2022年5月8日日曜日

互いに愛し合いなさい(2022年5月8日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 ハレルヤハレルヤ 328番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

ヨハネによる福音書13章31~35節

関口 康

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

今日の聖書のみことばは教会の教えにおいて根本的な意味を持っています。わたしたちの救い主、神の御子イエス・キリストご自身の言葉としてヨハネによる福音書が記しているものです。

これはイエス・キリストが十字架にかけられる前の夜に行われた最後の晩餐のとき、弟子たちに語られた言葉です。しかし、「ユダが出て行くと」(31節)と記されていますので、そこにいたのは11人の弟子たちだということになります。

しかし、いま申し上げたことを狭くとらえて、イエスさまが「互いに愛し合いなさい」と命令されたのはイスカリオテのユダを除く11人だけであって、ユダは愛の対象外であるというような意味が含まれている、などと考えるべきではありません。裏切り者がやっと部屋から出て行ってくれたから安心して真実を話せるようになった、というような話ではありません。

それどころか、むしろ正反対に、イエスさまはユダにこそ、このことをおっしゃりたかったのではないかと、私には思えてなりません。なぜ愛し合うことができないのか。なぜ裏切るのか。もう一度考え直してほしいと。しかし、この点は私個人の想像の域を出ません。

そして、もっと大事なことがあります。この教えが最後の晩餐の席で語られたということは、人間的な言い方をお許しいただけば、つまりそれは、イエスさまが御自身の処刑と死を強く意識なさったうえでの遺言(ゆいごん)であることを意味します。もしそうなら、ユダを含むか含まないかはともかく、その場にいた弟子たちだけにイエスさまがおっしゃっているのではないことは明らかです。

なぜなら、最後の晩餐でイエスさまが弟子たちにお語りになったことのすべては、全世界の全歴史の全人類に対して、ご自身の言葉を伝えてもらいたいというご意志をお持ちだったからです。

「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を守ってもらいたいという願いをイエスさまが具体的にだれに対してお持ちになったのかと、もし考えるとすれば、狭い範囲に限定して考えてよいことでは全くなく、全世界の全歴史の全人類に対してであると、わたしたちは躊躇なく考えなければなりません。例外があるかどうかはイエスさまがお決めになることです。わたしたちが勝手に決めることはできません。

「あの人は愛せるが、この人は愛せない。わたしたちの愛は選り好みをする。互いに愛し合いなさいと、たとえイエスさまがおっしゃったことだと言われても、だめなものはだめ。愛せない人は愛せない。そのような罪深いわたしたちの身代わりにイエスさまは死んでくださって、わたしたちの罪を赦してくださった。わたしたちが選り好みをしてしまうこともイエスさまは赦し、受け入れてくださっているので、安心してよい」という論法が成り立つかどうかは、ぜひ考えていただきたいことですが、私個人は無理だと考えています。

今日もまた、いつもとはいくぶんか趣向を変えたことをお話ししたいと思い、そのような準備をしてきました。「母の日」のことを話すべきかもしれませんが、申し訳ありませんが、その準備はありません。

今日お話しするのは、私個人がまだほとんど全くその正体を見抜くことができておらず、本質を理解することができていない、現在起こっている「戦争」についてです。

ただし、「戦争」が始まると、一方に偏っていない情報を入手することが困難な状況になりますので、現時点で第三者の立場にいる者は、不用意な発言を控えなければなりません。

特に今はインターネットがあります。宣教要旨をメールで配布したりブログで公開したりしています。予想がつかない範囲に悪影響を及ぼす可能性が否定できません。

しかし、比較的最近になって報道されるようになったことの中に、この「戦争」の一方の当事者とその国のキリスト教の指導者が深い関係にあるという情報があります。

キリスト教についてはわたしたちに責任があります。無視することはできません。

そう考えて、その人の著書を探し、4月21日にインターネットで注文しました。ロンドンの書店で、4月25日に発送され、ようやく昨日(5月7日)届きました。注文から16日、発送から12日かかりました。

本のタイトルは『自由と責任』(Freedom and Responsibility)で、副題が「人権と個人の尊厳の調和についての研究」です。原著はロシア語ですが、とても読みやすい英語で訳されています。読書に夢中になりそうでしたが、読みふけると日曜日に差しつかえるので最初だけ読みました。

実に明快な文章です。英訳者が優れているのだと思います。そして驚くほどプロテスタントに対する強烈な敵意が表現されていました。核心部分と思える箇所を、拙訳でご紹介いたします。

「真の問題は、現在の世界において国民が霊的に健全さを保つために、彼らの宗教的・歴史的な自意識をエイリアンの破壊的な社会的文化的要素から保護するバリアがないことにある。世界の脱工業化に影響された、いかなる伝統(tradition)とも無関係の新奇な生活様式からも、彼らを守れない。

新奇な生活様式の土台にリベラル思想があり、それが異教的な人間中心主義と手を結んでいる。その人間中心主義は、ルネッサンス期にヨーロッパ文化に入り込んで来た、プロテスタント神学とユダヤ人の哲学思想である。啓蒙主義の時代が終わりを迎え、彼らの思想がひとつのリベラル原理を形成した。その精神とイデオロギーの絶頂点が、フランス革命である。あの革命の根本にあったのは、伝統(tradition)が持つ規範的な意義を拒絶することだった。

あの革命はどこで始まったか。宗教改革である。宗教改革者たちが、キリスト教の教義を扱う場で、伝統(tradition)が持つ規範的な意義を拒絶した、あのときから始まっている。

プロテスタントでは、伝統(tradition)は真理の基準ではない。信者の個人的聖書理解や個人的宗教体験が彼らの真理の基準である。プロテスタンティズムの本質は、キリスト教のリベラルな解釈である」(Patriarch Kirill of Moscow, Freedom and Responsibility: A Search for Harmony – Human Right and Personal Dignity, Moscow Patriarchate, 2011, p. 5-6)。

この文章を紹介するのは、「理解」が必要だと思うからです。「戦争」を肯定する意図は私には全くありません。残虐行為にいかなる言い逃れの道もありません。しかし、いかなる「戦争」も必ず終わらせなければなりません。問答無用だとは思いません。何度でも平和を取り戻すために、「互いに愛し合う」ためにわたしたちにできるかもしれないことは、まだ残っています。

(2022年5月8日 聖日礼拝)

2022年5月1日日曜日

良い羊飼い(2022年5月1日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌第二編 主はその群れを 56番(1、2節)
奏楽:長井志保乃さん 字幕:富栄徳さん

「良い羊飼い」

ヨハネによる福音書10章7~18節

関口 康

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

ゴールデンウィークの最中です。気分転換も必要です。今日はいつもと少し趣向を変えたお話をさせていただきます。それは、聖書の読み方に関する問題です。

ヨハネによる福音書について非常に詳しく解説された注解書をルードルフ・ブルトマンという20世紀のドイツ人の新約聖書学者がドイツ語で書いたものの日本語版が、2005年3月ということは今から17年前ですが、日本キリスト教団出版局から出版されました。

ドイツ語原著は1941年に出版されましたが、画期的な名著として有名になりました。私もそのドイツ語版を持っています。しかし、ドイツ語に苦手意識を持っている私には歯が立ちませんし、ドイツ語の昔の印刷書体(ひげ文字)で書かれていて、見ているだけで頭が痛くなるものです。

しかし、難解な注解書の日本語版が出版されたと今から17年前に知り、大喜びしたのですが、それも束の間、定価を見て落胆しました。18,900円。とても買う力がありませんでした。

しかし、喜んでください。昭島教会にブルトマン『ヨハネの福音書』(杉原助訳、大貫隆解説、日本キリスト教団出版局、2009年)があります。教会の財産です。教会員の方はもちろんお読みいただけます。ご関心のある方はぜひ読んでみていただきたいです。

わたしたちが聖書を読むときに大事なことが最低でも2つあります。1つは聖書に何が書かれているかを著者の心の側に立って考えることです。特に大切なのは、わたしたちの側から「こういう意味であってほしい」という願いや思い込みがある場合はそれをいったん横に置くことです。自分が読みたいように読むのでなく、著者の意図を読み取ることが大事です。

2つめは、そのようにして読み取った著者の意図と今のわたしたちの関係を考え抜き、著者は「この私」に何を語ろうとしているかを明らかにすることです。その場合「聖書の著者はだれか」という問いに対しては、究極的な意味では、イエス・キリストを通して聖霊によって人の中からお選びになった著者の心と筆を用いて神おんみずからがお書きになったと信じる信仰が最終的に重要になります。短く言えば、聖書の著者は神さまです。神さまが「この私」に「何」を語ろうとしているかを知ることが、聖書を読むときに重要です。

しかし今、2つ言いました。その両方が大事だということです。2つめの「今のわたしたちに神が何を語っておられるか」を知るためにこそ、1つめの「聖書の歴史的解釈」が必要です。そちらのほうをしっかり理解するために、ブルトマンの注解書なども熟読すべきです。

それで今日は、私の考えや気持ちは少し横に置いて、ブルトマンが今日の箇所について書いていることを皆さんに紹介したいと思いました。

ところどころ、ブルトマンの表現をそのまま引用しながら言います。今日の箇所の直前の10章1節から3節までに「羊飼いが盗人や強盗とはどう違うか」が描かれています。羊飼いは「正規の門を通って囲いの中の羊のもとに行く」が、「門は門番によって彼には開かれているのに対し、盗人には閉ざされているため、盗人は塀を乗り越えなければならない」が、「塀を乗り越える盗人を羊たちは恐れる」とブルトマンが書いています(同上書、296~297頁)。

しかしブルトマンによると、だからといって「まるで羊の群れが疑い深く批判的な集団であるかのように」描かれているわけではなく「羊たちは羊飼いを本能的な確かさによって見分けることが明らかにされねばならない」ので「羊たちが〔本物の〕羊飼い〔かどうか〕を見分けるための基準が示されなければならないわけではない」と言います(同上箇所)。よく分かる話です。

しかし、ここから先のブルトマンの解釈は圧巻です。このたとえの中に、羊飼いが「規則的、日常的に彼の羊の群れのもとに来て、羊たちを牧場に連れ出すという事実を解釈の中に持ち込んではならない」(297頁)と言います。言い換えれば、羊飼いは羊たちとふだんから行動を共にしているので本物かどうかが分かるという解釈を持ち込んではならないということです。

なぜなら、この箇所の「羊飼い」はイエスさまを指しているからです。ヨハネによる福音書は、イエスさまは「言(ことば)が肉となって」(1章14節)ただ一度だけ神のもとから到来された方であると教える書です。一度だけ来られた方のことを、以前からよく知っているし、いつも一緒にいるから羊はその相手が本物の羊飼いかどうかが分かると言えるわけがない、ということです。

それでブルトマンが言うのは、このたとえの中の「羊」は、キリスト教共同体(すなわち教会)にまだ属しておらず、世に散らされている人たちを指している、ということです(297~298頁)。つまり、「羊」にたとえられている存在が「羊飼い」にたとえられているイエスさまをずっと前から知っていたわけでなく、むしろまだ出会ったことがなく、初めて出会う関係だというわけです。だからその存在はまだ教会員になっていないというわけです。

それならどうして初対面なのに本能的に本物だと分かるのかといえば、イエスさまが「真理」を語られる方だからです。しかし、「(キリスト教共同体に属していない)羊が集まって共同体になることによってはじめて彼の羊の群れになるのではない」(298頁)ともブルトマンは言います。そうではなく、「イエスを羊飼いとする羊の群れ」こそが「教会」であり、「教会は(中略)羊飼いの声に従うことによって実現されるべき羊の群れである」(同上頁)と言います。

ここから先に申し上げることは、ブルトマンが書いていることではありません。私も「牧師」なので「羊飼い」と呼ばれることがあります。しかし、今日の箇所のたとえを牧師に当てはめるのは間違いです。イエスさまを差し置いて、その人が「羊飼い」を名乗り、羊に向かって「わたしに従いなさい」と言い出す牧師は、正規の門から入らず、塀を乗り越えて入る盗人や強盗の側にいるのと同じです。

今日の箇所の「羊飼い」を当てはめてよいのはイエスさまだけです。たとえば「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(11~12節)を、牧師一般に当てはめてはいけません。

ヨハネによる福音書でイエスさまが「わたしは~である」(エゴー・エイミー)と語られるとき、神がモーセに「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)とご自身を啓示されたのと同じ意味があります。そのことをブルトマンも書いています。イエスさまが語る「わたしは~である」(エゴー・エイミー)は排他的で絶対的な意味です。「わたしこそ、わたしだけがあなたの羊飼いである」と語られているのと同じです。

イエスさまだけが、わたしのために命を捨ててくださいました。イエスさまだけが、わたしの羊飼いです。そのように信じる羊の群れが「教会」です。わたしたちはこれからも「良い羊飼い」であるイエスさまの御声に従って生きて行こうではありませんか。

(2022年5月1日 聖日礼拝)

2022年4月17日日曜日

わたしは主を見ました(2022年4月17日 イースター)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 キリスト・イエスは 325番(1、3番)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「わたしは主を見ました」

ヨハネによる福音書20章1~18節

関口 康

「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」

イースターおめでとうございます。今日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝です。

昨日のことです。礼拝看板を林芳子さんに書いていただいたとき、「イースターとカタカナで書いてください」とお願いしました。日本国内で、教会以外の場所で「イースター」が知られるようになっているからです。

突然の勢いだったことをよく覚えています。「イースター」が大きく取り上げられるようになったのは最近です。正確な時期を調べてみたらだいたい私の記憶通りでした。2010年に千葉県浦安市にある東京ディズニーランドが「ディズニー・イースター・ワンダーランド」というテレビコマーシャルを大々的に展開して以来です。当時私は千葉県松戸市に住んでいて同じ千葉県の東京ディズニーランドの動きに関心がありましたので、その衝撃を体で覚えています。

つまり、まだわずか12年前です。世界のキリスト教の歴史はもちろんですが、日本のキリスト教の歴史と比べてもごく最近のことです。教会の常識が社会の常識になるまでにどれほど時間がかかるかを思わされる一例です。

しかし、日本国内で急激に「イースター」という言葉が知られるようになってからも、しばらくは、それが何を意味するかの説明が不足していました。私ははっきり覚えていますが、インターネットで「イースター」を調べても、まるでキリスト教と無関係であるかのような記事をよく見かけました。

ところが、今は事情が一変しています。一般的な製菓会社や旅行会社が、イースターとキリスト教の関係を明確に書いてくれています。正しい理解が進むのはありがたいことです。

例を挙げておきます。ある製菓会社のホームページに次のように記されています。「日本では、まだあまり広まっていないイースターですが、キリスト教圏の国ではキリストの誕生日を祝うクリスマスよりも大事なイベント。そもそもイースターとは、十字架にかけられて亡くなったキリストが、その3日目に復活したことを祝う『復活祭』なんです。宗教的にもとても意味のある日で、イースターを祝って、学校が数週間休みになる国もあるそうですよ」(江崎グリコHPより引用)。

昔から「クリスマス」はよく知られています。教会のクリスマス礼拝のチラシでよく見かけたのは「本物のクリスマスを教会で」という言葉でした。しかし、これからは「本物のイースターを教会で」と言わなければならないかもしれません。それくらいの勢いだと申し上げておきます。

しかも、このたび調べてみて印象的だったのは、いま引用した文章もそうですが、一般的な会社こそがまっすぐ「キリストの復活を祝う日である」と書いてくださっていることです。「キリスト教圏の国では」と限定はありますが、教会が大事にしてきた「キリストは3日目に復活された」という信仰告白を尊重してくださっている書き方です。「ありがとうございます」とお礼を申し上げたい気持ちです。

そうです、わたしたちの救い主イエス・キリストは、十字架にかけられて息を引き取られた3日目に復活されました。そのことを教会は信じています。私ももちろん信じています。

しかし、問題はここから先です。イエス・キリストは「どのように」復活されたのかという問いかけに対しては、いろんな答え方があります。

教会の教えの中で特に重要なのは、使徒言行録1章3節に記されている言葉です。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」こと、そして「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(同1章9節)ことです。

これをキリストの昇天(しょうてん)と言います。なぜこれが教会の教えの中で重要なのかといえば、わたしたちも毎週の礼拝の中で告白している「使徒信条」において「(主は)十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白しているからです。

使徒信条の原型とされる紀元2世紀後半(100年代)の「ローマ信条」にもキリストの昇天の教えが含まれています。復活されたイエスさまは、その後、弟子たちの目から見えなくなられました。それが矛盾していることだと、聖書も教会もとらえたことがなく、両立する真理であると信じています。

今日の朗読箇所に記されているのは、イエスさまがまだ天にあげられる前のことです。マグダラのマリアが、イエスさまが納められたアリマタヤのヨセフが所有していた墓に行ったとき、墓から石が取りのけてあるのを見たことから始まっています。

そして、その墓が空だったこと、イエスさまを包んでいた亜麻布が残っていたこと、そこに来た2人の弟子が帰った後も墓の外で泣いていたマリアのもとに2人の天使が現れ、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねたこと。マリアが泣いている理由を天使に答えたとき、イエスさまが立っておられるのが見えたこと。マリアは最初イエスさまだと分からなかったが、イエスさまのほうから「マリアよ」と声をかけてくださったのでイエスさまだと分かったこと、そしてそのことをマリアは2人の弟子たちに「わたしは主を見ました」と告げたことが記されています。

現代人であるわたしたちは、どうしても、これが客観的な事実かどうか、マリアの主観的な心の中での出来事に過ぎないかどうかが気になります。しかしそれは重要なことでしょうか。そのことよりも、先ほど確認しました使徒言行録1章3節の「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し(た)」ことのほうが重要ではないかと私は思います。

人生を共に過ごされ、最期まで見守られ、大切な方を失って悲しみの中にある方々にわたしたちは何を語るべきでしょうか。わたしたちもまた大切な存在を失い、悲しみにくれた経験があります。そのとき、わたしたちはどのような言葉で慰められたでしょうか。イエスさまが語られた黄金律、「自分にしてもらいたいことを人にもせよ」(マタイによる福音書7章12節参照)を思い起こすべきです。

マリアは、イエスさまのほうから「マリアよ」と声をかけてくださったとき、それがイエスさまだと気づきました。マリアはイエスさまの残酷な十字架の死を最期まで見届け、墓に葬られたことも知り、しかも、その墓の中が空になっていることに衝撃を受け、深い悲しみの中にいました。

そのマリアにイエスさまが「マリアよ」と声をかけてくださって、御自分が生きていることの証拠をマリアに示してくださいました。あれほど苦しんだイエスさまが、御自分は生きているということを示してくださいました。そのことをマリアは弟子たちに「わたしは主を見ました」と告げました。

それがイエス・キリストの復活であり、わたしたちがイースターをお祝いする意味です。わたしたちが深い悲しみの中にあるときこそ、イエスさまは「御自分が生きている証拠」を示してくださいます。わたしたちが絶望にのみ込まれないように、御自身の存在をはっきりと示してくださいます。

(2022年4月17日 イースター礼拝)

2022年4月10日日曜日

祈りの家(2022年4月10日 聖日礼拝)


宣教「祈りの家」関口康牧師
讃美歌21 うつりゆく世にも 299番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん

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 「祈りの家」

マルコによる福音書11章15~19節

関口 康

「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」

今日の聖書の箇所は、時代や状況にかかわらず読みにくいし、話しにくい内容を含んでいます。最も端的にいえば、イエスさまが誰の目で見ても明らかな仕方で暴力行為に及ばれました。

事の発端はイエスさまと弟子たちがエルサレムに到着され、エルサレム神殿の境内に入られたことです。そのとき初めてご覧になったわけではなく、ずっと前から同じ光景だったに違いありませんが、神殿の境内で商売をしていた人たちをイエスさまが力ずくで追い出され始めました。「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返され」(15節)ました。「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」(16節)とも記されています。

この事件は4つの福音書すべてが記しています。ヨハネによる福音書には「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した」(2章15節)ことまで記されています。

「縄で鞭を作られた」という点は特に重要です。意図的ではなかった、あくまで偶然の出来事だったという言い逃れは成り立ちません。明確な意図があり、激しい感情を伴い、物理的な暴力をもって、神殿から商売人と商売道具のすべてを排除されました。

改めて読んで気づかされたことがあります。4つの福音書に共通しています。この行為に及んだのはイエスさまだけでした。「イエスが」したと記されているだけです。12人の弟子は暴力に加担していません。加担していたら「イエスと弟子たちが」したと記されるはずですが、そう書かれていません。弟子たちは黙って見ていただけでした。加担した証拠がありません。

しかし、もしそうなら、なおさら考えさせられます。イエスさまおひとりだけであれば、被害を受けた商売人や買い物客や通行人が大声で叫んで「この人を捕まえてください」と訴えれば、即刻ローマ兵がかけつけて現行犯逮捕してくれたかもしれませんが、そうなりませんでした。

なぜそうならなかったかの理由は、今日の範囲の18節に記されていることから分かります。「群衆が皆その教えに打たれていた」(18節)。これで分かるのは、神殿の境内にいた人たちの中にイエスさまがされたことを歓迎するムードがあった、ということです。

それどころか、イエスさまがつかみかかった相手である商売人たち自身すら、抵抗した様子が全くどこにも描かれていません。もしイエスさまがおひとりなら、1対1で立ち向かう商売人が出てきそうな場面ですが、そうなりませんでした。

その理由は「群衆が皆(イエスさまの)教えに打たれていた」(18節)からです。言い方を換えれば、なぜイエスさまがこのようなことをされているのかが、その場にいた人たちに理解できたし、支持することも、応援することすらもできたからです。それほどまでに神殿側にいるユダヤ教の指導者たちの腐敗や堕落の様子が一般市民の目に明らかだったのかもしれません。

イエスさまご自身が表明された理由は次のとおりです。「『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」(17節)。

繰り返し確認しながら慎重に読み進める必要があるのは、「だから暴力行為は肯定されるべきだ」という意味にはならないという点です。理由があれば、周囲の支持があれば、暴力は仕方がないという論調に加担すべきではありません。

イエスさまご自身も、この暴力について謝罪もしておられませんが、「仕方がなかった」というような弁解はなさっていません。

弟子たちを全員巻き込んで「わたしと一緒に戦いなさい」ともおっしゃっていません。責任が問われる日が来れば、すべてひとりで背負うおつもりでした。それこそが、今日の箇所を含めて4つの福音書すべてに描かれているこの事件の真相です。

イエスさまがおっしゃった「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」(17節)は、旧約聖書のイザヤ書56章7節の引用です。

現在の聖書学者は、イザヤ書を少なくとも2つに分けて、1章から39章までは紀元前8世紀に書かれ、40章から66章までは紀元前6世紀に書かれたので、時代が2世紀も離れている以上、著者は別人であると結論づけます。

そのことから考えれば、イザヤ書56章に出てくる「祈りの家」は、紀元前10世紀にソロモンが建てた第一神殿でなく、バビロン捕囚後に再建された第二神殿を指すと言えるかもしれません。

しかし、そのこととイエスさまは無関係です。イエスさまは「複数のイザヤ」のことはご存じなかったでしょうし、どうでもいいことです。

イエスさまにとって「祈りの家」が「神殿」でなければならないかどうかも考えどころです。イエスさまにとって大事なことは、このときイエスさまが立っておられた「今、ここ」は本質的に「何」なのかです。

イザヤ書56章7節の「わたしの家」がエルサレム神殿を指していることは、否定できません。このときイエスさまがおられたのも同じエルサレム神殿です。

しかしそれでは、たとえば「神殿」でなく「会堂(シナゴーグ)」は「祈りの家」ではないのかというと、そんなことはありません。各個人の家庭は「祈りの家」ではないのかというと、全くそうではありません。

ここは「すべての国の人の祈りの家」であるはずなのに「強盗の巣」になっている。みんなが安心して祈れる場所になっていない。そのことは、イエスさまがはっきりおっしゃっています。

しかし、それは狭い意味で「神殿」や「会堂」などの宗教施設や境内地の使用方法や利用目的の問題だけに狭めて考える必要はありません。

具体的に言います。この箇所に関してよく聞く話は、礼拝堂を使用してバザーをしたり、音楽集会をしたりすることの是非の問題だったりしますが、それは全く別の話です。幼稚園との関係に直接かかわる問題なので、この点は譲れません。

ここでイエスさまが問うておられるのは、場所の問題、建物の問題というよりも、心の問題、信仰の問題です。「あなたがたは、何のために集まっているのですか。何のために礼拝しているのですか。本当に礼拝しているのですか。本当に祈っているのですか」という根本的な問いです。

しかし、だからと言って暴力を肯定してよい理由にはなりません。私が唯一救いを感じるのは、イエスさまにふだんから暴力癖があったわけではないことです。後にも先にもこの一撃だけです。

読みにくいし話しにくいこの箇所を繰り返し読むのは、「教会」のあり方を反省する機会になるからです。ふだんは穏やかなイエスさまをここまで怒らせたのはだれなのかを考えるべきです。

(2022年4月10日 聖日礼拝)

2022年4月3日日曜日

謙遜と和解(2022年4月3日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 十字架のもとに 300番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「謙遜と和解」

マルコによる福音書10章35~45節

関口 康

「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

今日の箇所のイエスさまは、弟子たちと一緒にエルサレムへと向かわれる途中です。マルコによる福音書では11章から16章に、イエスさまがエルサレムに到着されてから十字架の死と復活までの出来事が描かれていますが、今日は10章です。まだエルサレムに到着しておられません。

旅の途中、直前の段落の中で、イエスさまが弟子たちに御自分に起ころうとしていることを、たとえを用いずはっきりと語られました。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33~34節)。

なぜイエスさまは、まだ事実が起こる前にこのようなことをご存じだったのかと、詮索してはいけないと私は思いませんが、満足できる答えが与えられることはないでしょう。しかし、このことを私たち自身に引き寄せて考えてみれば、意外なほど、私たちは自分の身に将来起こること予測しながら生きていることに気づくでしょう。

しかもその際、多くのケースで「人生経験」が物を言います。石川先生と私を比較するような言い方をするのはおこがましいですが、共通点は、東京神学大学を卒業した24歳から今日まで、牧師ひと筋で生きてきたことです。石川先生は71年、私は32年です。

なぜ石川先生と私の「人生経験」の話をするのかといえば、理由は2つです。ひとつは、私はともかく、石川先生ほどの人生経験があれば、イエスさまと全く同じではないとしても、かなり「これから自分に起こること」を予測できるようになると申し上げるためです。前向きな話です。

しかし、もうひとつの理由は、石川先生ではなく、私のお詫びです。牧師ひと筋で生きてきた者たちにとって、人生経験を積んできた場はもっぱら「教会」です。失敗経験を積んできた場も「教会」です。だから話しにくい面がありますし、ほとんどお詫びの気持ちしかありません。

牧師の失敗は、教会の中でのトラブルです。牧師自身がトラブルの原因になることもあれば、教会内のトラブルを解決できないのも牧師の失敗です。人生経験で予測がつくとは、そういうことです。「こういうことがあるときに、こうすれば、こうなる」の流れが分かる、ということです。

牧師たちの現実と、イエスさまの身に起こったことを結びつけないほうがよいかもしれません。しかし、イエスさまがはっきり名指しされた死刑宣告者は「祭司長たちや律法学者たち」です。当時の文脈ではユダヤ教の指導者を指しますが、ユダヤ教を悪者にして済む問題ではありません。

今のわたしたちの状況に置き換えて言えば「教会」です。プロテスタントの職名で「教会役員、牧師、神学教師」です。「私はそのような人たちから死刑宣告を受けることになる」とイエスさまが予測され、名指しされているとしたら、どうでしょうか。私などはつらくて耐えられません。

今日の箇所の内容に入っていませんが、関係あることをお話ししているつもりです。ヤコブとヨハネがイエスさまに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と申し出ました。

この申し出の意味は「我々も一緒に死にますので、天国で我々を特別扱いしてください」です。そこでイエスさまは彼らを「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)と厳しくお叱りになります。

そのうえで「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われますが、彼らは「できます」(39節)と答えます。するとイエスさまは「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と認めてくださいます。 

彼らは出まかせを言っていません。事実、彼らはイエスさまと同じ杯を飲み、同じ洗礼を受けました。たしかに弟子たちは、イエスさまと共に十字架にかかるどころか、ひとり残らず逃げました。しかし、イエス・キリストの復活と昇天、そして聖霊降臨によって生まれた教会の中で、信仰を貫き、最後は殉教しました。この点を無視してはいけません。

しかし、このイエスさまとヤコブとヨハネとのやりとりを横で聞いていた他の10人の弟子たちが怒り出したというのです。すぐ分かる原因はヤコブとヨハネがイエスさまに取り入ろうとして出し抜いたからですが、ただの勢力争いというよりも、もう少し深い意味があります。

先ほど「殉教」と申しました。直接的には信仰を貫いて殺されること、死ぬことを意味します。しかし、大切なのは、死の瞬間だけではなく、そこに至る途中のすべての過程が大切です。天国に入れてもらえるかどうかという観点だけでいえば、イエスさまを信じる信仰を守るために人生のほとんどすべての時間と労力を注いできた人も、死の間際の最期の瞬間に信仰を告白した人も、信仰を告白する機会を得られなかった人も、天国そのものにおいての大差はありません。

これこそがイエス・キリストの福音に基づく教会の教えの核心部分です。わたしたちが救われ、天国に迎え入れられるのは、努力や行いや功績によらず、ひたすら一方的な神の恵みによります。教会の歴史をご存じの方から「それはプロテスタント的な解釈だ」と言われるかもしれませんが、わたしたちはプロテスタントです。

しかし、こういう一種の平等主義的な教えは、多くの人々の不満や反発を必ず引き起こします。がんばった人も、がんばらなかった人も、何もしなかった人も、みな同じなら、がんばった人は損するではないか。「みな同じだと初めから分かっていれば、こんなにがんばらなかったのに」と、がんばった人たちが「失った時間と労力を返してほしい」と言い出すことに必ずなります。

いま申し上げたことから、ヤコブとヨハネの申し出の意味を考え直すことができます。彼らが他の弟子たちとは異なる扱いをしてほしいとイエスさまに申し出たのは、我々は他の怠けている弟子たちとは全く違い、がんばっているので、ふさわしい評価をしてほしいと言っています。

他の弟子たちが腹を立てた理由も同じです。彼らはイエスさまの働きをだれがいちばん助けているか、だれがいちばんがんばっているかを競争し、他の人を蹴落とすことに必死です。教会の中に競争社会の価値観がそのまま持ち込まれているのと同じです。

イエスさまのお答えは「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(44節)でした。天国の順位や、弟子の中の順位や、教会の中の順位が気になる人は、いちばん下に立って(天国と教会の)全責任を負いなさい、ということです。

ここから先は私の想像です。イエスさまはため息交じりに笑っておられたと思えてなりません。あなたがたは謙遜を学ぶために私の弟子になったのではないのか。私のもとでまだ争い続けるのか。もっと仲良くしようではないか。互いに励まし合って人生を喜び楽しもうではないか。そのように、イエスさまが弟子たちに諭しておられるお姿を、私は想像します。

(2022年4月3日 聖日礼拝)

2022年3月20日日曜日

ペトロの信仰告白(2022年3月20日 聖日礼拝)


日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌 十字架の血に 436番(1、4節)

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週報(第3612号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

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「ペトロの信仰告白」

マルコによる福音書8章27~33節

関口 康

「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』」

今日の箇所に記されているのは、イエスさまが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになったのに対して、シモン・ペトロが「あなたはメシアです」と答える場面です。

この「メシア」はヘブライ語であり、そのギリシア語訳が「クリストゥス」と言い、日本語的にはカタカナで「キリスト」と表記します。つまり、ペトロはイエスさまからの質問に「あなたはキリストです」と答えているのと同じです。そして、この場合の「キリスト」の意味は「救い主」なので、つまりペトロは「あなたは救い主です」とイエスさまに答えているのと同じです。

わたしたちは「キリスト教」と言います。今申し上げたことからいえば、「メシア教」と言っても、「救い主教」と言っても意味は同じです。しかし、たとえ意味は同じでも、目新しさを求めていろんな言い換えをしてみても、かえって誤解を招いて混乱する要素を取り込むことになりかねませんので、伝統的な呼び方で「キリスト教」でよいと私は考えます。

「キリスト教」は歴史的にいつから始まったのかという議論に立ち入ると、百家争鳴で難しい話になりますので、やめておきます。しかし、歴史の問題としてでなく、キリスト教を本質的にとらえたときに言えるのは、「キリスト教」とは今日の箇所でシモン・ペトロがイエスさまの前で口にした「あなたはメシアです」すなわち「あなたはキリストです」という信仰告白を継承する宗教である、ということです。

呼び方は「キリスト教」で問題ありません。しかし、本質的には「イエス・キリスト教」です。だれでもキリストになれるのでなく、イエスさまだけがキリストであると告白する宗教です。

マルコによる福音書には、ペトロがこのことを言ったところ、イエスさまから「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(30節)と記されていて、箝口令が敷かれたことが分かります。

イエスさまが弟子たちや他の人たちに口止めされたのはこの箇所だけではありません。マルコによる福音書では、今日の箇所の8章30節以外に、1章44節、3章12節、5章43節でも同じことを言われています。

なぜイエスさまは御自分のことをだれにも話さないように戒められたのでしょうか。その理由を詳しく研究する人もいますが、想像の域を出ません。

このときの状況を考えると、イエスさまはすでにユダヤ教の指導者から殺意を抱かれ、殺害のための計略が立てられていた状態でした(マルコ3章6節など参照)。しかし、イエスさまの使命は、今日の箇所に続く8章31節以下の段落で明らかにされているとおりです。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである」(34~35節)と弟子たちにお教えになり、かつ、その弟子たちの前をイエスさまご自身が歩まれることです。

貧しい人を助け、病気の人を癒し、孤独な人を励ますことを懸命になさったイエスさまです。しかし、それは御自身の名声を高めて、人々から称賛されることではありません。正反対です。イエスさまの目標は「自分を捨てること」であり、「自分の十字架を背負うこと」です。このことを弟子たちに教えるだけ教えて御自分は実践なさらない有言不実行のイエスさまではありません。

しかし、口止めしないで放置するとイエスさまの働きがたちまち言い広められて、いつの間にか御自分が称賛の対象になってしまいます。それはイエスさまの御自身の目標に反することですので、それを食い止めようとなさったと考えるのがおそらく最もシンプルな結論です。

名誉欲を持っていない人はいないかもしれません。誉めてもらえば有頂天になるのが、わたしたちです。しかし、イエスさまがなさったように、自分が誉められたときは「だれにも言わないでください」と口止めするくらいで、ちょうどよさそうです。

わたしたちが神の御前で正しい生き方をしているかどうかは、見ている人は黙って見ています。大げさな反応はしてくれないかもしれませんが、いざというときに、助けてもらえたり励ましてもらえたりします。本当の評価とは、そのようなものではないでしょうか。

しかし、イエスさまの場合は、周りの人に評価されたいがために活動されていたというのとは違います。もしそのようなことが目的であるなら、「自分を捨て、自分の十字架を背負いなさい」と弟子たちに決してお命じにならなかったでしょう。「自分の働きを評価してもらいたがること」と「自分を捨てること」とは、正反対の意味を持つからです。

しかしまた、このようなことを申しますと、反対の意見が返ってくることがあります。「自分を捨て、自分の十字架を背負った」のはイエスさまただおひとりだけであって、すべての弟子たちがイエスさまのご命令に背いて逃げ去ったのである。イエスさまの前から逃げ去った弟子たちの中にペトロも含まれているのである。結局だれひとり「自分を捨てること」はできないのである。

だからこそイエスさまは「自分を捨てられない」すべての人の身代わりに十字架の上で死んでくださったのであって、イエスさまのおかげで、わたしたちはだれひとり自分を捨てないで済むようになったのであると、都合のよい結論を出してくる人がいないとも限りません。

「ちょっと待ってください」と言わざるをえません。「悪い意味で」と付け加えておきますが、わたしたちがキリスト教の教えを悪い意味で「聖書のみ」に限定し、それ以外のいかなる根拠も認めないという態度を採るとすれば、なるほどたしかにイエスさまの弟子たちはだれも十字架にかけられていません。しかし、新約聖書の中に収められた27巻はすべて遅くとも西暦2世紀初頭までに書かれたもので、それ以後のキリスト教会の歴史については全く記されていません。

それでは、新約聖書より後の時代のことや、時代は同じでも新約聖書に記されていない出来事について記された書物は無いのかというと、もちろんあります。それを「使徒教父文書」と言い、それについての研究も活発に行われています。それらに基づいて言えば、ペトロは晩年ローマで宣教活動を行い、ローマ皇帝ネロ(西暦37年生まれ、68年に30歳で死去)のもとで、殉教者として死にました。

ペトロもまた「自分を捨て、自分の十字架を背負うこと」を文字通り実践する人になりました。イエス・キリストがもたらしてくださった真理と平和、愛の交わりを死守するために自分の命を捨てました。

わたしたちはどうか、わたしはどうかと何度も問いかける必要があります。キリスト教会は、多くの人の血と汗と涙の結晶です。この側面は決して無視されてはなりません。

(2022年3月20日 聖日礼拝)


2022年3月13日日曜日

イエスの家族(2022年3月13日 聖日礼拝)


「イエスの家族」関口康牧師
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 459番 飼い主わが主よ(1、4節)

「イエスの家族」

マルコによる福音書3章31~35節
関口 康

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」

今日の箇所は新約聖書のマルコによる福音書3章31節から35節までです。この箇所には大勢の人物が登場します。名前が記されているのはイエスさまだけです。あとは文字通り「大勢の人」(32節)がいます。そしてイエスさまのお母さんと兄弟姉妹たちが登場します。お母さんの名前がマリアであることはよく知られています。

「兄弟姉妹がた」(32節)はイエスさまと血のつながったマリアの子どもたちです。イエスさまは長男としてお生まれになりましたので、イエスさまに弟や妹がおられたことになります。お父さんはこの箇所に登場しません。お父さん以外のイエスさまのご家族が登場します。

イエスさまは「大勢の人」(32節)の中におられました。それがどういう状況だったかは、前の段落に「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」(20節)と記されていることから考えていくしかありません。

イエスさまが帰られた「家」は、1章29節と2章1節に出てくるのと同じ家です。ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにあったシモン・ペトロとその兄弟アンデレの実家です。そこにはシモンの姑(しゅうとめ)も同居していました。姑がいたということは、シモンが結婚していたことを意味しますし、シモン夫妻の子どもたちもいて、同居していたかもしれません。

ですから、そこがどれくらいの大きさの建物だったのかは分かりませんが、小さくはない気がします。2章に描かれていたのが、病人をベッドに乗せたまま運んできた4人の男たちがその家に来て屋根によじ登り、その屋根をはがして病人をイエスさまの近くに吊り降ろした話でした。相当頑丈な家でなければ、この話そのものが成立しないでしょう。病気の人を含めて5人の体重がかかったくらいでは壊れない程度の屋根がついていた家だったでしょう。

まとめていえば、シモン・ペトロの妻と子どもたち、姑、弟くらいは一緒に住んでいて、頑丈な屋根もついている家です。そこをイエスさまは宣教活動の最初の拠点とされました。居候状態で寝泊まりされていたと考えることができます。

しかも、そこは本来あくまでもシモン・ペトロとその家族のプライベートの家でした。ところが、その家が事実上の集会所、まるで公民館のような、だれでも出入りすることが許されているかのような公開された場所になってしまいました。それは、イエスさまがそこで寝泊まりされているといううわさが広まったからですが、それでよかったのでしょうか。

ペトロとアンデレはイエスさまの弟子になったので「どうぞ、どうぞ」と誰でも歓迎したかもしれませんが、他の家族は別の考えを持っていたかもしれません。ひとつ忘れてはならない重要なポイントがあります。それは、この「家」があったカファルナウムの中にユダヤ教の「会堂」(シナゴーグ)があった(1章21節)ことです。

そちらのほうが本来かつ正規の集会所です。人がわんさか集まっても大丈夫なように、集会を初めから目的として造られた建物が「会堂」(シナゴーグ)です。うちで集まられると、はっきり言えばプライバシーの侵害だし、近所迷惑なので、集会したいなら正規の集会所ですればいいではないかと、家族から叱られる可能性がないとも限りません。イエスさまをシモンの家族全員が快く受け入れていたかどうかは分かりません。そうだったとも言えそうですし、そうでなかったとも言えそうです。

ここまでお話ししたことは今日の本題ではありませんが、全く関係ない話をしているつもりはありません。わたしたちが考えるべきことは「家族とは何か」ということです。シモン・ペトロにも家族がありました。イエスさまが来られたことで、ペトロの家族の平和が壊れたかどうかは、真剣に考えなくてならないテーマかもしれません。家の屋根まではがされてしまうという物理的な実害まで被りましたので。

しかし、ペトロの家族の話はここまでにします。今日の本題は、イエスさまのご家族についてです。そのペトロの家におられたイエスさまのところに、母マリアと兄弟姉妹が来て「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(31節)と記されています。この翻訳が私は気に障って仕方がありません。身分制度はあったでしょうが、「人をやる」とか「呼ばせた」とか、マリアが尊大な態度をとり、威圧的な物言いをしているかのようです。

もう少し穏やかな様子を想像できるほうがいいでしょう。「集会の途中で申し訳ありませんが、家庭の事情で伝えなくてはならないことがありますので、うちの息子をこちらに呼んでいただけませんでしょうか。わたしたちが皆さんの中にずかずか入っていくと、集会のご迷惑になりますので、外で待たせていただきます」くらいのほうがいいでしょう。

しかし、この箇所を読むかぎり、その情報がイエスさまに伝わったのは、ひとりの人が大勢の人をかき分けてイエスさまのもとにたどり着いて伝えたのでなく、そこにいたみんなが騒ぐような言い方で「ご家族が先生のことを探してますよ」とイエスさまにお伝えしたように読めます。

そして、だからこそ、そこにいたみんなに呼びかけて騒ぎを鎮めるように、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)と、周りに座っている人々を見回して(34節)おっしゃいました。つまりこれは、個人的なひそひそ話をされたうえで、みんなに聞こえる大きな声でおっしゃったのではなく、そこにいたみんなとイエスさまとの対話であるととらえることができます。

「ご家族が先生のことを探してますよ」
「わたしの家族ってだれだい。今ここにいるみんながわたしの家族だよ」

少しうるさめの、学校の授業のようです。あるいはロックコンサート。

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(35節)と続けておられます。これは排他的な意味でとらえないほうがよさそうです。

イエスさまのお母さんと兄弟姉妹が「外」に立っていた(31節)のは、その集会に対する悪意や反発を態度で示していたわけではなく、遠慮していただけです。そして、その「家」(20節)は「会堂」(シナゴーグ)ではなく、民家です。その建物の「内」にいるか「外」にいるかが、宗教的な態度決定を意味していません。

そうであるならば、「神の御心を行う人」(35節)の中に「イエスの母と兄弟たち」(31節)が含まれていると考えて構いません。血縁的なつながりと信仰的なつながりを対立的に考える必要はありません。どちらのつながりも「兄弟姉妹、母」であるとイエスさまがおっしゃっています。

この話はそのまま教会に当てはまります。必ずしもすべての人の喜びや慰めにならない可能性があります。血縁的なつながりから脱出するために教会へと"亡命"した人はがっかりする話かもしれません。しかし、がっかりしないでください。「家族とは何なのか」を共に学び合いましょう。

(2022年3月13日 聖日礼拝)



2022年3月6日日曜日

荒れ野の誘惑(2022年3月6日 聖日礼拝)


「荒れ野の誘惑」関口康牧師
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 うたがい迷いの 411番(1、4節)

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

週報(第3610号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「荒れ野の誘惑」

マルコによる福音書1章12~15節

関口 康

「それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」

今週もまだもう一日だけ、小学校の授業が残っています。それ以外は、今年度私が働いている学校での授業はすべて終了しました。学年末試験が行われている最中の学校と、まもなく始まる学校があります。それも終われば今年度の私の学校の仕事はすべて終了です。

学校内部の情報について外部で語ってよいことは全くありません。私個人について「来月から大きな変化がある」ということは言ってよいでしょう。学校での私の仕事がすべて無くなるわけではありません。今年度は3つの学校を兼任する過密な状態でした。その状態から解放されます。そして来月から始まる動きは、私にとって集中力が高まる方向にあります。

これは私の話です。しかし本質的には昭島教会の事柄です。そのように理解していただきたいです。教会の牧師がキリスト教主義学校の聖書科の教員であることで、礼拝出席者や教会員数や献金収入が増加するわけではない以上、教会にとって何の貢献もないという考えが支配的になるようなら、私は学校の仕事をやめます。しかし、そうではないと、みなさんが認めてくださっていますので、安心して学校で働いています。

そのような昭島教会の姿勢は、過去70年にわたって教会の伝道に携わりつつ、同時に幼稚園の責任をお持ちになっている石川献之助先生の一貫した姿勢から学ばれたことに違いありません。牧師が教会の中だけにいて、教会員の方々とだけ付き合っている状態が「伝道」だという考えが教会のどこにも見当たりません。反対に、牧師こそが教会の外へと、地域社会へと積極的に出て行くべきで、教会の建物や境内地は地域社会に開放されるべきだという考えが根付いています。

「牧師の働きが教会の働きである」と申し上げているのではありません。たとえ牧師が不在でも教会は教会として存在します。それは自明すぎるので、あえて言葉にする必要すらありません。しかし、教会の実務のいくつかの部分を牧師も担当させていただいていますので、このようなことを言わせていただいています。

先週の日曜日は、2021年度第2回教会定期総会を行いました。新年度役員・運営委員の選挙を行いました。そして秋場治憲伝道師招聘を満場一致で可決し、新年度教会組織が確定しました。来月から昭島教会に3人の教職です。これを「伝道の好機」と呼ばずして他に何と呼ぶでしょう。

私はこれまで以上に安心して学校で聖書を教えることができるようになります。私は単身赴任中ですので、「どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまう」(Ⅰコリント7章32節)状況にありません。ひたすら集中して御言葉を宣べ伝えることができます。

先ほど朗読いたしました聖書の箇所に、「神の子イエス・キリスト」(1節)が「ガリラヤで神の福音を宣べ伝える」(14節)宣教活動をお始めになる前に「荒れ野」(12節)で「サタンから誘惑を受けられた」(13節)ことが記されています。そのことが、とても短く書かれています。

今日の聖書箇所も日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。それは日本キリスト教団内の多くの牧師が、今日この箇所で説教している可能性を示唆しています。

実際に昨日、友人の牧師がインターネットに、「マルコの荒れ野の誘惑の記事は短すぎて、何を語ればいいか分からない」(大意)と書いておられるのを見て共感しました。この物語の拡大版は、マタイによる福音書にもルカによる福音書にもあり、どちらからでもいろんな課題や教訓を引き出すことができるのに、マルコの記事は短すぎて話しにくい、というわけです。

私も同じことを考えました。そして、そうだと思うならマルコによる福音書だけにこだわらず、マタイやルカの平行記事をどんどん引用すればいいではないかという誘惑が起きましたが、その誘惑に負けないようにする必要があると思いました。

わたしたちが「テキストに縛られる」必要があるのは、自分の言いたいことが先にあり、それを補強するために都合のいい聖書の箇所だけを選んで自説を組み立てる誘惑に負けないためです。マルコによる福音書を読むときは、マルコによる福音書のテキストに縛られなければなりません。

今日の箇所の内容を理解するために、ひとつ前の段落から読む必要があります。イエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたとき「天が裂けて〝霊〟が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった」(10節)と書かれています。「御自分に降った」〝霊〟は、イエスさまの外にとどまり、空中に浮遊していたでしょうか。そうでなく、イエスさまの心と体の内部に入り込んだと考えるべきでしょう。

すると、〝霊〟が「イエスを荒れ野に送り出した」(12節)というわけです。イエスさまご自身が「よし、荒れ野に行こう」と計画を立て、それを実行されたのではなく、外部から降って来て内部に入り込んだ〝霊〟が、イエスさまを荒れ野に行かせたのです。自発的でなく、強いられています。使役されています。「行かされて」います。

行き先は「荒れ野」です。砂漠を指しますが、砂しかない乾燥地帯だけを必ずしも考えなくてよいでしょう。40日間、かろうじて生命を維持できるだけの環境は確保されていたでしょう。

そして、その「荒れ野」にいたのは「サタン」と「野獣」と「天使」であると言われています。その中でイエスさまはひとりで過ごされたように描かれています。ただし、「野獣」はともかく、「天使」と「サタン」は、目に見える存在として想像しなければならないことはないでしょう。目に見えない、霊のような存在を思い浮かべてよいでしょう。だとすると、目に見える存在は、「荒れ野」の光景と「野獣」だけです。あとは何もありません。ほとんど「虚無」の状況です。

そのような何もないところで、何をするでもなく、ひたすら虚しい時間を費やすことが、その後のイエスさまの宣教活動にとって必要だったからこそ「強いられた」のです。「サタン」の誘惑と「野獣」の恐怖の中で「天使」だけに守られ、あとは何も自分を守ってくれない、圧倒的な孤独を味わう必要があったので、〝霊〟がイエスさまを強いて、荒れ野に連れ出したのです。

イエスさまだけの話であると考えなくてはならないでしょうか。私はそうは思いません。宣教に携わるすべてのキリスト者と関係があります。宣教は孤独と隣り合わせだからです。ひとりであることに全く耐えられない人が宣教の任務に耐えるのはとても難しいでしょう。「天使」だけに助けてもらい、あとは何もない。その状況と宣教が無縁であることはありません。

イエスさまがその模範を示してくださいました。イエスさまは宣教で多くの弟子を得ましたが、十字架を前にしたとき、すべての弟子が逃げ去ったので、再び孤独に戻られました。

ひとり暮らしをしている人たちへの福音です。孤独であることは決して無駄ではありません。福音宣教の大きな備えです。圧倒的な孤独の中でこそ、すべての孤独な人の思いを引き受けることができます。「荒れ野」はすでに、イエスさまにとって「十字架」と同じです。

(2022年3月6日 聖日礼拝)

2022年2月20日日曜日

起きて歩く(2022年2月20日 聖日礼拝)


「起きて歩く」関口康牧師
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 6番 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「起きて歩く」

マルコによる福音書2章1~12節

関口 康

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」

今日の箇所に描かれているのは、イエスさまがおられた家に4人の男が中風の人を運んで来て、その家の屋根によじ登り、イエスさまがおられる辺りの屋根をはがして穴を開けて、病気の人が寝ている床を吊り降ろして、イエスさまに助けを求めた話です。

想像するだけでぎょっとする話です。その家はガリラヤ湖畔のカファルナウムにありました。シモン・ペトロの実家だったと考えられます。中風の人にとっても4人の男たちにとっても他人の家です。その家の屋根を破壊したというのですから驚きです。

しかしイエスさまは4人の行動に感動なさいました。他にもたくさんの人がその家に集まっていてイエスさまに近づくことができないので、緊急手段としてそこまでのことをしたこの人たちの、病気の人への熱い思いを、イエスさまが汲み取ってくださいました。

それでイエスさまは、その人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました(5節)。これはどういう意味でしょうか。中風の人が何か罪を犯したのでしょうか。それは具体的に何の罪でしょうか。それを考える必要がありそうです。

他人の家を破壊した罪でしょうか。他にも大勢の人がいたのに順番を待つことができず、追い抜いてイエスさまのもとにたどり着いた罪でしょうか。そんなことを言うなら、救急車は罪深いという話になりかねません。別の意味を考えるほうがよさそうです。

私も調べました。イエスさまが「赦される」と、「赦す」の受動形を用いて主語をおっしゃっていないのは、当時のユダヤ教の言葉遣いだったそうです。ただし、ユダヤ教の場合、主語は必ず「神」であり、「神があなたの罪を赦す」という意味です。しかし、イエスさまがおっしゃったのはその意味だと考える必要はないという解説を読みました。主語は「神」ではなく、イエスさまご自身であり、「私があなたの罪を赦す」とおっしゃっているというのです。

また、別の解説(カール・バルト)に、イエスさまはこの言葉をその人の罪を“否定する”意味でおっしゃっているとも記されていました。しかし、その場合は、「あなたには罪がない」という意味ではなく、「あなたの病気の原因はあなたの罪ではない」という意味になるでしょう。

そして、その意味として最も近いか全く同じと言えるのは、ヨハネによる福音書9章1節以下のイエスさまのみことばです。生まれつき目の見えない人について、その原因は何か、だれが罪を犯したからかと尋ねたときイエスさまがお答えになったことです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)。

そういうことをイエスさまがおっしゃったからこそ、そこに居合わせた律法学者たちが反応しました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。そのように彼らが考えました。

ここでわたしたちが見落としてはならないのは律法学者の反応の中にある「口にする」という言葉です。イエスさまが「あなたの罪は赦される」と“言う”ことです。「言う」と「考える」は違います。律法学者が反応したのは、イエスさまがそれを“言った”ことに対してです。

イエスさまは口を滑らされたわけではありません。自覚的・意図的に「わたしがあなたの罪を赦す」と宣言されました。この点が当時のユダヤ教と激突したと考えられます。なぜならユダヤ教にとって「罪の赦し」は複雑で多岐にわたる儀式を経てやっと実現することだったからです。イエスさまのように「言うだけ」で十分なら、複雑な儀式も、儀式を行う宗教者も、儀式のための宗教施設も、すべて否定されてしまい、無用の長物同然になるからです。

これでお分かりでしょうか。律法学者たちにイエスさまが「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と質問されたことの答えは、どちらでしょうか。

正解はどこにも記されていませんが、おそらく正解は「あなたの罪は赦される」と“言う”ことのほうが「易しい」です。面倒な儀式よりも、罪の赦しを“宣言する”ほうが簡単です。

いま痛みに苦しみ、悩んでいる人の心の中に「この私の苦しみや痛みは自分の犯した罪のせいなのか。私が悪いのか。私のどこが悪いのか。私は何も悪いことなどしていない」と義人ヨブのように葛藤し、苦悶する思いがもしあるならば、「あなたのせいではない!」と宣言することで、その人の心の重荷を軽くするために、面倒な儀式は要りません。言葉だけで十分です。

そして、そのことをなさったうえでイエスさまは、中風の人に「起きて、床を担いで歩け」とお命じになり、その人は歩けるようになりました。

わたしたちはイエスさまと同じ奇跡を行うことはできません。しかし、イエスさまと同じ方法で人の心の中から重荷を取り去り、軽くすることはできます。

石川献之助先生が、ご自身と私との共通のルーツを見出してくださったのは、今からちょうど50年前のクリスマス(1971年12月26日)に6歳になったばかりで幼稚園児だった私に成人洗礼を授けてくださった日本キリスト教団岡山聖心教会の永倉義雄先生が、救世軍士官学校の卒業生だったことです。石川先生のお父上の石川力之助先生も、救世軍の方でした。

もっとも私は救世軍についてほとんど知識はありませんし、永倉牧師から救世軍について特別多くのことを教えてもらった記憶はありません。それでも少しくらいは学んでおきたいと思い、つい最近のことですが、日本で最初の救世軍士官、山室軍平氏(1872~1940年)の『平民の福音』(初版1899(M32)年)を読みました。その中に今日の箇所に通じることが書かれていましたので、この機会にご紹介いたします。

「私共はまず、第一に、これまでの罪とがのゆるさるるため、又たましいを生まれかわらせていただくために、神様に祈とうせねばならぬ。そうして既にそのお祈が聞き届けられ、救いの恵みを受けたものは、進んでこれまでのあしき癖や、又は種種なる信仰上のさまたげに打勝つために、神様に祈らねばならぬ。(中略)

祈に面倒臭い儀式などない。子が親に物を言うに、なんでそんなによそよそしい切り口上がいり用なものであろう。(中略)

唯だ大切なるは真実をもって神様に祈ることである。又神様が祈をおききなさると信仰することである」(山室軍平『平民の福音』第520版、1975(S50)年、75~76頁)。

なんとシンプルでしょう。山室氏によると、罪が赦されるために祈らなければならない、祈りに面倒な儀式はない、子どもは親によそよそしいことを言わなくていい、真実をもっての祈りを神様が聞いてくださっていると信じて祈るだけでいい、というのです。私は全く同意します。

面倒な儀式よりも、真実の祈り。それこそがわたしたちをいやし、慰め、助けます。

(2022年2月20日 聖日礼拝)

2022年2月13日日曜日

からし種のたとえ(2022年2月13日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


「からし種のたとえ」

マルコによる福音書4章21~34節

関口 康

「それ(神の国)は、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

今日の箇所にも、先週の箇所に引き続き、イエスさまのたとえ話が記されています。内容的な関連性もあります。先週の箇所は「種蒔きのたとえ」でした。今日の箇所は、種を蒔く人が蒔くその種そのものについてのたとえです。

内容に入る前に、私に思いつくままの感想を述べさせていただきます。それは、イエスさまのたとえ話の中に先週の箇所の「種蒔きのたとえ」なり、今日の箇所の「からし種のたとえ」なり、あるいは「ぶどう園の農夫のたとえ」(マルコ12章1節)など農業そのものや農場経営に関するものがかなりあるのはなぜだろうという問いです。

それは当時のユダヤ民衆にとって身近な題材だったからというだけでなく、イエスさまご自身が何らかの仕方で農業そのものに取り組まれたか、農業の知識をお持ちだったからではないかということです。あくまで私の感想です。

対照的なのは使徒パウロです。実際にその点について指摘する人の意見を伺ったことがあるのは、パウロには農業の知識がないと言われても仕方がないことが書かれているということです。

それは、ローマの信徒への手紙11章17節以下で、ユダヤ人と異邦人の関係を野生のオリーブを栽培されているオリーブに接ぎ木することにたとえる話です。農業の知識がある人なら、そのようなことは絶対しない、というわけです。

あくまでたとえ話なので目くじらを立てるべきでないと言って済むかどうかは難しい問題です。気になる人にはとても気になるようですので、間違いならば間違いであることを認めたうえで、反省しなくてはならないでしょう。

このことで申し上げたいのは、知識を持つことと、そのことに実際に携わること、そのことについて経験することは、やっぱり違うし、経験が物を言う場面は少なくないことを認めざるをえないということです。

「私も」と言っておきます。私も10代、20代の頃は人生経験の長さや豊かさを振りかざす大人たちが大嫌いでした。年数で敵いっこないのですから、そんなことを持ち出されるのは横暴だと反発する人間でした。しかし、この年齢になってやっと「経験」は大切であると悟るようになりました。だからといって経験年数の長さで若い人を威圧するような真似だけはしたくないと思いますけれども。

さて、今日の箇所ですが、「からし種のたとえ」です。同じ趣旨のたとえが「パン種のたとえ」です。ルカによる福音書13章18節以下の段落に新共同訳聖書が「『からし種』と『パン種』のたとえ」という小見出しを付け、2つのたとえが続けて出てくることからも、趣旨が同じか、少なくともよく似ていることが分かります。

「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる』」(ルカによる福音書13章18~20節)。

「からし種」はマスタードの種です。「パン種」はパン生地に入れる酵母です。共通しているのは、種そのものはとても小さい、ということです。しかし、小さなからし種が大きな木になり、小さなパン種がパン全体を大きく膨らませる、ということです。小さなものの影響範囲は小さくない、ということです。それは良い意味にもなり、悪い意味にもなります。

悪い意味の話は避けたい気持ちになります。感染症の問題はすぐにお気づきになるでしょう。世界のどこか一点から始まったことが全世界に広がりました。悪い例を挙げて「同じように」と続けないほうがよいでしょう。「からし種のたとえ」は良い話です。今から2千年前たったひとりのイエスさまが、ガリラヤ湖の湖畔の漁師の町で、神の国の福音を宣べ伝える働きを始められ、そこで蒔かれた小さな種が、芽生え、育って、実を結び、今日の世界の教会があります。

その話を感染症と結び付けないほうがよいことは明らかです。しかし、いま私が申し上げたいのは「世界と歴史はひとつにつながっている」ということです。

原因と結果を単純に結びつけて数学的・物理的な「因果法則」や宗教的・哲学的な「因果応報」のようなことだけで考えるのは狭すぎます。世界も歴史もボタンを押せばそのとおり動く機械ではなく、必ず人間の意志や感情など、精神的(スピリチュアル)で人格的(パーソナル)な要素が絡んでいるからです。

そのような要素を含めた意味での「出発点」と「現在」の関係が、「種」と「実」の関係であり、それがイエスさまの宣教と、現在の世界のわたしたちキリスト教会の存在との関係です。そのことを世界の歴史が証明しています。

しかし、ここでこそわたしたちが大いに驚かなくてはならないのは、今から数えれば2千年前のイエスさまが、ご自分の宣教活動は「種蒔き」であって、種そのものは小さなものに過ぎないが、必ず大きな木になるとおっしゃったことが、世界の歴史の中で事実になったことでしょう。歴史の中で消えた宗教や哲学は数え切れません。その中でイエス・キリストの教会は失われず、歴史を重ね、今日に至っています。

それはまるでイエスさまが、2千年後のわたしたちひとりひとりの名前を知り、心の中をご存じであり、今日わたしたちが教会に来て礼拝をささげることをご存じであるかのようです。事実、イエスさまはご存じです。「わたしが蒔いた種が結んだ実(み)はあなたである」と、今は天の父なる神の右に着座されているイエスさまが、おっしゃっています。

反面、わたしたちが自分自身に問いかけなくてはならないこともあるでしょう。わたしたちは今から2千年後のことを考えているでしょうか。特に「教会の将来」について。2千年後と言わずとも、せめて20年後でも。あるいは30年後。

「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals)(エスディージーズ)は大事です。「持続可能な教会目標」(Sustainable Church’s Goals)(エス“シー”ジーズ)を考えることは無意味でしょうか。そのことを考えることに意味を見出すことができるでしょうか。それどころではないでしょうか。自分の生活、自分の問題で精一杯でしょうか。

今年11月、昭島教会の創立70周年を迎えます。30年後、どうしたら100周年を迎えられるかをみんなで考えようではありませんか。

(2022年2月13日 聖日礼拝)