ファン・ルーラーについての比較的新しい情報をオランダの新聞(ネット版)で見つけましたので、久しぶりの拙訳で紹介します。
ディルク・ファン・ケウレン先生は、2007年から刊行が開始され、2021年2月現在いまだ完成していない、1万ページを超える『ファン・ルーラー著作集』全12巻(予定)の編集長です。
彼は1964年生まれなので、1965年生まれの私と同世代です。2008年12月の国際ファン・ルーラー学会でお会いしました。ルックスは12年前と全く変わっていないので安心しました。私も変わっていませんけどね。
この著作集が完成したら私の研究を再開したいと思っているので、まだしばらくのんびりできそうだと、たかをくくっています。そんなことを言っているうちに、目はかすみ、体力を失い、死んでいくのでしょう。
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「常に時流に逆らった神学者ファン・ルーラー」
クラース・ファン・デア・ツヴァーク
2020年12月14日14:00
(関口康訳)
「ファン・ルーラーは同じ時代を生きる人々が求めているものを正確に感じ取っていた」。
このように2020年12月15日(火)に発売される『ファン・ルーラー著作集』第5巻(上)の編集長であるディルク・ファン・ケウレン博士が述べている。
このたび発売される巻は約800ページある。全体は、次の5つの部分に分かれている。
Ⅰ 牧師の視点から見た教会
Ⅱ 教会の諸側面
Ⅲ 日曜日・教会生活・礼拝・教会建築
Ⅳ 説教
Ⅴ 聖礼典
しかし、『著作集』はまだ完成していない。残っているのは、以下の部分である。
第5巻(下)信仰告白と教会訓練
国民教会
伝道と宣教
第7巻(上)宗教改革とエキュメニズム(カトリックとの関係)
第7巻(下)他の神学者たちについて
『ファン・ルーラー著作集』は総ページ数約1万ページに及ぶ全12巻になった。編集長ファン・ケウレンが次のように書いている。
「ファン・ルーラーはミスコッテとノールトマンスに次ぐ20世紀オランダの3大神学者に数えられる。ファン・ルーラーは他の2人と同様に独創的である。しかし彼が書いたものはあまり読まれなかった。彼が書いたのは、短くて、連載もので、教会の幅広い読者層向けのものだった」。
しかしファン・ルーラーは、教会が彼を無視し、黙殺することに対して不満を持っていた。彼は当時の流行に同意していなかったからである。
「まさにそれが悩みだった。彼の本は神学雑誌で無視された。しかし、そのような本が教会の機関紙で活発に議論されたことは驚嘆に値する。ファン・ルーラーは常に彼の時代に反応した。教会が右に移動すると、彼は左に移動した。逆も然り。彼の本はほとんどが時節に合わせたものであり、常に反論を呼び起こした。議論が起こることは喜んだが、それが孤独感の原因になった。彼は自分が理解されていると感じていなかった」。
「要するにファン・ルーラーは組織神学者(「体系的な」神学者)ではなかったのだ。おそらくこれが、当時の神学がファン・ルーラーをどう扱えばよいのか分からなかった原因である。彼はドイツの哲学者ヘーゲルから多くのことを学んだと折々に書いている。あの哲学はテーゼ、アンチテーゼ、ジュンテーゼ(正・反・合)を考える。テーゼとアンチテーゼがぶつかると、火花が飛び散る音がする。その音がファン・ルーラーの中で起こる。しかし、彼はヘーゲルのように統合しない。矛盾を矛盾のままにする。そのほうが我々の時代に合っている。ファン・ルーラーに体系は見当たらない。体系は現実の中で崩壊しているからである」。
『ファン・ルーラー著作集』に収録された『私はなぜ教会に通うのか』という本はオランダの神学の中で最も独創的な礼拝論のひとつであるとファン・ケウレンは語る。「ファン・ルーラーはセオクラシーまで考える人だった。彼は聖餐式を毎週行うべきだと考えたし、礼拝のすべてを説教壇から司式するのではなく、祈祷は聖餐卓で行うべきであるとも考えたが、結局支持されなかった。彼は聖餐式を避けることに反対し、聖餐式に出席しないことは出席するのと同じくらい大きな罪でありうると述べた。ファン・ルーラーによると、聖礼典は信仰を強めるために不可欠な教会の本質であるが、同時にそれは礼拝の中心である」。
(改革主義日報インターネット版 2020年12月14日付け)