イースター礼拝(4月4日)の週報 |
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「復活顕現」
マタイによる福音書28章11~20節
関口 康
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
先週のイースター礼拝を大勢の兄弟姉妹と共に行うことができたことをうれしく思っています。石川先生もおっしゃいましたが、私も同感だったのは「これほど多くの方が来られると予想していなかった」ということです。
失礼な意味で申し上げているつもりはありません。ちょうど1年前のイースター礼拝は各自自宅礼拝でした。新型コロナウィルス感染症の脅威から身を避けなくてはならない状況であることは、昨年も今年もなんら変わっていません。
しかし、1年前と今で変わったのは、全く未知の存在をただ恐れるだけの状態ではなくなった、ということでしょう。対策の方法を学びました。対策をしっかり行えば、完全に安心であるとは言えないとしても、全く集会が不可能であると考えなくてはならないほどまでではないということが分かってきた、というところでしょうか。
あとひとつ、この1年でわたしたちが学んだのは、言葉にすると感傷的に響くかもしれませんが、各自自宅礼拝はやはり寂しい、ということでしょう。マスクをつけ、手指を消毒し、互いに距離をとり、会話を少なめにする。このようなことをしながらであっても、共に相集い、安否を確認し合い、目と目で通じ合う。
この目に見える関係としての教会の存在が、わたしたちにとってはやはりかけがえのないものであるということを、1年かけて学んだという言い方ができないでしょうか。そうであると私がただ思い込んでいるだけでしょうか。皆さんにぜひ教えていただきたいことです。
イエス・キリストの復活。無理やり結びつけるつもりはありません。しかし、十字架につけられて確かに殺され死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前にお姿を現されたということを弟子たちが信じ、宣べ伝えました。その出来事が聖書という形で、今日まで伝えられています。
そのイエス・キリストの復活を信じる信仰をわたしたちが持つこと、その信仰をもって生きることと、日曜日ごとにわたしたちが教会に集まり礼拝を行うこととは、全く同じであるとは言えないとしても、ほとんど同じであるとは言えると、今の私には思えてなりません。
何を言っているのでしょうか。説明が必要でしょう。この1年でわたしたちが学んだことは、教会にみんなで集まって礼拝をすることと各自自宅礼拝は、どう控えめに考えても、全く同じでであるとは言えないということでしょう。どこに差があるかといえば、目に見えるか見えないかであるとしか私には言いようがありません。目をつぶってもつぶらなくても、心の中で想像しながらひとりで行う礼拝と、互いの存在を目で見て確認しながら行う礼拝が、全く同じであるとは私にはどうしても思えないです。
イエスさまが殺されて死んで墓の中に葬られることまでされたのに目に見えるお姿で弟子たちの前に戻ってきてくださったという出来事は、わたしたちにとっては、聖書に書かれている言葉どおりのことがたぶん起こったのだろう、という程度で受け入れるというくらいが精一杯であるとは思います。それはどのようにして起こったのか、どういう仕組みなのかというようなことをいくら問うても、答えはないかもしれません。
しかし、私も今年で55年、欠かさず教会に通い、礼拝に出席してきました。皆さんの中には、私は90年以上という方もおられますし、私は80年、私は70年とおっしゃる方々もおられます。長さの自慢や競争をしているわけではありません。
私の場合は30年前に牧師になり、いくつかの教会の牧会を任されてきましたので、共に礼拝をささげる仲間は行く先々の教会の人々であるということになります。ずっと同じ人たちではありません。むしろ全く違います。しかし、その私だからこそ言えると思えるのは、これまで55年間、どこの教会でささげる礼拝も、本質的には同じであると感じられた、ということです。
私は牧師である前にいちキリスト者ですので、説教者という立場だけで礼拝に出席するわけではありません。初めて行く教会、初めて出席する礼拝を多く味わって来ました。それで分かるのは、もし違いがあれば違和感や緊張感を覚えるに決まっているわけですが、それが無いのです。どこの教会に行っても違和感がない、同じ礼拝をささげていると感じます。「そこにイエスさまがおられる」と感じるからです。
教会に集まる人たちの違いは関係ありませんと、いま私が言っているように、もし聴こえるとしたら誤解です。私の話をずっと続けているようで申し訳ありませんが、実際に感じてきたことについての「感覚」の問題を申し上げています。
55年前の私はゼロ歳でしたので、さすがに記憶はありません。記憶があるのは、物心ついた頃からです。そのときから礼拝のメンバーが一緒であるはずがありません。地理的、物理的に同じ場所にあるという意味での同じ教会であるとも言えません。しかし、私の「感覚」においては、55年前から今日まで同じ礼拝をささげてきました。違和感がありません。緊張感は、持つべきかもしれませんが、さほどありません。
そこにいつもイエスさまがおられると感じてきました。「おかしな話をしている」と思わないでいただきたいです。むしろ自然な話です。共に集まる人が変わろうと変わるまいと、そういうことはどうでもいいと言っているのでもありません。むしろ逆です、正反対。そこに人がいないと困ります。目に見える教会、目に見える礼拝でないと困ります。
どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても同じであると私が感じてきたことを、あえて無理やり合理的に説明するとしたら、聖書という書物を通してイエスさまの言葉と行いを学び、それを受け入れ、イエスさまを模範として生きていく決心と約束をしている人たちが集まるのが教会であるとすれば、どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても「そこにいつもイエスさまがおられる」と感じる点において同じであると感じるのは当たり前であるということです。
ぴったりとは当てはまりませんが、学校にも似ているところがあるでしょう。50年100年続いているような学校があります。中の人はどんどん入れ替わっていきます。しかし、いつ行っても同じ学校であると思えるとしたら、そこに流れ、受け継がれているものが同じだからでしょう。
今日の聖書の箇所に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスさまの言葉が記されています。イエスさまがおっしゃっているとおりのことを、わたしたちは教会に共に相集って、礼拝をささげるたびに、味わいます。わたしたちの心の中に、わたしたちの存在の中に、イエスさまが永遠に生きておられるのです。それで十分です。
(2021年4月11日 主日礼拝)