日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
旧讃美歌 320番 主よ、みもとに
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
関口 康
「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」
今日は「永眠者記念礼拝」にお集まりいただき、ありがとうございます。特に遠方からご出席くださった方々に特別な感謝を申し上げます。
時々お尋ねがあります。「キリスト教には仏教で毎年行われる何回忌などの法事はないのか」というご質問です。私がいつもお答えするのは、「しなければならない」とか「してはいけない」というルールはなく、すべて自由ですということです。「してもいい」し、「しなくてもいい」です。
そういう答え方をしますと曖昧で分かりにくいと思われて、「キリスト教は難しい」という反応が返って来ます。ご質問の意図は理解しています。面倒な理屈ではありません。だいたいその線を守れば大丈夫と安心できる相場ないし基準をお知りになりたいはずです。
しかし、キリスト教の立場で、どうしても譲ることができないことがあります。教会は経済的・社会的に弱い立場にある方々の生活状況に配慮しなくてはなりません。ご家庭にご負担がかかるようなことを「これは教会のルールだから」というような仕方で押し付けることは、してはいけませんし、したくありません。イエス・キリストは弱い立場の人々の側に立ちます。わたしたち教会はイエス・キリストの弟子です。
しかし、ご遺族にとっては何もしないのは寂しいことですし、不安なことでもあるでしょう。だからこそ教会は合同記念会を毎年行います。全世界の教会で行われます。11月1日が「諸聖徒の日」。「万聖節」とも呼ばれます。西暦4世紀以来の伝統です。
前日10月31日が「ハロウィン」です。またハロウィンと同じ日が「宗教改革記念日」です。すべては関係しています。なぜ宗教改革記念日が諸聖徒の日の前日なのか。ひとつは宗教改革の意図が当時のカトリック教会の死と葬儀についての理解に対する批判だったから。もうひとつは、諸聖徒の日に教会に人が大勢集まるから、です。だからこそマルティン・ルターは諸聖徒の日の前日に教会の前に「95か条の提題」を貼りだしました。しかし、今日は宗教改革について詳しくお話しするいとまはありません。
今日申し上げたいのは、キリスト教の歴史が二千年以上続いているということは、わたしたちと同じこの信仰を抱いて召された多くの先達がたの歩みなしにはありえない、ということです。その多くの方々の中に、今日わたしたちが思い返す昭島教会の歴史的歩みをお支えくださった方々とそのご関係の方々がおられます。
本来でしたら、おひとりおひとりの生前の思い出を語らう場であるほうが望ましいことです。しかし、教会がなすべきこと、教会にできることは、今日思い返すおひとりおひとりが、抱いて召されたその「わたしたちと同じこの信仰」とは具体的に何なのかを確かめ合うことです。
少し言いにくいことを申し上げます。今日お集まりの皆さまの中に、正直に言えば教会のことがあまりお好きでないとお感じになっている方がおられるかもしれません。お父さんお母さんご兄弟が、あまりにも熱心に教会に通い、家に帰れば聖書の話、教会の話ばかりなのがつまらないと反発なさった方がおられるかもしれません。
今日は私の話をする日ではないので個人的なことを申し上げるのはなるべく控えます。しかし、ほんの少しだけお許しいただけば、私も10日ほど前に永眠者の遺族になりました。それで先週の日曜日は体調を崩してしまいました。申し訳ありません。私の母も兄も、父の葬儀後、しばらく具合が悪かったようです。家族を失うと何が起こるのかを、具体的に体験できました。皆さまが体験なさったこと、皆さまのお気持ちに少しでも近づくことができたように思います。
10日前に亡くなったのは父で、母は存命しています。私の両親もきわめて熱心な部類の教会員でした。両親とも公務員で、私も兄もいわゆる「鍵っ子」で、平日は誰も家にいなくて寂しいのに、日曜日は朝から晩まで「教会、教会」で、家族で旅行に行ったり遊園地に行ったりしたことがありませんでした。
それでも今の私が教会で牧師の仕事をしているのは、私が両親と同じくらいに熱心だったからではありません。むしろ逆の気持ちでした。両親がそこまで熱心になるキリスト教とは、教会とは、いったい何なのかを知りたくなりました。それを知るためには教会内部の奥深くまで入ってみなければ分からないだろうと思ったので牧師になることにしました。
しかし、私のような変わった考え方をする人ばかりでないこともよく分かっているつもりです。家に帰ると教会の話ばかりする親とは付き合いにくいとお思いになる方は少なくないでしょう。私が皆さんのお父さんお母さんおひとりおひとりにお尋ねしたわけではありませんが、だいたい分かります。みなさんに伝えたかったことがおありだったのです。
今日の聖書箇所に「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」(22~23節)と記されています。ほとんど同じ言葉がその後でも繰り返されていて、「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」(29節)と記されています。そして、「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」(30節)とあります。
イエスさまがおっしゃっているのは、あなたがたには食べ物も飲み物も着る服も不要であるということではありません。正反対です。すべて必要であることを「父」なる神がご存じであるとおっしゃっています。
しかし、強いて言えば、食べ物も飲み物も着る服も、それを得たら終わりではないでしょう。食べて飲んで、暑さ寒さをしのげる服を着て、それでどうするかが大切でしょう。衣食住は目的というより手段でしょう。目的でなくて手段であるから大事ではないという意味ではありません。しかし、どこへ行くか、何をするかがはっきりしていると衣食住の意味が変わってくるでしょう。イエスさまがおっしゃっているのは、そういうことです。
同じところをぐるぐる回ることが悪いわけではありません。散歩することもジョギングも大事です。しかし、ひとつの目的や目標をもって、ゴールを目指してまっすぐ進むことも大事です。目標が定まれば、そこから逆算して、その目標にたどり着くまでの準備として何をしなければならないかが分かるので、早く目標を決めなさい、というのは、受験を控えた受験生たちに学校や親が口を酸っぱくして言うことです。
イエスさまが弟子たちに教えた目標は「ただ、神の国を求めなさい」(31節)ということです。この話は今しにくくなりました。カルト宗教のようだ、と思われてしまう可能性があります。
しかし、今日お集まりの皆様にはお分かりいただけるでしょう。今日この場所は、皆様の大切なご家族が熱心に作り上げた昭島教会です。「神の国」すなわち「御国」とは、神が支配しておられる全領域を指します。亡くなってからしか行けないところではなく、「教会」も「神の国」です。ここにしかないもの、他で味わうことができない平安と祝福が「教会」にあります。これからもぜひ教会においでください。
(2022年10月30日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)