2021年5月30日日曜日

神の富(2021年5月30日 三位一体主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 351番 せいなるせいなる 奏楽・長井志保乃さん


「神の富」

エフェソの信徒への手紙1章3~14節

関口 康

「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」

東京他に対する政府の緊急事態宣言がまた延長されました。しかし今、東京の現実は、飲食店の席に間仕切りが置かれ、閉店時刻が早まり、アルコールの提供が中止されていること、そして外出中のすべての人がマスクをしていること、さらに特に学校の現場において毎年の恒例行事であるような体育祭や修学旅行のようなことが次々に中止されていることを除けば、以前の状況とほとんど変わりない状態に戻っています。そのことを私は善いとも悪いとも判断できずにいます。

なぜこの話をするのかといえば、教会はどうすべきかの判断が求められているからです。教会で何かが起これば牧師が責任をとらされることを心配しているのだろうという詮索は心外です。ただ、昨年度1年間の経験を踏まえて今思うのは、教会が率先してやめましょう、閉じましょうの一点張りで動き始めると、そのまま教会の活動自体が終わってしまうだろうということです。なぜなら教会は、義務や責任で縛られて成り立つ存在ではなく、各自の信仰に基づいて全く自由で自発的に集まることによって成り立つ存在だからです。

何が起こるか分からないから礼拝堂に集まってのすべての活動を中止するとすれば、たしかにクラスター発生の責任を回避できるものがあります。しかし、教会の責任ということを強く言うべきことがあるとすれば、神を求める人々の信仰と生活、なかんずく孤独や孤立を余儀なくされ、寂しさを抱えている人々への配慮と支えに対する責任が教会にあると言わなくてはなりません。

その面の埋め合わせが、教会以外の他の何かでできるなら、とっくの昔に教会は役割を終えていたでしょう。他に代わるものがないからこそ、教会に活路を見出し、助けと救いを求めてきたのが私たちの体験的な事実ではないでしょうか。

今日の聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙1章3節から14節までです。表題に「手紙」とあり、送り主が「使徒であるパウロ」と記されています。しかし今日の聖書学者の多くは、これは手紙ではないし、著者はパウロではないとします。

理由として挙げられるのは、使徒パウロの代表的な手紙であるローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙などと比べて、エフェソの信徒への手紙の内容がきわめて抽象的であるという点です。もし著者が本当にパウロであるなら、エフェソの教会が置かれていた状況や、その教会に属する人々についての個別の事実を知らないはずがないにもかかわらず、それらの事柄への言及が全く無い。また、有力ないくつかの写本の中に宛て先の「エフェソ」という地名が記されていないものがある、など。

これが「パウロの手紙」でないなら何なのかといえば、聖書学者たちの意見によれば、パウロの影響を強く受けた別の人によって、当時の地中海沿岸地域の複数の教会で回覧され、各教会の礼拝の中で朗読される文書として書かれたものだろう、ということになります。

私はその意見に反対する理由は無いと考えています。しかし、パウロの影響を強く受けているという点まで否定する意見に接したことはありません。その意味では、他のパウロの手紙と内容的に通じ合っている文書であるとは言えるので、相互に関連づけて語ることも可能です。

そして今日の朗読箇所である1章3節から14節までに記されていることで最も大切な一文は、冒頭の「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(3節)であるということを確認することが重要です。この「天のあらゆる霊的な祝福」の「霊的」の意味は「聖霊による」です。言い換えれば「神は、キリストにおいて、聖霊によって、わたしたちを天のすべての祝福で満たしてくださいました」と言われています。

つまりここに父・子・聖霊なる三位一体の神の働きが記されているということです。「三位一体」という言葉は新約聖書の中に登場するわけではなく、ずっと後の時代の教会で用いられるようになったものですが、キリストと聖霊が父なる神と等しい位格を持つ存在であることが新約聖書の中に全く根拠がないなどということは全くできません。

そして今日の箇所に表現されている深い思想の核心部分は、神が、イエス・キリストにおいて、聖霊によって、わたしたちを天地創造の前からあらかじめお選びになり、そのわたしたちを神の御子イエス・キリストの血によって贖ってくださり、神の子としてくださり、そのわたしたちが頭(かしら)であるキリストのもとにひとつにまとめられ、神の国を受け継ぎ、永遠に神の栄光をたたえる者とされる、ということです。

「天地創造の前」(4節)とは何を意味するのでしょうか。私たちの想像力をゆうに超えるものがあります。天も地も創造される前には何もありませんし、時間もありません。時間も神に創造されたものです。

その創造以前、時間以前、歴史以前に、父なる神だけでなく、イエス・キリストがすでにおられ、聖霊なる神がおられ、その父・子・聖霊がわたしたちを、創造以前、時間以前、歴史以前、つまり永遠の次元においてあらかじめ選んでおられた、というのですから驚きです。

そして、その永遠の次元において選ばれたわたしたちが、頭なるキリストのもとに集められた、キリストの体なる教会であるということを、この箇所が語ろうとしていることは明らかです。

しかし、このようなことを言いますと、それは選民思想だろうと反発を受けることがあります。教会に属するキリスト者である人たちだけが神から特別扱いされていて、他の人々はそうでないとでも言いたいのか、と。

しかし、それは誤解なのです。今日の箇所で、あるいは聖書の中で「天地創造の前に」という点が強調されるときの意図は、「すべては神の恵みである」ということを言いたいだけです。人間のいかなる努力や信心や功徳によらない、ということです。

そして、今日の箇所で繰り返されている「わたしたち」が誰を指すかは限定されていません。すべての人に開かれています。この箇所の「わたしたち」の中に私がいると信じることは、だれにでもできます。「私は含まれていないかもしれない」と考える必要は全くありません。

「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ」(6節)と記されています。恵みは「あふれて」います。小さな器の中にとどまっていません。全人類を満たしても余りある神の豊かな恵みから私だけ外されている、と考えるべきではありません。

しかし、この箇所ではっきり分かるのは、教会の使命は何なのかということです。神の栄光をたたえることです。それは主の日ごとに守られる礼拝において集中的に表現されます。

「各自自宅礼拝」には意味がないと申し上げるつもりはありません。しかし、「天にあるものも地にあるものも、キリストのもとにひとつにまとめられる」(10節)ということを体験的事実として味わうことができるのは、「対面礼拝」ならでは、です。対策をとり、互いに気を付けながら、共に集まる礼拝、共に生きる生活を続けて行こうではありませんか。

(2021年5月30日)


2021年5月23日日曜日

言葉が通じる(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)

秋場治憲兄

讃美歌352 あめなるよろこび 奏楽・長井志保乃さん

石川献之助牧師のご挨拶

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます


「言葉が通じる」

使徒言行録2章1~11節

秋場治憲兄

「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる、その御名は万軍の神なる主」(アモス書4章13節)

本日は聖霊降臨日、別名ペンテコステ、教会の誕生日とも言われている。ペンテコステというのはギリシャ語で50日目という意味です。「過ぎ越しの祭り」(大麦の収穫を祝う日)から数えて50日目に、「五旬際」(小麦の収穫を祝う日)の祭りが行われた。この五旬際がペンテコステとなりました。

今日は使徒言行録2章を中心に聖霊を受けるとはどういうことであるのかということを学びたいと思います。使徒言行録2章の記事ですが、一つの特徴があります。「聖霊」とはどんなものであるのかという議論は一切していません。ではどんなことを言っているのかというと、「聖霊」の現れ方、働きを述べている。これは使徒言行録だけでなく、聖書全体の特色とも言えます。議論の前に事実があり、教えの前に働きがある。創世記の冒頭は、「初めに神は天地を創造された」という言葉で始まる。

今日のテキストでは聖霊が<聞こえるもの>として出てくる。音として響きわたる。しかも単なる音ではなく、語る人から聞こえてくる言葉として。聖霊が語らせるままに、他国の言葉で語りだした。

<聞こえるもの>の次は、<見えるもの> 炎のような舌が、別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。炎 というのは、神の臨在を表す。今日のテキストでは分けても<聞こえるもの>。言葉が重視されている。語りだされた言葉には、力があり、息吹があり、威厳を伴う。

この言葉は目には見えないけれども、聖霊が通る道でもある。聖霊はこの道を通て、人の心の奥底へと届けられる。

5節には「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいた。」当時の天下というのは、ローマ帝国の支配下にある世界のこと。二千年前のエルサレムにも天下のあらゆる所から、人々が集まってきて来ていたことが分かる。9節にはそれらの国々の名前が出てくる。ある研究者はこれらの地名はエルサレムで起こった聖霊降臨の出来事が、これから世界に向かって伝えられていく序論になっていると言っています。これらの地方、また人々の間では、多くの言葉が用いられていた。ここで聖霊に満たされた人々は、他国の言葉で語り始めた。聖霊を受ける(満たされる)というのは、内面的な高揚感だったり、何か神秘的、魔術的な力のように考えがちですが、ここではそういうことは一言も言ってない。聖霊を受けた者は、人間の言葉を語る。しかも聞く人が分かる言葉で語る。

使徒言行録2章で強調されているのはこの点であり、6節、8節、11節と3回も繰り返されている。聞いている人が分かるということが大切。

このような言葉によって人と人は結びつき、互いに理解し合い、共に働くようにさせられる。この言葉によって神と人という垂直的な関係は、人と人という水平的な面に広がっていく。だから使徒信条は「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と展開されている。

ここで思い出していただきたいことがある。創世記11章のバベルの塔の話。

「石の代りにレンガを、しっくいの代りにアスファルトを用い、さあ、天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう。 」これは自分たちがこの世の支配者として君臨し、天の神にとって代ろうというもの。ところが神は彼らの言葉を通じなくし、地の表に散らされた。高遠な理想と高度な技術力をもって始まったバベルの塔の建設作業は、言葉が通じなくなって失敗に終わった。ところが今日のテキストでは、言葉が通じるという<新しい世界>を私たちに示している。

これはすでに多くの預言者たちを送られた神は、最後に神の独り子をこの世に遣わし、その独り子の上にすべての人間の罪を置き、これを徹底的に罰せられた。世の支配者として神にとって代ろうという思いを打ち砕き、十字架の赦しの下に、神に栄を帰す者たちを御もとに集めようというのがペンテコステ。

ここには目には見えないけれども罪にまみれた人間を、神の独り子イエス・キリストの十字架の贖いによって、今一度御もとに招き入れようというもの。その神の気合というものが目に見える形で現れた出来事。これは創世記11章の回復であり、これが私たちの出発点。聖霊降臨日が教会の誕生日と言われる由縁(ゆえん)なのです。

それでは使徒たちは聞くものたちの生まれ故郷の言葉で何を語ったか。神の偉大な業(新共同訳)、神の大いなる働き(口語訳)を語った。では神の偉大な業とは何か。神の偉大な業とは、イエス・キリストの生涯、生と死、そして復活のこと。これ以外の、そしてこれ以上の神の偉大な業は無いのです。

使徒言行録2章の後半はペテロの大説教があり、三千人 が悔い改めて洗礼を受けたと記されています。この三千人の人たちというのは、どういう人たちか。これらの人たちはわずかに50日前過ぎ越しの祭りにおいて、宗教指導者たちに扇動されたとは言え「殺せ、殺せ、十字架につけよ」「私たちにはローマの皇帝以外に王はない」とまで叫んだ人たち。

では翻ってペテロと弟子たちはどうであったか。ペテロはイエスを追って大祭司の中庭にまで潜入したが、そこで三度まで「そんな男のことは知らない 」と断言してしまった。マタイとマルコには「その時、ペテロは呪いの言葉 さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた」と記されています。これはもし自分の言っていることが真実でないなら、自分は神に呪われてもいいという意味です。そこまで断言してペテロはイエスとの関係を否定したのです。ルカ福音書では、その時「主は振り向いてペテロを見つめられた。 」と記しています。

ペテロは完全に打ち砕かれてしまいました。ペテロと他の弟子たちは今目の前にいる群衆を恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたのです。そう考えてくると、一体この出来事の主役は誰か、ということを考えさせられる。

ペテロの大説教は預言者ヨエルの言葉を引用して更に続きます。22節「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。神はイエスを通して、あなた方の間で行われた奇跡と不思議な業としるしによって、そのことをあなた方に証明した」なのに23節「このイエスをあなた方は律法を知らない者たちの手を借りて十字架につけて殺してしまったのです。」ペテロとしては、自分たちもあなた方と同じように大罪を犯した者であるという思いがあったことでしょう。32節「しかし神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」

(しかしこの復活したイエスは、私の弱さを受け入れて下さった。)

「神の右にあげられたイエスは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくれました。あなた方は、今そのことを見聞きしているのです。」

ペテロの大説教は始めこそ「ユダヤの方々、イスラエルの人たち」でしたが、イエスの十字架の段になると、50日前に「殺せ、殺せ、十字架に・・」と叫んだ目の前のユダヤ人たちも自分も同罪であるという思いから「兄弟たち」という呼びかけに変わっています。ペテロや弟子たちが上から目線ではなく、自分たちと同じ所に立っていることに心動かされたユダヤ人たちも同様に「兄弟たち」と応じています。37節では「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか 」とペテロたちに聞いています。彼らの狼狽ぶりが伝わってきます。

ペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 」この言葉はペテロ自身の悔いても、悔いても、尽きることのない悔い改めであり、自分自身に対する絶望の中で、自分の足では立っていることさえおぼつかなくなっていたペテロが、よみがえったイエスによって赦され、受け入れられたことそのものでした。

聖霊の賜物とは、イエス・キリストと共にあるということ。

パウロの言葉を思い起こして下さい。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 」(新共同訳)

口語訳では「ある」と訳されていたギリシャ語のev(エン)、英語のinという言葉をNEB は~be united with (~と結ばれている)と訳したのです。新共同訳のローマ人への手紙8:1もこの訳を採用しています。いい訳だと思います。罪に定められることがないとは、私たちの罪を一身に引き受けて下さったイエス・キリストのゆえに、私たちの罪が赦されるということです。

わずかに50日前に「殺せ、殺せ十字架に・・」と叫んだユダヤ人たちも、「私はそんな男のことは知らない。もし私が嘘を言っているなら、この身が神に呪われてもいい。」とまで言い切って自分の身の安全を確保したペテロの弱さも、「今やキリスト・イエスに結ばれている者は」神の前に罪として算定されないというのです。

私たち自身にとっては、極めて重大な過失や罪であっても、神はそれを私たちの過失や罪として取り上げ、数え給わない、キリストにおいて現れし神はこのような神であり、私たちの現実は“赦されている”というところから出発するというのです。

しかし世の中は人の罪を暴くことに熱心です。私たちの良心でさえ、私たちを弾劾してやまない。それに対してイエス・キリストにおいて自らを現したもうた神は、その傷を包み給うというのです。聖書に語られている神は、イエス・キリストのゆえに罪を赦すことに決して疲れ給わない神なのです。

宣教の中では時間の関係で割愛しましたが、参考までにローマ人への手紙8:3を掲載しておきます。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」

神はイエスだけは例外的に有罪の宣告をくだした。言葉を換えれば、イエスだけは赦さなかった。神は独り子イエスだけは徹底的に罰し、徹底的に捨てた。使徒信条によれば「よみにまで」。このことによって神の罪に対する正義は立てられ、同時に私たち一人一人が“赦される道”を開き給うた。しかもこのような愛は、神の愛を受けるに値しない者に注がれ、満たされることになるのです。 

ペテロのように己が義に飢え渇く者は、幸いである。その人は神の義をもって満たされる。悲しんでいる人は幸いである。その人は(キリスト・イエスに現れた)神によって慰められる 。とはこういうこと。

私たちは神のこの熱心と配慮に圧倒されて信仰を与えられ、悔い改める時、聖霊の賜物を受ける。聖霊の賜物とは、私は現に弱く、もろく、つまずき、失敗し、失望している。しかしそのような判断は、私の私に対する判断に過ぎない。神は私たちに対して、もっと異なった判断をなし給うのです。どう判断されるのか。

あなたはわが目に値高し、あなたは私が命をかけて買い取った者ではないか。雄々しくあれ、と私たちの判断、視点とは異なった判断・視点を示して私たちにエールを送っておられる。聖霊の賜物とは、私たちの判断、視点とは異なる判断、視点が示されること。

「聖霊を信ず」ということも、私たちが何か霊につかれた状態になることではなく、自分の人生において、また歴史の中に、教会の中に、働く神の働きを信ずるということです。

このことを今日のペンテコステ礼拝において、しかと心に刻みたいと思います。

(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)

2021年5月16日日曜日

キリストの昇天(2021年5月16日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 158番 あめにはみつかい 奏楽・長井志保乃さん

「キリストの昇天」

ルカによる福音書24章44~53節

関口 康

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」

今日も礼拝堂に集まって礼拝を行っています。自宅に留まっておられる方々のことを常に祈りに覚えています。どなたにも無理や強制感が出ないように礼拝の司式はすべて牧師がしています。礼拝当番の表を作るのもやめています。聖餐式と愛餐会は1年以上中止しています。

その状態でも礼拝に足を運んでくださる方々がおられることを、私はうれしく思っています。そのようなことを言うべきでないとお叱りを受けるかもしれませんが、正直な気持ちを隠すことはできません。

そして来週は聖霊降臨日。ペンテコステの礼拝です。昨年度はイースター礼拝もペンテコステ礼拝も各自自宅礼拝でした。今年はこの礼拝堂でペンテコステ礼拝を行います。1年前より状況が悪くなっているのではないかとお感じになる方がおられるでしょう。

図らずも今日から政府の緊急事態宣言の対象が北海道、岡山県、広島県にも拡大されることになりました。そのことも知らずにいるわけではありません。甘く考えているわけでもありません。それは私だけでなく、今日ここにお集まりの皆様も同じだと思います。

たとえそうであっても、礼拝堂に集まっての礼拝を行うことに意義があると信じるからこそ、わたしたちは互いに気を付けながら集まっています。礼拝堂を物理的に閉鎖してしまうと、心のよりどころ、魂の居場所を失ってしまう方々が実際におられると思います。私も同じです。

「礼拝堂の中に神さまが住んでおられる。だからここに来なければ神さまにお会いすることは決してできない」などと言いたいのではありません。教会の交わりの中で、わたしたちは神さまと出会うのです。その中で神の御子イエス・キリストのお姿を見るのです。

ここから先は理屈で説明できる域を超えています。実際に体験しなければ分からない、としか言いようがありません。

今日の朗読箇所はルカによる福音書24章44節から53節までです。ルカによる福音書の最後の部分です。そしてこのルカによる福音書と同じ著者が、いわばこの福音書の「第2巻」として使徒言行録を書いたことで知られています。

使徒言行録の冒頭の部分を見ますと、「テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と記されているのが分かります。この著者が「先に著した」とする「第1巻」がルカによる福音書です。

そして、その第2巻の使徒言行録の初めのあたりに来週わたしたちがお祝いする聖霊降臨日の出来事が記されています。聖霊降臨日の出来事については来週の説教者にお委ねします。しかし、大事なことは来週の箇所と今日の箇所とのつながりです。今日の箇所に記されているのはイエスさまが弟子たちの前で「天に上げられた」とされる出来事です。それを「昇天」と言います。

そこで何が起こったのかは記されている通りのことしか分かりません。ですし、記されていることを読んだとしても、それがわたしたちに理解できるかどうかは別問題であるとも言えます。

どういうことか。まず今日の箇所に登場するイエスさまは、十字架につけられて死んで、その3日目に復活された、その後の復活されたイエスさまです。そもそも復活とは何なのか。それ自体が理解できずに苦しむ人々は決して少なくないでしょう。しかし、とにかく聖書にはイエスさまが死者の中からよみがえられたことがはっきり記されています。

今日の問題に結び付けて言えば、イエスさまは、物理的な意味での「対面」を重んじられたのです。「リモート説教」ではありません。弟子たちと「対面」するために復活されたのです。

そして今日の場面は、その復活されたイエスさまが弟子たちに説教をなさっています。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)とお話しになっています。

「まだあなたがたと一緒にいたころ」とはどういう意味だろうとお感じになる方がおられるかもしれません。復活されたイエスさまはそのとき弟子たちと一緒におられたのではないだろうかと。細かいかもしれませんが、こういうことに引っかかりながら読むことが大事です。

そのときその場所に聖書の巻物があったかどうかは分かりません。しかし、聖書に基づいて、その教えの核心は何かをイエスさまが「対面」で説教されています。内容が46節以下に記されています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。

がっかりさせるつもりで申し上げるのではありませんが、旧約聖書のどこを探してもこのようなことは書かれていません。しかし、関連があると思われるのは次の2箇所です。イザヤ書53章の全体(新共同訳旧約1149頁)とホセア書6章2節(1409頁)です。

イザヤ書には「苦難の僕としてのメシア」が描かれ、ホセア書には「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」と記されています。これらの言葉に基づいてイエスさまがご自身の言葉で説教なさっていると読むことができるでしょう。

そしてその後、イエスさまは天に上げられました。記されているとおりに読めば「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(50~51節)。

これはどういう現象だろうと私も考えるところがあり、調べてみました。その中で、英語で記された注解書のこの箇所の説明文の中に、ディパーチャー(departure)という言葉が繰り返し出てくることに興味を持ちました。わたしたちがこの言葉を最も聞く場面は、空港ロビーや飛行機の機内でキャビンアテンダントの方がおっしゃるアナウンスでしょう。

ディパーチャーの意味は「出発」です。イエスさまは「出発された」。あるいは「旅立たれた」。これが「昇天」の意味であると考えることができるなら、イメージが豊かになる気がしました。

イエスさまはどこへ行かれたのでしょうか。旅の目的地はどこでしょうか。それは、父なる神がおられる「天」です。天から来られたイエスさまが天へとお戻りになったのです。そのことが描かれています。

しかしそれは確かに「お別れ」でもあります。「もはやイエスさまは地にはおられない」という切断の意味があります。

それでもイエスさまの弟子たちが、そしてわたしたちが寂しくないのは、イエスさまの代わりに聖霊が、聖霊なる神が、来てくださったからです。来週のペンテコステ礼拝に期待しましょう。

(2021年5月16日 主日礼拝)

2021年5月9日日曜日

イエスの祈り(2021年5月9日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 211番 あさかぜしずかにふきて 奏楽・長井志保乃さん


「イエスの祈り」

マタイによる福音書6章1~15節

関口 康

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

4月25日から始まった東京等の緊急事態宣言が今週終わるはずでした。しかし5月31日まで延長されました。感染症の拡大が収束しないことも残念ですが、政治が有効な手立てをとりえていないようにしか思えないことこそ残念です。わたしたちにできるのは祈ることです。しかし、大切なのは、何を、そしてどのように祈るかです。

今日の聖書箇所も日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。緊急事態宣言に合わせて選んだわけではありません。しかし、この箇所でイエス・キリストが弟子たちに「だから、こう祈りなさい」(9節)という言葉に続けてわたしたちがよく知っている「主の祈り」をお教えになったことを、いまわたしたちが置かれているこの状況の中で改めて確認する機会を与えられるのは、神の導きであると感じるばかりです。

わたしたちは祈ります。祈らなければなりません。しかし、今日の朗読箇所の1節から8節までにイエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、人は祈るときにも偽善的でありうるので気を付けなさいということです。とても耳の痛い、厳しいことをイエスさまがおっしゃっています。

文脈からいえば、この箇所でイエスさまは「人に施しをすること」(2節以下)と「祈ること」(5節以下)を共に「善行」(1節)の具体的な内容として挙げておられます。言い方を逆にして言い直せば、「善行」とは「人に施しをすること」や「神に祈ること」を指すと考えておられます。しかし、その「善行」も、人の手にかかると偽善的になされる場合があるので気を付けなさい、とおっしゃっています。

この場合の「偽善」の意味で最も近いのは仮面をかぶって演技することです。心にもないことを行い、語ることです。いまわたしたちは外出するときには必ずマスクをしていますので、「仮面をかぶることが偽善である」と言われると、ぞっとするものがあります。マスクは外すべきではありませんし、そういう意味ではありません。

むしろイエスさまがおっしゃっているとおりです。「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(2節)。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(5節)。

共通しているのは、人からほめられたい、人に見てもらいたい、つまり人から評価されたいということが動機でありかつ目的であるような善行を、人目につくところで行うことです。それをイエスさまは「偽善」と呼んでおられます。

「それのどこが悪いのか。たとえそれが偽善であるとしても、善いことをしているのだから、結構なことではないか。偽善を恐れて何もしないよりもましである」という反論がありえます。そのような意見にしばしば接します。私自身もどちらがよいか判断に苦しむことがよくあります。しかしイエスさまは、そのような善行のあり方をお嫌いになりました。

祈りについても同じであるというわけです。しかし、これも難しい問題を含んでいます。私の話になって申し訳ありませんが、生まれた時から今日まで55年も教会に通い、30年以上牧師の仕事を続けてきたのに、人前で祈るのが苦手です。だいたいいつも、しどろもどろになります。

もし礼拝を「人前でない」と考えることができるならまだしも、そういうわけに行かないので、事前に祈りの原稿を書いて臨む姿勢のほうが良いと思うところがあります。ふだんの礼拝を軽んじる意味はありませんが、結婚式や葬儀のような場面でしどろもどろの祈りではまずいでしょう。

しかし、原稿や式文を朗読するような祈りをすること自体も私は苦手です。なぜ苦手なのか、その原因を探っていくと、どうやらいつも今日の箇所のイエスさまの言葉が引っかかっていることに気づきます。苦手は克服すべきでしょう。しかし、一筋縄では行かないものを感じます。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6節)とイエスさまがおっしゃっています。お祈りが苦手な牧師の話を続けるわけに行きませんが、奥まった自分の部屋で祈るだけで牧師は務まらないでしょう。

しかし、このようなことを縷々おっしゃったうえで、イエスさまがいわばひとつの結論として弟子たちにお教えになったのが「主の祈り」であることの関係を考えることは、問題解決の糸口になると思います。特にイエスさまが「異邦人の祈り」を批判する言葉の中でおっしゃっている「くどくどと述べてはならない」とか「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」という厳しい言葉は、その意味をよく考える必要があります。

逆の言い方をすれば、イエスさまは簡潔で、端的で、時間的にも短い言葉で祈ることを求めておられるということでしょう。原稿を書くなり式文を読むなりすること自体が間違っているわけではなく、演技の台詞のような言葉を長々と述べたからといって、その祈りの効果が上がるわけではないというような意味になるかもしれません。

そしてイエスさまは「主の祈り」をお教えになりました。つまり「主の祈り」は、偽善者の祈りのようでない、簡潔で、端的で、時間的にも短い祈りの言葉である、という意味になるでしょう。本当にそうなっているかどうかは考えどころです。わたしたちにとっては「主の祈り」も、意味も分からず唱えているだけなら、演技の台詞と大差ありません。

わたしたちが用いている文語訳の「主の祈り」は1880年訳です。なんと141年前です。古い言葉のほうが、威厳があるからでしょうか。そうかもしれませんが、意味が分からない人にとっては台詞になるだけでしょう。

最後に言います。私が「主の祈り」の解説をするたびに強調して申し上げるのは、この祈りは徹底的に「地上的な」意味を持っている、ということです。特にそのことがはっきり分かるのは「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」です。

神の御心が「天」で実現しているだけなら、何の意味もありません。絵に描いた餅です。「地」においてこそ、わたしたちの現実の世界と社会においてこそ、御心が実現しなくてはなりません。「神の国」がこちらに「来る」のでなくてはなりません。そのことを祈るのが「主の祈り」です。

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りながら貧困で苦しむ人を無視するわけに行きません。それは世界の中の貧しい国の人々だけの話ではありません。わたしたちの今の現実です。

富裕層の人たちばかりの教会を作りたいですか。生活に窮する人々を見下げるエリートばかりの教会を作りたいですか。わたしたちは断じてそのように考えません。「主の祈り」の心をもって生きる教会をこれからも目指していこうではありませんか。

(2021年5月9日 主日礼拝)

2021年5月2日日曜日

父への道(2021年5月2日 主日礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌21 390番 主は教会の基となり 奏楽・長井志保乃さん
「 父への道 」

ヨハネによる福音書14章1~11節
 牧師 石川献之助

昨日より暦は5月に入りました。本日は日本キリスト教団の教会歴によりますと、主イエス様の復活節第5主日であります。

聖書の箇所は、ヨハネによる福音書14章 1 節からの御言葉が与えられております。そこでは「心を騒がせるな」という語りかけから始まっております。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家に
は住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言っ
たであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわ
たしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
(1~3節)

5月は私にとりましては、この世に産まれた誕生の月でもあります。誕生の月を迎える高齢の私個人に、主が語りかけておられるように、この御言葉をききとる思いがしております。

主イエスは十字架の死が間近に迫っていることを心に留めて、弟子たちに沢山の大切な事をお話になりました。その中でペトロの「主よ、どこへ行かれるのですか。」(13 章 36~38節)から始まる問いに続く箇所が今日の御言葉です。

主イエスは「私の父の家には住む所がたくさんある」(2 節)と語りかけて下さいます。主イエスは、私たちが後についていけるように、天と父なる神に至る道しるべをつけて下さったのです。私たちの死後についての不安に対して、主イエスのおられる永遠の住まいである天にお迎えいただくことを約束して下さっている事は、大きな慰めであると思います。

ユダヤ教の支配下にある、ユダヤにおける主イエスの活動は、多くの批判と問題に妨げられていました。その中で弟子たちに共通する不安は、これから自分たちはどこに向かって歩むのか、誰にもわからない中に置かれていたということです。

また、主イエスを失った後の将来についても不安を感じていたと思われます。主イエスはご自身をおつかわしになった父のもとへ行こうとしておられるのであり、父と主イエスは一つであると、弟子たちに繰り返し語られましたが、弟子たちはついに理解することができなかったのです。主イエスがこれから通ろうとしている道、その道のために十字架があるということなど、さらに理解することは難しかったのでしょう。

トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」(5 節)とさらに尋ねました。続いて主イエスは言われました。
 
「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)

なんという大きな慰めでしょう。主イエスのみが、神へ至る道であります。主イエスにおい
てのみ、わたしたちは神がいかなるお方であるかを知ることが出来るのです。

この問いは、今の私たちにとっても同じであるのです。当時の弟子たちの置かれていた状況は時代的にもあまりにも違いがありますが、私たちは生活の不安の上に、命の不安に怯えながら限りある命を生きているという現代の人生の側面からは、共通点も見出すことができます。私たちが生きようとしている将来は、正に様々な不安に満ちたものではないでしょうか。

私たちは一人ひとり、各々の心を騒がせる課題を抱えながら生きています。主イエスの言われた永遠の命を生きるべく、主イエスの救いに希望を見出すことが求められているのです。このことに心を向けながら、信仰に生きる主イエスが本当に与えようとしている救いに与りたいと願う者であります。この「心を騒がせるな」との主の御声に耳を傾け、主を信頼し心を整えながら、平安を与えられ歩んでいきたいとの思いを新たにした次第です。

私たちはこの世の一回限りの人生において、どこに向かって生きていくのでしょうか。ここにこそ、私たちキリスト者の希望があるのです。私たちには永遠の命が希望として与えられているということを、忘れずに歩んでいきたいと思います。

(2021年5月2日 主日礼拝)


2021年4月25日日曜日

イエスは復活また命 (2021年4月25日 主日礼拝)

 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

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「イエスは復活また命」

ヨハネによる福音書11章17~27節

関口 康

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」

今日も皆様にお集まりいただき、感謝いたします。今日から5月11日まで東京、大阪、兵庫、京都への緊急事態宣言が出たということを知らずにいるわけではありません。どうかくれぐれも各自でお気をつけくださいと申し上げるほかはありません。教会は現時点では礼拝堂を閉鎖する考えはありません。しかし警戒と対策を続けていく所存です。

例外なくすべての教会は、いつからか始まった存在です。この教会では石川先生がご自身でなさったとおっしゃる「開拓伝道」の時期が、すべての教会の歴史の最初にありました。最初から大勢の人が集まって始まった教会がないわけではないでしょう。しかし、教会の中には、本当に最初はひとりだったというところもあるでしょう。

私も31年前、1990年3月に東京神学大学大学院を卒業した翌月から、日本キリスト教団南国教会に赴任し、当時の鈴木實牧師と共に南国教会の開拓伝道所である南国教会大津伝道所を立ち上げる働きに就きました。

鈴木牧師が南国教会の主任牧師であると共に、南国教会大津伝道所のほうの兼務担任教師になりました。私は南国教会大津伝道所のほうの主任担任教師であると共に南国教会のほうの兼務担任教師となりました。そのような「たすき掛け」などと呼ばれることがある方式で、2つの教会を2人の教師が牧会する形で、開拓伝道に従事しました。

その意味では、石川先生が昭島教会の開拓伝道をなさったというのと内容的に同じことを私もさせていただいた経験があると言えます。それで、私にも体験があるのは、とにかく教会は何もないところから始まるものだ、ということです。

そして、その事実に基づいて今の緊急事態の中で私なりに言いうることは、決して不遜な意味で申し上げるのではありませんが、教会の礼拝になんらかの事情でひとりも集まることができない場合には、牧師がひとりですべてを行うことになっている、ということです。それで寂しいとかなんとか、そのような気持ちになることは私にはありえない、ということです。

そもそも例外なくすべての教会が、だれもおらず、何もないところから始められたものです。仮に今日だれもいなくても、何度でも新たな思いで集まることができるし、「これで終わりだ」などという悲壮な考えを持つべきではありません。教会は神の恵みによって立っているのであり、それ以上の何ものでもありません。人の努力が無視される意味では決してありません。しかし、人は歴史の中で入れ替わっていきます。

今日開いていただいた聖書の箇所のお話をします。登場するのは、イエスさまです。そして、イエスさまが特別に愛しておられた3人姉弟が登場します。それは、姉のマルタ、妹のマリア、そして弟のラザロです。しかし、ラザロは病気で亡くなったばかりです。

イエスさまがこの姉弟を特別に愛しておられた理由は、記されていません。はっきり書かれているのは、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛していた」(5節)ということだけです。しかし、なんとなく想像がつくのは、家族の中に他の人と比べて弱さの度合いが強い人がいる場合、配慮の必要がある、ということです。

書かれていないことをいろいろ想像しはじめると、きりがありません。この姉弟の両親は描かれていません。両親がいたのかいなかったのか分かりません。姉のマルタが一家の大黒柱として全責任を引き受けて常に忙しく立ち働いていたのではないかとか、妹のマリアは家にいるときはじっと座っている時間のほうが長かったのではないか(外で働いて疲れて、家の中では身動きがとれなかった?)とか、弟のラザロは体が弱く病気がちだったのではないかなど。

そのような家庭内の状況を、イエスさまがすべて把握しておられ、いつも心にかけておられたのではないかなど想像することが可能です。しかし、そのイエスさまが心にかけておられた家庭の中のラザロが亡くなりました。そこでわたしたちも驚く出来事が起こります。それは、イエスさまがその家庭にすぐに来てくださらなかった、ということです。

ラザロが亡くなったという連絡がイエスさまの耳に届いていなかったわけではないし、臨終の場に立ち会うことができなくても、連絡を受けた日から行動を開始してくだされば、そのこと自体で遺族の心は慰められるでしょう。しかし、聖書が記しているのは、イエスさまは「ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間同じ所に滞在された」(6節)ということであり、イエスさまが来てくださったのは「ラザロが墓に葬られて既に4日もたっていた」(17節)ということです。

それで、ラザロの2人のお姉さんたちが我慢できなくなりました。イエスさまに激しく食ってかかりました。「あなたがここにいてくだされば、弟は死ななかったでしょうに」(21節)とまで言いました。マルタが言ったのと同じことをマリアも言いました(32節)。あなたのせいで弟は死んだ、と言わんばかりです。言いがかりだとは思いますが、言いたい気持ちは理解できます。すぐ来てほしかった、と言いたいだけです。それ以上の何の気持ちもなかったと思います。

そのように言われたイエスさまが、どのように反応なさったかが描かれています。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか』」(34節)。「イエスは涙を流された」(35節)。しかし、ここで大切なことはイエスさまが何に腹を立てられ、興奮され、涙を流されたのかです。

イエスさまがすぐかけつけてくれなかったことに不満を抱き、噛みつくように怒っているラザロのお姉さんたちの言いがかりでイエスさまの心が深く傷つき、悲しくなられて泣いてしまわれた、という話ではありません。

そうではありませんけれども、イエスさまがなぜすぐに彼女たちのところに行かれなかったのかは、たしかに謎です。謎ですけれども、私は理解できます。様子を見た、というような冷たく突き放すような意味ではないと思います。しかし、それに少し近いところがあるかもしれません。

それが何であるかを具体的な言葉にするのは難しいです。今のわたしたちのことを考える材料になるかもしれません。ある人が病気になる、亡くなる。その方の家族が看護や介護で苦しむ。喪失感や寂しさで悲しむ、嘆く。そのような中で、教会がその方々に寄り添うこと、配慮することの意味は何か、というような問題です。

とにかく一刻も早く駆けつけることに意義がある、かもしれません。しかし、感染症の問題がある中で、それをしたくてもできないような場合、「教会は(あるいは「牧師は」)私に何もしてくれなかった」という不満が出てくることには必然性があります。しかし、大切な問題は、その先にあります。「そのとき教会は何をなしうるか」という問題を、今日の箇所が投げかけています。

(2021年4月25日 主日礼拝)


2021年4月18日日曜日

新しい命(2021年4月18日 主日礼拝)


讃美歌21 327番 すべての民よ、よろこべ 奏楽・長井志保乃さん

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「新しい命」

コロサイの信徒への手紙3章1~11節

関口 康

「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。」

先週予告した今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書でした。しかし、コロサイの信徒への手紙に変更しました。変更の理由は、実際に読んでみてピンとくる箇所でなかったからです。

もう少し丁寧にいえば、マタイによる福音書のその箇所は、イエスさまが厳しい裁きの言葉をお語りになっている箇所だったからです。しかし、今のわたしたちは、裁きの言葉に耐えられません。慰めと励ましの言葉が必要です。そう思いましたので、変更しました。

タイトルは変更していません。むしろ今日選んだ聖書の箇所のほうが先週予告した「新しい命」というタイトルにふさわしい内容です。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます」から始まる箇所です。これは驚くべき言葉ですが、裁きの言葉ではありません。とらえ方によっては厳しい内容であると感じられる面がないわけではありませんが、まさにとらえ方の問題です。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3節)とありますが、これは何のことでしょうか。わたしたちは死んだのでしょうか。「いや、まだ生きている」としか言いようがないでしょう。

少し前に説明があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2章11節)と記されています。いろんなことが書かれていますが、すべては一度に同時に起きることです。それはわたしたちが洗礼を受けることです。洗礼を受けるとは死ぬことである、というのです。

「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるでしょうか。死んでいないし、殺されるのはまっぴらだと。たしかにわたしたちは死んでいません。その意味では、考え方の問題であるという言い方が許されて然るべきです。

洗礼を受けることは、キリストと共に死にキリストと共に復活することであると、わたしたちは考える。「考える」と言うと「哲学ではない」と言われるかもしれませんので「信じる」と言うほうがいいかもしれません。しかし、この件に関しては「考える」でも「信じる」でも大差ありません。わたしたち自身のことをまさに考えれば、分かることです。

今日この礼拝に集まっているみんながみんな、洗礼を受けている人たちばかりではありません。しかし、はっきりしているのは、だれも死んでいないということです。礼拝は、あるいは教会は、生きている人たちの集まりです。しかし、今日の箇所には「あなたがたは死んだ」と書かれています。「あなたがたはキリスト共に復活させられた」と書かれています。何を言っているか分からないでしょうか。そんなこともないと考えている、あるいは信じているのが、教会のわたしたちではないでしょうか。いえ、わたしたちはそういう者たちです。断言しておきます。

死んだとか復活させられたとか、考えるとか信じるとか、何を言っているかちんぷんかんぷんでしょうか。そういう方がおられるかもしれないので説明が必要でしょう。私がいま申し上げていることとの関係で最も注目すべき思想は、2章13節の途中から14節の途中まで記されている「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」です。

契約の問題です。それはわたしたちを縛るものでもあります。税金や借金の問題であるといえば分かるでしょう。払えなければ返せなければ、いつまでもどこまでも追いかけてくる。しかし、その人が死ねば契約は終わりだというわけです。逃げ切ったという話になるかどうかは分かりませんが、それ以上追いかけることはできなくなるという話ではあります。

そのことを、ある意味でたとえ話として持ち出して洗礼の意味を説明しているのが今日の箇所であると言えます。死んだとか復活させられたとか、何の話なのかといえば、すべてはひとつの問題に集中しています。それは、あなたがたが過去に縛られていた一切のものから自由にされたのだ、ということです。

先祖代々受け継いできた宗教や、そのしきたりからも自由にされています。思想・信条、教育内容からも、自由にされています。「私の家は代々、何宗の何派なので、それを受け継がなくてはならない」というようなことは一切ありません。それは、今のわたしたちにとっては教会も同じです。親がそうだから私もそうする、というだけで済まないし、それは理由になりません。

わたしたちは、縛られるために洗礼を受けるのではありません。死んで復活させられて、その意味で過去のすべての縛りからとにかく一度解放されて自由になって、その意味での個人として、自分の意志でキリストと共に生きることの決心と約束をすることが、教会で洗礼を受けることの意味であると言っているのです。

だからこそ、過去の縛りの中に含まれる「悪いこと」を受け継ぐことの言い逃れも断たれる面があるのは、もしそれを厳しい裁きであると感じるならば、そう言えるかもしれません。今日の箇所の5節以下に書かれているのが、その「悪いこと」です。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(5~10節)。

教会でも時々、「逃れられない罪」とか「逃れられない悪」とかいう言葉を聞くことがあります。その趣旨が全く理解できないわけでもありませんが、「果たして本当にそうなのか」という疑問が私の中で湧き起こることがあります。

今の箇所に「捨て去りなさい」「捨てなさい」と繰り返されています。何を「みだらな行い」や「不潔な行い」と言うか、何を「うそ」と言うかと細かいことをほじくりたいのではありません。「逃れられない」と、あたかも永遠の運命に縛られているかのように言って、罪と悪にとどまり続けることは、洗礼の趣旨に反する、ということです。そのような卑怯な言い逃れを教会が率先して広めるべきではありません。わたしたちは、罪と悪から自由にされたのです。

(2021年4月18日 主日礼拝)

2021年4月11日日曜日

復活顕現(2021年4月11日 主日礼拝)

イースター礼拝(4月4日)の週報

讃美歌21 326番 地よ、声高く 奏楽・長井志保乃さん

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「復活顕現」

マタイによる福音書28章11~20節

関口 康

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

先週のイースター礼拝を大勢の兄弟姉妹と共に行うことができたことをうれしく思っています。石川先生もおっしゃいましたが、私も同感だったのは「これほど多くの方が来られると予想していなかった」ということです。

失礼な意味で申し上げているつもりはありません。ちょうど1年前のイースター礼拝は各自自宅礼拝でした。新型コロナウィルス感染症の脅威から身を避けなくてはならない状況であることは、昨年も今年もなんら変わっていません。

しかし、1年前と今で変わったのは、全く未知の存在をただ恐れるだけの状態ではなくなった、ということでしょう。対策の方法を学びました。対策をしっかり行えば、完全に安心であるとは言えないとしても、全く集会が不可能であると考えなくてはならないほどまでではないということが分かってきた、というところでしょうか。

あとひとつ、この1年でわたしたちが学んだのは、言葉にすると感傷的に響くかもしれませんが、各自自宅礼拝はやはり寂しい、ということでしょう。マスクをつけ、手指を消毒し、互いに距離をとり、会話を少なめにする。このようなことをしながらであっても、共に相集い、安否を確認し合い、目と目で通じ合う。

この目に見える関係としての教会の存在が、わたしたちにとってはやはりかけがえのないものであるということを、1年かけて学んだという言い方ができないでしょうか。そうであると私がただ思い込んでいるだけでしょうか。皆さんにぜひ教えていただきたいことです。

イエス・キリストの復活。無理やり結びつけるつもりはありません。しかし、十字架につけられて確かに殺され死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前にお姿を現されたということを弟子たちが信じ、宣べ伝えました。その出来事が聖書という形で、今日まで伝えられています。

そのイエス・キリストの復活を信じる信仰をわたしたちが持つこと、その信仰をもって生きることと、日曜日ごとにわたしたちが教会に集まり礼拝を行うこととは、全く同じであるとは言えないとしても、ほとんど同じであるとは言えると、今の私には思えてなりません。

何を言っているのでしょうか。説明が必要でしょう。この1年でわたしたちが学んだことは、教会にみんなで集まって礼拝をすることと各自自宅礼拝は、どう控えめに考えても、全く同じでであるとは言えないということでしょう。どこに差があるかといえば、目に見えるか見えないかであるとしか私には言いようがありません。目をつぶってもつぶらなくても、心の中で想像しながらひとりで行う礼拝と、互いの存在を目で見て確認しながら行う礼拝が、全く同じであるとは私にはどうしても思えないです。

イエスさまが殺されて死んで墓の中に葬られることまでされたのに目に見えるお姿で弟子たちの前に戻ってきてくださったという出来事は、わたしたちにとっては、聖書に書かれている言葉どおりのことがたぶん起こったのだろう、という程度で受け入れるというくらいが精一杯であるとは思います。それはどのようにして起こったのか、どういう仕組みなのかというようなことをいくら問うても、答えはないかもしれません。

しかし、私も今年で55年、欠かさず教会に通い、礼拝に出席してきました。皆さんの中には、私は90年以上という方もおられますし、私は80年、私は70年とおっしゃる方々もおられます。長さの自慢や競争をしているわけではありません。

私の場合は30年前に牧師になり、いくつかの教会の牧会を任されてきましたので、共に礼拝をささげる仲間は行く先々の教会の人々であるということになります。ずっと同じ人たちではありません。むしろ全く違います。しかし、その私だからこそ言えると思えるのは、これまで55年間、どこの教会でささげる礼拝も、本質的には同じであると感じられた、ということです。

私は牧師である前にいちキリスト者ですので、説教者という立場だけで礼拝に出席するわけではありません。初めて行く教会、初めて出席する礼拝を多く味わって来ました。それで分かるのは、もし違いがあれば違和感や緊張感を覚えるに決まっているわけですが、それが無いのです。どこの教会に行っても違和感がない、同じ礼拝をささげていると感じます。「そこにイエスさまがおられる」と感じるからです。

教会に集まる人たちの違いは関係ありませんと、いま私が言っているように、もし聴こえるとしたら誤解です。私の話をずっと続けているようで申し訳ありませんが、実際に感じてきたことについての「感覚」の問題を申し上げています。

55年前の私はゼロ歳でしたので、さすがに記憶はありません。記憶があるのは、物心ついた頃からです。そのときから礼拝のメンバーが一緒であるはずがありません。地理的、物理的に同じ場所にあるという意味での同じ教会であるとも言えません。しかし、私の「感覚」においては、55年前から今日まで同じ礼拝をささげてきました。違和感がありません。緊張感は、持つべきかもしれませんが、さほどありません。

そこにいつもイエスさまがおられると感じてきました。「おかしな話をしている」と思わないでいただきたいです。むしろ自然な話です。共に集まる人が変わろうと変わるまいと、そういうことはどうでもいいと言っているのでもありません。むしろ逆です、正反対。そこに人がいないと困ります。目に見える教会、目に見える礼拝でないと困ります。

どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても同じであると私が感じてきたことを、あえて無理やり合理的に説明するとしたら、聖書という書物を通してイエスさまの言葉と行いを学び、それを受け入れ、イエスさまを模範として生きていく決心と約束をしている人たちが集まるのが教会であるとすれば、どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても「そこにいつもイエスさまがおられる」と感じる点において同じであると感じるのは当たり前であるということです。

ぴったりとは当てはまりませんが、学校にも似ているところがあるでしょう。50年100年続いているような学校があります。中の人はどんどん入れ替わっていきます。しかし、いつ行っても同じ学校であると思えるとしたら、そこに流れ、受け継がれているものが同じだからでしょう。

今日の聖書の箇所に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスさまの言葉が記されています。イエスさまがおっしゃっているとおりのことを、わたしたちは教会に共に相集って、礼拝をささげるたびに、味わいます。わたしたちの心の中に、わたしたちの存在の中に、イエスさまが永遠に生きておられるのです。それで十分です。

(2021年4月11日 主日礼拝)

2021年4月4日日曜日

イエスの復活(2021年4月4日 イースター礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌21 325番 キリスト・イエスは 奏楽・長井志保乃さん
讃美歌21 300番 十字架のもとに 奏楽・長井志保乃さん



「イエスの復活」

ヨハネによる福音書20章 1~18節

牧師 石川献之助

今年も主イエスの御復活の喜びを、互いに交わしあいたいと思います。私共の信ずる福音には、主イエスの復活の信仰があります。その信仰をより確かなものとするために、今日の復活節礼拝に心から熱き想いをもって臨み、信仰を新たにされたいと思います。 

本日は、ヨハネによる福音書20章1~18節までの御言葉が与えられています。通常復活節に 読まれることが多い聖書の箇所です。ここには、マグダラのマリヤが復活された主イエスと初めて出会う事実が記されています。ユダヤ地方にはマリヤという名前の女性はとても多いと言われています。しかしこの女性があのマグダラのマリヤであったことを特に意識するときに、この出会いは特別の意味をもつものであることを痛感するのであります。

弟子たちさえ逃げ去った主イエスの十字架の下には、マグダラのマリヤが大きな畏れを抱きながらも、聖母マリヤと共に従いました。そのマグダラのマリヤが主イエスから離れず、墓場にまで、それも朝早く主イエスのもとを訪ねたのです。聖書には「週の初めの 日 、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤは墓に行った。」(1節)と書かれています。 当時のパレスチナでは、死体が墓に納められてから三日後に愛する者の墓を訪問することが習慣だったそうです。土曜日が安息日であったので日曜日の朝早い時間に、マリヤは主イエスへの思いからじっとしていることができず、かけつけたことが想像されます。

マグダラのマリヤについて、 ルカによる福音書8章1節~3節において、「 七つの悪霊を追い出していただい たマグダラの女と呼ばれるマリヤ」と言う記述が登場します。主イエスによって、悪霊を追い出し病気をいやしていただいた何人かの女性の一人に、マグダラのマリヤがいました。これらの婦人たちと一緒に、主イエス の福音伝道 の旅を支え、一行に奉仕をしていたと書かれています。

主イエスと出会い 、病気が癒され、あるいは自分の罪の許しを経験した者は、自分の罪が許されるということばかりではなく、律法にもかなう新しく生きる道へと変えられていくのです。マグダラのマリヤら婦人たちは共に助けあい、主イエスと共に新しい人生を歩んだのでした。こうして、マグダラのマリヤは主イエスの十字架と埋葬に立ち会い、一番に墓を訪ね、復活なさった主イエスに最初に出会った人として重要な役割を担う人となったのです 。

マリヤはイエスの亡骸のために愛を込めて泣き悲しむこと、ただこの一事のために墓を訪れ たのでしょう。しかしその墓から石がとりのけてあるのを見て当惑し、ペトロとヨハネの所に伝えに走ります。彼らも墓にでかけ、ペトロに続き、ヨハネも墓の中に入りました。ヨハネは主イエスの御遺体を包んでいた亜麻布がきれいにもとの形をとどめ置かれていたのを見て、何が起こったのかを悟り信じたと書かれています。ヨハネが信じたのは、主イエスが甦られた この墓の光景を、 ヨハネ自身の目で見たからでありました。

その後11節からは、墓で悲しみ泣いているマリヤの墓で悲しみ泣いているマリヤのもとに主イエスが現れた箇所へと現れた箇所へと続きます。マリヤは泣きながら、墓の中を見ると、イエスの遺体のおいてあった所にマリヤは泣きながら、二人の白い衣を着た天使を見ました。

天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリヤは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」こう言いながら後ろをこう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかしそれがイエスだとは分からなかった。(13~14節)と聖書にはあります。マリヤは悲しみと涙の余り、その人がその人が復活された主イエスだと認識できなかったのです。

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(15節)マリヤはその人が園丁であると思い「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります。」(15節)マリヤの心は主イエスのことで一杯であったので、空になった墓の方に向けられていました。

このようなマリヤの姿に、大切な人を失い悲しみにくれる私たちの姿をみいだすことができます。しかし、主イエスは「マリヤ」と声をかけて下さいました。主イエスの御声を聞き、マリヤはすぐに主イエスの御声を聞き「ラボ二」、先生と答えました。主イエスは自分の心の悲しみを越えて、自分の心の悲しみを越えて、兄弟たちにこの知らせを伝兄弟たちにこの知らせを伝えに行くように言われました。かつて主イエスが弟子たちに幾度も語って来られたことが、今や事実になろうとしていたのです。

マグダラのマリヤは弟子たちのところへ行って「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(18節)

主イエスが、人類の罪の許しのために十字架におかかりになったということを、深く心に留めていたのはマリヤでした。マリヤは主イエスの十字架の死を通して、人類への神の御心を本質的に理解したのです。罪許されて愛を知ったこの人は、贖いの主イエスを仰ぎ見て十字架の下にまで主イエスを仰ぎ見て主イエスに従ったのでした。思いもかけず与えられた唯一唯一の道を歩んだ、マグダラのマリヤの従順と信仰を、深く心に留めたいと思います。

復活節おめでとうございます。

神の愛に直結する主イエスの御心に深く感謝をおささげいたします。

主イエスの贖いの愛に支えられて、私たちも新しい年度を歩み始めたいと思います。

最後に讃美歌300番を味味わいつつ、おさげしたいと思います。。

1 十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う
  あらしふく時の いわおのかげ 荒れ野の中なる わが隠れ家

2 十字架の上に われはあおぐ わがため悩める 神のみ子を
  たえにも貴き 神の愛よ はかりも知られぬ 人の罪よ

3 十字架のかげに われは立ちて み顔のひかりを たえず求めん
  この世のものみな 消ゆるときも くすしく輝く そのひかりを

(2021年4月4日)

2021年3月28日日曜日

十字架への道(2021年3月28日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

讃美歌21 298番 ああ主は誰(た)がため 奏楽・長井志保乃さん

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「十字架への道」

マタイによる福音書27章32~56節

関口 康

「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。

今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストが十字架上で処刑される場面です。想像するだけで体と心が凍ります。もっとも、書かれていること以上は分かりませんので、これから申し上げることの多くは私の想像です。

兵士たちがシモンという名のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたとあるのは、その前にイエスさまが鞭で打たれたり葦の棒で頭を叩き続けられたりしていたために、重い十字架の木材を背負って歩くのが難しくなっていたからではないでしょうか。つまり、もう歩けなくなっているイエスさまを無理に歩かせるためです。イエスさまを助けたがっているわけではありません。

処刑場についたときに彼らがイエスさまに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは、麻酔的な意味があったでしょう。アルコールの摂取が痛みの緩和になるかどうかは分かりません。しかしイエスさまはそれを拒否されました。すべての痛みをお引き受けになるためだったと解釈されることがありますが、それすら想像の域を超えません。

「彼らはイエスを十字架につけると」と淡々と事実だけが記されています。現代の作家のような人たちなら、もっと詳しく細かく描こうとするのではないでしょうか。イエスさまの手や足に釘を打つ槌音、痛みに悶えるイエスさまの表情や絶叫。そのようなことは一切記されていません。音も声も聞こえてこない、まるで一枚の絵画や写真を見ているかのようです。

しかしその一方で今日の箇所にしきりと描かれているのは、十字架につけられたイエスさまの周りにいる人たちの言葉や態度や表情です。イエスさまご自身が苦しくないはずがないのですが、そのことは描かれず、代わりにイエスさまの周りの人たちの様子が多く描かれています。

兵士たちがくじを引いてイエスさまの服を分け合う様子にしても、十字架につけられたイエスさまの頭の上に「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げる様子にしても、彼らが楽しそうに遊んでいたことを物語っています。すべて揶揄いであり、罵りです。

通りがかりの人たちのことも「頭をふりながらイエスをののしって言った」と記されています。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言う。「できないことをできるかのように言ったお前の恥を知れ」とでも言いそうです。

通りがかりの人たちは何を言っても構わないという意味ではありませんが、同じように祭司長たちが律法学者や長老たちと一緒にイエスさまを侮辱しているのは、いただけません。特にその人たちが「他人は救ったのに、自分は救えない」と言う。これはまずいです。

祭司長と律法学者と長老の共通点は、当時のユダヤ教団の指導者たちだったことです。宗教の責任者たちです。宗教が人を救うのかどうかは分かりませんというようなことを、私が言うべきではないかもしれません。しかし、ここに書いてあるとおりならば、彼らはイエスさまが他人を救ったことを認めています。彼らこそが本来なら人を救う働きをもっとしなければならなかったはずなのに、自分たちにできなかったことをイエスさまがしたことを、彼ら自身が認めています。

いや、認めているわけではない、「他人は救った」と彼らが言っているのは「自分は救えない」のほうを言いたいがための枕詞であるという読み方がありうるかもしれません。しかしとにかく彼らは、イエスさまが「他人を救った」と言いました。そうであるならば、宗教の責任者たちはイエスさまの功労をねぎらうべきではないでしょうか。侮辱ではなく。それができないのです。

そしてついにイエスさまが息を引き取る場面が描かれます。そのときには、イエスさまは大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。「痛いです」でも「苦しいです」でも「悲しいです」でもありません。神さまがわたしをお見捨てになった、それはどうしてですか、と言われました。

なぜイエスさまがそうおっしゃったのか、その意味は何かについては、もちろん完全に謎です。世界のだれひとり正解を知る人はいません。ただ、私が今日の箇所を改めて読みながら思うのは、イエスさまのこの絶望の叫びは、イエスさまご自身が十字架につけられたことを痛いとか苦しいとか悲しいとかいうことに対する絶望ではなく、宣教活動をどれほど行っても人間の態度が少しも改まらないことへの絶望のお気持ちだったのではないだろうか、ということです。

なぜそう思うのかの理由を申し上げる必要があるでしょう。それが先ほど申し上げたことです。この箇所にはイエスさまの表情がほとんど全く描かれていないのに対して、十字架につけられたイエスさまの周りにいた人たちの表情がしきりと描かれている、ということです。

言い方を換えれば、この箇所はイエスさまの側からイエスさまの周りの人たちの姿とその態度を見る、その目線で書かれているように読める、ということです。マタイはイエスさまではありませんので、実際にそうすることは不可能です。しかし、イエスさまの立場・イエスさまの目線で、人間の姿を見ようとすることは可能です。

そしてそれはマタイだけでなく、他の福音書記者だけでなく、わたしたちにも可能です。教会生活を長く続けてきた人たちや、牧師としての働きを長く続けてきた人たちがしょっちゅう絶望の言葉を口にするのを実際に聞きます。これほど苦労して教会生活を続け、あるいは牧師としての働きを続けてきたのに、世界は変わらない。ますます悪くなっている。どうなっているのかと。

しかし、「それでいいのだ」と思うことにしましょう、というのが今日の私の結論です。世界は立ちどころに変わったりはしません。人の心は私たちの思いどおりになりません。苦労して苦労して、苦しんで悩んで、繰り返し絶望しながら教会生活を続け、宣教を続けていく中で、世界は徐々に変わっていくでしょう。そう信じましょう。イエスさまが、何を言っても何をしても絶望的に変わらない人たちを十字架の上から見つめておられたように。しかしイエスさまの死と復活から2千年後の今は、当時と全く同じではありません。少しぐらいは変わったでしょう。

イエスさまが息を引き取られたとき神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こり、墓が開いて多くの人が生き返るというようなとんでもない天変地異があり、それを見た人々が「本当にこの人は神の子だった」と言ったということが記されていますが、彼らこそ世界で初めて信仰告白した人々であると言えるかどうかは微妙です。そのときはそう思ったかもしれません。しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のも「熱しやすいが冷めやすい」のも人間です。天変地異ごときで世界が変わるなら、だれも苦労しません。人の心が変わるのは、息の長い宣教によるほかはないのです。

「教会やめたい。牧師やめたい」と思うときには、今日の箇所を思い起こしましょう。イエスさまが苦しまれたことを心に刻みましょう。イエスさまは救い主です。しかし宣教の苦労の先輩でもあります。宣教に絶望するたびに「うんうん分かる分かる」とうなずいてくださるでしょう。

(2021年3月28日 日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)