2021年5月23日日曜日

言葉が通じる(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)

秋場治憲兄

讃美歌352 あめなるよろこび 奏楽・長井志保乃さん

石川献之助牧師のご挨拶

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「言葉が通じる」

使徒言行録2章1~11節

秋場治憲兄

「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる、その御名は万軍の神なる主」(アモス書4章13節)

本日は聖霊降臨日、別名ペンテコステ、教会の誕生日とも言われている。ペンテコステというのはギリシャ語で50日目という意味です。「過ぎ越しの祭り」(大麦の収穫を祝う日)から数えて50日目に、「五旬際」(小麦の収穫を祝う日)の祭りが行われた。この五旬際がペンテコステとなりました。

今日は使徒言行録2章を中心に聖霊を受けるとはどういうことであるのかということを学びたいと思います。使徒言行録2章の記事ですが、一つの特徴があります。「聖霊」とはどんなものであるのかという議論は一切していません。ではどんなことを言っているのかというと、「聖霊」の現れ方、働きを述べている。これは使徒言行録だけでなく、聖書全体の特色とも言えます。議論の前に事実があり、教えの前に働きがある。創世記の冒頭は、「初めに神は天地を創造された」という言葉で始まる。

今日のテキストでは聖霊が<聞こえるもの>として出てくる。音として響きわたる。しかも単なる音ではなく、語る人から聞こえてくる言葉として。聖霊が語らせるままに、他国の言葉で語りだした。

<聞こえるもの>の次は、<見えるもの> 炎のような舌が、別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。炎 というのは、神の臨在を表す。今日のテキストでは分けても<聞こえるもの>。言葉が重視されている。語りだされた言葉には、力があり、息吹があり、威厳を伴う。

この言葉は目には見えないけれども、聖霊が通る道でもある。聖霊はこの道を通て、人の心の奥底へと届けられる。

5節には「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいた。」当時の天下というのは、ローマ帝国の支配下にある世界のこと。二千年前のエルサレムにも天下のあらゆる所から、人々が集まってきて来ていたことが分かる。9節にはそれらの国々の名前が出てくる。ある研究者はこれらの地名はエルサレムで起こった聖霊降臨の出来事が、これから世界に向かって伝えられていく序論になっていると言っています。これらの地方、また人々の間では、多くの言葉が用いられていた。ここで聖霊に満たされた人々は、他国の言葉で語り始めた。聖霊を受ける(満たされる)というのは、内面的な高揚感だったり、何か神秘的、魔術的な力のように考えがちですが、ここではそういうことは一言も言ってない。聖霊を受けた者は、人間の言葉を語る。しかも聞く人が分かる言葉で語る。

使徒言行録2章で強調されているのはこの点であり、6節、8節、11節と3回も繰り返されている。聞いている人が分かるということが大切。

このような言葉によって人と人は結びつき、互いに理解し合い、共に働くようにさせられる。この言葉によって神と人という垂直的な関係は、人と人という水平的な面に広がっていく。だから使徒信条は「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と展開されている。

ここで思い出していただきたいことがある。創世記11章のバベルの塔の話。

「石の代りにレンガを、しっくいの代りにアスファルトを用い、さあ、天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう。 」これは自分たちがこの世の支配者として君臨し、天の神にとって代ろうというもの。ところが神は彼らの言葉を通じなくし、地の表に散らされた。高遠な理想と高度な技術力をもって始まったバベルの塔の建設作業は、言葉が通じなくなって失敗に終わった。ところが今日のテキストでは、言葉が通じるという<新しい世界>を私たちに示している。

これはすでに多くの預言者たちを送られた神は、最後に神の独り子をこの世に遣わし、その独り子の上にすべての人間の罪を置き、これを徹底的に罰せられた。世の支配者として神にとって代ろうという思いを打ち砕き、十字架の赦しの下に、神に栄を帰す者たちを御もとに集めようというのがペンテコステ。

ここには目には見えないけれども罪にまみれた人間を、神の独り子イエス・キリストの十字架の贖いによって、今一度御もとに招き入れようというもの。その神の気合というものが目に見える形で現れた出来事。これは創世記11章の回復であり、これが私たちの出発点。聖霊降臨日が教会の誕生日と言われる由縁(ゆえん)なのです。

それでは使徒たちは聞くものたちの生まれ故郷の言葉で何を語ったか。神の偉大な業(新共同訳)、神の大いなる働き(口語訳)を語った。では神の偉大な業とは何か。神の偉大な業とは、イエス・キリストの生涯、生と死、そして復活のこと。これ以外の、そしてこれ以上の神の偉大な業は無いのです。

使徒言行録2章の後半はペテロの大説教があり、三千人 が悔い改めて洗礼を受けたと記されています。この三千人の人たちというのは、どういう人たちか。これらの人たちはわずかに50日前過ぎ越しの祭りにおいて、宗教指導者たちに扇動されたとは言え「殺せ、殺せ、十字架につけよ」「私たちにはローマの皇帝以外に王はない」とまで叫んだ人たち。

では翻ってペテロと弟子たちはどうであったか。ペテロはイエスを追って大祭司の中庭にまで潜入したが、そこで三度まで「そんな男のことは知らない 」と断言してしまった。マタイとマルコには「その時、ペテロは呪いの言葉 さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた」と記されています。これはもし自分の言っていることが真実でないなら、自分は神に呪われてもいいという意味です。そこまで断言してペテロはイエスとの関係を否定したのです。ルカ福音書では、その時「主は振り向いてペテロを見つめられた。 」と記しています。

ペテロは完全に打ち砕かれてしまいました。ペテロと他の弟子たちは今目の前にいる群衆を恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたのです。そう考えてくると、一体この出来事の主役は誰か、ということを考えさせられる。

ペテロの大説教は預言者ヨエルの言葉を引用して更に続きます。22節「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。神はイエスを通して、あなた方の間で行われた奇跡と不思議な業としるしによって、そのことをあなた方に証明した」なのに23節「このイエスをあなた方は律法を知らない者たちの手を借りて十字架につけて殺してしまったのです。」ペテロとしては、自分たちもあなた方と同じように大罪を犯した者であるという思いがあったことでしょう。32節「しかし神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」

(しかしこの復活したイエスは、私の弱さを受け入れて下さった。)

「神の右にあげられたイエスは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくれました。あなた方は、今そのことを見聞きしているのです。」

ペテロの大説教は始めこそ「ユダヤの方々、イスラエルの人たち」でしたが、イエスの十字架の段になると、50日前に「殺せ、殺せ、十字架に・・」と叫んだ目の前のユダヤ人たちも自分も同罪であるという思いから「兄弟たち」という呼びかけに変わっています。ペテロや弟子たちが上から目線ではなく、自分たちと同じ所に立っていることに心動かされたユダヤ人たちも同様に「兄弟たち」と応じています。37節では「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか 」とペテロたちに聞いています。彼らの狼狽ぶりが伝わってきます。

ペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 」この言葉はペテロ自身の悔いても、悔いても、尽きることのない悔い改めであり、自分自身に対する絶望の中で、自分の足では立っていることさえおぼつかなくなっていたペテロが、よみがえったイエスによって赦され、受け入れられたことそのものでした。

聖霊の賜物とは、イエス・キリストと共にあるということ。

パウロの言葉を思い起こして下さい。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 」(新共同訳)

口語訳では「ある」と訳されていたギリシャ語のev(エン)、英語のinという言葉をNEB は~be united with (~と結ばれている)と訳したのです。新共同訳のローマ人への手紙8:1もこの訳を採用しています。いい訳だと思います。罪に定められることがないとは、私たちの罪を一身に引き受けて下さったイエス・キリストのゆえに、私たちの罪が赦されるということです。

わずかに50日前に「殺せ、殺せ十字架に・・」と叫んだユダヤ人たちも、「私はそんな男のことは知らない。もし私が嘘を言っているなら、この身が神に呪われてもいい。」とまで言い切って自分の身の安全を確保したペテロの弱さも、「今やキリスト・イエスに結ばれている者は」神の前に罪として算定されないというのです。

私たち自身にとっては、極めて重大な過失や罪であっても、神はそれを私たちの過失や罪として取り上げ、数え給わない、キリストにおいて現れし神はこのような神であり、私たちの現実は“赦されている”というところから出発するというのです。

しかし世の中は人の罪を暴くことに熱心です。私たちの良心でさえ、私たちを弾劾してやまない。それに対してイエス・キリストにおいて自らを現したもうた神は、その傷を包み給うというのです。聖書に語られている神は、イエス・キリストのゆえに罪を赦すことに決して疲れ給わない神なのです。

宣教の中では時間の関係で割愛しましたが、参考までにローマ人への手紙8:3を掲載しておきます。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」

神はイエスだけは例外的に有罪の宣告をくだした。言葉を換えれば、イエスだけは赦さなかった。神は独り子イエスだけは徹底的に罰し、徹底的に捨てた。使徒信条によれば「よみにまで」。このことによって神の罪に対する正義は立てられ、同時に私たち一人一人が“赦される道”を開き給うた。しかもこのような愛は、神の愛を受けるに値しない者に注がれ、満たされることになるのです。 

ペテロのように己が義に飢え渇く者は、幸いである。その人は神の義をもって満たされる。悲しんでいる人は幸いである。その人は(キリスト・イエスに現れた)神によって慰められる 。とはこういうこと。

私たちは神のこの熱心と配慮に圧倒されて信仰を与えられ、悔い改める時、聖霊の賜物を受ける。聖霊の賜物とは、私は現に弱く、もろく、つまずき、失敗し、失望している。しかしそのような判断は、私の私に対する判断に過ぎない。神は私たちに対して、もっと異なった判断をなし給うのです。どう判断されるのか。

あなたはわが目に値高し、あなたは私が命をかけて買い取った者ではないか。雄々しくあれ、と私たちの判断、視点とは異なった判断・視点を示して私たちにエールを送っておられる。聖霊の賜物とは、私たちの判断、視点とは異なる判断、視点が示されること。

「聖霊を信ず」ということも、私たちが何か霊につかれた状態になることではなく、自分の人生において、また歴史の中に、教会の中に、働く神の働きを信ずるということです。

このことを今日のペンテコステ礼拝において、しかと心に刻みたいと思います。

(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)