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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
2021年5月30日日曜日
神の富(2021年5月30日 三位一体主日礼拝)
2021年5月23日日曜日
言葉が通じる(2021年5月23日 ペンテコステ礼拝)
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| 秋場治憲兄 |
讃美歌352 あめなるよろこび 奏楽・長井志保乃さん
2021年5月16日日曜日
キリストの昇天(2021年5月16日 主日礼拝)
2021年5月9日日曜日
イエスの祈り(2021年5月9日 主日礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
2021年5月2日日曜日
父への道(2021年5月2日 主日礼拝)
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| 石川献之助牧師 |
2021年4月25日日曜日
イエスは復活また命 (2021年4月25日 主日礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
週報(第3565号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます
宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます
「イエスは復活また命」
ヨハネによる福音書11章17~27節
関口 康
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」
2021年4月18日日曜日
新しい命(2021年4月18日 主日礼拝)
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「新しい命」
コロサイの信徒への手紙3章1~11節
関口 康
「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。」
先週予告した今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書でした。しかし、コロサイの信徒への手紙に変更しました。変更の理由は、実際に読んでみてピンとくる箇所でなかったからです。
もう少し丁寧にいえば、マタイによる福音書のその箇所は、イエスさまが厳しい裁きの言葉をお語りになっている箇所だったからです。しかし、今のわたしたちは、裁きの言葉に耐えられません。慰めと励ましの言葉が必要です。そう思いましたので、変更しました。
タイトルは変更していません。むしろ今日選んだ聖書の箇所のほうが先週予告した「新しい命」というタイトルにふさわしい内容です。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます」から始まる箇所です。これは驚くべき言葉ですが、裁きの言葉ではありません。とらえ方によっては厳しい内容であると感じられる面がないわけではありませんが、まさにとらえ方の問題です。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3節)とありますが、これは何のことでしょうか。わたしたちは死んだのでしょうか。「いや、まだ生きている」としか言いようがないでしょう。
少し前に説明があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2章11節)と記されています。いろんなことが書かれていますが、すべては一度に同時に起きることです。それはわたしたちが洗礼を受けることです。洗礼を受けるとは死ぬことである、というのです。
「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるでしょうか。死んでいないし、殺されるのはまっぴらだと。たしかにわたしたちは死んでいません。その意味では、考え方の問題であるという言い方が許されて然るべきです。
洗礼を受けることは、キリストと共に死にキリストと共に復活することであると、わたしたちは考える。「考える」と言うと「哲学ではない」と言われるかもしれませんので「信じる」と言うほうがいいかもしれません。しかし、この件に関しては「考える」でも「信じる」でも大差ありません。わたしたち自身のことをまさに考えれば、分かることです。
今日この礼拝に集まっているみんながみんな、洗礼を受けている人たちばかりではありません。しかし、はっきりしているのは、だれも死んでいないということです。礼拝は、あるいは教会は、生きている人たちの集まりです。しかし、今日の箇所には「あなたがたは死んだ」と書かれています。「あなたがたはキリスト共に復活させられた」と書かれています。何を言っているか分からないでしょうか。そんなこともないと考えている、あるいは信じているのが、教会のわたしたちではないでしょうか。いえ、わたしたちはそういう者たちです。断言しておきます。
死んだとか復活させられたとか、考えるとか信じるとか、何を言っているかちんぷんかんぷんでしょうか。そういう方がおられるかもしれないので説明が必要でしょう。私がいま申し上げていることとの関係で最も注目すべき思想は、2章13節の途中から14節の途中まで記されている「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」です。
契約の問題です。それはわたしたちを縛るものでもあります。税金や借金の問題であるといえば分かるでしょう。払えなければ返せなければ、いつまでもどこまでも追いかけてくる。しかし、その人が死ねば契約は終わりだというわけです。逃げ切ったという話になるかどうかは分かりませんが、それ以上追いかけることはできなくなるという話ではあります。
そのことを、ある意味でたとえ話として持ち出して洗礼の意味を説明しているのが今日の箇所であると言えます。死んだとか復活させられたとか、何の話なのかといえば、すべてはひとつの問題に集中しています。それは、あなたがたが過去に縛られていた一切のものから自由にされたのだ、ということです。
先祖代々受け継いできた宗教や、そのしきたりからも自由にされています。思想・信条、教育内容からも、自由にされています。「私の家は代々、何宗の何派なので、それを受け継がなくてはならない」というようなことは一切ありません。それは、今のわたしたちにとっては教会も同じです。親がそうだから私もそうする、というだけで済まないし、それは理由になりません。
わたしたちは、縛られるために洗礼を受けるのではありません。死んで復活させられて、その意味で過去のすべての縛りからとにかく一度解放されて自由になって、その意味での個人として、自分の意志でキリストと共に生きることの決心と約束をすることが、教会で洗礼を受けることの意味であると言っているのです。
だからこそ、過去の縛りの中に含まれる「悪いこと」を受け継ぐことの言い逃れも断たれる面があるのは、もしそれを厳しい裁きであると感じるならば、そう言えるかもしれません。今日の箇所の5節以下に書かれているのが、その「悪いこと」です。
「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(5~10節)。
教会でも時々、「逃れられない罪」とか「逃れられない悪」とかいう言葉を聞くことがあります。その趣旨が全く理解できないわけでもありませんが、「果たして本当にそうなのか」という疑問が私の中で湧き起こることがあります。
今の箇所に「捨て去りなさい」「捨てなさい」と繰り返されています。何を「みだらな行い」や「不潔な行い」と言うか、何を「うそ」と言うかと細かいことをほじくりたいのではありません。「逃れられない」と、あたかも永遠の運命に縛られているかのように言って、罪と悪にとどまり続けることは、洗礼の趣旨に反する、ということです。そのような卑怯な言い逃れを教会が率先して広めるべきではありません。わたしたちは、罪と悪から自由にされたのです。
(2021年4月18日 主日礼拝)
2021年4月11日日曜日
復活顕現(2021年4月11日 主日礼拝)
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| イースター礼拝(4月4日)の週報 |
週報(第3563号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます
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「復活顕現」
マタイによる福音書28章11~20節
関口 康
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
先週のイースター礼拝を大勢の兄弟姉妹と共に行うことができたことをうれしく思っています。石川先生もおっしゃいましたが、私も同感だったのは「これほど多くの方が来られると予想していなかった」ということです。
失礼な意味で申し上げているつもりはありません。ちょうど1年前のイースター礼拝は各自自宅礼拝でした。新型コロナウィルス感染症の脅威から身を避けなくてはならない状況であることは、昨年も今年もなんら変わっていません。
しかし、1年前と今で変わったのは、全く未知の存在をただ恐れるだけの状態ではなくなった、ということでしょう。対策の方法を学びました。対策をしっかり行えば、完全に安心であるとは言えないとしても、全く集会が不可能であると考えなくてはならないほどまでではないということが分かってきた、というところでしょうか。
あとひとつ、この1年でわたしたちが学んだのは、言葉にすると感傷的に響くかもしれませんが、各自自宅礼拝はやはり寂しい、ということでしょう。マスクをつけ、手指を消毒し、互いに距離をとり、会話を少なめにする。このようなことをしながらであっても、共に相集い、安否を確認し合い、目と目で通じ合う。
この目に見える関係としての教会の存在が、わたしたちにとってはやはりかけがえのないものであるということを、1年かけて学んだという言い方ができないでしょうか。そうであると私がただ思い込んでいるだけでしょうか。皆さんにぜひ教えていただきたいことです。
イエス・キリストの復活。無理やり結びつけるつもりはありません。しかし、十字架につけられて確かに殺され死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前にお姿を現されたということを弟子たちが信じ、宣べ伝えました。その出来事が聖書という形で、今日まで伝えられています。
そのイエス・キリストの復活を信じる信仰をわたしたちが持つこと、その信仰をもって生きることと、日曜日ごとにわたしたちが教会に集まり礼拝を行うこととは、全く同じであるとは言えないとしても、ほとんど同じであるとは言えると、今の私には思えてなりません。
何を言っているのでしょうか。説明が必要でしょう。この1年でわたしたちが学んだことは、教会にみんなで集まって礼拝をすることと各自自宅礼拝は、どう控えめに考えても、全く同じでであるとは言えないということでしょう。どこに差があるかといえば、目に見えるか見えないかであるとしか私には言いようがありません。目をつぶってもつぶらなくても、心の中で想像しながらひとりで行う礼拝と、互いの存在を目で見て確認しながら行う礼拝が、全く同じであるとは私にはどうしても思えないです。
イエスさまが殺されて死んで墓の中に葬られることまでされたのに目に見えるお姿で弟子たちの前に戻ってきてくださったという出来事は、わたしたちにとっては、聖書に書かれている言葉どおりのことがたぶん起こったのだろう、という程度で受け入れるというくらいが精一杯であるとは思います。それはどのようにして起こったのか、どういう仕組みなのかというようなことをいくら問うても、答えはないかもしれません。
しかし、私も今年で55年、欠かさず教会に通い、礼拝に出席してきました。皆さんの中には、私は90年以上という方もおられますし、私は80年、私は70年とおっしゃる方々もおられます。長さの自慢や競争をしているわけではありません。
私の場合は30年前に牧師になり、いくつかの教会の牧会を任されてきましたので、共に礼拝をささげる仲間は行く先々の教会の人々であるということになります。ずっと同じ人たちではありません。むしろ全く違います。しかし、その私だからこそ言えると思えるのは、これまで55年間、どこの教会でささげる礼拝も、本質的には同じであると感じられた、ということです。
私は牧師である前にいちキリスト者ですので、説教者という立場だけで礼拝に出席するわけではありません。初めて行く教会、初めて出席する礼拝を多く味わって来ました。それで分かるのは、もし違いがあれば違和感や緊張感を覚えるに決まっているわけですが、それが無いのです。どこの教会に行っても違和感がない、同じ礼拝をささげていると感じます。「そこにイエスさまがおられる」と感じるからです。
教会に集まる人たちの違いは関係ありませんと、いま私が言っているように、もし聴こえるとしたら誤解です。私の話をずっと続けているようで申し訳ありませんが、実際に感じてきたことについての「感覚」の問題を申し上げています。
55年前の私はゼロ歳でしたので、さすがに記憶はありません。記憶があるのは、物心ついた頃からです。そのときから礼拝のメンバーが一緒であるはずがありません。地理的、物理的に同じ場所にあるという意味での同じ教会であるとも言えません。しかし、私の「感覚」においては、55年前から今日まで同じ礼拝をささげてきました。違和感がありません。緊張感は、持つべきかもしれませんが、さほどありません。
そこにいつもイエスさまがおられると感じてきました。「おかしな話をしている」と思わないでいただきたいです。むしろ自然な話です。共に集まる人が変わろうと変わるまいと、そういうことはどうでもいいと言っているのでもありません。むしろ逆です、正反対。そこに人がいないと困ります。目に見える教会、目に見える礼拝でないと困ります。
どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても同じであると私が感じてきたことを、あえて無理やり合理的に説明するとしたら、聖書という書物を通してイエスさまの言葉と行いを学び、それを受け入れ、イエスさまを模範として生きていく決心と約束をしている人たちが集まるのが教会であるとすれば、どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても「そこにいつもイエスさまがおられる」と感じる点において同じであると感じるのは当たり前であるということです。
ぴったりとは当てはまりませんが、学校にも似ているところがあるでしょう。50年100年続いているような学校があります。中の人はどんどん入れ替わっていきます。しかし、いつ行っても同じ学校であると思えるとしたら、そこに流れ、受け継がれているものが同じだからでしょう。
今日の聖書の箇所に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスさまの言葉が記されています。イエスさまがおっしゃっているとおりのことを、わたしたちは教会に共に相集って、礼拝をささげるたびに、味わいます。わたしたちの心の中に、わたしたちの存在の中に、イエスさまが永遠に生きておられるのです。それで十分です。
(2021年4月11日 主日礼拝)
2021年4月4日日曜日
イエスの復活(2021年4月4日 イースター礼拝)
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| 石川献之助牧師 |
2021年3月28日日曜日
十字架への道(2021年3月28日 主日礼拝)
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| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13) |
宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます
「十字架への道」
マタイによる福音書27章32~56節
関口 康
「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」
今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストが十字架上で処刑される場面です。想像するだけで体と心が凍ります。もっとも、書かれていること以上は分かりませんので、これから申し上げることの多くは私の想像です。
兵士たちがシモンという名のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたとあるのは、その前にイエスさまが鞭で打たれたり葦の棒で頭を叩き続けられたりしていたために、重い十字架の木材を背負って歩くのが難しくなっていたからではないでしょうか。つまり、もう歩けなくなっているイエスさまを無理に歩かせるためです。イエスさまを助けたがっているわけではありません。
処刑場についたときに彼らがイエスさまに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは、麻酔的な意味があったでしょう。アルコールの摂取が痛みの緩和になるかどうかは分かりません。しかしイエスさまはそれを拒否されました。すべての痛みをお引き受けになるためだったと解釈されることがありますが、それすら想像の域を超えません。
「彼らはイエスを十字架につけると」と淡々と事実だけが記されています。現代の作家のような人たちなら、もっと詳しく細かく描こうとするのではないでしょうか。イエスさまの手や足に釘を打つ槌音、痛みに悶えるイエスさまの表情や絶叫。そのようなことは一切記されていません。音も声も聞こえてこない、まるで一枚の絵画や写真を見ているかのようです。
しかしその一方で今日の箇所にしきりと描かれているのは、十字架につけられたイエスさまの周りにいる人たちの言葉や態度や表情です。イエスさまご自身が苦しくないはずがないのですが、そのことは描かれず、代わりにイエスさまの周りの人たちの様子が多く描かれています。
兵士たちがくじを引いてイエスさまの服を分け合う様子にしても、十字架につけられたイエスさまの頭の上に「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げる様子にしても、彼らが楽しそうに遊んでいたことを物語っています。すべて揶揄いであり、罵りです。
通りがかりの人たちのことも「頭をふりながらイエスをののしって言った」と記されています。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言う。「できないことをできるかのように言ったお前の恥を知れ」とでも言いそうです。
通りがかりの人たちは何を言っても構わないという意味ではありませんが、同じように祭司長たちが律法学者や長老たちと一緒にイエスさまを侮辱しているのは、いただけません。特にその人たちが「他人は救ったのに、自分は救えない」と言う。これはまずいです。
祭司長と律法学者と長老の共通点は、当時のユダヤ教団の指導者たちだったことです。宗教の責任者たちです。宗教が人を救うのかどうかは分かりませんというようなことを、私が言うべきではないかもしれません。しかし、ここに書いてあるとおりならば、彼らはイエスさまが他人を救ったことを認めています。彼らこそが本来なら人を救う働きをもっとしなければならなかったはずなのに、自分たちにできなかったことをイエスさまがしたことを、彼ら自身が認めています。
いや、認めているわけではない、「他人は救った」と彼らが言っているのは「自分は救えない」のほうを言いたいがための枕詞であるという読み方がありうるかもしれません。しかしとにかく彼らは、イエスさまが「他人を救った」と言いました。そうであるならば、宗教の責任者たちはイエスさまの功労をねぎらうべきではないでしょうか。侮辱ではなく。それができないのです。
そしてついにイエスさまが息を引き取る場面が描かれます。そのときには、イエスさまは大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。「痛いです」でも「苦しいです」でも「悲しいです」でもありません。神さまがわたしをお見捨てになった、それはどうしてですか、と言われました。
なぜイエスさまがそうおっしゃったのか、その意味は何かについては、もちろん完全に謎です。世界のだれひとり正解を知る人はいません。ただ、私が今日の箇所を改めて読みながら思うのは、イエスさまのこの絶望の叫びは、イエスさまご自身が十字架につけられたことを痛いとか苦しいとか悲しいとかいうことに対する絶望ではなく、宣教活動をどれほど行っても人間の態度が少しも改まらないことへの絶望のお気持ちだったのではないだろうか、ということです。
なぜそう思うのかの理由を申し上げる必要があるでしょう。それが先ほど申し上げたことです。この箇所にはイエスさまの表情がほとんど全く描かれていないのに対して、十字架につけられたイエスさまの周りにいた人たちの表情がしきりと描かれている、ということです。
言い方を換えれば、この箇所はイエスさまの側からイエスさまの周りの人たちの姿とその態度を見る、その目線で書かれているように読める、ということです。マタイはイエスさまではありませんので、実際にそうすることは不可能です。しかし、イエスさまの立場・イエスさまの目線で、人間の姿を見ようとすることは可能です。
そしてそれはマタイだけでなく、他の福音書記者だけでなく、わたしたちにも可能です。教会生活を長く続けてきた人たちや、牧師としての働きを長く続けてきた人たちがしょっちゅう絶望の言葉を口にするのを実際に聞きます。これほど苦労して教会生活を続け、あるいは牧師としての働きを続けてきたのに、世界は変わらない。ますます悪くなっている。どうなっているのかと。
しかし、「それでいいのだ」と思うことにしましょう、というのが今日の私の結論です。世界は立ちどころに変わったりはしません。人の心は私たちの思いどおりになりません。苦労して苦労して、苦しんで悩んで、繰り返し絶望しながら教会生活を続け、宣教を続けていく中で、世界は徐々に変わっていくでしょう。そう信じましょう。イエスさまが、何を言っても何をしても絶望的に変わらない人たちを十字架の上から見つめておられたように。しかしイエスさまの死と復活から2千年後の今は、当時と全く同じではありません。少しぐらいは変わったでしょう。
イエスさまが息を引き取られたとき神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こり、墓が開いて多くの人が生き返るというようなとんでもない天変地異があり、それを見た人々が「本当にこの人は神の子だった」と言ったということが記されていますが、彼らこそ世界で初めて信仰告白した人々であると言えるかどうかは微妙です。そのときはそう思ったかもしれません。しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のも「熱しやすいが冷めやすい」のも人間です。天変地異ごときで世界が変わるなら、だれも苦労しません。人の心が変わるのは、息の長い宣教によるほかはないのです。
「教会やめたい。牧師やめたい」と思うときには、今日の箇所を思い起こしましょう。イエスさまが苦しまれたことを心に刻みましょう。イエスさまは救い主です。しかし宣教の苦労の先輩でもあります。宣教に絶望するたびに「うんうん分かる分かる」とうなずいてくださるでしょう。
(2021年3月28日 日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)







