日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 ハレルヤハレルヤ 328番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
ヨハネによる福音書13章31~35節
関口 康
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
今日の聖書のみことばは教会の教えにおいて根本的な意味を持っています。わたしたちの救い主、神の御子イエス・キリストご自身の言葉としてヨハネによる福音書が記しているものです。
これはイエス・キリストが十字架にかけられる前の夜に行われた最後の晩餐のとき、弟子たちに語られた言葉です。しかし、「ユダが出て行くと」(31節)と記されていますので、そこにいたのは11人の弟子たちだということになります。
しかし、いま申し上げたことを狭くとらえて、イエスさまが「互いに愛し合いなさい」と命令されたのはイスカリオテのユダを除く11人だけであって、ユダは愛の対象外であるというような意味が含まれている、などと考えるべきではありません。裏切り者がやっと部屋から出て行ってくれたから安心して真実を話せるようになった、というような話ではありません。
それどころか、むしろ正反対に、イエスさまはユダにこそ、このことをおっしゃりたかったのではないかと、私には思えてなりません。なぜ愛し合うことができないのか。なぜ裏切るのか。もう一度考え直してほしいと。しかし、この点は私個人の想像の域を出ません。
そして、もっと大事なことがあります。この教えが最後の晩餐の席で語られたということは、人間的な言い方をお許しいただけば、つまりそれは、イエスさまが御自身の処刑と死を強く意識なさったうえでの遺言(ゆいごん)であることを意味します。もしそうなら、ユダを含むか含まないかはともかく、その場にいた弟子たちだけにイエスさまがおっしゃっているのではないことは明らかです。
なぜなら、最後の晩餐でイエスさまが弟子たちにお語りになったことのすべては、全世界の全歴史の全人類に対して、ご自身の言葉を伝えてもらいたいというご意志をお持ちだったからです。
「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を守ってもらいたいという願いをイエスさまが具体的にだれに対してお持ちになったのかと、もし考えるとすれば、狭い範囲に限定して考えてよいことでは全くなく、全世界の全歴史の全人類に対してであると、わたしたちは躊躇なく考えなければなりません。例外があるかどうかはイエスさまがお決めになることです。わたしたちが勝手に決めることはできません。
「あの人は愛せるが、この人は愛せない。わたしたちの愛は選り好みをする。互いに愛し合いなさいと、たとえイエスさまがおっしゃったことだと言われても、だめなものはだめ。愛せない人は愛せない。そのような罪深いわたしたちの身代わりにイエスさまは死んでくださって、わたしたちの罪を赦してくださった。わたしたちが選り好みをしてしまうこともイエスさまは赦し、受け入れてくださっているので、安心してよい」という論法が成り立つかどうかは、ぜひ考えていただきたいことですが、私個人は無理だと考えています。
今日もまた、いつもとはいくぶんか趣向を変えたことをお話ししたいと思い、そのような準備をしてきました。「母の日」のことを話すべきかもしれませんが、申し訳ありませんが、その準備はありません。
今日お話しするのは、私個人がまだほとんど全くその正体を見抜くことができておらず、本質を理解することができていない、現在起こっている「戦争」についてです。
ただし、「戦争」が始まると、一方に偏っていない情報を入手することが困難な状況になりますので、現時点で第三者の立場にいる者は、不用意な発言を控えなければなりません。
特に今はインターネットがあります。宣教要旨をメールで配布したりブログで公開したりしています。予想がつかない範囲に悪影響を及ぼす可能性が否定できません。
しかし、比較的最近になって報道されるようになったことの中に、この「戦争」の一方の当事者とその国のキリスト教の指導者が深い関係にあるという情報があります。
キリスト教についてはわたしたちに責任があります。無視することはできません。
そう考えて、その人の著書を探し、4月21日にインターネットで注文しました。ロンドンの書店で、4月25日に発送され、ようやく昨日(5月7日)届きました。注文から16日、発送から12日かかりました。
本のタイトルは『自由と責任』(Freedom and Responsibility)で、副題が「人権と個人の尊厳の調和についての研究」です。原著はロシア語ですが、とても読みやすい英語で訳されています。読書に夢中になりそうでしたが、読みふけると日曜日に差しつかえるので最初だけ読みました。
実に明快な文章です。英訳者が優れているのだと思います。そして驚くほどプロテスタントに対する強烈な敵意が表現されていました。核心部分と思える箇所を、拙訳でご紹介いたします。
「真の問題は、現在の世界において国民が霊的に健全さを保つために、彼らの宗教的・歴史的な自意識をエイリアンの破壊的な社会的文化的要素から保護するバリアがないことにある。世界の脱工業化に影響された、いかなる伝統(tradition)とも無関係の新奇な生活様式からも、彼らを守れない。
新奇な生活様式の土台にリベラル思想があり、それが異教的な人間中心主義と手を結んでいる。その人間中心主義は、ルネッサンス期にヨーロッパ文化に入り込んで来た、プロテスタント神学とユダヤ人の哲学思想である。啓蒙主義の時代が終わりを迎え、彼らの思想がひとつのリベラル原理を形成した。その精神とイデオロギーの絶頂点が、フランス革命である。あの革命の根本にあったのは、伝統(tradition)が持つ規範的な意義を拒絶することだった。
あの革命はどこで始まったか。宗教改革である。宗教改革者たちが、キリスト教の教義を扱う場で、伝統(tradition)が持つ規範的な意義を拒絶した、あのときから始まっている。
プロテスタントでは、伝統(tradition)は真理の基準ではない。信者の個人的聖書理解や個人的宗教体験が彼らの真理の基準である。プロテスタンティズムの本質は、キリスト教のリベラルな解釈である」(Patriarch Kirill of Moscow, Freedom and Responsibility: A Search for Harmony – Human Right and Personal Dignity, Moscow Patriarchate, 2011, p. 5-6)。
この文章を紹介するのは、「理解」が必要だと思うからです。「戦争」を肯定する意図は私には全くありません。残虐行為にいかなる言い逃れの道もありません。しかし、いかなる「戦争」も必ず終わらせなければなりません。問答無用だとは思いません。何度でも平和を取り戻すために、「互いに愛し合う」ためにわたしたちにできるかもしれないことは、まだ残っています。
(2022年5月8日 聖日礼拝)