2021年5月16日日曜日

キリストの昇天(2021年5月16日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 158番 あめにはみつかい 奏楽・長井志保乃さん

「キリストの昇天」

ルカによる福音書24章44~53節

関口 康

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」

今日も礼拝堂に集まって礼拝を行っています。自宅に留まっておられる方々のことを常に祈りに覚えています。どなたにも無理や強制感が出ないように礼拝の司式はすべて牧師がしています。礼拝当番の表を作るのもやめています。聖餐式と愛餐会は1年以上中止しています。

その状態でも礼拝に足を運んでくださる方々がおられることを、私はうれしく思っています。そのようなことを言うべきでないとお叱りを受けるかもしれませんが、正直な気持ちを隠すことはできません。

そして来週は聖霊降臨日。ペンテコステの礼拝です。昨年度はイースター礼拝もペンテコステ礼拝も各自自宅礼拝でした。今年はこの礼拝堂でペンテコステ礼拝を行います。1年前より状況が悪くなっているのではないかとお感じになる方がおられるでしょう。

図らずも今日から政府の緊急事態宣言の対象が北海道、岡山県、広島県にも拡大されることになりました。そのことも知らずにいるわけではありません。甘く考えているわけでもありません。それは私だけでなく、今日ここにお集まりの皆様も同じだと思います。

たとえそうであっても、礼拝堂に集まっての礼拝を行うことに意義があると信じるからこそ、わたしたちは互いに気を付けながら集まっています。礼拝堂を物理的に閉鎖してしまうと、心のよりどころ、魂の居場所を失ってしまう方々が実際におられると思います。私も同じです。

「礼拝堂の中に神さまが住んでおられる。だからここに来なければ神さまにお会いすることは決してできない」などと言いたいのではありません。教会の交わりの中で、わたしたちは神さまと出会うのです。その中で神の御子イエス・キリストのお姿を見るのです。

ここから先は理屈で説明できる域を超えています。実際に体験しなければ分からない、としか言いようがありません。

今日の朗読箇所はルカによる福音書24章44節から53節までです。ルカによる福音書の最後の部分です。そしてこのルカによる福音書と同じ著者が、いわばこの福音書の「第2巻」として使徒言行録を書いたことで知られています。

使徒言行録の冒頭の部分を見ますと、「テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と記されているのが分かります。この著者が「先に著した」とする「第1巻」がルカによる福音書です。

そして、その第2巻の使徒言行録の初めのあたりに来週わたしたちがお祝いする聖霊降臨日の出来事が記されています。聖霊降臨日の出来事については来週の説教者にお委ねします。しかし、大事なことは来週の箇所と今日の箇所とのつながりです。今日の箇所に記されているのはイエスさまが弟子たちの前で「天に上げられた」とされる出来事です。それを「昇天」と言います。

そこで何が起こったのかは記されている通りのことしか分かりません。ですし、記されていることを読んだとしても、それがわたしたちに理解できるかどうかは別問題であるとも言えます。

どういうことか。まず今日の箇所に登場するイエスさまは、十字架につけられて死んで、その3日目に復活された、その後の復活されたイエスさまです。そもそも復活とは何なのか。それ自体が理解できずに苦しむ人々は決して少なくないでしょう。しかし、とにかく聖書にはイエスさまが死者の中からよみがえられたことがはっきり記されています。

今日の問題に結び付けて言えば、イエスさまは、物理的な意味での「対面」を重んじられたのです。「リモート説教」ではありません。弟子たちと「対面」するために復活されたのです。

そして今日の場面は、その復活されたイエスさまが弟子たちに説教をなさっています。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)とお話しになっています。

「まだあなたがたと一緒にいたころ」とはどういう意味だろうとお感じになる方がおられるかもしれません。復活されたイエスさまはそのとき弟子たちと一緒におられたのではないだろうかと。細かいかもしれませんが、こういうことに引っかかりながら読むことが大事です。

そのときその場所に聖書の巻物があったかどうかは分かりません。しかし、聖書に基づいて、その教えの核心は何かをイエスさまが「対面」で説教されています。内容が46節以下に記されています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。

がっかりさせるつもりで申し上げるのではありませんが、旧約聖書のどこを探してもこのようなことは書かれていません。しかし、関連があると思われるのは次の2箇所です。イザヤ書53章の全体(新共同訳旧約1149頁)とホセア書6章2節(1409頁)です。

イザヤ書には「苦難の僕としてのメシア」が描かれ、ホセア書には「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」と記されています。これらの言葉に基づいてイエスさまがご自身の言葉で説教なさっていると読むことができるでしょう。

そしてその後、イエスさまは天に上げられました。記されているとおりに読めば「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(50~51節)。

これはどういう現象だろうと私も考えるところがあり、調べてみました。その中で、英語で記された注解書のこの箇所の説明文の中に、ディパーチャー(departure)という言葉が繰り返し出てくることに興味を持ちました。わたしたちがこの言葉を最も聞く場面は、空港ロビーや飛行機の機内でキャビンアテンダントの方がおっしゃるアナウンスでしょう。

ディパーチャーの意味は「出発」です。イエスさまは「出発された」。あるいは「旅立たれた」。これが「昇天」の意味であると考えることができるなら、イメージが豊かになる気がしました。

イエスさまはどこへ行かれたのでしょうか。旅の目的地はどこでしょうか。それは、父なる神がおられる「天」です。天から来られたイエスさまが天へとお戻りになったのです。そのことが描かれています。

しかしそれは確かに「お別れ」でもあります。「もはやイエスさまは地にはおられない」という切断の意味があります。

それでもイエスさまの弟子たちが、そしてわたしたちが寂しくないのは、イエスさまの代わりに聖霊が、聖霊なる神が、来てくださったからです。来週のペンテコステ礼拝に期待しましょう。

(2021年5月16日 主日礼拝)