2021年4月11日日曜日

復活顕現(2021年4月11日 主日礼拝)

イースター礼拝(4月4日)の週報

讃美歌21 326番 地よ、声高く 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3563号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

「復活顕現」

マタイによる福音書28章11~20節

関口 康

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

先週のイースター礼拝を大勢の兄弟姉妹と共に行うことができたことをうれしく思っています。石川先生もおっしゃいましたが、私も同感だったのは「これほど多くの方が来られると予想していなかった」ということです。

失礼な意味で申し上げているつもりはありません。ちょうど1年前のイースター礼拝は各自自宅礼拝でした。新型コロナウィルス感染症の脅威から身を避けなくてはならない状況であることは、昨年も今年もなんら変わっていません。

しかし、1年前と今で変わったのは、全く未知の存在をただ恐れるだけの状態ではなくなった、ということでしょう。対策の方法を学びました。対策をしっかり行えば、完全に安心であるとは言えないとしても、全く集会が不可能であると考えなくてはならないほどまでではないということが分かってきた、というところでしょうか。

あとひとつ、この1年でわたしたちが学んだのは、言葉にすると感傷的に響くかもしれませんが、各自自宅礼拝はやはり寂しい、ということでしょう。マスクをつけ、手指を消毒し、互いに距離をとり、会話を少なめにする。このようなことをしながらであっても、共に相集い、安否を確認し合い、目と目で通じ合う。

この目に見える関係としての教会の存在が、わたしたちにとってはやはりかけがえのないものであるということを、1年かけて学んだという言い方ができないでしょうか。そうであると私がただ思い込んでいるだけでしょうか。皆さんにぜひ教えていただきたいことです。

イエス・キリストの復活。無理やり結びつけるつもりはありません。しかし、十字架につけられて確かに殺され死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前にお姿を現されたということを弟子たちが信じ、宣べ伝えました。その出来事が聖書という形で、今日まで伝えられています。

そのイエス・キリストの復活を信じる信仰をわたしたちが持つこと、その信仰をもって生きることと、日曜日ごとにわたしたちが教会に集まり礼拝を行うこととは、全く同じであるとは言えないとしても、ほとんど同じであるとは言えると、今の私には思えてなりません。

何を言っているのでしょうか。説明が必要でしょう。この1年でわたしたちが学んだことは、教会にみんなで集まって礼拝をすることと各自自宅礼拝は、どう控えめに考えても、全く同じでであるとは言えないということでしょう。どこに差があるかといえば、目に見えるか見えないかであるとしか私には言いようがありません。目をつぶってもつぶらなくても、心の中で想像しながらひとりで行う礼拝と、互いの存在を目で見て確認しながら行う礼拝が、全く同じであるとは私にはどうしても思えないです。

イエスさまが殺されて死んで墓の中に葬られることまでされたのに目に見えるお姿で弟子たちの前に戻ってきてくださったという出来事は、わたしたちにとっては、聖書に書かれている言葉どおりのことがたぶん起こったのだろう、という程度で受け入れるというくらいが精一杯であるとは思います。それはどのようにして起こったのか、どういう仕組みなのかというようなことをいくら問うても、答えはないかもしれません。

しかし、私も今年で55年、欠かさず教会に通い、礼拝に出席してきました。皆さんの中には、私は90年以上という方もおられますし、私は80年、私は70年とおっしゃる方々もおられます。長さの自慢や競争をしているわけではありません。

私の場合は30年前に牧師になり、いくつかの教会の牧会を任されてきましたので、共に礼拝をささげる仲間は行く先々の教会の人々であるということになります。ずっと同じ人たちではありません。むしろ全く違います。しかし、その私だからこそ言えると思えるのは、これまで55年間、どこの教会でささげる礼拝も、本質的には同じであると感じられた、ということです。

私は牧師である前にいちキリスト者ですので、説教者という立場だけで礼拝に出席するわけではありません。初めて行く教会、初めて出席する礼拝を多く味わって来ました。それで分かるのは、もし違いがあれば違和感や緊張感を覚えるに決まっているわけですが、それが無いのです。どこの教会に行っても違和感がない、同じ礼拝をささげていると感じます。「そこにイエスさまがおられる」と感じるからです。

教会に集まる人たちの違いは関係ありませんと、いま私が言っているように、もし聴こえるとしたら誤解です。私の話をずっと続けているようで申し訳ありませんが、実際に感じてきたことについての「感覚」の問題を申し上げています。

55年前の私はゼロ歳でしたので、さすがに記憶はありません。記憶があるのは、物心ついた頃からです。そのときから礼拝のメンバーが一緒であるはずがありません。地理的、物理的に同じ場所にあるという意味での同じ教会であるとも言えません。しかし、私の「感覚」においては、55年前から今日まで同じ礼拝をささげてきました。違和感がありません。緊張感は、持つべきかもしれませんが、さほどありません。

そこにいつもイエスさまがおられると感じてきました。「おかしな話をしている」と思わないでいただきたいです。むしろ自然な話です。共に集まる人が変わろうと変わるまいと、そういうことはどうでもいいと言っているのでもありません。むしろ逆です、正反対。そこに人がいないと困ります。目に見える教会、目に見える礼拝でないと困ります。

どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても同じであると私が感じてきたことを、あえて無理やり合理的に説明するとしたら、聖書という書物を通してイエスさまの言葉と行いを学び、それを受け入れ、イエスさまを模範として生きていく決心と約束をしている人たちが集まるのが教会であるとすれば、どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても「そこにいつもイエスさまがおられる」と感じる点において同じであると感じるのは当たり前であるということです。

ぴったりとは当てはまりませんが、学校にも似ているところがあるでしょう。50年100年続いているような学校があります。中の人はどんどん入れ替わっていきます。しかし、いつ行っても同じ学校であると思えるとしたら、そこに流れ、受け継がれているものが同じだからでしょう。

今日の聖書の箇所に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスさまの言葉が記されています。イエスさまがおっしゃっているとおりのことを、わたしたちは教会に共に相集って、礼拝をささげるたびに、味わいます。わたしたちの心の中に、わたしたちの存在の中に、イエスさまが永遠に生きておられるのです。それで十分です。

(2021年4月11日 主日礼拝)

2021年4月4日日曜日

イエスの復活(2021年4月4日 イースター礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌21 325番 キリスト・イエスは 奏楽・長井志保乃さん
讃美歌21 300番 十字架のもとに 奏楽・長井志保乃さん



「イエスの復活」

ヨハネによる福音書20章 1~18節

牧師 石川献之助

今年も主イエスの御復活の喜びを、互いに交わしあいたいと思います。私共の信ずる福音には、主イエスの復活の信仰があります。その信仰をより確かなものとするために、今日の復活節礼拝に心から熱き想いをもって臨み、信仰を新たにされたいと思います。 

本日は、ヨハネによる福音書20章1~18節までの御言葉が与えられています。通常復活節に 読まれることが多い聖書の箇所です。ここには、マグダラのマリヤが復活された主イエスと初めて出会う事実が記されています。ユダヤ地方にはマリヤという名前の女性はとても多いと言われています。しかしこの女性があのマグダラのマリヤであったことを特に意識するときに、この出会いは特別の意味をもつものであることを痛感するのであります。

弟子たちさえ逃げ去った主イエスの十字架の下には、マグダラのマリヤが大きな畏れを抱きながらも、聖母マリヤと共に従いました。そのマグダラのマリヤが主イエスから離れず、墓場にまで、それも朝早く主イエスのもとを訪ねたのです。聖書には「週の初めの 日 、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤは墓に行った。」(1節)と書かれています。 当時のパレスチナでは、死体が墓に納められてから三日後に愛する者の墓を訪問することが習慣だったそうです。土曜日が安息日であったので日曜日の朝早い時間に、マリヤは主イエスへの思いからじっとしていることができず、かけつけたことが想像されます。

マグダラのマリヤについて、 ルカによる福音書8章1節~3節において、「 七つの悪霊を追い出していただい たマグダラの女と呼ばれるマリヤ」と言う記述が登場します。主イエスによって、悪霊を追い出し病気をいやしていただいた何人かの女性の一人に、マグダラのマリヤがいました。これらの婦人たちと一緒に、主イエス の福音伝道 の旅を支え、一行に奉仕をしていたと書かれています。

主イエスと出会い 、病気が癒され、あるいは自分の罪の許しを経験した者は、自分の罪が許されるということばかりではなく、律法にもかなう新しく生きる道へと変えられていくのです。マグダラのマリヤら婦人たちは共に助けあい、主イエスと共に新しい人生を歩んだのでした。こうして、マグダラのマリヤは主イエスの十字架と埋葬に立ち会い、一番に墓を訪ね、復活なさった主イエスに最初に出会った人として重要な役割を担う人となったのです 。

マリヤはイエスの亡骸のために愛を込めて泣き悲しむこと、ただこの一事のために墓を訪れ たのでしょう。しかしその墓から石がとりのけてあるのを見て当惑し、ペトロとヨハネの所に伝えに走ります。彼らも墓にでかけ、ペトロに続き、ヨハネも墓の中に入りました。ヨハネは主イエスの御遺体を包んでいた亜麻布がきれいにもとの形をとどめ置かれていたのを見て、何が起こったのかを悟り信じたと書かれています。ヨハネが信じたのは、主イエスが甦られた この墓の光景を、 ヨハネ自身の目で見たからでありました。

その後11節からは、墓で悲しみ泣いているマリヤの墓で悲しみ泣いているマリヤのもとに主イエスが現れた箇所へと現れた箇所へと続きます。マリヤは泣きながら、墓の中を見ると、イエスの遺体のおいてあった所にマリヤは泣きながら、二人の白い衣を着た天使を見ました。

天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリヤは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」こう言いながら後ろをこう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかしそれがイエスだとは分からなかった。(13~14節)と聖書にはあります。マリヤは悲しみと涙の余り、その人がその人が復活された主イエスだと認識できなかったのです。

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(15節)マリヤはその人が園丁であると思い「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります。」(15節)マリヤの心は主イエスのことで一杯であったので、空になった墓の方に向けられていました。

このようなマリヤの姿に、大切な人を失い悲しみにくれる私たちの姿をみいだすことができます。しかし、主イエスは「マリヤ」と声をかけて下さいました。主イエスの御声を聞き、マリヤはすぐに主イエスの御声を聞き「ラボ二」、先生と答えました。主イエスは自分の心の悲しみを越えて、自分の心の悲しみを越えて、兄弟たちにこの知らせを伝兄弟たちにこの知らせを伝えに行くように言われました。かつて主イエスが弟子たちに幾度も語って来られたことが、今や事実になろうとしていたのです。

マグダラのマリヤは弟子たちのところへ行って「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(18節)

主イエスが、人類の罪の許しのために十字架におかかりになったということを、深く心に留めていたのはマリヤでした。マリヤは主イエスの十字架の死を通して、人類への神の御心を本質的に理解したのです。罪許されて愛を知ったこの人は、贖いの主イエスを仰ぎ見て十字架の下にまで主イエスを仰ぎ見て主イエスに従ったのでした。思いもかけず与えられた唯一唯一の道を歩んだ、マグダラのマリヤの従順と信仰を、深く心に留めたいと思います。

復活節おめでとうございます。

神の愛に直結する主イエスの御心に深く感謝をおささげいたします。

主イエスの贖いの愛に支えられて、私たちも新しい年度を歩み始めたいと思います。

最後に讃美歌300番を味味わいつつ、おさげしたいと思います。。

1 十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う
  あらしふく時の いわおのかげ 荒れ野の中なる わが隠れ家

2 十字架の上に われはあおぐ わがため悩める 神のみ子を
  たえにも貴き 神の愛よ はかりも知られぬ 人の罪よ

3 十字架のかげに われは立ちて み顔のひかりを たえず求めん
  この世のものみな 消ゆるときも くすしく輝く そのひかりを

(2021年4月4日)

2021年3月28日日曜日

十字架への道(2021年3月28日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

讃美歌21 298番 ああ主は誰(た)がため 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

「十字架への道」

マタイによる福音書27章32~56節

関口 康

「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。

今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストが十字架上で処刑される場面です。想像するだけで体と心が凍ります。もっとも、書かれていること以上は分かりませんので、これから申し上げることの多くは私の想像です。

兵士たちがシモンという名のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたとあるのは、その前にイエスさまが鞭で打たれたり葦の棒で頭を叩き続けられたりしていたために、重い十字架の木材を背負って歩くのが難しくなっていたからではないでしょうか。つまり、もう歩けなくなっているイエスさまを無理に歩かせるためです。イエスさまを助けたがっているわけではありません。

処刑場についたときに彼らがイエスさまに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは、麻酔的な意味があったでしょう。アルコールの摂取が痛みの緩和になるかどうかは分かりません。しかしイエスさまはそれを拒否されました。すべての痛みをお引き受けになるためだったと解釈されることがありますが、それすら想像の域を超えません。

「彼らはイエスを十字架につけると」と淡々と事実だけが記されています。現代の作家のような人たちなら、もっと詳しく細かく描こうとするのではないでしょうか。イエスさまの手や足に釘を打つ槌音、痛みに悶えるイエスさまの表情や絶叫。そのようなことは一切記されていません。音も声も聞こえてこない、まるで一枚の絵画や写真を見ているかのようです。

しかしその一方で今日の箇所にしきりと描かれているのは、十字架につけられたイエスさまの周りにいる人たちの言葉や態度や表情です。イエスさまご自身が苦しくないはずがないのですが、そのことは描かれず、代わりにイエスさまの周りの人たちの様子が多く描かれています。

兵士たちがくじを引いてイエスさまの服を分け合う様子にしても、十字架につけられたイエスさまの頭の上に「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げる様子にしても、彼らが楽しそうに遊んでいたことを物語っています。すべて揶揄いであり、罵りです。

通りがかりの人たちのことも「頭をふりながらイエスをののしって言った」と記されています。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言う。「できないことをできるかのように言ったお前の恥を知れ」とでも言いそうです。

通りがかりの人たちは何を言っても構わないという意味ではありませんが、同じように祭司長たちが律法学者や長老たちと一緒にイエスさまを侮辱しているのは、いただけません。特にその人たちが「他人は救ったのに、自分は救えない」と言う。これはまずいです。

祭司長と律法学者と長老の共通点は、当時のユダヤ教団の指導者たちだったことです。宗教の責任者たちです。宗教が人を救うのかどうかは分かりませんというようなことを、私が言うべきではないかもしれません。しかし、ここに書いてあるとおりならば、彼らはイエスさまが他人を救ったことを認めています。彼らこそが本来なら人を救う働きをもっとしなければならなかったはずなのに、自分たちにできなかったことをイエスさまがしたことを、彼ら自身が認めています。

いや、認めているわけではない、「他人は救った」と彼らが言っているのは「自分は救えない」のほうを言いたいがための枕詞であるという読み方がありうるかもしれません。しかしとにかく彼らは、イエスさまが「他人を救った」と言いました。そうであるならば、宗教の責任者たちはイエスさまの功労をねぎらうべきではないでしょうか。侮辱ではなく。それができないのです。

そしてついにイエスさまが息を引き取る場面が描かれます。そのときには、イエスさまは大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。「痛いです」でも「苦しいです」でも「悲しいです」でもありません。神さまがわたしをお見捨てになった、それはどうしてですか、と言われました。

なぜイエスさまがそうおっしゃったのか、その意味は何かについては、もちろん完全に謎です。世界のだれひとり正解を知る人はいません。ただ、私が今日の箇所を改めて読みながら思うのは、イエスさまのこの絶望の叫びは、イエスさまご自身が十字架につけられたことを痛いとか苦しいとか悲しいとかいうことに対する絶望ではなく、宣教活動をどれほど行っても人間の態度が少しも改まらないことへの絶望のお気持ちだったのではないだろうか、ということです。

なぜそう思うのかの理由を申し上げる必要があるでしょう。それが先ほど申し上げたことです。この箇所にはイエスさまの表情がほとんど全く描かれていないのに対して、十字架につけられたイエスさまの周りにいた人たちの表情がしきりと描かれている、ということです。

言い方を換えれば、この箇所はイエスさまの側からイエスさまの周りの人たちの姿とその態度を見る、その目線で書かれているように読める、ということです。マタイはイエスさまではありませんので、実際にそうすることは不可能です。しかし、イエスさまの立場・イエスさまの目線で、人間の姿を見ようとすることは可能です。

そしてそれはマタイだけでなく、他の福音書記者だけでなく、わたしたちにも可能です。教会生活を長く続けてきた人たちや、牧師としての働きを長く続けてきた人たちがしょっちゅう絶望の言葉を口にするのを実際に聞きます。これほど苦労して教会生活を続け、あるいは牧師としての働きを続けてきたのに、世界は変わらない。ますます悪くなっている。どうなっているのかと。

しかし、「それでいいのだ」と思うことにしましょう、というのが今日の私の結論です。世界は立ちどころに変わったりはしません。人の心は私たちの思いどおりになりません。苦労して苦労して、苦しんで悩んで、繰り返し絶望しながら教会生活を続け、宣教を続けていく中で、世界は徐々に変わっていくでしょう。そう信じましょう。イエスさまが、何を言っても何をしても絶望的に変わらない人たちを十字架の上から見つめておられたように。しかしイエスさまの死と復活から2千年後の今は、当時と全く同じではありません。少しぐらいは変わったでしょう。

イエスさまが息を引き取られたとき神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こり、墓が開いて多くの人が生き返るというようなとんでもない天変地異があり、それを見た人々が「本当にこの人は神の子だった」と言ったということが記されていますが、彼らこそ世界で初めて信仰告白した人々であると言えるかどうかは微妙です。そのときはそう思ったかもしれません。しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のも「熱しやすいが冷めやすい」のも人間です。天変地異ごときで世界が変わるなら、だれも苦労しません。人の心が変わるのは、息の長い宣教によるほかはないのです。

「教会やめたい。牧師やめたい」と思うときには、今日の箇所を思い起こしましょう。イエスさまが苦しまれたことを心に刻みましょう。イエスさまは救い主です。しかし宣教の苦労の先輩でもあります。宣教に絶望するたびに「うんうん分かる分かる」とうなずいてくださるでしょう。

(2021年3月28日 日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

2021年3月21日日曜日

十字架の勝利(2021年3月21日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

  
讃美歌21 306番 あなたもそこにいたのか 奏楽・長井志保乃さん

「十字架の勝利」

マタイによる福音書20章20~28節

関口 康

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

今日の礼拝後、2020年度第2回教会定期総会を行います。教会総会のたびに申し上げていることを繰り返します。教会のすべての会議は礼拝をもって始められるべきです。しかし、教会総会を日曜日に行う場合は、主日公同礼拝を教会総会の「開会礼拝」とみなすことが可能です。

今日行う教会総会の議題は2つです。役員改選の件と、新年度教職体制の件です。「その他」と記しましたが、教会総会議員である教会員の側から今日の教会総会で扱うべき議案があるという提案がなされた場合に、それを議事にすることができるという意味です。ただし、それは教会総会の開会宣言の後に行う議案確定のとき提案された場合に限ります。次から次へと思いつきの提案が後から出されても議事として取り扱うことはできません。そのことはご承知置きください。

議事の内容を先取りするようなことを、いま申し上げるつもりはありません。具体的なこと、実際的なことについては、教会総会の中で共に考えるべきことです。それよりもいま申し上げておくべきことは、根本的なこと、本質的なことです。教会役員とは何か、教会の教職と呼ばれる牧師とは何かということです。そしてこの2つの問いに集約されるのは、そもそも教会とは何かという、より大きな問いです。そういうことをあらかじめ考えたうえで、先ほど申し上げた2つの議題を取り扱う今日の教会総会に臨むべきです。

しかし、これから私が「教会論」をお話ししようとしているわけではありません。「教会役員論」でも「牧師論」でもありません。乱暴な言い方をお許しいただけば、そんなことはどうでもいいです。大切なのは神さまとの関係です。神さまの前でわたしたちひとりひとりがどのように考え、語り、行動するかです。

今日の聖書の箇所はいつものとおり教団の聖書日課を参考にして選んだものですが、今日こそわたしたちが考えるべき最も大切なテーマが記されているということを深く感じました。神さまがわたしたちに「今日この言葉を聞きなさい」と呼びかけておられます。そのように感じました。

ゼベダイの息子たちの母が、その2人の息子と一緒にイエスのところに来てひれ伏してお願いしようとしたというのです。「ゼベダイ」と「2人の息子」は、いま開いているマタイによる福音書の4章21節に登場します。それはイエスさまが宣教活動の初めにまず4人の弟子をお選びになる場面です。「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」(4章18節)、そして「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(4章21節)です。4人とも漁師でした。

ですから今日の箇所の「ゼベダイの息子たちの母」(20節)は漁師ゼベダイの妻であり、「2人の息子」(同節)はヤコブとヨハネです。そのゼベダイの妻であり、ヤコブとヨハネの母である人がイエスさまのところに来てお願いしました。

お願いの内容は要するに、イエスさまが国王になられたときに、うちの息子たちをあなたの右と左に座らせると約束してほしいということでした。ぴったりとは当てはまりませんが、イエスさまの学校に大切な子どもを2人も入学させた親が「うちの子に最優秀の成績をつけてください」とお願いしているようなものだと考えれば、少し分かりやすくなるかもしれません。

「了解しました」とイエスさまはお答えになりませんでした。そうではなく「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(22節)とお答えになりました。このイエスさまのお答えが「当然だ」と思われる方と「厳しすぎる」と思われる方とに分かれるかもしれません。それは《イエスさまの立場》に立って考えるか《親の立場》に立って考えるかによるでしょう。

《親の立場》を先に考えてみます。ゼベダイの妻でありヤコブとヨハネの母の立場としては、自分のお腹を痛めて産み、心血を注いで育てた子どもたちが2人もイエスさまに取り上げられたという気持ちだったかもしれません。「こんなとんでもないことになったのは、ある意味でイエスさま、あなたのせいです。私の命に代えても惜しくない子どもをあなたに差し上げたのだから、その代価を払ってほしい」と言いたい気持ちがあったかもしれません。

しかしイエスさまはその願いを突き放されます。そして「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節)と言われます。その「杯」の中身が直前の箇所に記されています。イエスさまが12人の弟子を呼び寄せておっしゃったことです。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」(20章17~19節)。

これはイエスさまのことです。私はこれから死刑を受ける。その前に屈辱を受ける。そのためにエルサレムに向かっているとおっしゃっているわけです。そういうことをあなたがたは堪えられるか、耐えられないだろうと問われているのが「杯を飲むことができるか」の意味です。

すると、ヤコブとヨハネは口を揃えて「できます」と答えます。実際にはできないのですが。できなくてもいいのですが。十字架の苦しみはイエスさまがおひとりで背負われました。しかし、できなくてもいいし、事実としてできなかったことを「できます」と言ってしまうのが、愚かと言えば愚か。浅はかと言えば浅はか。弱さと罪をまとうわたしたち人間の姿そのものでしょう。

いま申し上げている問題は大切です。しかしそれ以上に大切な問題があります。それはイエスさまの弟子であることの意味は何なのかという問題です。

その答えは、彼らが考えたように「(1)イエスさまのように偉くなるために上に向かう階段を昇っていくこと」ではありません(×)。正解は「(2)イエスさまのように屈辱を受けるために下に向かう階段を降りていくこと」(〇)です。イエスさまのように徹底的にへりくだることです。

「それをめざしている者は、わたしの弟子である」とイエスさまは必ずおっしゃってくださると思います。「それができない人は、わたしの弟子ではない」とイエスさまがお退けになるようなことはなさらないと思います。しかし「わたしが向かっている方向とは正反対である」ということはおっしゃるのではないかと思います。もし、その方向を「めざして」いないとすれば。

そのことを端的にはっきりおっしゃっているのが26節以下の次の言葉です。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。

これはわたしたちが文字通りに実行すべきことです。「皆に仕える者になるどころか、すべての人を上から見下げて虚勢を張りたがる弱さと罪を持つわたしたちの代わりにイエスさまが死んでくださいましたが、わたしたちはいつまでも傲慢なままです」と言って済ますことはできません。イエスさまから「あなたがたは自分が何を願っているか分かっていない」と言われるでしょう。

(2021年3月21日)

2021年3月14日日曜日

主の変容(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)

讃美歌21 311番 血潮したたる 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3559号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書17章1~13節

関口 康

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

おはようございます。礼拝堂を開放しての礼拝を再開して3週目です。1都3県に対する政府の緊急事態宣言は、現時点の説明では来週日曜日まで続くようです。

しかしまた、たとえば私は今ほぼ毎日のように、電車やバスに乗って遠くの学校まで出かけ、外出先で食事をしています。対策をとっているかぎりはふだんと全く変わりません。それで怖いと私はもう思いません。

怖がる理由、外出しない理由、人と会わない理由を探し始めれば、事欠くことはありません。しかし、テレビや新聞の情報がすべてではありません。私が何を言おうと、誰の何の参考になるとも思いません。しかし、東京や神奈川の中心部分の状況を、自分の体と目で確かめています。

今の日本の政治を司る人々がもっと信頼できる人たちであれば、あの人々の言うとおりに動くことはやぶさかではありません。しかしそれが難しい状況です。これ以上は言わないでおきます。礼拝堂を閉鎖し続ける理由はもうないと私個人は考えています。

いま申し上げたことと、今日の聖書の箇所とが直接関係あるわけではありません。無理に関係づけたいとも思いません。しかし、この箇所に何が描かれているのか、聖書が何を言おうとしているのかを考えると、あながち全く無関係とも言いがたいところがあることをご理解いただけるのではないかと思えてきます。

イエスさまが、12人の弟子のうちの3人を特別にお選びになって、高い山に登られたというのです。その3人の弟子は、ペトロとヤコブとヨハネでした。「山頂で」とは書かれていませんが、登山の目的地が頂上でないということがありうるでしょうか。おそらく山頂かその付近でのことではないかと思われます。イエスさまのお姿が変わった、というのです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。

姿が変わるというのは、何か違うものに化けることを言うのかもしれません。イエスさまが何か別の存在へとお化けになられたのかどうかは分かりません。山に登って、頂上付近で、太陽の光に照らされて、顔と服が輝いたというような話かどうかも分かりません。

もし何か途轍もないことが起こったのだとしても、それを目撃したのは、この箇所に書かれているとおりに考えれば、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけです。この3人が何を見たのか、あるいは何を感じたのか。そのことをわたしたちは、今日の箇所を読んで想像するしかありません。

続きを読みます。高い山でイエスさまのお姿が変わりました。そして、そのイエスさまの前にモーセとエリヤが現れ、その3人の語り合いが始まったというのです。

モーセは紀元前13世紀の人です。イスラエル人を、彼らが奴隷状態にされていたエジプトから脱出させ、約束の地カナンまで連れて行った人です。そしてその旅の途中で「モーセの十戒」を定めたことで知られます。エリヤは紀元前9世紀の人です。イスラエル王国が南北に分裂した後の時代の北王国の預言者で、バアルと呼ばれる異教の神を信じる人たちと対決しました。

その人たちがイエスさまの前に現れた、というわけです。ですから、こういう話というのは、どうしてこういうことが起こりえようか、科学的にありえない、というふうにたとえば反応するのは、そもそも聖書の読み方自体を間違えているとしか言いようがないです。

このように言えばおそらく皆さんにご納得いただけるでありましょう範囲内の言葉で言い換えれば、高い山の上で、ペトロとヤコブとヨハネが見ていたのは、イエスさまがモーセやエリヤについて熱を込めて説教なさるお姿だったのではないかということです。

モーセとエリヤの共通点を強いて言うとすれば、今のわたしたちが「旧約聖書」と呼ぶ39巻の書物の中で最も有名な人たちであるということでしょう。イスラエル人を危機の中から助け出す働きをしたという意味で、イスラエルの人々にとっての国民的英雄として知られている存在です。

その人々のことをイエスさまが、弟子たちに熱を込めてお話しになったのではないでしょうか。イエスさまはモーセとも語り合い、エリヤとも語り合い、そしてその語り合いの中に弟子たちを招き入れられたのではないでしょうか。

「ペトロが口をはさんでイエスに言った」(4節)と記されています。「口をはさむ」と言うと、まるでペトロが邪魔しているかのようです。

イエスさまは何も、弟子たちを放ったらかしにして、モーセとエリヤとの語り合いだけに夢中になっておられたわけではないでしょう。そういうのは礼拝に集まっている人たちの心に届かなくてもお構いなしの、まるで独り言のような説教をしているのと同じでしょう。

説教をさえぎって何かを言えば「私語を慎んでください」と注意されるかもしれませんが、説教者と会衆が対話の関係になることが間違っているとは言えないでしょう。

脱線しかかっているので、話を元に戻します。ペトロがイエスさまにひとつの提案をしました。その内容をかいつまんで言えば、せっかく素晴らしい方々がお集まりなので、お3人のために、わたしがここに仮小屋を3つ建てさせていただきますが、いかがでしょうか、ということです。

そうすれば、いつまでも、何日でも、じっくりお話しできるでしょうというような意味かもしれません。やっぱりちょっと余計なことを言っているようでもあります。こういうことをもし本当にペトロが言ったのだとすれば、口が過ぎる感じがないわけではありません。

しかしまた、ペトロが言っていることをもう少し厳しく考えると、ただ口が過ぎるというだけではなく、事柄のとらえ方に間違いがあるとも思えてきます。それは、ペトロが、イエスさまとモーセとエリヤのために「仮小屋を3つ建てる」と言っているところです。

つまり、ペトロは、3者を同格に見ています。ペトロの側からすれば、イエスさまを信じているけれども、モーセもエリヤもイエスさまと同じ意味で信じている、信頼している、という意味を持ち始めるでしょう。

しかし、ペトロがそう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が聞こえ、彼らが目を上げると、モーセもエリヤもいなくなって、イエスさまだけが残っていたというのです。つまり、イエスさまの弟子はイエスさまの言葉に従って生きなさいと、彼らに明確な示しがあった、ということです。

このように考えると今日の箇所全体のテーマが分かってきます。イエスさまの弟子は誰に従うのか、です。イエス・キリストの教会は、イエス・キリストの言葉に従うのです。

現代の教会においては、全く通用しない話でしょうか。医学と科学と世論に従うだけならば、宗教は不要でしょう。そう思っている人たちは、もはや教会に足を向けることはないでしょう。

しかし、それでは済まないと思っている人たちが、教会に集まるのです。私もそうです。教会でなければならない意味があると思っているので、牧師を続けています。

すべての判断は各自に任されています。強制はありえません。それぞれ自分の確信に基づいて生きるべきです。

(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

2021年3月7日日曜日

受難の予告(2021年3月7日 自宅・礼拝堂礼拝)

石川献之助牧師(最奥)と昭島教会
(画像は約2年前のものです)

讃美歌21 303番 丘の上の主の十字架 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3557・3558号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書 16 章 13~28 節

牧師 石川献之助

「それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは決して死なない者がいる。」

私たちの教会生活も信仰生活も、聖書の御言葉に従いながら祈りをもっておくられるものだということは当然のことであります。本日与えられた御言葉のごとく、主イエスの弟子たちも、その当時主の御言葉を心におきながらその弟子としての日々をおくっていたことを知らされるのであります。字句の聖書のように私共もまた、主の御言葉を糧として日々をおくることが必要であります。

本日は教会歴でいえば受難節第三主日であります。主イエスは神の子として歩まれました。主が言われたことは、単に不言実行という言い古された教訓でしょうか?誰でも苦労の無い痛みのない道を選びたい、それなのに十字架への道を歩まれた、その意味は何でしょうか?その事を深く考える事こそが、受難節の意味であると思うのです。

受難節が設けられたとは、この問題意識から起こったこと、つまり受難の意味に与り、復活節を迎えるためであるのです。皆さんと御一緒に、このことを考えて今の時を過ごしたいと思います。

今朝与えられました御言葉は、マタイによる福音書 16 章 13 節から 28 節であります。13 節からは、ペトロの信仰について書かれています。

主イエスは、十字架が待つエルサレムに向かわれる前に、フィリポ・カイザリアに行かれ、弟子たちに「人々は人の子のことを何者だと言っているか」(13 節)とお尋ねになりました。弟子たちは、主イエスを洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だなどと言う人がいると答えました。それから弟子たちに同じ質問をされました。もしかしたら、しばらく沈黙があったかもしれません。

するとシモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16 節)と答えました。主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(17 節)と示されました。

人々はこれまでの人間が考えられる限りにおいて最高の存在として主イエスを捉えていました。しかしペトロは主イエスを「メシア、生ける神の子」だと告白をします。この重大な信仰上の発見を聞いた主イエスは、「あなたはペトロ。この岩の上にわたしの教会を建てる」(18 節)と仰られたのです。

21 節からは、主イエスの身にこれから起こる十字架の出来事は、突然の出来事ではなく、必然的な道であるということを、主は弟子たちにうちあけておられたのであります。まさにこの時が「受難の予告」をされた最初でありました。その事を打ち明けられた弟子たちにとって、この時点で主イエスの最も重要な使命を理解することは、極めて難しい事柄であったことでしょう。

十字架への道は、主イエスお一人で歩まれました。岩の信仰と認められたペトロでさえ、「サタン、引き下がれ」と主イエスより叱責をうけたのです。忠実な弟子たちも、主イエスの言葉の真意を理解し、主の御苦しみに思いをいたすことはできなかったのです。このことを心に留めながら、この受難節その主イエスの秘義に少しでも与りたいと思います。

十字架の贖いの業は、主イエスにしか成就できない業であり、主イエスは自ら進んで十字架に歩み寄られたのであります。主イエスは人々の罪の値のために、生贄としてご自身をささげられました。この最も尊い十字架の贖いの業の根底には、主イエスの愛があるのです。

姦淫の罪のため石打の刑に処されようとしていた女性に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。」(ヨハネ 8 章 10~11 節)といって人間を祝福し、示して下さった主イエスの愛があればこそ十字架の出来事が起こったのであります。主イエスが与えて下さった許しというものを心に置くとき、私たちは普段の生活においても主イエスが与えて下さる愛に感謝する、主イエスを好きになる、そのような思いに駆られるのであります。

その愛のお方が「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(24~25 節)と語りかけて下さっています。主イエスにならい神様の御心を実現するべく祈りをもって歩みたいと思います。

他方、現代に生きる私たちは、法の支配のもとに社会生活を営んでいます。コロナウイルスの緊急事態宣言下にあって、礼拝さえもその法則に従ってご承知の様な状態を強いられました。教会の兄弟姉妹の交わりも困難な状況が続きました。このような中であらためて教会で礼拝をささげる事の大切さや交わりの豊かさを再認識させられる思いです。

少しずつ教会の活動再開に向けて歩み始めた今、安全な対策を工夫しながら、互いの交わりを取り戻し深めていく必要を強く感じています。これからも適宜、教会生活に励みつつ、皆さんで教会生活を取り戻すべく力をあわせてまいりたいと思います。

(2021年3月7日 日本キリスト教団昭島教会主日礼拝宣教要旨)

2021年2月28日日曜日

罪と戦うキリスト(2020年2月28日 自宅・礼拝堂礼拝)

【お知らせ】

なおしばらく各自自宅礼拝を継続しますが、本日2月28日(日)より礼拝堂を開放いたします。10時半から礼拝を行います。出席は可能です。役割分担は当分決めません。通常礼拝再開に向けての準備段階です。ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
 
自転車で週報をお届けしています(昭島市つつじが丘付近)

讃美歌21 311番 血潮したたる ピアノ奏楽・長井志保乃さん

週報(第3557・3558号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書12章22~32節

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

各自自宅礼拝は継続します。しかし、今日から礼拝堂を開放しています。「ぜひご出席ください」と強くお勧めする段階にはまだ至っていないと認識しています。どうかくれぐれもご無理のないようにご判断いただきますようお願いいたします。

私は決して忘れているわけではありません。今は「受難節」です。イエス・キリストのご生涯は苦難に満ちたものでした。わたしたちの罪の身代わりに十字架上で命をおささげになる日まで父なる神の御心に従われました。そのことを思い起こし、わたしたちの罪を悔い、主の前にひれ伏して過ごす大事な季節です。

しかし、いま私たちは各自自宅礼拝を続けています。教会のみんなが互いに顔を合わせることができていません。日本社会の中で定着しているわけでもない「教会暦」を重んじて行動することの困難を私は感じています。

しかし、先日ひとつの気づきがありました。それは、3日前の2月25日(木)に教会の週報を私が自転車で何人かの教会員のお宅まで届けに行った日です。ご高齢であるのと、お目がご不自由であるのとで、毎週の礼拝出席は難しいけれどもイースターとクリスマスの礼拝には毎年必ず出席してくださるMさんと、西立川駅の近くでお会いしました。

お互いにマスクをしていました。私がこの教会に来て丸3年です。クリスマスとイースターの礼拝に来てくださるMさんとは6回はお会いしていますと言いたいところです。しかし昨年(2010年)のイースター礼拝が各自自宅礼拝でした。Mさんとの出会いは1回引いて5回です。それくらいお会いすれば、マスクをしていてもMさんだと分かります。お声をかけたら「なんでこんなところにいらっしゃるんですか」と驚かれ、喜んでくださいました。

そのMさんが、3日前にお会いしたとき、「イースター礼拝は、今年はいつですか」と真っ先に尋ねてくださいました。手に持っていたアイパッドで確認して「4月4日です」とお答えしたら「イースター礼拝、今年はありますよね。出席したいです」とおっしゃいました。

Mさんはおひとりでお住まいです。どのような生活をされているかをお尋ねしたりお宅を訪問したりするのが難しいので、想像するだけです。年2回、クリスマスとイースターの礼拝に出席すると心に定めておられることが分かりました。そして、昨年のイースター礼拝が各自自宅礼拝になったことがMさんにとってどれほど残念だったかを想像して、胸がつまりました。

私が今しているのは「教会暦」の話です。生まれたときから教会生活をしてきた私などは教会暦に何の意味があるのかが分からないことのほうが多いです。しかし、いまご紹介したMさんのような方がおられることを忘れないようにしたいと思わされました。

今日の聖書の箇所の話に移ります。この箇所に描かれているのは、イエスさまが、目や口が不自由な人たちをいやされるわざを行われて、多くの人々の称賛をお受けになったとき、要するにそれを妬んだ人たちがいて、その人たちがイエスさまについてありもしない中傷誹謗を言い出したのに対して、イエスさまが反論されている場面であると説明できます。

イエスさまが病気や障碍を持つ人々をいやす方法が現代の医学とは全く違うのは、当然のことです。悪霊にとりつかれることが病気であり、その悪霊を心と体の中から追い出すことが治療であると信じられていた時代の話であるとしか言いようがありません。21世紀の私たちが2千年前と同じ治療方法を踏襲しなければならないわけがないし、よりよき治療方法が見つかればそれを用いるほうがよいに決まっています。イエスさまの治療方法は間違っているのではないかというような問題に引っかかって聖書が読めなくなるよりましです。

とにかく人の体や心が、痛い、苦しい、つらいと悲鳴を上げているときにその痛み、苦しみ、つらさを和らげること、取り除くことができれば、それがいやしなのだと思います。今のわたしたちでも、とにかく薬を飲めば治ると信じて、その薬を定められた量以上に飲むとかえって痛みが増したり、薬そのもので内臓が痛んだりするのを知っているはずです。

いやしは、ある意味で主観的な事柄でしょう。いいかげんなことを言っているように思われるかもしれませんが、自分にとって治ったと思えるなら治っているのです。「あなたは病気です」と人から言われても、自分にその自覚がないのなら、病気ではないのかもしれません。

しかし、いま申し上げている問題は、今日の箇所のテーマではありません。この箇所の問題は、イエスさまの働きが当時の多くの人々にとって有効なものであることが認められて、多くの人々から称賛を受けられたとき、それを妬んだ人たちがいたということです。

それは明らかに嫉妬です。私が持っている古い広辞苑(第4版)によると、「嫉妬」とは「自分よりすぐれた者をねたみ、そねむこと」です。「ねたみ」とは「他人のすぐれた点にひけ目を感じたり人に先を越されたりして、うらやみ憎むこと」です。「うらやむ」とは「人の境遇・資質などが自分より良いのを見てねたましく思うこと」です。

辞書の定義としては「うらやむ」とは「ねたむこと」であり「ねたむ」とは「うらやむこと」であると、同じ言葉が繰り返されてぐるぐる回っているだけですが、意味はわかります。共通しているのは、他人と自分の比較であり、とくに同一のあるいは類似した仕事や立場にいる同士の間での比較です。同じ肩書きを持ち、同じ職務についているのに、私にできないことが、あの人にはできる。そのことに我慢できず腹を立て、できる人の働きを妨害して、足を引っ張ろうとするのが、嫉妬であり、ねたみであり、うらやみの意味です。

そのような感情を抱いた人々が、イエスさまの働きについて「悪霊の頭ベルゼブルによらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)とくだらない噂を流したのです。「悪霊を追い出すためには悪霊の力を借りなくてはならない。つまり、イエスは悪霊を操っているのだ」と。

中傷誹謗のたぐいですから、無視なさってもよかったかもしれません。しかし、イエスさまは丁寧にお答えになりました。悪霊で悪霊を追い出すというのは内輪もめになるが、わたしは神の霊で悪霊を追い出しているのだと、興味深いお答えをなさっています。

「嫉妬」の問題は手強いです。おそらくだれもが持っていて、しかも制御しにくい感情です。それが心の中にとどまっているなら、まだ大丈夫です。心の外へと飛び出して精神的または物理的な暴力へと発展し、実際に他人の人生を破壊することがありうるだけに、凶悪な罪です。

しかし、その罪に対してイエスさまがどのような態度を示されたかが大事です。暴力に暴力で返すのではなく、丁寧にお答えになるイエスさまの姿を思い浮かべることができます。私たちの心の中の「嫉妬」という名の罪をイエスさまが取り除いてくださると信じようではありませんか。

(2021年2月28日 自宅・礼拝堂礼拝)


2021年2月21日日曜日

荒れ野の誘惑(2021年2月21日 各自自宅礼拝)

週報を自転車でお届けしています(昭島市中神町付近)

讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を オルガン奏楽・長井志保乃さん

週報(第3555・3556号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書4章1~11節

関口 康

「すると誘惑する者が来てイエスに言った。『神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。』」

今日の午後、定例役員会・運営委員会を開きます。その中で通常礼拝再開のタイミングを協議します。協議を経る前に私が強い意見を持ちますと、自由な発言の妨げになりますので、それは控えます。しかし、ある程度は客観的な状況についてお話しすることは可能でしょう。

私は今でも週3日は朝早く電車やバスに乗り、2つの学校で聖書を教える授業をしています。行きも帰りも多くの人が、電車やバスに乗って移動しています。どちらの学校にも多くの生徒と先生が毎日集まっています。生徒は学校で昼食を食べています。もちろんすべての場所で対策がとられています。教会だけが極端に危険であるということはないでしょう。私に分かるのはその程度のことです。方針が固まり次第、皆様にご連絡いたします。

今日の聖書の箇所に記されているのは、教会生活が長い方にとっては何度聞いたか分からないほどよく知っているとお感じになるに違いない内容です。イエスさまが宣教活動をお始めになる前に、荒れ野で悪魔の誘惑に遭われたときの出来事です。

しかし、イエスさまが悪魔の誘惑に遭うとは具体的に言うと何のことでしょうか。その問題については私も毎回悩みます。皆さんはお分かりですか。人間でもなく野獣でもなく神でもない、怖い鬼のような顔の悪魔が歩いて来て、イエスさまに話しかけてきたのでしょうか。そうだったのかもしれませんが、そうでなかったかもしれません。

いえいえ、全くそういう話ではなく、イエスさまの心の中の葛藤のようなものだ。それを物語風に説明しているだけだ。つまりこれは、現代社会の中で高度に発達してきている心理学のようなことで十分に説明できる心理的な出来事である、という考え方もありうるでしょう。

私はどのように考えるか。どちらかというと今申し上げた二つのうち、あとのほうに近いです。イエスさまの心の中の葛藤のようなことではないかと考えます。ただし、イエスさまをあまりにも私たちと同じ人間としてとらえすぎて、イエスさまも選択肢をひとつ間違えば悪魔になる可能性もありえたかのように考えるのは、方向を間違っているような気がしてなりません。

しかし、この出来事をイエスさまの心の中の葛藤のようなこととしてとらえることにメリットがあります。それは、イエスさまが荒れ野で受けられたのと同じ誘惑を、わたしたちも受けるし、今も毎日のように受け続けているかもしれないことに気づかせてもらえるメリットです。

イエスさまがお受けになった3つの誘惑は、第1に「石をパンに変えること」、第2に「神殿の屋根から飛び降りること」、そして第3に「悪魔にひれ伏して世界の支配者になること」でした。それぞれの誘惑が何を意味するかは分かりません。マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも同じ話が出てきますが、どれにも誘惑の意味は記されていません。記されていないということは、わたしたちがそれを解釈しなくてはならないということです。

石をパンに変えることができれば、自分自身だけでなく多くの人の利益になるので、みんなが喜んでくれるでしょう。そしてそれは、考えてみれば完全に不可能なこととは言い切れません。ダイヤモンドは石でしょう。あの石に値段をつけて売れば、相当なお金になるでしょう。それでパンを買って困った人に差し上げることができるでしょう。そのような意味のことが今日の聖書の箇所に記されていると、いま私が申し上げているわけではありません。「石をパンに変えることは絶対に不可能だろうか」という問いを立てて、その答えを考えてみているだけです。

神さまを信じているなら、神殿の屋根から飛び降りても、神さまが助けてくださるだろうから、試しにやってみる。そのことも、できるかどうかを言うなら、できるでしょう。そこが「神殿」でなくても、また「飛び降りる」というような口にしたくないことでなくても、あえて危険なことをしてみせて、何とかなるだろうと高を括る。それを「勇気」とか「信仰」とか呼ぶ。しかも悪魔はその危険行為を自分でするのではなく、イエスさまにさせるのです。使役するのです。

悪魔にひれ伏して世界の支配者になる、というのは、よくあることとまでは言わないにしても、人生経験を重ねて来れば、全く身に覚えがないとは言えなくなるでしょう。会社で出世したくて、社会で成功したくて、ライバルを蹴落とした、蹴散らした。ずるい方法も使った。越えてはならない一線を越えた。すべては自分の地位を守るため、財産を守るため。

イエスさまは、困った人にパンを差し上げることをなさいました。どんなことがあっても必ず助けてくださる神さまを信じて、冒険的なことをなさることもありました。そして、イエスさまは真の意味での世界の支配者になられました。クリスマスもイースターまでも世界中のどの国の人も、日本でも祝うようになりました。その意味を分かっているかどうかは深く問わないでおきましょう。どちらもイエスさまの生涯とかかわります。そのお祝いを世界中の人が今しています。

しかし、イエスさまは、今あげた3つの働きのどれについても、悪魔にひれ伏して手に入れたような方法でない、全く正反対の方法で成し遂げられました。その方法とは何でしょう。イエスさまがなさったのは、安息日ごとに会堂に集まって、礼拝をささげ、み言葉を語ることでした。それが宣教です。そして、お祈りと賛美をおささげになりました。そして、そのうえで、み言葉に耳を傾ける人々と共に生き、慰め励まし、病気の人をいやされました。

しかし、み言葉を語れば語るほど、反対する人たち、反発する人たちも増えて来て、その人々からの憎しみや怒りを買うようになり、とうとう十字架につけられて殺害されました。

もしイエスさまが、もう少しずる賢い方で、「うまく生きていく」すべをご存じなかったわけではないでしょうけれども、それを現実に実践し、人を人とも思わないような高圧的な態度で周囲を踏みつけるタイプの支配者だったとしたらどうだっただろうと考えてみることは、無意味ではないかもしれません。そのように考えた結果については言いません。各自で考えてみてください。

そして、それを考える際に、「教会」が「安心できるところ」であるともしわたしたちが感じるとすれば、どこにそれを感じるのだろうかということも、考えてみていただきたいです。

私の答えを言います。「教会」が「安心できるところ」なのは、悪魔にひれ伏して独裁的支配力を手に入れるイエスさまではなく、正反対のイエスさまがわたしたちと共にいて、わたしたちを力強く守ってくださっていることを感じるからです。

「退け、サタン」というイエスさまの声で悪魔は退散したのでしょう。あの安心できるところに、またみんなで集まり、「ああ なつかしい教会へ 今日こそみんなで帰ろう」(讃美歌第二編189番)と共に歌おうではありませんか。

(2021年2月21日 各自自宅礼拝)

2021年2月14日日曜日

奇跡を行うキリスト(2021年2月14日 各自自宅礼拝)

牧師館書斎

週報(第3555・3556号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教の音声(MP3)はここをクリックするとお聴きいただけます(13分42秒)

マタイによる福音書14章22~36節

関口 康

「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」

昨夜の大きな地震には驚きました。23時8分、福島・宮城沖で発生したとのことです。教会は大丈夫でしたが、皆様はいかがでしたでしょうか。ご無事をお祈りしています。

今日の聖書箇所に登場するイエスさまの弟子たちも恐怖に怯えていました。それは湖に浮かぶ舟の中での出来事でした。

よく知られているように、イエスさまの弟子たちの中には何人か、元の職業が漁師だった人がいました。舟を漕ぐことのプロフェショナルが揃っていたと言えるでしょう。しかし、その彼らを悩ませるほどの逆風と波が襲いかかってきました。それが夕方から始まり、夜明けまで続いたというのです。

すると、夜が明けるころイエスさまが「湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(25節)というのです。通常はありえないことです。しかし、そのようなことが本当に起こったと、今日開いていただいているマタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ヨハネによる福音書にも記されています。

「こういうことが書かれているから聖書が嫌いだ」とおっしゃる方がおられます。昭島教会の皆さんの中におられるという意味ではなく一般論です。ウソとしか言いようがないことがまるで本当に起こったかのように書いてある。おいそれと信じられるわけがないではないか。どうしてこんなことをクリスチャンは真顔で信じていられるのだろうと。そういう感想をいろんなところでよく聞きます。私もだいたい同じ気持ちです。すんなり受け入れられる内容ではありません。

もちろん、それはそうなのです。しかし、大事な点を見落としてはならないと私は思います。私が思い出す言葉は、英語で言えばDon't throw the baby out with the bathwater.という欧米圏で知られる有名な格言です。

それは「産湯と一緒にその中の赤ちゃんまで流さないでください」という意味です。どこの国の、どの時代の、だれが最初に言ったかは不明だそうです。しかし、この言葉が聖書の奇跡物語に当てはまります。書かれていることを信じられないからといって書かれている言葉に含まれている大切なことまで捨ててしまうのは勿体ないです。

はっきりしているのは、今日の箇所に描かれているのは、嵐の湖上で孤立して怯えながら一夜を明かした弟子たちのところに、何がどうなってそうなったかを説明するのはものすごく難しいことだけれども、そういうことはすべて脇に置いて、とにかくイエスさまが来てくださり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)という言葉で励まし慰めてくださった出来事である、ということです。

そんなことを脇に置けるわけがないだろうとお考えになる向きがあることも当然理解できます。私もほとんど同じ気持ちです。しかし、この箇所に描かれているのと同じようなことが、わたしたち自身の現実の中でも、意外なほど、不思議なほど起こるということも、わたしたちは同時に知っていると思います。

なにがなんだか分からないけれども、とにかく助けられた。「一寸先は闇」の状況まで追い詰められたけれども、どっこいまだ生きている。あせって、乱れて、狂いそうだったけれども、心が落ち着いた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という、どこか懐かしくて温かい声が聞こえた、または聞こえたような気がした。それで我に返った。正気になった。冷静になることができた。そういう瞬間をわたしたちは体験するし、してきたのではないかと思います。

それが誰の声かは分かりません。もしかしたら自分自身の声かもしれませんし、家族の声かもしれないし、教会の仲間や牧師の声かもしれません。むかし学校で教えてもらった先生の声かもしれません。

しかし、それはだれの声でもいいでしょう。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われ、それで本当に心が落ち着き、「もうこれ以上は無理だ」とあきらめることをやめて、冷静な舵取りを再開し、向こう岸にたどりつくことを、自分の力だけで成し遂げたとはどう考えても言えないような仕方でやってのける。「終わりよければすべてよし」というような軽い話ではないと思いますが、とにかく要するに、まだ生きている、自分の足でまだ立っているという状況まで至れば、それでよいのです。

今日の箇所に書かれていることからだいぶ離れて、いいかげんなことを話しているようで申し訳ありません。ペトロがイエスさまに、自分も湖の水の上を歩きたいと言い出して、「来なさい」とイエスさまがおっしゃって、実際に水の上を歩き始めたけれども、強い風に気がついて、怖くなって、沈みかけたので「主よ、助けてください」とペトロが言ったら、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエスさまに叱られた、というような話が続いています。

こういうのも面白おかしく読めばよい、というのは不謹慎な言い方かもしれませんが、「お話にならない非科学的で荒唐無稽な虚偽の記述である」と、しかめっ面で拒否するよりはましです。これも先ほどご紹介した「産湯と一緒に赤子を流すな」です。

ここに書かれていることの意味を考えるとしたら、ペトロは自分にもイエスさまと同じことができると思い込んで、自分の力に頼って、イエスさまの真似をしようとしたらできなかった、ということでしょう。「信じる」とは自分の力に頼ることの正反対を意味する、ということでしょう。このことさえ分かれば、この物語が読者に伝えようとしていることの目的は達成しているのです。あとのことはどうでもいいとは言いませんが、奇跡物語が苦手で聖書全体を捨ててしまうよりはましです。

私の話はしないでおきます。「先生、まだ若い」と皆さんからよく言われます。学校の生徒たちからまで言われます。人生体験を語る資格はありません。皆さんのほうが余程ご存じでしょう。あのとき危なかった。大怪我をしたけれども、まだ生きている。奇跡だとしか言いようがない。焦る気持ちの中で「安心しなさい」と、私を落ち着かせてくれる声が聞こえた気がした。

その体験がおありでしたら(きっとあるでしょう)、今日の聖書の箇所の意味が分かるはずです。わたしたちをいつも見守り、助けてくださるために、身を乗り出して来てくださる方がおられることを信じてよいのです。今ここに、各自自宅礼拝に、主が共におられるのです。

(2021年2月14日 各自自宅礼拝)

2021年2月10日水曜日

常に時流に逆らった神学者ファン・ルーラー(拙訳)


ファン・ルーラーについての比較的新しい情報をオランダの新聞(ネット版)で見つけましたので、久しぶりの拙訳で紹介します。

ディルク・ファン・ケウレン先生は、2007年から刊行が開始され、2021年2月現在いまだ完成していない、1万ページを超える『ファン・ルーラー著作集』全12巻(予定)の編集長です。

彼は1964年生まれなので、1965年生まれの私と同世代です。2008年12月の国際ファン・ルーラー学会でお会いしました。ルックスは12年前と全く変わっていないので安心しました。私も変わっていませんけどね。

この著作集が完成したら私の研究を再開したいと思っているので、まだしばらくのんびりできそうだと、たかをくくっています。そんなことを言っているうちに、目はかすみ、体力を失い、死んでいくのでしょう。

-----------------------------------------------------------------

「常に時流に逆らった神学者ファン・ルーラー」

クラース・ファン・デア・ツヴァーク

2020年12月14日14:00

(関口康訳)

「ファン・ルーラーは同じ時代を生きる人々が求めているものを正確に感じ取っていた」。

このように2020年12月15日(火)に発売される『ファン・ルーラー著作集』第5巻(上)の編集長であるディルク・ファン・ケウレン博士が述べている。

このたび発売される巻は約800ページある。全体は、次の5つの部分に分かれている。

Ⅰ 牧師の視点から見た教会

Ⅱ 教会の諸側面

Ⅲ 日曜日・教会生活・礼拝・教会建築

Ⅳ 説教

Ⅴ 聖礼典

しかし、『著作集』はまだ完成していない。残っているのは、以下の部分である。

第5巻(下)信仰告白と教会訓練

      国民教会

      伝道と宣教

第7巻(上)宗教改革とエキュメニズム(カトリックとの関係)

第7巻(下)他の神学者たちについて

『ファン・ルーラー著作集』は総ページ数約1万ページに及ぶ全12巻になった。編集長ファン・ケウレンが次のように書いている。

「ファン・ルーラーはミスコッテとノールトマンスに次ぐ20世紀オランダの3大神学者に数えられる。ファン・ルーラーは他の2人と同様に独創的である。しかし彼が書いたものはあまり読まれなかった。彼が書いたのは、短くて、連載もので、教会の幅広い読者層向けのものだった」。

しかしファン・ルーラーは、教会が彼を無視し、黙殺することに対して不満を持っていた。彼は当時の流行に同意していなかったからである。

「まさにそれが悩みだった。彼の本は神学雑誌で無視された。しかし、そのような本が教会の機関紙で活発に議論されたことは驚嘆に値する。ファン・ルーラーは常に彼の時代に反応した。教会が右に移動すると、彼は左に移動した。逆も然り。彼の本はほとんどが時節に合わせたものであり、常に反論を呼び起こした。議論が起こることは喜んだが、それが孤独感の原因になった。彼は自分が理解されていると感じていなかった」。

「要するにファン・ルーラーは組織神学者(「体系的な」神学者)ではなかったのだ。おそらくこれが、当時の神学がファン・ルーラーをどう扱えばよいのか分からなかった原因である。彼はドイツの哲学者ヘーゲルから多くのことを学んだと折々に書いている。あの哲学はテーゼ、アンチテーゼ、ジュンテーゼ(正・反・合)を考える。テーゼとアンチテーゼがぶつかると、火花が飛び散る音がする。その音がファン・ルーラーの中で起こる。しかし、彼はヘーゲルのように統合しない。矛盾を矛盾のままにする。そのほうが我々の時代に合っている。ファン・ルーラーに体系は見当たらない。体系は現実の中で崩壊しているからである」。

『ファン・ルーラー著作集』に収録された『私はなぜ教会に通うのか』という本はオランダの神学の中で最も独創的な礼拝論のひとつであるとファン・ケウレンは語る。「ファン・ルーラーはセオクラシーまで考える人だった。彼は聖餐式を毎週行うべきだと考えたし、礼拝のすべてを説教壇から司式するのではなく、祈祷は聖餐卓で行うべきであるとも考えたが、結局支持されなかった。彼は聖餐式を避けることに反対し、聖餐式に出席しないことは出席するのと同じくらい大きな罪でありうると述べた。ファン・ルーラーによると、聖礼典は信仰を強めるために不可欠な教会の本質であるが、同時にそれは礼拝の中心である」。

(改革主義日報インターネット版 2020年12月14日付け)

https://www.rd.nl/artikel/904453-dr-van-keulen-hervormde-theoloog-a-a-van-ruler-ging-altijd-tegen-de-stroom-in