日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌第二編152番 古いものはみな(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
「新しい希望」
ローマの信徒への手紙12章1~8節
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
今日開いていただいたのはローマの信徒への手紙12章1節から8節です。この箇所から新しい部分が始まります。15章13節まで続き、その後、個人的な知らせと挨拶があります。
「ローマの信徒への手紙は8章まで読めばよい。9章以下は余計な部分で、12章以下は問題外だ」という読み方をする人たちを、私は知っています。
「イエス・キリストの十字架の愛の本質は無条件の赦しである。しかし、ローマ書12章以下には、キリスト者はどうあるべきだ、こうすべきだと細かい指示を伴う行動原理が記されている。それを受け容れたら、新たなる律法主義になるではないか。」
それは言い過ぎです。ローマ書12章以下のキリスト者の行動原理は、信仰義認の教えにとって重要な意味を持ちます。罪人を義と認めて受容してくださる神は、わたしたちを罪と悲惨の中に置き去りにされません。そのほうがはるかに冷たいです。
神はわたしたちを、神の前で誠実に生きる、神の義にかなう証し人へとつくりかえることを望んでおられます。神は応答(レスポンス)を求めておられます。イエス・キリストの十字架の愛によって罪赦されたわたしたちが神の恵みに応答すること(レスポンシビリティ=「責任」)を求めておられます。
もっともパウロは、12章以下の内容を体系的に記していません。大雑把にとらえれば、12章は個人的な生活を扱い、13 章は市民としての義務を扱い、第14 章はメンバーとしての義務を扱っていると言えなくはありません。しかし、パウロ自身がその順序で書こうと構想を練ったとは考えにくいです。
それでも結果的に、ある程度の図式化が可能なのは、出発点が明確だからです。この言葉が語られた状況は、おそらく主の日の礼拝です。礼拝の説教です。そこを出発点とし、説教者自身を含めてすべての人が、自分の家へと、社会へと、国へと出ていき、入り込み、あらゆることにたずさわります。
その意味で、主の日の礼拝は「扇の要」(おおぎのかなめ)です。キリスト者が主の日の礼拝を中心に広がっていく様子が描かれていると考えることができます。だからと言って個々人の行動が計画的に制限されることはありません。すべては自由です。わたしたちは神の操り人形ではありません。教会の中の「強い者」が「弱い者」を従わせることでもありません。
1節の「勧めます」(パラカレイン)の原意は「忠告する」とか「呼びかける」です。日本キリスト教団式文などの「勧告」も同じです。新約聖書では、祈りの助けを求めるときや、神の御心への応答を求めるときに用いられています。特にパウロの手紙で多く用いられています(Iテサロニケ4章1節、11節、5章14節、Iコリント1章10節など)。
「忠告」というかぎり、ある種の命令性があることは確かです。民主的な社会に生きている私たちは命令口調に敏感です。すぐに警戒心を抱きます。ですから、パウロが用いているこの言葉の意味を十分に考え抜く必要があります。表現は難しいです。
「勧める」とは、ある人が他の人に命令することではありません。「神がそのことを命じておられる」と人に告げることを神から委ねられた人の口を通しての、神ご自身による呼びかけが「勧告」です。多くの場合、「兄弟たち」に呼びかけるのは使徒です。しかし、使徒でない教会員にも、忠告(勧告)の賜物が与えられることがあります(8 節)。
キリスト者の生き方の内容は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」ことです。印象的なのは、「いけにえ」や「礼拝」という精神的な言葉が用いられていることです。
パウロの特徴と言えるのは「いけにえ」や「礼拝」という言葉を、旧約聖書における祭儀のイメージから移してくることです。「いけにえ」という言葉に旧約聖書の祭儀を思い起こさせる「神に喜ばれる」「聖なる」「生ける」という3 つの形容詞が結びつけられています。ユダヤ教では、生きたままの傷のない動物が神に献げられ、祭壇の上で屠られ、焼かれました。その香りは神に喜んでいただく甘い香りでした。わたしたちの体は、その動物の代わりです。
わたしたちがするのは自分の体を焼くことではありません。パウロが述べていることの背景にあるのは、肉体そのものは汚れた存在ではなく、罪が肉体の内面を汚すという教えです。しかしわたしたちは、イエス・キリストの十字架によって罪が取り除かれたので、肉体はきよくなりました。しかもそれは外面のきよさではなく、内面のきよさです。そのきよい体を神に献げることが求められています。
しかし、それはわたしたちにとっては、どこまで行っても「~と私は考える」としか言いようがありません。「わきまえる」(2節)は、自分でよく考えることです。新共同訳聖書では消えてしまいましたが、かつて長く広く用いられた口語訳聖書では「あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と訳されていました。
この「霊的」を「合理的」と訳す例があります。なぜ「合理的」(理性にかなう)なのかといえば、神の御心は何なのかを結局最後は自分の頭と心で考えなくてはならないことを言わなくてはならないときです。わたしたちは神を信じるからと言って、理性が操られるわけではないからです。
内面のきよさが求められているのは、それが必ず私たちの行為と関係してくるからです。外面性をいくらつくろっても、内面が変わらないかぎり、何も変わりません。しかし内面が変われば、すべてが変わります。世間に調子を合わせるのではなく、神の御心は何か、何が善かを考え抜く、自分自身の内面に新しく生まれた行動原理に従って生きはじめるときに、わたしたちの人生も世界も変わります。
新約聖書に描かれている初代教会には、まだ「役職」などは存在せず、みんな平等で、他を圧倒する人はいなかったと言われることがあります。もしそれが事実なら、パウロが記している「(わたしが)あなたがたに勧めます」は、正当な権限を与えられているわけでもないのに自分の思い込みで一方的に威嚇しているだけであるかのようです。しかし、それはおかしいです。パウロは明らかに、教会が公式に認めた使徒的権威において語っています。初代教会においてすでに役職があったのです。
使徒の職務以外にも多くの役職がありました。7 節と 8 節に役職名がリストアップされています。それをパウロは「霊的賜物」(カリスマ)と呼んでいます。教会で役職につくことは、尊大になることの反対です。この世的な役職と同じ意味はありませんので、出世とか昇進とか栄転とか左遷とか、そういう考え方を断じて持ち込むべきではありません。
しかし、それではなぜ教会に役職が必要なのかといえば、私たちは神から与えられた恵み(カリス)の賜物(カリスマ)を無視する危険があるからです。人は自分のことを軽視しすぎることがあります。いばる必要は全くありません。しかし、自分には存在意義も価値もないと思い込むのも危険です。自分に与えられた恵みの賜物への過大評価も過小評価もどちらも危険です。
しかも、自分の価値は自分では分からないものです。だからこそ、(健全な)教会の交わりの中に自分の身を置く必要があります。そうすれば、生きる意味が分かります。存在への勇気(Courage to be)が与えられます。
本日の説教題「新しい希望」の意味は、いま最後に申し上げたことです。ぜひ教会の交わりに入ってください。教会の奉仕に参加してください。それが「生きがい」になります。「生きていてよかった」と言える人生になります。
今年もどうかよろしくお願いいたします。
(2023年1月1日 元旦礼拝・新年礼拝)