日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
ヨハネによる福音書10章7~18節
関口 康
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
ゴールデンウィークの最中です。気分転換も必要です。今日はいつもと少し趣向を変えたお話をさせていただきます。それは、聖書の読み方に関する問題です。
ヨハネによる福音書について非常に詳しく解説された注解書をルードルフ・ブルトマンという20世紀のドイツ人の新約聖書学者がドイツ語で書いたものの日本語版が、2005年3月ということは今から17年前ですが、日本キリスト教団出版局から出版されました。
ドイツ語原著は1941年に出版されましたが、画期的な名著として有名になりました。私もそのドイツ語版を持っています。しかし、ドイツ語に苦手意識を持っている私には歯が立ちませんし、ドイツ語の昔の印刷書体(ひげ文字)で書かれていて、見ているだけで頭が痛くなるものです。
しかし、難解な注解書の日本語版が出版されたと今から17年前に知り、大喜びしたのですが、それも束の間、定価を見て落胆しました。18,900円。とても買う力がありませんでした。
しかし、喜んでください。昭島教会にブルトマン『ヨハネの福音書』(杉原助訳、大貫隆解説、日本キリスト教団出版局、2009年)があります。教会の財産です。教会員の方はもちろんお読みいただけます。ご関心のある方はぜひ読んでみていただきたいです。
わたしたちが聖書を読むときに大事なことが最低でも2つあります。1つは聖書に何が書かれているかを著者の心の側に立って考えることです。特に大切なのは、わたしたちの側から「こういう意味であってほしい」という願いや思い込みがある場合はそれをいったん横に置くことです。自分が読みたいように読むのでなく、著者の意図を読み取ることが大事です。
2つめは、そのようにして読み取った著者の意図と今のわたしたちの関係を考え抜き、著者は「この私」に何を語ろうとしているかを明らかにすることです。その場合「聖書の著者はだれか」という問いに対しては、究極的な意味では、イエス・キリストを通して聖霊によって人の中からお選びになった著者の心と筆を用いて神おんみずからがお書きになったと信じる信仰が最終的に重要になります。短く言えば、聖書の著者は神さまです。神さまが「この私」に「何」を語ろうとしているかを知ることが、聖書を読むときに重要です。
しかし今、2つ言いました。その両方が大事だということです。2つめの「今のわたしたちに神が何を語っておられるか」を知るためにこそ、1つめの「聖書の歴史的解釈」が必要です。そちらのほうをしっかり理解するために、ブルトマンの注解書なども熟読すべきです。
それで今日は、私の考えや気持ちは少し横に置いて、ブルトマンが今日の箇所について書いていることを皆さんに紹介したいと思いました。
ところどころ、ブルトマンの表現をそのまま引用しながら言います。今日の箇所の直前の10章1節から3節までに「羊飼いが盗人や強盗とはどう違うか」が描かれています。羊飼いは「正規の門を通って囲いの中の羊のもとに行く」が、「門は門番によって彼には開かれているのに対し、盗人には閉ざされているため、盗人は塀を乗り越えなければならない」が、「塀を乗り越える盗人を羊たちは恐れる」とブルトマンが書いています(同上書、296~297頁)。
しかしブルトマンによると、だからといって「まるで羊の群れが疑い深く批判的な集団であるかのように」描かれているわけではなく「羊たちは羊飼いを本能的な確かさによって見分けることが明らかにされねばならない」ので「羊たちが〔本物の〕羊飼い〔かどうか〕を見分けるための基準が示されなければならないわけではない」と言います(同上箇所)。よく分かる話です。
しかし、ここから先のブルトマンの解釈は圧巻です。このたとえの中に、羊飼いが「規則的、日常的に彼の羊の群れのもとに来て、羊たちを牧場に連れ出すという事実を解釈の中に持ち込んではならない」(297頁)と言います。言い換えれば、羊飼いは羊たちとふだんから行動を共にしているので本物かどうかが分かるという解釈を持ち込んではならないということです。
なぜなら、この箇所の「羊飼い」はイエスさまを指しているからです。ヨハネによる福音書は、イエスさまは「言(ことば)が肉となって」(1章14節)ただ一度だけ神のもとから到来された方であると教える書です。一度だけ来られた方のことを、以前からよく知っているし、いつも一緒にいるから羊はその相手が本物の羊飼いかどうかが分かると言えるわけがない、ということです。
それでブルトマンが言うのは、このたとえの中の「羊」は、キリスト教共同体(すなわち教会)にまだ属しておらず、世に散らされている人たちを指している、ということです(297~298頁)。つまり、「羊」にたとえられている存在が「羊飼い」にたとえられているイエスさまをずっと前から知っていたわけでなく、むしろまだ出会ったことがなく、初めて出会う関係だというわけです。だからその存在はまだ教会員になっていないというわけです。
それならどうして初対面なのに本能的に本物だと分かるのかといえば、イエスさまが「真理」を語られる方だからです。しかし、「(キリスト教共同体に属していない)羊が集まって共同体になることによってはじめて彼の羊の群れになるのではない」(298頁)ともブルトマンは言います。そうではなく、「イエスを羊飼いとする羊の群れ」こそが「教会」であり、「教会は(中略)羊飼いの声に従うことによって実現されるべき羊の群れである」(同上頁)と言います。
ここから先に申し上げることは、ブルトマンが書いていることではありません。私も「牧師」なので「羊飼い」と呼ばれることがあります。しかし、今日の箇所のたとえを牧師に当てはめるのは間違いです。イエスさまを差し置いて、その人が「羊飼い」を名乗り、羊に向かって「わたしに従いなさい」と言い出す牧師は、正規の門から入らず、塀を乗り越えて入る盗人や強盗の側にいるのと同じです。
今日の箇所の「羊飼い」を当てはめてよいのはイエスさまだけです。たとえば「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(11~12節)を、牧師一般に当てはめてはいけません。
ヨハネによる福音書でイエスさまが「わたしは~である」(エゴー・エイミー)と語られるとき、神がモーセに「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)とご自身を啓示されたのと同じ意味があります。そのことをブルトマンも書いています。イエスさまが語る「わたしは~である」(エゴー・エイミー)は排他的で絶対的な意味です。「わたしこそ、わたしだけがあなたの羊飼いである」と語られているのと同じです。
イエスさまだけが、わたしのために命を捨ててくださいました。イエスさまだけが、わたしの羊飼いです。そのように信じる羊の群れが「教会」です。わたしたちはこれからも「良い羊飼い」であるイエスさまの御声に従って生きて行こうではありませんか。
(2022年5月1日 聖日礼拝)