続いているということは、わたしたちと同じこの信仰を抱いて召された多くの先達がたの歩みなしにはありえない、ということです。その多くの方々の中に、今日わたしたちが思い返す昭島教会の歴史的歩みをお支えくださった方々とそのご関係の方々がおられます。

本来でしたら、おひとりおひとりの生前の思い出を語らう場であるほうが望ましいことです。しかし、教会がなすべきこと、教会にできることは、今日思い返すおひとりおひとりが、抱いて召されたその「わたしたちと同じこの信仰」とは具体的に何なのかを確かめ合うことです。

少し言いにくいことを申し上げます。今日お集まりの皆さまの中に、正直に言えば教会のことがあまりお好きでないとお感じになっている方がおられるかもしれません。お父さんお母さんご兄弟が、あまりにも熱心に教会に通い、家に帰れば聖書の話、教会の話ばかりなのがつまらないと反発なさった方がおられるかもしれません。

今日は私の話をする日ではないので個人的なことを申し上げるのはなるべく控えます。しかし、ほんの少しだけお許しいただけば、私も10日ほど前に永眠者の遺族になりました。それで先週の日曜日は体調を崩してしまいました。申し訳ありません。私の母も兄も、父の葬儀後、しばらく具合が悪かったようです。家族を失うと何が起こるのかを、具体的に体験できました。皆さまが体験なさったこと、皆さまのお気持ちに少しでも近づくことができたように思います。

10日前に亡くなったのは父で、母は存命しています。私の両親もきわめて熱心な部類の教会員でした。両親とも公務員で、私も兄もいわゆる「鍵っ子」で、平日は誰も家にいなくて寂しいのに、日曜日は朝から晩まで「教会、教会」で、家族で旅行に行ったり遊園地に行ったりしたことがありませんでした。

それでも今の私が教会で牧師の仕事をしているのは、私が両親と同じくらいに熱心だったからではありません。むしろ逆の気持ちでした。両親がそこまで熱心になるキリスト教とは、教会とは、いったい何なのかを知りたくなりました。それを知るためには教会内部の奥深くまで入ってみなければ分からないだろうと思ったので牧師になることにしました。

しかし、私のような変わった考え方をする人ばかりでないこともよく分かっているつもりです。家に帰ると教会の話ばかりする親とは付き合いにくいとお思いになる方は少なくないでしょう。私が皆さんのお父さんお母さんおひとりおひとりにお尋ねしたわけではありませんが、だいたい分かります。みなさんに伝えたかったことがおありだったのです。

今日の聖書箇所に「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」(22~23節)と記されています。ほとんど同じ言葉がその後でも繰り返されていて、「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」(29節)と記されています。そして、「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」(30節)とあります。

イエスさまがおっしゃっているのは、あなたがたには食べ物も飲み物も着る服も不要であるということではありません。正反対です。すべて必要であることを「父」なる神がご存じであるとおっしゃっています。

しかし、強いて言えば、食べ物も飲み物も着る服も、それを得たら終わりではないでしょう。食べて飲んで、暑さ寒さをしのげる服を着て、それでどうするかが大切でしょう。衣食住は目的というより手段でしょう。目的でなくて手段であるから大事ではないという意味ではありません。しかし、どこへ行くか、何をするかがはっきりしていると衣食住の意味が変わってくるでしょう。イエスさまがおっしゃっているのは、そういうことです。

同じところをぐるぐる回ることが悪いわけではありません。散歩することもジョギングも大事です。しかし、ひとつの目的や目標をもって、ゴールを目指してまっすぐ進むことも大事です。目標が定まれば、そこから逆算して、その目標にたどり着くまでの準備として何をしなければならないかが分かるので、早く目標を決めなさい、というのは、受験を控えた受験生たちに学校や親が口を酸っぱくして言うことです。

イエスさまが弟子たちに教えた目標は「ただ、神の国を求めなさい」(31節)ということです。この話は今しにくくなりました。カルト宗教のようだ、と思われてしまう可能性があります。

しかし、今日お集まりの皆様にはお分かりいただけるでしょう。今日この場所は、皆様の大切なご家族が熱心に作り上げた昭島教会です。「神の国」すなわち「御国」とは、神が支配しておられる全領域を指します。亡くなってからしか行けないところではなく、「教会」も「神の国」です。ここにしかないもの、他で味わうことができない平安と祝福が「教会」にあります。これからもぜひ教会においでください。

(2022年10月30日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)