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「新しい命」
コロサイの信徒への手紙3章1~11節
関口 康
「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。」
先週予告した今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書でした。しかし、コロサイの信徒への手紙に変更しました。変更の理由は、実際に読んでみてピンとくる箇所でなかったからです。
もう少し丁寧にいえば、マタイによる福音書のその箇所は、イエスさまが厳しい裁きの言葉をお語りになっている箇所だったからです。しかし、今のわたしたちは、裁きの言葉に耐えられません。慰めと励ましの言葉が必要です。そう思いましたので、変更しました。
タイトルは変更していません。むしろ今日選んだ聖書の箇所のほうが先週予告した「新しい命」というタイトルにふさわしい内容です。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます」から始まる箇所です。これは驚くべき言葉ですが、裁きの言葉ではありません。とらえ方によっては厳しい内容であると感じられる面がないわけではありませんが、まさにとらえ方の問題です。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3節)とありますが、これは何のことでしょうか。わたしたちは死んだのでしょうか。「いや、まだ生きている」としか言いようがないでしょう。
少し前に説明があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2章11節)と記されています。いろんなことが書かれていますが、すべては一度に同時に起きることです。それはわたしたちが洗礼を受けることです。洗礼を受けるとは死ぬことである、というのです。
「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるでしょうか。死んでいないし、殺されるのはまっぴらだと。たしかにわたしたちは死んでいません。その意味では、考え方の問題であるという言い方が許されて然るべきです。
洗礼を受けることは、キリストと共に死にキリストと共に復活することであると、わたしたちは考える。「考える」と言うと「哲学ではない」と言われるかもしれませんので「信じる」と言うほうがいいかもしれません。しかし、この件に関しては「考える」でも「信じる」でも大差ありません。わたしたち自身のことをまさに考えれば、分かることです。
今日この礼拝に集まっているみんながみんな、洗礼を受けている人たちばかりではありません。しかし、はっきりしているのは、だれも死んでいないということです。礼拝は、あるいは教会は、生きている人たちの集まりです。しかし、今日の箇所には「あなたがたは死んだ」と書かれています。「あなたがたはキリスト共に復活させられた」と書かれています。何を言っているか分からないでしょうか。そんなこともないと考えている、あるいは信じているのが、教会のわたしたちではないでしょうか。いえ、わたしたちはそういう者たちです。断言しておきます。
死んだとか復活させられたとか、考えるとか信じるとか、何を言っているかちんぷんかんぷんでしょうか。そういう方がおられるかもしれないので説明が必要でしょう。私がいま申し上げていることとの関係で最も注目すべき思想は、2章13節の途中から14節の途中まで記されている「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」です。
契約の問題です。それはわたしたちを縛るものでもあります。税金や借金の問題であるといえば分かるでしょう。払えなければ返せなければ、いつまでもどこまでも追いかけてくる。しかし、その人が死ねば契約は終わりだというわけです。逃げ切ったという話になるかどうかは分かりませんが、それ以上追いかけることはできなくなるという話ではあります。
そのことを、ある意味でたとえ話として持ち出して洗礼の意味を説明しているのが今日の箇所であると言えます。死んだとか復活させられたとか、何の話なのかといえば、すべてはひとつの問題に集中しています。それは、あなたがたが過去に縛られていた一切のものから自由にされたのだ、ということです。
先祖代々受け継いできた宗教や、そのしきたりからも自由にされています。思想・信条、教育内容からも、自由にされています。「私の家は代々、何宗の何派なので、それを受け継がなくてはならない」というようなことは一切ありません。それは、今のわたしたちにとっては教会も同じです。親がそうだから私もそうする、というだけで済まないし、それは理由になりません。
わたしたちは、縛られるために洗礼を受けるのではありません。死んで復活させられて、その意味で過去のすべての縛りからとにかく一度解放されて自由になって、その意味での個人として、自分の意志でキリストと共に生きることの決心と約束をすることが、教会で洗礼を受けることの意味であると言っているのです。
だからこそ、過去の縛りの中に含まれる「悪いこと」を受け継ぐことの言い逃れも断たれる面があるのは、もしそれを厳しい裁きであると感じるならば、そう言えるかもしれません。今日の箇所の5節以下に書かれているのが、その「悪いこと」です。
「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(5~10節)。
教会でも時々、「逃れられない罪」とか「逃れられない悪」とかいう言葉を聞くことがあります。その趣旨が全く理解できないわけでもありませんが、「果たして本当にそうなのか」という疑問が私の中で湧き起こることがあります。
今の箇所に「捨て去りなさい」「捨てなさい」と繰り返されています。何を「みだらな行い」や「不潔な行い」と言うか、何を「うそ」と言うかと細かいことをほじくりたいのではありません。「逃れられない」と、あたかも永遠の運命に縛られているかのように言って、罪と悪にとどまり続けることは、洗礼の趣旨に反する、ということです。そのような卑怯な言い逃れを教会が率先して広めるべきではありません。わたしたちは、罪と悪から自由にされたのです。
(2021年4月18日 主日礼拝)