2021年7月11日日曜日

生活の刷新(2021年7月11日 主日礼拝)

昭島教会へようこそ
落ち着いた礼拝堂です

  
536番 み恵みを受けた今は 奏楽・長井志保乃さん

「生活の刷新」

使徒言行録19章11~20節

関口 康

「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

今日の朗読箇所と宣教題も、これまでと同じように日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。

日本キリスト教団がそうすることを諸教会に求めているのではありません。あくまで便利に利用させてもらっているだけです。しかし、自分で考えて決めると、自分の狭い興味や関心の中で話してしまうので、それを防ぐメリットがあります。

今日の箇所もそうです。私にとっては自分で選ぶことがまず無いような箇所と宣教題です。

「生活の刷新」という宣教題も『日毎の糧』から戴いた表現です。面白がって使わせてもらいました。現在は、いろんな言葉の意味をインターネットで調べることができます。

「刷新」という言葉を調べてみたところ、複数の辞書を見比べて共通している要素は、「刷」にペンキやほこりを払う「刷毛(はけ)」という道具があるように「こすって清める、はく」という意味があり、つまり従来のあり方の中の悪い部分を取り除く仕方で、よりよき新しいあり方へと変えることを指すと分かりました。

類語として「更新」や「革新」などがあるけれども、それぞれ意味が違うというようなこともずいぶん詳しく説明してくれているウェブサイトも見つけました。

聖書日課の作者がそこまで考えて付けた題かどうかは分かりません。しかし、たしかに今日の聖書箇所に記されているのは、いま申し上げた意味での「刷新」であるということを、このたび学ばせていただきました。

今日の箇所の出来事は、使徒パウロが生涯で3回行った伝道旅行の、3回目のときに起こったことです。19章1節に「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」と記されていることから、彼がエフェソで遭遇した出来事であることが分かります。

エフェソでのパウロの姿に、少し前の17章に描かれていたアテネにいたときとは違う宣教姿勢を読み取ることができるかもしれません。アテネのパウロは「憤慨」(17章16節)していました。「あなたが説いている新しい教え」を聞かせてもらいたいと興味本位で集まってきたアテネ市民に対して腹立ちまぎれの当てこすり説教をするパウロの姿が描かれています。

しかし、エフェソのパウロについては、反対者との直接対決を避ける姿勢があったかのように描かれています。「ある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた」(9節)とあるとおりです。

元々パウロが攻撃性と柔軟性を兼ね備えた人だったのか、それともアテネで示したあからさまな攻撃性が宣教の妨げになったことに自分で気づくなり反省したりして、エフェソを訪れた頃には柔軟な姿勢を学んでいた、というようなことが言えるかどうかは分かりません。しかし、教会の宣教のあり方を考える際の大切な問題が含まれていると私には思えてなりません。

「押してダメなら引いてみろ」と言うではありませんか。全く異なる文脈で用いられる言葉かもしれませんが、全く無関係でもなさそうです。

しかし、今申し上げていることが「生活の刷新」を意味すると申し上げたいのではありません。パウロが自分の宣教姿勢を反省して、強引で攻撃的なものから柔軟なものへと変化させたことがそうであると。そのことが大事でないとは申しませんが、もっと大事なことは、パウロの宣教によって、エフェソの人々の側に「生活の刷新」がもたらされたことです。

今日の箇所で特に興味深いのは、ユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちが、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という言葉で悪霊払いをする祈祷師のようなことをしていたと書かれていることです。すると、悪霊が彼らに言い返してきた、というのです。

「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と悪霊が言い出して、このスケワの7人の息子を含む祈祷師たちに飛びかかって来て、押さえ付けて、ひどい目に遭わせて、彼らを裸にして、傷つけてきたので、逃げ出したというようなことが書かれています。

悪霊払い(エクソシズム)については、昔の映画「エクソシスト」で描かれたような怪奇現象が本当にあるのかどうかは、私には全く分かりません。しかし、世界は広いです。わたしたちの知らないことがまだまだ多くあるかもしれない、と言うだけにとどめておきます。

「生活の刷新」に該当するのは、ここから先です。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という呪文で悪霊払いをしようとした祈祷師たちが悪霊から反撃を受けたといううわさが広がったことで、エフェソの人たちがすっかり恐れを抱いて、信仰に入ったことが記されています。きっかけはなんでもいいかもしれません。

そして、そのうえで、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」(18~19節)と書かれています。

ここが今日の箇所の核心部分です。「刷新」の意味は「過去の悪いものを刷いて新しくすること」です。キリスト教以外の宗教のすべてが「悪い」と私が言いたいのではありません。各自が自分で気づいて判断するしかない面があります。第三者が命令したり強制したりしてどうなるものでもありません。

しかし、「この道が正しい」と信じた人が、それまで信頼してきたものを抱え込んだままであるか、それともこれまでのもの、過去のものは、きっぱり捨てるかで、その後の歩みに違いが出てくるかもしれません。そのことについては、黙っていないほうがよいでしょう。

エフェソの人たちがキリスト教を受け入れたとき「自分たちの悪行をはっきり告白した」(18節)とか、魔術を行っていた人たちもその書物を「焼き捨てた」(19節)と書かれていることの意味は大きいです。

「銀貨五万枚」は、現在の5億円ほどです。「そんな勿体ないことを、どうして」と考える方もおられるでしょう。焼き捨てたりしないで「魔法図書館」を建てて保存しておけば、21世紀の今ごろ、多くの研究論文のテーマとして取り上げられたかもしれないのに、と。

そういう考えも一理あるかもしれません。しかし、そこから先は各自の判断です。わたしたちは宗教学者になるのか、それともイエス・キリストの十字架を目指して生きるキリスト者になるのかの分かれ道が、いずれ訪れるでしょう。

(2021年7月11日 主日礼拝)

2021年7月4日日曜日

祈り(2021年7月4日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

  
讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん


「祈り」

テモテへの手紙一2章1~7節

関口 康

「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」

先週6月27日(日)一人の姉妹の洗礼式が石川献之助名誉牧師の司式によって行われました。主にある仲間が新たに教会に与えられましたことを心から慶び、感謝しています。

キリスト者としての信仰生活の基本は、主の日ごとの礼拝と日ごとの祈りと賛美にあります。もちろんそこに聖書の学びが含まれます。しかし、おそらくどのキリスト教の入門書を見ても、聖書はキリスト教の「正典」であり、「正典」は英語でcanonと言い、「ものさし」や「基準」という意味で、わたしたちの心や日々の生活と照らし合わせながら、神に喜ばれるよりよき人間へと成長するためにあるという趣旨のことが記されています。

それが何を意味するのかを分かりやすくするために少し大げさな言い方をお許しいただけば、聖書そのものはものさし以上ではないということです。ものさしも大事です。しかしそれで測るもののほうがもっと大事です。私たちの心と生活、そして長きにわたる人生のほうが大事です。わたしたちが自分の人生を大切にし、家族や社会、そして教会の仲間と共に、喜んで生きていくために聖書が役立つことがありうるというくらいの線で十分すぎるほどです。

このように申し上げることは、石川先生が過去70年昭島教会で教えてこられたことと軌を一にしていると私は信じています。聖書そのものは、今のわたしたちにとっては、古代文献であるという以外に表現のしようがありません。書かれている内容は、新約聖書は2000年前、旧約聖書は4000年前から2400年前ほどまでの事実とも伝説とも区別をつけにくい事柄です。わたしたちは、そのようなことをあくまで参考にしながら、今の時代の中で現実的に生きることが大切です。

最近私は、学校の授業の中でちょうど40年前の日本のテレビで放送された「アニメ親子劇場」(1981年)や「トンデラハウスの大冒険」(1982年)といった聖書物語を描いたアニメを見せています。40年前は私が高校生だったころです。

その内容は、かわいらしい主人公や友人がタイムマシンで聖書の時代の世界まで飛んで行き、そこで起こる出来事を聖書の登場人物たちと一緒に体験したうえで、もちろん必ず再び現代社会に戻ってきて自分の心や生活について反省するというものです。その「現代社会に戻ってくること」が重要であって、聖書の時代に行ったきり、戻って来られなくなるようでは意味が無いのです。

学校の話は教会ではあまりしないようにしています。しかし私は教会にいるときと学校にいるときとで異なる人格を使い分けているわけではありませんし、していることに差があるわけでもありません。学校でも私は「聖書の知識は程々で良いので、それよりも今の時代をどう生きるかのほうが大切だ」と教えています。教会の皆さんにも全く同じことを申し上げたい気持ちです。

今日はテモテへの手紙一2章1節から7節までを朗読しました。この手紙は使徒パウロが弟子のテモテに書き送ったものであると、冒頭の挨拶の中に記されています。本当にこれをパウロが書いかどうかについての議論がありますが、その問題には立ち入らないでおきます。

そのことより大事なことは、今日の箇所に記されている内容に基づいて、西暦1世紀の教会の中で「祈り」についてどのように理解されていたかを知ることです。そして、わたしたち自身の祈りのあり方を吟味し、よりよき信仰生活を送るように成長していくことです。

「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)とあります。「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」と、4つの言葉が並んでいます。「それぞれの意味と違いを述べなさい」という試験問題になりそうですが、私もうまく答えることができません。

この4つに明確な区別がもしあるとしたら、たとえば「願い」と「祈り」の違いは何かという問題を考える必要があるでしょう。比較的分かりやすいのは「感謝」です。わたしたちは「願い」ばかりを祈るのではなく、神の恵みに対する「感謝」を祈ることが大切であると言えそうです。

さらに、それとは区別される「執り成し」は、対立関係にある甲と乙の仲介役になることです。最も深刻な対立関係にあるのは、神と人間です。つまり、神と人間の間に立って祈ることが大切だということになるかもしれません。しかし、今日の箇所に「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(5節)とも記されています。そうなりますと「執り成しの祈り」は人間には不可能であると言わなくてはならないかもしれません。こういうことは、考えれば考えるほど、深い謎の森の中に入っていくでしょう。

「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」の区別の問題も大事かもしれません。しかし最も大事なのは、それらの祈りを「すべての人々のために」ささげなさいと言われている点でしょう。その「すべての人々」は、どう間違えてもキリスト者である人々だけを指していないという点が大事です。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(2節)と言われているとおりです。言うまでもないことですが、西暦1世紀の世界にキリスト教会で洗礼を受けた王は存在しませんでした。キリスト教国もキリスト教政党も全く存在しませんでした。

「王たち」(2節)がどの王かは分かりません。しかし、旧約聖書に登場するような、たとえば紀元前11世紀のサウル、ダビデ、ソロモンの各王のために祈りなさいという意味ではありません。そうではなく、そのときそのときの世界を支配する政治的支配者のために祈りなさいという意味です。キリスト教会にとっての迫害者や敵対者のために祈りなさいという意味です。

なぜそのような人のために祈るべきでしょうか。その人たちも、イエス・キリストへの信仰によって救われるべき存在だからです。わたしたちは、政治的支配者になるような人は、常に悪意に満ちていて、聖書に示されている神もイエス・キリストも信じることはありえず、キリスト教的行動をとることもありえない、ということを確信すべきではありません。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4節)とあるとおりです。

神が全世界と全人類とに強い関心を持っておられるのです。もちろん牧師だけでなく、すべてのキリスト者が、教会から世界へと派遣され、救いのみ言葉を告げ知らせるべきなのです。

すべての人が教会に来て洗礼を受けて、教会が栄えることを祈りなさいという意味かどうかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。

20世紀の教会は「教会の外」に「隠れたキリスト者」がいるという議論を、盛んにしました。キリスト教信仰に立っていないが、生き方と行動においてはキリスト者よりはるかに優っている人々がいるというようなことも、しばしば語られました。

私は「そうである」とも「そうではない」とも言いません。教会とキリスト者に対する期待と希望を持っています。それが正しいかどうかも分かりません。「私はそう祈る」と、申し上げたいだけです。人それぞれの祈りを妨げるべきではありません。

(2021年7月4日 主日礼拝)

2021年6月27日日曜日

主にある共同体(2021年6月27日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 402番 いともとうとき 奏楽・長井志保乃さん


「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」

今日の朗読箇所は、新約聖書の使徒言行録4章32節から37節までです。この箇所に描かれているのは、イエス・キリストの復活と昇天、そして聖霊降臨の出来事が起こってまもなくの頃の初代のキリスト教会の姿です。

よく似た内容の記事が、2章43節から47節までにもあります。そちらのほうから先に読むと、「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(2章44~45節)とあります。今日の箇所にも「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(4章32節)とあります。

さらに「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」(4章34~37節)とあります。

これで分かるのは、今日の箇所に描かれている時期の初代のキリスト教会の人々は、自分たちの持ち物や財産を共有し、ひとりも貧しい人がいないように分配していたということです。初代のキリスト者人口がどれくらいだったかについては、4章4節に「男の数が五千人ほどになった」とあるのを信頼すれば、女性と子どもを含めて1万人ほどではないかと想像できます。それだけの人々が自分の持ち物や財産を売ってお金に換え、全部集めて使徒の足もとに置いたという話が事実であれば、それなりの金額にはなっただろうとも想像できます。

先ほどから「信頼するとしたら」とか「事実であれば」と、やや引っかかる言い方をしているのは、使徒言行録が描く初代教会の姿は完全な作り話であるなどと言いたいからではありません。他の箇所についてはかなり批判的な解釈をしている註解書を見ても、今日の箇所に記されていることはおそらく事実であろうと記しています。

財産共有について、他に例がなかったわけでもありません。古代ギリシアの哲学者プラトンやピタゴラスといった人々が財産共有の理想を提唱していたとされます。また西暦1世紀のユダヤ教の中に財産の共有を義務づける教えを持つグループがあったと言われます。初代教会の人々が実際に財産共有をしていたとしても、人類史上初めての実践であるとは言えません。

しかし、他の実践例と初代教会のあり方との違いがあることは明らかにしておくべきでしょう。そのことを考える際に重要な点は、初代教会の中心にいたのは、十字架につけられる前のイエスさまとの生きた交わりの中でイエスさまご自身から直接教えを受けた人々だったということです。ペトロにせよヤコブにせよヨハネにせよ。それが意味することは、今日の箇所が描く初代教会の姿は、イエスさまの教えとは無関係の、全く別の原理によるものではないということです。

よく知られているのは、まだ漁師であったペトロとその兄弟アンデレにイエスさまが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたとき、「2人はすぐに網を捨てて従った」出来事です。同じく漁師だったヤコブとその兄弟ヨハネも「舟と父親とを残して」イエスに従いました(マタイ4章18~22節など)。

また、イエスさまは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいました(マタイ16章24~25節など)。

しかし、実際の弟子たちはどうだったかといえば。マルコ1章29節に「シモンとアンデレの家」と記されています。「シモン」はペトロのことです。つまり、ペトロはイエスさまの弟子になった後も、カファルナウムに自分の家を持っていました。その家にペトロの家族が住んでいました。そして、その家をイエスさまが宣教拠点とされ、弟子たちと一緒に遠くにお出かけになっても、再びその家に帰ってこられる様子が描かれています。

このことは、ペトロがイエスさまのために自分の家を差し出した、と考えることができるかもしれませんが、それがペトロの持ち家であることには変わりないので、その意味では、すべてをお金に換えて財産共有をしていたとは言えないでしょう。もしそうだとすれば、初代教会の最高指導者となった後のペトロが、自分がしていなかったことを他のキリスト者にさせるというのは、矛盾以外の何ものでもないでしょう。

しかし、いま申し上げていることの趣旨は、聖書がいかに矛盾に満ちた書物であるかを明らかにしたいというようなことでは全くありません。そうでなく、今日開いている使徒言行録が描く初代教会が実行していた「財産共有」の意味は何であるかを厳密にとらえる必要があるだろうと申し上げたいだけです。そしてそれは、イエスさまご自身の教えと行いに基づくものでなければならない、ということです。

そして、その場合、ペトロはたしかに「すべてを捨てて」イエスさまに従いながら自分の家を売らずに持ったままであり、その家をイエスさまが宣教拠点にしておられたことは、重要な事実です。そうすることが聖霊降臨後の初代教会においては全く放棄され、変質してしまったわけではないと考えることが、もちろん許されるのです。

もうひとつ言わなくてはならないのは、初代教会の「財産共有」は短い期間だけだったということです。問題が発生したりもして、別の形に変わっていきます。それを聖書は、教会の堕落として描いてはいません。

その時々の状況に対応するために、教会のあり方を変化させていったのです。なにがなんでも財産共有をしなければならないというような執着はありません。義務でも命令でもありません。すべてはあくまでも自発的なものであり、問題解決のためのひとつの手段だったにすぎません。

初代教会にとって大事な問題は、「すべての物を共有にし、財産や持ち物を売ること」自体ではなく、「心も思いも一つにすること」(32節)と「一人も貧しい人がいないこと」(34節)でした。別の方法でそれが実現するならば、やり方を変えることに何の問題もなかったと考えるべきです。そして最も大事なことは「大いなる力をもって主イエスの復活を証しすること」(33節)でした。

このことを私が強調するのは、洗礼を受けて教会員になるためには自分の全財産をお金にして、すべてを教会に献金しなければならないのだろうか、そのようなとんでもないことをキリスト教の人々は教えているのかというような、ありもしない誤解を避けたいからです。全く違います。初代教会においてすら、義務でも命令でもありませんでした。

現代の教会は、なおさらです。大丈夫ですので、自分の家と財産をしっかり守ってください。よろしくお願いいたします。

(2021年6月27日)

2021年6月20日日曜日

生涯のささげもの(2021年6月20日 主日礼拝) 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 515番 きみのたまものと 奏楽・長井志保乃さん

【付録】湘南の浜辺から江ノ島を望む(2021年6月18日)

「生涯のささげもの」

コリントの信徒への手紙二8章1~15節

関口 康

「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」

今日の朗読箇所は、使徒パウロのコリントの信徒への手紙二8章1節から15節までです。この箇所の趣旨は「献金のすすめ」です。

ただし、そのことがはっきり分かるようには書かれていません。回りくどい書き方だと言うのは言い過ぎです。しかし、パウロが言いにくいことを言いにくそうに書いている様子が伺えます。それはたとえば、この箇所のどこにも「お金」という言葉が用いられていないことから感じます。その代わりに用いられているのは「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」(4節)です。

ここで「聖なる者たち」の意味は、キリスト者であり、教会です。「慈善の業と奉仕」と聞くと今のわたしたちは、教会バザーのようなことをすぐ連想するでしょう。しかし、ここで言われているのは、パザーのようなことに限りません。

要するにここでパウロが求めているのは、わたしたちが自分の働きで得た収入のすべてを自分のために用いるのでなく、その一部を教会の働きのために献げることです。そのことを総称して「慈善の業と奉仕」と書いていますが、「お金」という言葉を用いるのを避けたがっているようにも見えます。

今日の箇所の内容は、大別すると以下の3つの部分に分けることができます。

(1)マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて(1~7節)
(2)慈善の業と奉仕は、命令ではなく、自発的に行う(8~12節)
(3)慈善の業と奉仕は、全体の釣り合いをとるために行う(13~15節)

第1の部分である「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて」の趣旨は例示です。「諸教会」と書かれているのは、単独の教会でなく複数の教会を指しています。今のわたしたちなら「教区」や「支区・分区」などの教会的な行政区を表現する名称を付けるであろう区域内の複数の教会を指していると言えます。

しかし、この当時に「マケドニア教区」というような名称が用いられるなどして明確な組織化がなされていたとは思えません。もう少し緩やかな仕方で、しかし実際に行われた「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」を例として挙げています。

そして印象深い言葉が2節に記されています。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(2節)。

「極度の貧しさがあふれ出る」というのがどのような状態を指すかは、献金をしてきたわたしたちは分かります。「豊かさ」ならば「あふれ出る」が当てはまりそうだが、どうすれば「貧しさ」があふれ出るのか教えてほしいと抗議口調で言いたい気持ちが起こらないわけではありませんが、実際に「貧しさ」は「あふれ出る」ものです。ただしこれは理屈では説明できないことです。実際に体験してみるしかありません、としか申し上げようがありません。不思議な、不思議な話です。

しかし、ひとつだけ説明できそうなことがあります。それは、ここで言われている「貧しさ」と、その対義語として「豊かさ」と言われていることは、保有しているお金の分量だけを指していないということです。それがはっきり分かるのが7節の言葉です。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(7節)。

これが、パウロが考える「豊かさ」の定義です。信仰、言葉、知識、熱心、そして愛されることにおいて豊かであることが真の「豊かさ」であるというのです。この中に「お金」がありません。そして「この慈善の業」は、具体的には教会の活動を支える献金を指しています。

つまりそれは、お金という点では自分の収入ではなく支出のほうなので、「慈善の業において豊かな者になる」は「豊かに献げる者になる」と言っているのと同じです。それが「極度の貧しさがあふれ出る」状態を示していると言えるでしょう。

このあたりで、現在の私自身の話をすると、まるで自慢話をしているように響いてしまうかもしれません。多方面に差しさわりが出るので、私の過去の経歴について詳しいことを明かすわけには行きません。

しかし皆さんはご存じのとおり、まだわずか3年前の2018年4月に昭島教会にたどりついたときの私は、パウロがコリントにたどりついたときの心境として「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(コリントの信徒への手紙一2章4節)と書いているのと同じ状態でした。その前年の2017年度の1年間、私は日本キリスト教団の無任所教師でした。

私が高校からストレートで東京神学大学に入学し、卒業と同時に日本キリスト教団の補教師になったのが1990年4月です。それ以来26年間、教会の牧師として働きましたが、27年目に無職を体験しました。牧師28年目に昭島教会に副牧師としてお招きいただき、アマゾンの八王子倉庫で週30時間アルバイトをしながら、石川献之助先生をお助けすることを始めました。

その1年後(2年前)に明治学院中学校東村山高等学校(東京都東村山市)で聖書科非常勤講師の職を得て、アマゾンをやめました。さらに翌年(昨年)、アレセイア湘南中学校高等学校(神奈川県茅ヶ崎市)でも非常勤講師になり、今年から上記2校に加えて平和学園小学校(同上所)でも教えています。

つまり今の私は、昭島教会の牧師と、2つの中高一貫校と1つの小学校で聖書科の非常勤講師であるという状態です。「極度の貧しさがあふれ出る」とはこういうことを言うのかもしれません。教会の皆さんを傷つける意図などは全くありませんが、今の私が金銭的に豊かかどうかは皆さんがご存じです。

また、信仰、言葉、知識については、豊かでないと務まらないはずの職責にありながら、覚束ないところが多すぎて、皆さんを不安にするばかりで申し訳なく思っています。

しかし、ひとつだけは自信があります。パウロの言葉を借りれば「わたしたちから受ける愛」(7節)において私は豊かです。「愛される豊かさ」を、今の私は教会においても学校においても味わわせていただいています。「豊かさ」はお金だけの問題ではないということを実感しています。

覚束ない働きで良いとは思いません。「教会も学校も」とか「複数の学校で」と分散すると意識も働きも散漫になります。私個人の願いは、いずれ教会の働きに集中できるようになることです。

パウロの言葉を借りて、皆さんに献金のお願いをしているように響いてしまっているとすれば申し訳ないことです。牧師である者にとって「献金のお願い」は「言いにくいこと」に属します。だから、自分で言わず役員さんに言ってもらう牧師が多いです。献金の中に牧師自身が受け取るものが含まれているからです。

しかし、すべては神と教会のためであるということを、忘れずにいたいと願う者です。そして、これから新たに牧師になる人が起こされることを祈る者です。

(2021年6月20日 主日礼拝)

2021年6月13日日曜日

世の光としての使命(2021年6月13日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」

今日の朗読箇所は、使徒パウロのフィリピの信徒への手紙2章12節から18節までです。新共同訳聖書で「共に喜ぶ」と小見出しが付けられている段落です。12節の初めに「だから」と記されているのは、この箇所までに書かれたすべての内容を受けています。パウロがこの箇所までに書いていることには辛辣な内容が含まれています。

この手紙をパウロは「監禁されている」状態、すなわち獄中から書き送っていることを彼自身が明らかにしています(1章7節、1章13節など)。辛辣な内容は、そのことに関係しています。パウロが監禁されている状態にある中、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(1章10節)というのです。

それはどういうことか。「一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(1章15~17節)というのです。

パウロが言おうとしていることは、なんとなく分かります。キリストを宣べ伝えることを競争心や利己心や名誉心などで考えている人たちがいる、ということです。

私が説教した日の礼拝に何人集まったか。何人の人が洗礼を受けることを決心したか。自分が牧師をしている教会に何人の信徒が所属しているか。そのようなことを比較と競争で考え、あの人より私は優れているとか劣っている、など言い始める。他の教会や他の伝道者と協力関係を結ばず、蹴落とす対象と見る。

パウロは今、獄中で監禁されていて身動きがとれない。これはチャンスであると競争心をむき出しにして元気づいた人たちがいるということでしょう。それに対してパウロは大らかなことを書いています。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが宣べ伝えられているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(1章18節)。

たとえば今の日本で「不純な動機で洗礼を受けました」とか「不純な動機で牧師になりました」という人が何人いるかは私には分かりませんし、それが何の得になるのかはもっと分かりません。しかし、たとえそうであっても問題ないと、もしパウロならそう答えるかもしれないと考えることができる根拠が、ここにあります。

わたしたちにとっても決して他人事ではないでしょう。信仰生活や、あるいは牧師生活が長くなればなるほど、最初は純粋だったかもしれない動機の中に、いつの間にか不純物が入り込むことがありえます。「みなさんはどうですか」と皆さんにお尋ねしないでおきます。その代わりに、私も自分の話をしないでおきます。「お互いさま」ということにしておきましょう。

パウロは、たとえ動機は不純でも、とにかくキリストが告げ知らされているのだから問題ないとしたうえで、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(1章27節)と書いています。「キリストの福音にふさわしい生活」は、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦うこと」(1章27節)を指しています。

この「一つの霊によって」「心を合わせて」ということと、信仰生活と福音宣教の動機に競争心や利己心や名誉心が入り込むこととは矛盾しているかもしれません。しかし、ここから先は大人と子どもの違いだと申し上げておきます。

たとえ心の中に別の動機があるとしても、すべてをさらけ出さないでいるのが、大人としての態度ではないでしょうか。そしてそのことと、今日の箇所の最初に記されている「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)がつながっているでしょう。

「不平や理屈を言わずに行うこと」の勧めは軍隊式であるとお感じになる方がおられるかもしれませんが、必ずそこに結び付けなくてもよいでしょう。黙って従う。それは、あらゆることに反抗心をむき出しにして、現場を混乱に陥れ、そこで協力して共に働く人々の働きや目標達成を妨害することを意味することの反対を指しているとすれば、どうでしょう。

言いたいことを我慢することには苦痛が伴います。言うべきことを押し黙ることは無責任の面が生じます。しかし、だからといって、言いたいことの最初から最後まで言わなければ気が済まないというのは子どもの状態でしょう。もう少し成長する必要があるでしょう。

その続きに書かれている「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15~16節)は、成熟した人の姿を指していると言えるでしょう。

また同じことを申します。その「世にあって星のように輝く、非の打ちどころのない神の子」になることと、動機に不純なものが入り込んでいることとは矛盾しているかもしれません。神はわたしたちの心の中のすべてをご存じであるというのも、そのとおりです。しかし、自分の心の中にあることをすべて外へとさらけ出すことが、その人の心の純粋さを表すかといえば、そうではありません。そこは区別すべきでしょう。

パウロが推奨しているのは、「キリストを模範とすること」です。そのことが、今日の朗読箇所の直前の2章1節から11節までに記されています。この箇所の中で私がいつも思い起こし、自分の戒めとしているのは、3節から5節の途中までに記されていることです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

特にこの中の「互いに相手を自分よりも優れた者と考える」というのは、順位や序列を一切考えずに、要するに自分は誰よりも下であると考えること以外の何を意味するでしょうか。

「私はあの人よりは下だが、あの人よりは上である」と常に考え続ける状態は、苦しいです。相対評価と言います。イエス・キリストはそうではないと、パウロは信じ、またそのように初代教会の人々は信じました。6節から8節までに記されているのは、初代教会の信仰告白です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6~8節)。

イエス・キリストの「謙遜」が、わたしたちの模範です。神であられるキリストが、その立場をすべて捨て、すべての人の僕になられました。そのキリストにならって、わたしたちもすべての人の僕であるべきです。

これは教会の中だけの話ではありません。「世にあって星のように輝く」すなわち「世の光」として生きていこうとする、わたしたちの人生の目標です。

(2021年6月13日)

2021年6月6日日曜日

悔い改めの使信(2021年6月6日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 奏楽・長井志保乃さん


「悔い改めの使信」

使徒言行録17章22~34節

関口 康

「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」

今日の聖書の箇所に登場するのは使徒パウロです。パウロは生涯で3回の伝道旅行を行ったことが知られています。今日の箇所に描かれているギリシアの首都アテネでパウロが伝道したのは、第2回伝道旅行のときです。

ギリシアにとってアテネは古代から現代に至るまで最大都市であり、文化や芸術や学問の中心地であり続けてきました。そのアテネにパウロが行きました。

パウロがアテネに人生の中で何度行ったことがあるかは分かりません。しかし、少なくとも彼がユダヤ教徒からキリスト教徒へと改宗した後にアテネを訪ねたのは、このときが初めてだったのではないかと思えてなりません。

なぜそう思うのか。今日の箇所にはっきり書かれているとおり、アテネの至るところに偶像があるのを見て「憤慨した」(16節)と証言されているからです。

パウロに限らず、ある人が過去に一度も体験したことがないことを新しく始めるとか、いまだかつて行ったことがない場所に初めて行ったときに、その人が「憤慨する」としたら、明らかに違和感の表明でしょうし、もっと強く言えば「居たたまれない」「苦痛でたまらない」というような感情を抱いたことを意味するでしょう。

しかもここで、アテネでパウロが抱いた「憤慨」の理由が「この町の至るところに偶像がある」のを見たからであるとはっきり書かれていることから分かるのは、それは決して大げさな意味ではなく、一方の「ヘレニズム」と歴史家たちが名付けてきた古代ギリシア文明において培われてきた宗教性と、他方のかつてはユダヤ教徒だったけれどもキリスト教徒へと改宗したパウロが、いずれにせよ「広義のヘブライズム」と総称できる、彼自身の宗教的な自覚とが激突したことで発生した否定的な感情であろう、ということです。

つまり、別の言い方をすれば、と言いましても、なるべくすべきでない言い方であり、パウロに失礼な言い方ではあるのですが、それをあえてお許しいただくとすれば、もしパウロがかつてユダヤ教徒だったこともなければその後キリスト教徒にもならなかったとしたら、そこで「憤慨」という感情を抱かなかった可能性が高いと言えるかもしれない、ということです。

しかし、それはとても失礼な言い方です。パウロが自分で言うならともかく他人から言われるようなことではないでしょう。わたしたちが「もしあなたがクリスチャンでなかったら」というような仮定の話をされても困るのと同じです。

それはともかく、パウロはアテネの「偶像」を見て「憤慨」しました。そして、その「憤慨」の感情を抱いたまま、彼はアテネ伝道を開始しました。その調子は明らかにけんか腰です。アテネの人々を言い負かしてやろう、説き伏せてやろう、という姿勢です。17節に「それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」と記されているとおりです。

私の気になるのは、アテネのユダヤ人ともパウロが論じ合ったことが記されていることです。その論争が「偶像」の問題と直接関係しているかどうかは分かりません。もし関係あるとしたら、パウロはアテネのユダヤ人たちに「なぜ偶像が至る所にあるのに黙っているのか」とけしかけたのではないかと考えてみました。パウロにとって黙っていられない、我慢ならない空気がアテネに蔓延していると感じたゆえの「憤慨」だったのでしょうから。

そのようなパウロの伝道姿勢に対するアテネ市民の反応が、18節あたりに記されています。「『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた」(18節)。そして、その人々がパウロを、おそらくからかい半分の調子で、アレオパゴスへと連れて行きました。

アレオパゴスは、パウロの時代よりずっと前に最高裁判所があった場所です。そこで「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19~20節)と人々が言いました。それでパウロが語り始めたのが、22節以下の「アレオパゴス説教」です。内容は単純明快です。

この街の至るところに偶像があります。その中に「知られざる神に」と刻まれている祭壇まであるのを見かけました。知らない神さままで拝んでしまわれるあなたがたは、なんと信仰のあつい人たちでしょう。しかし、あなたがたが知らずに拝んでいる神さまのことを私が教えてあげましょう。それは天地万物を創造された真の神さまです。

その神さまは、人間の手で造った神殿だとか偶像だとかの中にはお住まいになりません。そもそも、人の手で造ったもので神さまの足りないところを補ってあげましょうなどと考える必要がない満ち足りた方です。

ですから、この街の至るところにある偶像も神殿も、有害無益の無用の長物ですよね、というような調子です。

私がパウロをからかっているわけではありません。しかし、このときのパウロの伝道姿勢に、わたしたちが考えなければならないことがあると思います。

私なりの問いは、今のわたしたちがパウロと同じような伝道姿勢を持つべきだろうか、ということです。「腹立ちまぎれのけんか腰伝道」です。それを恭(うやうや)しい言葉のオブラートに包んで一方的に言い放っているだけです。

それを語る人の胸の中はすっきりするかもしれません。しかし、聞く側の人たちは、ある意味での恐怖や戸惑いを感じて逃げ出すか、売られたけんかを買う式に反発したり攻撃したりするか、あるいはひたすら冗談めかしてからかう姿勢をとるかしか無くなる可能性があるでしょう。

いま申し上げているのは、私の空想でもなんでもなく、現実に体験してきたことばかりです。みなさんも大なり小なり同様の体験をしてこられたはずです。

もちろん人によると思います。しかし、私がみなさんに問いたいのは、今日の箇所のパウロのような宣教のあり方によってわたしたちの中の何人の人が救われたでしょうか、ということです。

「あなたの生き方は間違っている。この国の宗教も文化も間違っている。見ているだけで不愉快でたまらない」と言いたそうな教会と牧師の言葉で心を入れ替えた人が、何人いるでしょうか。

このことを問う私は、偶像や宗教の異なる人々に対して曖昧な態度をとるべきだと言いたいのではありません。しかし、今日の箇所のパウロの説教はわたしたちが必ず模範にしなくてはならないという意味で残されていると考える必要はありません。わたしたちならばどのように語るのかを考えるための材料にすることが許されています。

日本伝道が進展しない原因は、教会にあるかもしれません。悔い改めなければならないのは、わたしたち自身かもしれません。

おそらく人は、愛されなければ、悔い改めることはありません。愛されて、受け入れられて、かわいがられて、安心して、初めて人は自分の心を開くでしょう。

(2021年6月6日 主日礼拝)


2021年5月30日日曜日

神の富(2021年5月30日 三位一体主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 351番 せいなるせいなる 奏楽・長井志保乃さん


「神の富」

エフェソの信徒への手紙1章3~14節

関口 康

「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」

東京他に対する政府の緊急事態宣言がまた延長されました。しかし今、東京の現実は、飲食店の席に間仕切りが置かれ、閉店時刻が早まり、アルコールの提供が中止されていること、そして外出中のすべての人がマスクをしていること、さらに特に学校の現場において毎年の恒例行事であるような体育祭や修学旅行のようなことが次々に中止されていることを除けば、以前の状況とほとんど変わりない状態に戻っています。そのことを私は善いとも悪いとも判断できずにいます。

なぜこの話をするのかといえば、教会はどうすべきかの判断が求められているからです。教会で何かが起これば牧師が責任をとらされることを心配しているのだろうという詮索は心外です。ただ、昨年度1年間の経験を踏まえて今思うのは、教会が率先してやめましょう、閉じましょうの一点張りで動き始めると、そのまま教会の活動自体が終わってしまうだろうということです。なぜなら教会は、義務や責任で縛られて成り立つ存在ではなく、各自の信仰に基づいて全く自由で自発的に集まることによって成り立つ存在だからです。

何が起こるか分からないから礼拝堂に集まってのすべての活動を中止するとすれば、たしかにクラスター発生の責任を回避できるものがあります。しかし、教会の責任ということを強く言うべきことがあるとすれば、神を求める人々の信仰と生活、なかんずく孤独や孤立を余儀なくされ、寂しさを抱えている人々への配慮と支えに対する責任が教会にあると言わなくてはなりません。

その面の埋め合わせが、教会以外の他の何かでできるなら、とっくの昔に教会は役割を終えていたでしょう。他に代わるものがないからこそ、教会に活路を見出し、助けと救いを求めてきたのが私たちの体験的な事実ではないでしょうか。

今日の聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙1章3節から14節までです。表題に「手紙」とあり、送り主が「使徒であるパウロ」と記されています。しかし今日の聖書学者の多くは、これは手紙ではないし、著者はパウロではないとします。

理由として挙げられるのは、使徒パウロの代表的な手紙であるローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙などと比べて、エフェソの信徒への手紙の内容がきわめて抽象的であるという点です。もし著者が本当にパウロであるなら、エフェソの教会が置かれていた状況や、その教会に属する人々についての個別の事実を知らないはずがないにもかかわらず、それらの事柄への言及が全く無い。また、有力ないくつかの写本の中に宛て先の「エフェソ」という地名が記されていないものがある、など。

これが「パウロの手紙」でないなら何なのかといえば、聖書学者たちの意見によれば、パウロの影響を強く受けた別の人によって、当時の地中海沿岸地域の複数の教会で回覧され、各教会の礼拝の中で朗読される文書として書かれたものだろう、ということになります。

私はその意見に反対する理由は無いと考えています。しかし、パウロの影響を強く受けているという点まで否定する意見に接したことはありません。その意味では、他のパウロの手紙と内容的に通じ合っている文書であるとは言えるので、相互に関連づけて語ることも可能です。

そして今日の朗読箇所である1章3節から14節までに記されていることで最も大切な一文は、冒頭の「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(3節)であるということを確認することが重要です。この「天のあらゆる霊的な祝福」の「霊的」の意味は「聖霊による」です。言い換えれば「神は、キリストにおいて、聖霊によって、わたしたちを天のすべての祝福で満たしてくださいました」と言われています。

つまりここに父・子・聖霊なる三位一体の神の働きが記されているということです。「三位一体」という言葉は新約聖書の中に登場するわけではなく、ずっと後の時代の教会で用いられるようになったものですが、キリストと聖霊が父なる神と等しい位格を持つ存在であることが新約聖書の中に全く根拠がないなどということは全くできません。

そして今日の箇所に表現されている深い思想の核心部分は、神が、イエス・キリストにおいて、聖霊によって、わたしたちを天地創造の前からあらかじめお選びになり、そのわたしたちを神の御子イエス・キリストの血によって贖ってくださり、神の子としてくださり、そのわたしたちが頭(かしら)であるキリストのもとにひとつにまとめられ、神の国を受け継ぎ、永遠に神の栄光をたたえる者とされる、ということです。

「天地創造の前」(4節)とは何を意味するのでしょうか。私たちの想像力をゆうに超えるものがあります。天も地も創造される前には何もありませんし、時間もありません。時間も神に創造されたものです。

その創造以前、時間以前、歴史以前に、父なる神だけでなく、イエス・キリストがすでにおられ、聖霊なる神がおられ、その父・子・聖霊がわたしたちを、創造以前、時間以前、歴史以前、つまり永遠の次元においてあらかじめ選んでおられた、というのですから驚きです。

そして、その永遠の次元において選ばれたわたしたちが、頭なるキリストのもとに集められた、キリストの体なる教会であるということを、この箇所が語ろうとしていることは明らかです。

しかし、このようなことを言いますと、それは選民思想だろうと反発を受けることがあります。教会に属するキリスト者である人たちだけが神から特別扱いされていて、他の人々はそうでないとでも言いたいのか、と。

しかし、それは誤解なのです。今日の箇所で、あるいは聖書の中で「天地創造の前に」という点が強調されるときの意図は、「すべては神の恵みである」ということを言いたいだけです。人間のいかなる努力や信心や功徳によらない、ということです。

そして、今日の箇所で繰り返されている「わたしたち」が誰を指すかは限定されていません。すべての人に開かれています。この箇所の「わたしたち」の中に私がいると信じることは、だれにでもできます。「私は含まれていないかもしれない」と考える必要は全くありません。

「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ」(6節)と記されています。恵みは「あふれて」います。小さな器の中にとどまっていません。全人類を満たしても余りある神の豊かな恵みから私だけ外されている、と考えるべきではありません。

しかし、この箇所ではっきり分かるのは、教会の使命は何なのかということです。神の栄光をたたえることです。それは主の日ごとに守られる礼拝において集中的に表現されます。

「各自自宅礼拝」には意味がないと申し上げるつもりはありません。しかし、「天にあるものも地にあるものも、キリストのもとにひとつにまとめられる」(10節)ということを体験的事実として味わうことができるのは、「対面礼拝」ならでは、です。対策をとり、互いに気を付けながら、共に集まる礼拝、共に生きる生活を続けて行こうではありませんか。

(2021年5月30日)


2021年5月23日日曜日

言葉が通じる(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)

秋場治憲兄

讃美歌352 あめなるよろこび 奏楽・長井志保乃さん

石川献之助牧師のご挨拶

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます


「言葉が通じる」

使徒言行録2章1~11節

秋場治憲兄

「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる、その御名は万軍の神なる主」(アモス書4章13節)

本日は聖霊降臨日、別名ペンテコステ、教会の誕生日とも言われている。ペンテコステというのはギリシャ語で50日目という意味です。「過ぎ越しの祭り」(大麦の収穫を祝う日)から数えて50日目に、「五旬際」(小麦の収穫を祝う日)の祭りが行われた。この五旬際がペンテコステとなりました。

今日は使徒言行録2章を中心に聖霊を受けるとはどういうことであるのかということを学びたいと思います。使徒言行録2章の記事ですが、一つの特徴があります。「聖霊」とはどんなものであるのかという議論は一切していません。ではどんなことを言っているのかというと、「聖霊」の現れ方、働きを述べている。これは使徒言行録だけでなく、聖書全体の特色とも言えます。議論の前に事実があり、教えの前に働きがある。創世記の冒頭は、「初めに神は天地を創造された」という言葉で始まる。

今日のテキストでは聖霊が<聞こえるもの>として出てくる。音として響きわたる。しかも単なる音ではなく、語る人から聞こえてくる言葉として。聖霊が語らせるままに、他国の言葉で語りだした。

<聞こえるもの>の次は、<見えるもの> 炎のような舌が、別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。炎 というのは、神の臨在を表す。今日のテキストでは分けても<聞こえるもの>。言葉が重視されている。語りだされた言葉には、力があり、息吹があり、威厳を伴う。

この言葉は目には見えないけれども、聖霊が通る道でもある。聖霊はこの道を通て、人の心の奥底へと届けられる。

5節には「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいた。」当時の天下というのは、ローマ帝国の支配下にある世界のこと。二千年前のエルサレムにも天下のあらゆる所から、人々が集まってきて来ていたことが分かる。9節にはそれらの国々の名前が出てくる。ある研究者はこれらの地名はエルサレムで起こった聖霊降臨の出来事が、これから世界に向かって伝えられていく序論になっていると言っています。これらの地方、また人々の間では、多くの言葉が用いられていた。ここで聖霊に満たされた人々は、他国の言葉で語り始めた。聖霊を受ける(満たされる)というのは、内面的な高揚感だったり、何か神秘的、魔術的な力のように考えがちですが、ここではそういうことは一言も言ってない。聖霊を受けた者は、人間の言葉を語る。しかも聞く人が分かる言葉で語る。

使徒言行録2章で強調されているのはこの点であり、6節、8節、11節と3回も繰り返されている。聞いている人が分かるということが大切。

このような言葉によって人と人は結びつき、互いに理解し合い、共に働くようにさせられる。この言葉によって神と人という垂直的な関係は、人と人という水平的な面に広がっていく。だから使徒信条は「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と展開されている。

ここで思い出していただきたいことがある。創世記11章のバベルの塔の話。

「石の代りにレンガを、しっくいの代りにアスファルトを用い、さあ、天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう。 」これは自分たちがこの世の支配者として君臨し、天の神にとって代ろうというもの。ところが神は彼らの言葉を通じなくし、地の表に散らされた。高遠な理想と高度な技術力をもって始まったバベルの塔の建設作業は、言葉が通じなくなって失敗に終わった。ところが今日のテキストでは、言葉が通じるという<新しい世界>を私たちに示している。

これはすでに多くの預言者たちを送られた神は、最後に神の独り子をこの世に遣わし、その独り子の上にすべての人間の罪を置き、これを徹底的に罰せられた。世の支配者として神にとって代ろうという思いを打ち砕き、十字架の赦しの下に、神に栄を帰す者たちを御もとに集めようというのがペンテコステ。

ここには目には見えないけれども罪にまみれた人間を、神の独り子イエス・キリストの十字架の贖いによって、今一度御もとに招き入れようというもの。その神の気合というものが目に見える形で現れた出来事。これは創世記11章の回復であり、これが私たちの出発点。聖霊降臨日が教会の誕生日と言われる由縁(ゆえん)なのです。

それでは使徒たちは聞くものたちの生まれ故郷の言葉で何を語ったか。神の偉大な業(新共同訳)、神の大いなる働き(口語訳)を語った。では神の偉大な業とは何か。神の偉大な業とは、イエス・キリストの生涯、生と死、そして復活のこと。これ以外の、そしてこれ以上の神の偉大な業は無いのです。

使徒言行録2章の後半はペテロの大説教があり、三千人 が悔い改めて洗礼を受けたと記されています。この三千人の人たちというのは、どういう人たちか。これらの人たちはわずかに50日前過ぎ越しの祭りにおいて、宗教指導者たちに扇動されたとは言え「殺せ、殺せ、十字架につけよ」「私たちにはローマの皇帝以外に王はない」とまで叫んだ人たち。

では翻ってペテロと弟子たちはどうであったか。ペテロはイエスを追って大祭司の中庭にまで潜入したが、そこで三度まで「そんな男のことは知らない 」と断言してしまった。マタイとマルコには「その時、ペテロは呪いの言葉 さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた」と記されています。これはもし自分の言っていることが真実でないなら、自分は神に呪われてもいいという意味です。そこまで断言してペテロはイエスとの関係を否定したのです。ルカ福音書では、その時「主は振り向いてペテロを見つめられた。 」と記しています。

ペテロは完全に打ち砕かれてしまいました。ペテロと他の弟子たちは今目の前にいる群衆を恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたのです。そう考えてくると、一体この出来事の主役は誰か、ということを考えさせられる。

ペテロの大説教は預言者ヨエルの言葉を引用して更に続きます。22節「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。神はイエスを通して、あなた方の間で行われた奇跡と不思議な業としるしによって、そのことをあなた方に証明した」なのに23節「このイエスをあなた方は律法を知らない者たちの手を借りて十字架につけて殺してしまったのです。」ペテロとしては、自分たちもあなた方と同じように大罪を犯した者であるという思いがあったことでしょう。32節「しかし神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」

(しかしこの復活したイエスは、私の弱さを受け入れて下さった。)

「神の右にあげられたイエスは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくれました。あなた方は、今そのことを見聞きしているのです。」

ペテロの大説教は始めこそ「ユダヤの方々、イスラエルの人たち」でしたが、イエスの十字架の段になると、50日前に「殺せ、殺せ、十字架に・・」と叫んだ目の前のユダヤ人たちも自分も同罪であるという思いから「兄弟たち」という呼びかけに変わっています。ペテロや弟子たちが上から目線ではなく、自分たちと同じ所に立っていることに心動かされたユダヤ人たちも同様に「兄弟たち」と応じています。37節では「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか 」とペテロたちに聞いています。彼らの狼狽ぶりが伝わってきます。

ペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 」この言葉はペテロ自身の悔いても、悔いても、尽きることのない悔い改めであり、自分自身に対する絶望の中で、自分の足では立っていることさえおぼつかなくなっていたペテロが、よみがえったイエスによって赦され、受け入れられたことそのものでした。

聖霊の賜物とは、イエス・キリストと共にあるということ。

パウロの言葉を思い起こして下さい。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 」(新共同訳)

口語訳では「ある」と訳されていたギリシャ語のev(エン)、英語のinという言葉をNEB は~be united with (~と結ばれている)と訳したのです。新共同訳のローマ人への手紙8:1もこの訳を採用しています。いい訳だと思います。罪に定められることがないとは、私たちの罪を一身に引き受けて下さったイエス・キリストのゆえに、私たちの罪が赦されるということです。

わずかに50日前に「殺せ、殺せ十字架に・・」と叫んだユダヤ人たちも、「私はそんな男のことは知らない。もし私が嘘を言っているなら、この身が神に呪われてもいい。」とまで言い切って自分の身の安全を確保したペテロの弱さも、「今やキリスト・イエスに結ばれている者は」神の前に罪として算定されないというのです。

私たち自身にとっては、極めて重大な過失や罪であっても、神はそれを私たちの過失や罪として取り上げ、数え給わない、キリストにおいて現れし神はこのような神であり、私たちの現実は“赦されている”というところから出発するというのです。

しかし世の中は人の罪を暴くことに熱心です。私たちの良心でさえ、私たちを弾劾してやまない。それに対してイエス・キリストにおいて自らを現したもうた神は、その傷を包み給うというのです。聖書に語られている神は、イエス・キリストのゆえに罪を赦すことに決して疲れ給わない神なのです。

宣教の中では時間の関係で割愛しましたが、参考までにローマ人への手紙8:3を掲載しておきます。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」

神はイエスだけは例外的に有罪の宣告をくだした。言葉を換えれば、イエスだけは赦さなかった。神は独り子イエスだけは徹底的に罰し、徹底的に捨てた。使徒信条によれば「よみにまで」。このことによって神の罪に対する正義は立てられ、同時に私たち一人一人が“赦される道”を開き給うた。しかもこのような愛は、神の愛を受けるに値しない者に注がれ、満たされることになるのです。 

ペテロのように己が義に飢え渇く者は、幸いである。その人は神の義をもって満たされる。悲しんでいる人は幸いである。その人は(キリスト・イエスに現れた)神によって慰められる 。とはこういうこと。

私たちは神のこの熱心と配慮に圧倒されて信仰を与えられ、悔い改める時、聖霊の賜物を受ける。聖霊の賜物とは、私は現に弱く、もろく、つまずき、失敗し、失望している。しかしそのような判断は、私の私に対する判断に過ぎない。神は私たちに対して、もっと異なった判断をなし給うのです。どう判断されるのか。

あなたはわが目に値高し、あなたは私が命をかけて買い取った者ではないか。雄々しくあれ、と私たちの判断、視点とは異なった判断・視点を示して私たちにエールを送っておられる。聖霊の賜物とは、私たちの判断、視点とは異なる判断、視点が示されること。

「聖霊を信ず」ということも、私たちが何か霊につかれた状態になることではなく、自分の人生において、また歴史の中に、教会の中に、働く神の働きを信ずるということです。

このことを今日のペンテコステ礼拝において、しかと心に刻みたいと思います。

(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)

2021年5月16日日曜日

キリストの昇天(2021年5月16日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 158番 あめにはみつかい 奏楽・長井志保乃さん

「キリストの昇天」

ルカによる福音書24章44~53節

関口 康

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」

今日も礼拝堂に集まって礼拝を行っています。自宅に留まっておられる方々のことを常に祈りに覚えています。どなたにも無理や強制感が出ないように礼拝の司式はすべて牧師がしています。礼拝当番の表を作るのもやめています。聖餐式と愛餐会は1年以上中止しています。

その状態でも礼拝に足を運んでくださる方々がおられることを、私はうれしく思っています。そのようなことを言うべきでないとお叱りを受けるかもしれませんが、正直な気持ちを隠すことはできません。

そして来週は聖霊降臨日。ペンテコステの礼拝です。昨年度はイースター礼拝もペンテコステ礼拝も各自自宅礼拝でした。今年はこの礼拝堂でペンテコステ礼拝を行います。1年前より状況が悪くなっているのではないかとお感じになる方がおられるでしょう。

図らずも今日から政府の緊急事態宣言の対象が北海道、岡山県、広島県にも拡大されることになりました。そのことも知らずにいるわけではありません。甘く考えているわけでもありません。それは私だけでなく、今日ここにお集まりの皆様も同じだと思います。

たとえそうであっても、礼拝堂に集まっての礼拝を行うことに意義があると信じるからこそ、わたしたちは互いに気を付けながら集まっています。礼拝堂を物理的に閉鎖してしまうと、心のよりどころ、魂の居場所を失ってしまう方々が実際におられると思います。私も同じです。

「礼拝堂の中に神さまが住んでおられる。だからここに来なければ神さまにお会いすることは決してできない」などと言いたいのではありません。教会の交わりの中で、わたしたちは神さまと出会うのです。その中で神の御子イエス・キリストのお姿を見るのです。

ここから先は理屈で説明できる域を超えています。実際に体験しなければ分からない、としか言いようがありません。

今日の朗読箇所はルカによる福音書24章44節から53節までです。ルカによる福音書の最後の部分です。そしてこのルカによる福音書と同じ著者が、いわばこの福音書の「第2巻」として使徒言行録を書いたことで知られています。

使徒言行録の冒頭の部分を見ますと、「テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と記されているのが分かります。この著者が「先に著した」とする「第1巻」がルカによる福音書です。

そして、その第2巻の使徒言行録の初めのあたりに来週わたしたちがお祝いする聖霊降臨日の出来事が記されています。聖霊降臨日の出来事については来週の説教者にお委ねします。しかし、大事なことは来週の箇所と今日の箇所とのつながりです。今日の箇所に記されているのはイエスさまが弟子たちの前で「天に上げられた」とされる出来事です。それを「昇天」と言います。

そこで何が起こったのかは記されている通りのことしか分かりません。ですし、記されていることを読んだとしても、それがわたしたちに理解できるかどうかは別問題であるとも言えます。

どういうことか。まず今日の箇所に登場するイエスさまは、十字架につけられて死んで、その3日目に復活された、その後の復活されたイエスさまです。そもそも復活とは何なのか。それ自体が理解できずに苦しむ人々は決して少なくないでしょう。しかし、とにかく聖書にはイエスさまが死者の中からよみがえられたことがはっきり記されています。

今日の問題に結び付けて言えば、イエスさまは、物理的な意味での「対面」を重んじられたのです。「リモート説教」ではありません。弟子たちと「対面」するために復活されたのです。

そして今日の場面は、その復活されたイエスさまが弟子たちに説教をなさっています。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)とお話しになっています。

「まだあなたがたと一緒にいたころ」とはどういう意味だろうとお感じになる方がおられるかもしれません。復活されたイエスさまはそのとき弟子たちと一緒におられたのではないだろうかと。細かいかもしれませんが、こういうことに引っかかりながら読むことが大事です。

そのときその場所に聖書の巻物があったかどうかは分かりません。しかし、聖書に基づいて、その教えの核心は何かをイエスさまが「対面」で説教されています。内容が46節以下に記されています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。

がっかりさせるつもりで申し上げるのではありませんが、旧約聖書のどこを探してもこのようなことは書かれていません。しかし、関連があると思われるのは次の2箇所です。イザヤ書53章の全体(新共同訳旧約1149頁)とホセア書6章2節(1409頁)です。

イザヤ書には「苦難の僕としてのメシア」が描かれ、ホセア書には「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」と記されています。これらの言葉に基づいてイエスさまがご自身の言葉で説教なさっていると読むことができるでしょう。

そしてその後、イエスさまは天に上げられました。記されているとおりに読めば「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(50~51節)。

これはどういう現象だろうと私も考えるところがあり、調べてみました。その中で、英語で記された注解書のこの箇所の説明文の中に、ディパーチャー(departure)という言葉が繰り返し出てくることに興味を持ちました。わたしたちがこの言葉を最も聞く場面は、空港ロビーや飛行機の機内でキャビンアテンダントの方がおっしゃるアナウンスでしょう。

ディパーチャーの意味は「出発」です。イエスさまは「出発された」。あるいは「旅立たれた」。これが「昇天」の意味であると考えることができるなら、イメージが豊かになる気がしました。

イエスさまはどこへ行かれたのでしょうか。旅の目的地はどこでしょうか。それは、父なる神がおられる「天」です。天から来られたイエスさまが天へとお戻りになったのです。そのことが描かれています。

しかしそれは確かに「お別れ」でもあります。「もはやイエスさまは地にはおられない」という切断の意味があります。

それでもイエスさまの弟子たちが、そしてわたしたちが寂しくないのは、イエスさまの代わりに聖霊が、聖霊なる神が、来てくださったからです。来週のペンテコステ礼拝に期待しましょう。

(2021年5月16日 主日礼拝)

2021年5月9日日曜日

イエスの祈り(2021年5月9日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 211番 あさかぜしずかにふきて 奏楽・長井志保乃さん


「イエスの祈り」

マタイによる福音書6章1~15節

関口 康

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

4月25日から始まった東京等の緊急事態宣言が今週終わるはずでした。しかし5月31日まで延長されました。感染症の拡大が収束しないことも残念ですが、政治が有効な手立てをとりえていないようにしか思えないことこそ残念です。わたしたちにできるのは祈ることです。しかし、大切なのは、何を、そしてどのように祈るかです。

今日の聖書箇所も日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。緊急事態宣言に合わせて選んだわけではありません。しかし、この箇所でイエス・キリストが弟子たちに「だから、こう祈りなさい」(9節)という言葉に続けてわたしたちがよく知っている「主の祈り」をお教えになったことを、いまわたしたちが置かれているこの状況の中で改めて確認する機会を与えられるのは、神の導きであると感じるばかりです。

わたしたちは祈ります。祈らなければなりません。しかし、今日の朗読箇所の1節から8節までにイエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、人は祈るときにも偽善的でありうるので気を付けなさいということです。とても耳の痛い、厳しいことをイエスさまがおっしゃっています。

文脈からいえば、この箇所でイエスさまは「人に施しをすること」(2節以下)と「祈ること」(5節以下)を共に「善行」(1節)の具体的な内容として挙げておられます。言い方を逆にして言い直せば、「善行」とは「人に施しをすること」や「神に祈ること」を指すと考えておられます。しかし、その「善行」も、人の手にかかると偽善的になされる場合があるので気を付けなさい、とおっしゃっています。

この場合の「偽善」の意味で最も近いのは仮面をかぶって演技することです。心にもないことを行い、語ることです。いまわたしたちは外出するときには必ずマスクをしていますので、「仮面をかぶることが偽善である」と言われると、ぞっとするものがあります。マスクは外すべきではありませんし、そういう意味ではありません。

むしろイエスさまがおっしゃっているとおりです。「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(2節)。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(5節)。

共通しているのは、人からほめられたい、人に見てもらいたい、つまり人から評価されたいということが動機でありかつ目的であるような善行を、人目につくところで行うことです。それをイエスさまは「偽善」と呼んでおられます。

「それのどこが悪いのか。たとえそれが偽善であるとしても、善いことをしているのだから、結構なことではないか。偽善を恐れて何もしないよりもましである」という反論がありえます。そのような意見にしばしば接します。私自身もどちらがよいか判断に苦しむことがよくあります。しかしイエスさまは、そのような善行のあり方をお嫌いになりました。

祈りについても同じであるというわけです。しかし、これも難しい問題を含んでいます。私の話になって申し訳ありませんが、生まれた時から今日まで55年も教会に通い、30年以上牧師の仕事を続けてきたのに、人前で祈るのが苦手です。だいたいいつも、しどろもどろになります。

もし礼拝を「人前でない」と考えることができるならまだしも、そういうわけに行かないので、事前に祈りの原稿を書いて臨む姿勢のほうが良いと思うところがあります。ふだんの礼拝を軽んじる意味はありませんが、結婚式や葬儀のような場面でしどろもどろの祈りではまずいでしょう。

しかし、原稿や式文を朗読するような祈りをすること自体も私は苦手です。なぜ苦手なのか、その原因を探っていくと、どうやらいつも今日の箇所のイエスさまの言葉が引っかかっていることに気づきます。苦手は克服すべきでしょう。しかし、一筋縄では行かないものを感じます。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6節)とイエスさまがおっしゃっています。お祈りが苦手な牧師の話を続けるわけに行きませんが、奥まった自分の部屋で祈るだけで牧師は務まらないでしょう。

しかし、このようなことを縷々おっしゃったうえで、イエスさまがいわばひとつの結論として弟子たちにお教えになったのが「主の祈り」であることの関係を考えることは、問題解決の糸口になると思います。特にイエスさまが「異邦人の祈り」を批判する言葉の中でおっしゃっている「くどくどと述べてはならない」とか「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」という厳しい言葉は、その意味をよく考える必要があります。

逆の言い方をすれば、イエスさまは簡潔で、端的で、時間的にも短い言葉で祈ることを求めておられるということでしょう。原稿を書くなり式文を読むなりすること自体が間違っているわけではなく、演技の台詞のような言葉を長々と述べたからといって、その祈りの効果が上がるわけではないというような意味になるかもしれません。

そしてイエスさまは「主の祈り」をお教えになりました。つまり「主の祈り」は、偽善者の祈りのようでない、簡潔で、端的で、時間的にも短い祈りの言葉である、という意味になるでしょう。本当にそうなっているかどうかは考えどころです。わたしたちにとっては「主の祈り」も、意味も分からず唱えているだけなら、演技の台詞と大差ありません。

わたしたちが用いている文語訳の「主の祈り」は1880年訳です。なんと141年前です。古い言葉のほうが、威厳があるからでしょうか。そうかもしれませんが、意味が分からない人にとっては台詞になるだけでしょう。

最後に言います。私が「主の祈り」の解説をするたびに強調して申し上げるのは、この祈りは徹底的に「地上的な」意味を持っている、ということです。特にそのことがはっきり分かるのは「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」です。

神の御心が「天」で実現しているだけなら、何の意味もありません。絵に描いた餅です。「地」においてこそ、わたしたちの現実の世界と社会においてこそ、御心が実現しなくてはなりません。「神の国」がこちらに「来る」のでなくてはなりません。そのことを祈るのが「主の祈り」です。

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りながら貧困で苦しむ人を無視するわけに行きません。それは世界の中の貧しい国の人々だけの話ではありません。わたしたちの今の現実です。

富裕層の人たちばかりの教会を作りたいですか。生活に窮する人々を見下げるエリートばかりの教会を作りたいですか。わたしたちは断じてそのように考えません。「主の祈り」の心をもって生きる教会をこれからも目指していこうではありませんか。

(2021年5月9日 主日礼拝)