2018年5月20日日曜日

聖霊と生きる

使徒言行録2章29~42節

関口 康

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

おはようございます。今日の礼拝はペンテコステ礼拝としてささげています。「ペンテコステおめでとうございます」という挨拶を私は聞いたことがありません。しかし、今日がおめでたい日であることは確かです。

ペンテコステは、最も単純にいえば全世界のキリスト教会の誕生日です。教会は「団体」ですから「設立記念日」と言っても構いません。ペンテコステは、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスに匹敵するほど大切な記念日です。また、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターと同等の価値を持つ祝祭日です。

しかし、これはあくまでも私個人の印象であるとお断りしたうえで申し上げますが、もしかしたら日本の教会に、そうであることの認識が欠けているかもしれないと感じることがあります。全世界の教会の誕生日だからおめでたいと言われてもピンとこないと思われる方がおられませんでしょうか。

たとえば、各個教会に設立記念日があります。日本キリスト教団にも創立記念日があります。それらについても同じことが当てはまるのではないかと思います。「だから何なのか」と感じてしまう。「それが私の人生と何のかかわりがあるのか」と。

「私にとって重要な意味を持つのは、この私の誕生日であり、この私が洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始めたことを記念する受洗記念日である。それをお祝いするならまだ分かる。教会の誕生日なんかどうでもいい。私とは関係ない」と。

かなり穿った見方が混ざっていますので、そのようなことは一度も考えたことがありませんとおっしゃる方がおられるようでしたらお許しください。どうか怒らないでください。

そして私は、もしこういう感覚をお持ちになる方がおられても責めるような気持ちは全くありません。私自身もこういうことをしょっちゅう考えているからです。もしかしたら皆さんの中に私と同じ感覚を持っておられる方がおられるのではないかと想像して、あえてお尋ねしています。

ひと言でいえば個人主義なのだと思います。「神は好きです。イエス・キリストも好きです。しかし教会は嫌いです」とおっしゃる方がおられます。私の知るかぎりでも少なくありません。「教会などなくても自分の信仰は維持できます。神と自分の一対一の関係が重要なのであって、教会は邪魔になるだけです。面倒くさいものに巻き込まれたくありません」と。

そういう感覚をお持ちの方々を私が責めるつもりがないのは、教会はそういう存在であると私自身が考えているからです。「お邪魔してすみません」と謝りたくなります。「皆様の人生と生活を支配しようなどとは全く考えておりません。もしお役に立てることがあるようでしたら、何なりとお申し付けください」という気持ちがあるだけです。

この気持ちは私が牧師の仕事を始めた最初の日から全く変わっていませんので、かつて牧師をした教会の方々からよくお叱りを受けました。「弱腰すぎる」「頼りない」「もっと権威をもってください」と。「はいはい分かりました」とお答えすると「はいは一回」と言われたり。のれんに腕押し、ぬかに釘。

どの教会もどの牧師も、みんなそうだと思いません。強い権威をもって立とうとする教会もあります。しかし、そのほうがいいと私にはどうしても思えません。私の個人的感想としてではなく、聖書と神学に基づく結論として。教会は個人に「弱く優しく」寄り添う存在以上であるべきでない。

今日開いていただいたのは使徒言行録2章です。最初のペンテコステの日に起こった聖霊降臨の出来事が描かれている箇所です。しかし、今日の箇所に入る前に見ておきたいのは使徒言行録1章6節以下に記されているイエス・キリストの昇天の出来事です。

昇天は、使徒言行録1章3節によると、イエス・キリストの復活から40日目に起こったことです。そのとき何が起こったのかといえば「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(1章9~10節)ということです。

これを文字通り受けとるべきかどうかに疑問を持つ方がおられるかもしれません。イエス・キリストの背中に羽根が生えて、鳥か飛行機のように飛んで行かれたのでしょうか。そのようにとらえるべきなのか、それともこれはある意味での比喩としてとらえてよいかの判断は、わたしたちに任せられています。

この箇所で重要な点は、ひとつです。イエスが「彼らの目から見えなくなった」ことであり、「離れ去って行かれた」ことです。つまり、このときからイエス・キリストは地上において不在になられたのです。

そして、イエス・キリストの昇天から10日目、イエス・キリストの復活から数えれば50日目に起こったのが聖霊降臨の出来事です。そのように使徒言行録が描いています。

「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2章1~4節)。

そこで何が起こったのかは、記されていることに基づいて想像するほかはありませんが、これも文字通り受けとるべきなのか、それともある意味での比喩なのかを考える必要がありそうです。「激しい風」や「炎のような舌」といった、大げさというと語弊がありますが、ドラマティックな形容詞や副詞が目立つ文章が続いています。

この中で重要な点は二つです。第一は、ひとつの場所に集まっていたイエス・キリストの弟子たちが「聖霊に満たされたこと」です。第二は、彼らが「ほかの国々の言葉で話しだしたこと」です。

どちらも奇跡的な出来事として描かれています。しかし、第二のほうからいえば、彼らがほかの国々のいろんな言葉で語り出したのは、いろんな国の多くの人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためでした。つまり、このときから世界伝道の準備が始まったのです。

そして第一の、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が注がれたことの意味は何かと考えるときに大事なことが、先ほど触れたイエス・キリストの昇天の出来事との関係です。昇天の出来事がイエス・キリストの「不在」の始まりだったとすれば、聖霊降臨の出来事はイエス・キリストの「代わり」としての聖霊が、弟子たちと共に働いてくださることの始まりだったと言えます。

それとも、イエス・キリストが不在になった時点で、教会は伝道をやめて解散すべきだったでしょうか。初代教会はそうしませんでした。イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの「代わり」に伝道を継続したのです。

キリスト教会の信仰において「聖霊」は、神の力(パワーやポテンシャル)であるというだけにとどまりません。「聖霊」は端的に「神」です。わたしたちの「神」は父・子・聖霊なる三位一体の神です。この点は譲ることができません。

そして「聖霊」が「神」であるとしたら、聖霊降臨の出来事において起こったことは、イエス・キリストの弟子である者たちの存在(体と心)の内部に「神」が宿ってくださることが起こったとしか言いようがない、ということです。

しかも「聖霊」が三位一体の神であるということは、わたしたちの存在(体と心)の内部には「聖霊のみ」が宿るのであって、父なる神もイエス・キリストも宿ってくださらないということではなく、「聖霊」が宿るこの私の中に、父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださることを意味します。

私が教会の方々によくお勧めしてきたのは「山のあなたの空遠くにおられるかどうか分からない方に呼びかけるような祈りではなく、自分に言い聞かせるように祈るとよいと思います」ということです。この私に神が宿っておられ、その神に祈るのですから、それでよいのです。

それはものすごく重要なことであり、驚くべきことです。なぜなら、イエス・キリストの弟子たちは、あくまでも一個人だからです。その一個人の内部(体と心)に「神」が宿ってくださるということは、その現象としての外見上は、神がたくさん増えたかのようです。なぜなら各個人は「ほかの国々の言葉で話しだした」とあるとおり、いろんな言葉で語るからです。

聖霊が注がれた人、すなわち「聖霊なる神が宿ってくださった人」は、それ以前に持っていた記憶も感情も失うのかといえば、決してそうではありません。それらを失うとすれば「洗脳」を意味しますが、各個人は元々の人間のままです。なんら変化はありません。たとえ「上書き保存」されたとしても、元々の記憶も感情も残ったままです。思い出したくないような過去の記憶も事実もすべて。

それでよいのです。元々のこの弱い人間性を持ったままの私を「神」が用いてくださるのです。神はおひとりであり、三位一体の神を信じる信仰は多神教ではありません。しかし、聖霊と共に生きる者たちは、判で押したような同じ言葉しか言わなくなるわけではありません。それぞれ違った言葉や発想で語ります。それが聖霊の働きの特徴です。

教会とはそういうところです。基本的に全く自由な団体です。自分の感情を押し殺す場所ではありません。故意に人を傷つけるようなことは言わないほうがいいに決まっていますが、思ったことを思ったとおり語ることが許されています。わたしたちは何も怯える必要がありません。

そういう場所がわたしたちの人生の中にあることを感謝したいと思います。

(2018年5月20日)

2018年5月13日日曜日

福音を味わう

ローマの信徒への手紙3章21~26節

関口 康

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

毎回申し上げていますが、私が説教を担当させていただくときにしているのは、ローマの信徒への手紙を読みながら、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の要点を押さえていくことです。

その中で私がいちばん最初に申し上げたのは、ローマの信徒への手紙は、そのほとんど最初の部分から「わたしたち人間は罪人である」ということを、まるで機関銃のようにこれでもかこれでもかの勢いで書いている書物ではありますが、だからといってパウロは、あるいは聖書全体の教えは、神が人間を罪人として創造されたと信じていないし、教えてもいないということです。

神は人間を「きわめて善い」存在として創造されました(創世記1章31節)。人間性の本質は善です。人間を初めから罪人として創造するような神を、少なくとも私は真面目に信じることができません。人生の悩みと世界の混乱の原因としての罪を自分で作っておいて、その罪の中からあなたを救ってあげましょうと言い出すような神は、マッチポンプ(自作自演)の神です。

そうではありません。火をつけたのはあなたです。わたしたち人間です。理屈を言いたい人は、もし神が人間を初めから罪を犯すことができない存在へと創造してくれていたならば、世界に罪など起こりようがなかったのに、神が人間に罪を犯すこともできる自由を与えたばかりにとんでもない結果を生み出してしまった。そうであれば罪の原因も責任もすべて神にあると言います。

そして、そのように考える人は、罪は神のせいであり、永遠の定めであり、逃れがたい宿命であり、「人が罪を犯すのは当然である」などと言い出して、罪に市民権を与えはじめます。

しかし、神はわたしたち人間を、命令通りに動く機械仕掛けの存在にしたくなかったのです。神を信じることも、神の戒めを守ることも、神御自身がそれを人間に強制なさりたくなかったのです。神の願いは、強制ではなく自由のうちに神を愛する人間であってほしいということです。そもそも自由でなければ愛ではないのです。強制された愛は偽装です。これが、神が人間に自由をお与えになった理由です。

もちろん、神から与えられたその自由を、神を愛することに用いるのではなく、神に背くことにこそ用いるようになってしまった人間を、聖書が描いていることは事実です。しかし、だからといって神は、わたしたち人間から神に背くことができる自由を奪おうとなさいません。それは神が罪を放置しておられるからではありませんし、人間に無関心だからでもありません。

正反対です。神は人間をはらはらしながら見守っておられます。御自身のもとに帰ってくるのを待っておられます。それは、放蕩息子の帰りを待つ父親の姿そのものです(ルカ15章)。

あの放蕩息子の父親は、非難を受けやすい存在です。親のくせに自分の子どもを、なぜ捜しに行かないのか。なぜ待っているだけなのか。自分の子どもへの愛があるなら、あらゆる手を尽くして捜せばいいではないか。そうしないのは愛がないからだ、冷たい親だと、さんざんです。

その反対の存在として神を描いているように見えるのが、99匹の羊を野原に残してでも1匹の迷子の羊を捜しに行く羊飼いを描く、イエス・キリストのたとえです。ここで疑問を持つことは許されるかもしれません。なぜ神は、1匹の迷子の羊のことは捜しに行くのに、放蕩息子は捜しに行かなかったのかと。

その答えを私は知りません。迷子の羊は動物だけど、放蕩息子は人間だからでしょうか。羊は持っていないが放蕩息子は持っている「人間としての意志」を尊重するというテーマが隠されているからでしょうか。いろいろ想像したくなります。

しかし、二つのたとえに共通しているのは、迷子の羊を捜しに行く羊飼いも、放蕩息子の帰りを待っている父親も、愛を失ったわけでも関心を失ったわけでもないことです。羊飼いは迷子の羊を全力で捜す。父親は放蕩息子を全力で待つ。

「全力で待つ」というのは言葉の矛盾か、捜しに行かない怠慢の言い訳だ、詭弁だと言われてしまうかもしれません。しかし、子どもは、親の所有物ではありません。自分の意志を持つ存在です。たとえ親であっても自分の思い通りになりようがない、それが子どもです。どれほど非難を受けようと、自分の子どもの帰りを「全力で待つ」という態度を貫くのが、父親としての神のお姿であると言えるかもしれません。

今日開いていただいたのは、ローマの信徒への手紙3章21節から26節です。ここに記されているのは、この手紙の1章18節から3章20節までに記されている「人間の罪」の問題に対する神の態度決定の内容であると申し上げておきます。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と記されています。「律法とは関係なく」と訳すのは誤解を生みかねません。

原文には「律法なしに」という意味の言葉が記されているだけです。これは直前の「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)を受けていますので、もし敷衍するとしたら、「律法を実行するという方法ではなく別の方法で得られる神の義が示されました」というあたりです。

「律法とは関係なく」と言いながら「しかも律法と預言者によって立証されて」と言うのは、何を言っているのか分からない感じですが(関係ないものが立証する?)、ここで「律法と預言者」はひとつの熟語であると考えるべきです。

厳密な話ではありませんが、いわゆるユダヤ教の聖書はキリスト教会の「旧約聖書」と内容は同じですが、「律法」(トーラー)と「預言者」(ネビーム)、「諸書」(ケスビーム)という三部構成になっていることと関係あります。「トーラーとネビームの内容と矛盾していない神の義が示されました」という意味であると理解できます。

別の言い方をすれば、そもそも「トーラーとネビーム」、キリスト教会にとっての「旧約聖書」が教えているのは「律法を実行することによって神の義を得る」という道ではないというパウロの信仰が表明されています。旧約時代はそうだったが、新約時代はそうではなくなったわけではありません。変化が起こったのではありません。

神の義を得る道に変化はありません。「神の義」という言葉が分かりにくければ「神の救い」と言い換えても構いません。「神の義」ないし「神の救い」は、わたしたち人間がこれこれこれだけの条件を満たしたから得ることができるというような、要するに自分の努力によって獲得するものではなく、神が与えてくださるものだと、パウロは言っているのです。

しかもそれは、「律法と預言者」(ネビームとケスビーム)においてはそうでなかったわけではないと言っているのです。そのときから今日に至るまで、神の態度は全く変わっていないのです。

「神の義」ないし「神の救い」は、神の戒めをどれだけ忠実に守ったか、それをどれだけ破らなかったかによって評価され、点数と成績をつけられて、その面で秀でた人たちだけに与えられる賞状や勲章のようなものではありません。そういうのは典型的な功績主義です。行為義認主義です。しかし、神の義(救い)はそういうものではありません。

しかもそれは旧約聖書の頃はそうだったというわけではありません。神は最初からずっと変わりません。神は御自分に背く罪深い存在になってしまった人間をご覧になって、だから見捨てるとか、愛するのをやめるとか、関心を失うことは、いまだかつて一度もありません。

しかし、今日の箇所に記されていることのいわばもうひとつの中心点は、神に背く罪深い存在になってしまった人間を罪の中から救い出す方法として「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる」という方法が、いわば新たに加わったということです。しかしまた、それは究極的な方法であるために、過去の方法が不要になったということです。

「イエス・キリストの贖いの業を信じることによる神の義」(23~26節)について今日は詳細に説明できません。その機会は必ずありますので、今日は簡単な説明だけでお許しください。

ここにパウロが書いていること自体は、わたしたちの「旧約聖書」、ユダヤ教の「律法と預言者」(トーラーとネビーム)をユダヤ教がそのように理解した贖罪の儀式と関係づけて説明する必要があります。

神は「人間の罪を無視する、ごまかす、記録を改竄する」というような意味で「人間の罪を見逃す」のではありません。罪は罪として厳正に裁き、必ず処罰するのが神です。しかし、人間の罪はあまりにも重すぎるため、もし人間の罪の全責任を人間自身に負わせるとしたら、全人類を滅ぼさざるをえないほどです。しかし、そうなさることを神が惜しまれるのです。

それで、いわば人間の代わりに動物に死んでもらうことによって、本来は人間が受けるべき罰を代わりに動物に受けてもらうのがユダヤ教の動物犠牲の趣旨です。しかし、それでは足りないほど人間の罪は重い。「人をあやめた人にいくら賠償金を支払ってもらっても死んだ人の命は返ってこない」と言われることに通じます。動物の命も、あるいはお金も、罪の償いとしてそれで十分だということはありえません。

そこで、究極的で完璧な犠牲として、神の御子イエス・キリストが人間の身代わりに殺されることによって人間自身が神の罰を受けずに見逃される道が開かれました。それが、23節から26節にパウロが記している教えの趣旨です。贖罪の教理です。

しかし、このような説明を聞いても、ぼんやりするだけではないでしょうか。難しい理屈を聞かされたという気持ちになるだけかもしれません。その感覚は正常です。福音は理屈で納得するものではありません。福音は「味わうもの」です。体験するものです。

神の方法は人間の予想を超えるものです(「予想を超えること」を現代用語で「斜め上」と言うそうです)。イエス・キリストの十字架の死がなぜわたしたちの救いになるのかを、わたしたちが完全に理解することはできません。

それで全く構わないと私は思います。要するにわたしたちは、イエス・キリストの十字架の死によって、神の救いを得ているのだ。罪の中にとどまったままではないのだ。神の罰を受けないで永遠の命に至る約束を得ているのだ。そのことを信じ、感謝し、喜ぶことが求められています。

(2018年5月13日)

2018年4月29日日曜日

事実を見る

ローマの信徒への手紙3章1~20節

関口 康

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今していることの狙いは、ローマの信徒への手紙を共に読みながら、それを狭い意味の聖書研究の時間にするのではなく、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の大切なポイントを押さえていく時間とすることです。

二千年前のパウロがどのように考え、信じていたかはどうでもいいなどと申し上げるつもりはありません。しかし、もっと大切なことは、今のわたしたちがどのように考え、信じるかです。

二千年前のパウロが考え、信じたとおりに、今のわたしたちも考え、信じればいいではないかと思われるかもしれません。しかし事態はそれほど単純ではありません。わたしたちは二千年前のパレスチナとは全く異なる状況を生きています。それが悪いわけではありません。

わたしたちは現代人です。現代人が現代的な考え方をし、現代的な信じ方をするのは当然です。そもそも、わたしたちにはそれ以外にどうすることもできません。

だからこそ、古代と現代をつなぐ橋渡しが必要です。教会と説教の役割は、古代と現代の橋渡しです。橋渡しの必要がないのであれば、聖書を朗読するだけで事が足ります。しかし、それだけでは済まないので、教会と説教が必要です。

パウロとわたしたちの共通する要素はもちろんあります。全くないなら、わたしたちが聖書を読む意味がありません。共通点は、パウロもわたしたちも同じ生身の人間であることです。パウロもわたしたちと同じように、空気を吸い、食べ物を食べました。うれしいことがあれば笑い、悲しいことがあれば涙を流しました。孤独なときは寂しいと感じました。

人間としての本質、そして感性や肌感覚において、パウロとわたしたちは完全に共通しています。だからこそわたしたちはパウロの手紙を、たとえ全部ではなく部分的であっても理解できるのです。それで十分だと私は思います。

今日の箇所の最初に出てくるのは、「ユダヤ人の優れた点は何か」(1節)という問題です。「優れた点」とは「長所」のことです。「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(2節)と続いています。そしてその「あらゆる面からいろいろ」の最初に挙げられているのが「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」という点です。

「まず」の意味は「第一に」です。ここで面白いのは、パウロがユダヤ人の長所について実際に挙げているのはひとつだけだということです。第一はあっても第二も第三以下もありません。おそらくパウロは、ユダヤ人の長所を箇条書きしようとしたのです。しかし、第一に挙げたことを深く考え、詳しく述べているうちに箇条書きするのを忘れたか、意図的に放棄したのです。

なぜパウロは箇条書きをやめたのか、その理由は何かという問題を深く追及するつもりはありません。ひとつだけ言いたいのは、パウロはこの手紙を、生きた会話として書いたのであって、学術論文を書いたのではないということです。思いつきでべらべらしゃべっているとまで言うのは言いすぎですが、あらかじめ整えた原稿を読んだわけではなかった様子が分かります。

しかし、今の点はあまり重要ではありません。はるかに重要なことは、パウロが「ユダヤ人の長所」を「神の言葉をゆだねられたこと」だと言っていることです。これは逆の順序で考えることができます。「神の言葉をゆだねられた人」が「ユダヤ人」です。そう考えることができるとしたら、そのとき初めて、ここに書かれていることと今のわたしたちとの関係ができます。

わたしたちは「教会」です。「教会」は「神の言葉をゆだねられた」存在です。つまり教会は、パウロが書いている意味の「ユダヤ人」です。パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は、そのままわたしたち教会の長所です。長所があれば必ず短所もあります。パウロが「ユダヤ人」について書いているとおりのことが、わたしたち教会に当てはまります。

今申し上げたことは、この続きに書かれていることを読むときにも当てはまります。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」(3節)。

この「彼らの中に」を、わたしたちが「教会の中に」と読み替えて考えることが可能です。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われると、わたしたちはドキッとします。そういうことがないとは言えません。

しかし、そのとき重要なことは、「それはあの人のことだ」と自分以外の人を真っ先に思い浮かべるのをやめましょうということです。それは先週申し上げたことです。なぜ自分のことを真っ先に考えないのでしょうか。なぜ自分自身に当てはめないのでしょうか。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われたときドキッとするほうがはるかに正解です。

しかし、そういう人が教会の中にいるとしても、だからといって、教会は信用できないとか、あんな信用できない人たちが信じている神は信用できないとか言い出すのはおかしな話であると、パウロが言おうとしていると考えることが可能です。

実際にはそういうことをよく言われます。高校で教えていたときも、よく言われました。よく勉強ができる生徒が世界史を学んで、キリスト教は歴史の中で戦争や差別を引き起こしてきた諸悪の根源だというようなことを言いました。歴史そのものは否定できません。しかし、だからといって、教会は信用できない、神は信用できないとまで言うのは、飛躍しすぎです。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)と書かれています。「真実」の意味は約束を守ることにおいて首尾一貫しているということです。神はご自分が立てた約束を絶対に裏切ることができません。それが「真実」の意味です。

しかし、だからといって「牧師もうそをつきます」だの「牧師も約束を破ります」だのと牧師である者たち自身が、声を大にして言うのは不適切です。開き直っているようです。そのこと自体で信頼を失うこともあります。

ここでパウロは、話を一歩先に進めます。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。

特に重要な言葉は「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」です。仮定の話ではなく事実です。しかし強いて言えば、教会に通っているわたしたちにはよく分かる話ですが、そうでない方々には何を言っているかが分からない、難しい話かもしれません。

それはどういうことかといえば、牧師が信用できないとか、教会が信用できないというような嫌な経験をしたことがある人には分かる話だ、ということです。そういう経験をしたのに、それでも教会生活を続けてきた人には。もう少し一般的な言い方をすれば、家族や友人など最も近い関係の人に完全に裏切られたことがある人にもきっと分かります。それでも生きてきた人には。

あなたはなぜ、今でも教会生活を続けることができているのでしょうか。信用できない教会、信用できない牧師から逃げ出すことができて、信用できる教会、信用できる牧師のもとに移ることができたからでしょうか。

あなたはなぜ、今でも生きることができているのでしょうか。あなたを裏切った家族や友人のもとから離れることができて、絶対に裏切らない人たちのもとに保護されたからでしょうか。

そのような教会があったでしょうか、そのような人がいたでしょうか。もしあったなら、いたなら幸せなことです。しかし、本当にそうでしょうか。理由は違うのではないでしょうか。

信用する対象が変わったからではないでしょうか。言い方は極端かもしれませんが、人間を信じるのをやめた。人間ではなく神を信じるようになったからではないでしょうか。

ひどい経験はしないほうがいいに決まっています。しかし、すべての人に裏切られ、教会にまで裏切られたときにこそ「神」を信じることへと初めて次元が移行することが実際にあります。神の存在が現実味を帯び、真剣なものになる。それは、人間に裏切られたときにこそ起こることである、ということは実際にあります。

だから教会は信用できない団体であり続けてよいし、牧師はうそばかりついてよいという話ではありません。そういうばかげた言い方は「『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(8節)というパウロの指摘に通じます。教会と牧師が積極的に悪さを働けば働くほど神が正しいお方であることの証明になるので、どんどん悪いことをしましょう、などというのは、全く恐るべき冒涜です。

しかし、「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」は、わたしたちの体験的な事実です。それは人を煙に巻く神学議論ではなく、ふざけた話でもありません。そういうきっかけでもなければ人が真剣に神を信じようとすることはないという事実そのものは、何とも言えない気持ちにさせられることではあるのですが。

最後に書かれているのは、箇条書きしようとしてひとつしか書かなかった「ユダヤ人の長所」の裏面です。「神の言葉をゆだねられたユダヤ人」がなぜ罪人なのかという問いの答えです。

「すべて律法の言うところは律法の下にいる人々に向けられている」(19節)からです。聖書の教えを、他人ではなく、自分自身に当てはめましょう。それができるとき初めて分かるのは、自分の存在が神の御心からいかに遠く離れた罪人であるかという事実です。「神の言葉をゆだねられた人」(わたしたち教会!)の長所が、そのまま短所です。

聖書を読んで「自分は罪人だ罪人だ」と自分を責めるだけの出口のない堂々巡りの中に閉じこもってしまうのは、きわめて危険です。小さな針穴でいいので風穴を開けましょう。そこが出口になります。

しかし、聖書に照らし合わせると自分は罪人であるということをはっきり自覚できることが聖書を読むことの恵みです。自分の弱さや欠けを自覚できるのは、まだ「伸びしろ」が残っていると知ることに通じますので、前向きな生き方です。

事実を直視するために、わたしたちは聖書を読みます。聖書は眼鏡です(カルヴァン)。

(2018年4月29日)

2018年4月27日金曜日

2017年度説教報告

各位

私が「日本キリスト教団無任所教師」だった2017年度の説教報告を行う場所がありませんので、ネットの皆様に謹んで報告いたします。42回でした(キリスト教講演1回を含む)。小さなしもべに奉仕の場を与えてくださいました諸教会ならびに諸学校の皆様に感謝いたします。

【2017年】

4月2日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)主日礼拝

4月9日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

4月16日(日)
日本キリスト教団下関教会(山口県下関市)イースター礼拝

4月23日(日)
日本キリスト教団千葉本町教会(千葉市中央区)主日礼拝

4月30日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

5月14日(日)
日本キリスト教団青戸教会(東京都葛飾区)主日礼拝

5月21日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

5月28日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月4日(日)
日本キリスト教団下関教会(山口県下関市)ペンテコステ礼拝

6月11日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月18日(日)
日本キリスト教団青戸教会(東京都葛飾区)主日礼拝

6月25日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月27日(火)
東京女子大学(東京都杉並区)日々の礼拝

7月16日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)主日礼拝

7月23日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

7月30日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月6日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月12日(土)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

8月13日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月20日(日)
日本キリスト教団阿佐谷東教会(東京都杉並区)主日礼拝

8月27日(日)
日本キリスト教団蒲田教会(東京都大田区)主日礼拝

9月3日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

9月10日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

9月17日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

10月1日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

10月11日(水)
国際基督教大学高等学校(東京都小金井市)キリスト教講演会

10月15日(日)
日本聖書神学校礼拝堂(東京都新宿区)ブライダル1回

10月16日(月)
関西学院大学理工学部(兵庫県三田市)チャペルトーク

10月22日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

10月29日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

11月10日(金)
代々幡斎場(東京都渋谷区)某氏前夜式

11月11日(土)
代々幡斎場(東京都渋谷区)某氏葬式

11月12日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

12月10日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

12月24日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)クリスマス礼拝

【2018年】

1月28日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

2月18日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

3月18日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

2018年4月22日日曜日

聖書を読む

ローマの信徒への手紙2章17~29節

関口 康

「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の箇所は、ローマの信徒への手紙2章17節から29節までです。この手紙の「本文」が始まる1章18節以下から話し始めて3回目になります。この手紙のパウロの書き方が螺旋階段になっていますので、私の説教の内容も「またその話か」と思うほど同じことを繰り返しつつ、少しずつ前進しているような感じになっていると思います。とにかく前進していますので、我慢していただきつつ、お聞きいただけますと幸いです。

今日の箇所の内容に入る前に、この箇所の読み方について私が思うところの注意点を一点だけ申し上げます。それは、パウロがこの箇所を、まるでパウロ自身には全く当てはまらないことであるかのように自分を棚に上げたうえで、自分以外の他の人々に対する批判や皮肉や当てこすりを書いているのではないということです。もしほんの少しでもパウロがそのような意図で書いているとすれば、この箇所でパウロが厳しく批判している相手と彼自身が同じことをしていることになります。しかし、パウロの意図はそういうのとは違います。

「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(17~20節)と記されています。

ここでパウロは、自分を棚に上げて、自分以外の「ユダヤ人と名乗る」人々のことを批判しているのではありません。パウロが言おうとしているのは、今日の箇所の最後のほうに出てくる「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそユダヤ人である」(28~29節)という話につながります。民族や国籍の話をしているのではありません。その意味での「ユダヤ人」が「ユダヤ人を名乗る」こと自体には問題ありません。しかし、この問題は後回しにします。

「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」と書かれているのも、批判でも皮肉でもなく、すべて良い意味です。「律法」は今の「聖書」です。パウロが「律法」と書いている箇所のすべてを「聖書」と読み替えることが可能です。

「また、律法の中に」以下に書かれていることも同様です。「自負しています」(20節)にも「彼らはこういう偉そうなことを言っています」という意味はありません。パウロが挙げているすべてのことは「ユダヤ人の長所」です。それが悪いと言われなければならない点は、ひとつもありません。

私が繰り返し強調させていただいているのは、この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と呼んでいるのは、民族や国籍の話ではないということです。もちろん歴史的な意味での「当時のユダヤ教徒」を指していると言えないわけではありません。しかし、そう言ってしまいますと、わたしたちとは関係がない話になります。ですから私は、パウロが言う意味での「ユダヤ人」は、幼いころから聖書に親しんできた人のことだと申しています。私がそのようにこじつけているのではなく、パウロ自身がその意味で言っています。

私が申し上げたいのは、パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」が、わたしたちにとっての「何」に当てはまるかをよく考えながらこの箇所を読む必要があるということです。まだ抽象的すぎるかもしれませんので、もう少し具体的な話をします。

本日礼拝後、私にとってはこの教会で初めての教会総会が行われます。私はこの教会のことを何も存じませんので、皆さんのお話を聴かせていただく立場にあります。しかし、それだけでは無責任だと思い、過去の教会総会の議事録をかなり前のものから順に読ませていただきました。

時期や状況は皆さんのほうがよく覚えておられることでしょうから、そこはぼかしておきます。しかし居住まいを正されたところがあります。それは自由討論の記録でした。どなたのご発言であるかは記されていませんでしたが、「牧師の働きの80パーセントは説教である」というご発言がありました。とても重いお言葉として受けとめました。

なぜ今このような話をしているのかと言えば、今日の箇所でパウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は今のわたしたちの「何」を意味するかを具体的に例示する必要があると思うからです。それはたとえば「牧師にとっての説教」です。「キリスト者にとっての教会生活」です。それは祈りであり、賛美です。聖書に忠実に従って生きる堅実な生活であり、献身的な社会奉仕です。

説教や教会生活そのものについて、それを営むこと自体が悪いと言われてもわたしたちは困るだけです。しかし、パウロが言っているのが「ユダヤ人の長所」そのものが「ユダヤ人の短所」であるということだと私は指摘せざるをえません。「ユダヤ人」としての「営み」自体をやめるべきだと言っているのではありません。ここは理解が難しいところです。

「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と教えながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」(21~23節)と記されているのがそれです。

ここでパウロが極端なことを書いていると考えることは許されるでしょう。「教える」とか「説く」と言われているのは、説教者である私にとっては他人事ではありえません。しかし説教者全員が窃盗を働き、姦淫を犯し、教会の施設を破壊していると言われるのは、いくらなんでも言い過ぎです。

おそらくパウロ自身も、ここは極端なことを書いているという自覚を持っていただろうと私は信じます。しかし、パウロが言おうとしているのは、各論ではなく総論です。「あなたは他人に教えながら自分には教えないのか」という点です。自分の目の中の丸太を取り除くことをしないで、他人の目の中のおが屑を取り除こうとすることです。

そしてこれは決して、狭い意味での説教者だけに限定される問題にしてはならないことです。「聖書を読むこと」が「聖書を教えること」の大前提です。聖書を読むことはすべてのキリスト者が取り組んでいることであり、例外はありません。その意味でいえば、パウロの指摘は自分には全く無関係であると言える人は、教会にはひとりもいません。

今日の箇所でパウロが問題にしていることも、「聖書の教え方」の問題というよりは「聖書の読み方」の問題であるといえます。少なくとも事柄の順序は「教えること」よりも「読むこと」のほうが常に先です。逆の順序はありえません。

しかし、パウロがここで問うている「聖書の読み方」は、聖書に書かれていることについてのたとえば「歴史的・文献学的な知識の」正しさを問うているのではありません。パウロが問うているのは「あなたが教えているその聖書の御言葉を、他のだれよりも先に自分自身に当てはめていますか。そのうえで教えていますか」ということに尽きます。

そしてその場合の「自分自身への当てはめ」を考える際に、先ほど「後回しにする」とお約束した「外見上のユダヤ人」と「内面のユダヤ人」の区別の問題が関係します。聖書の御言葉を当てはめるべきは、わたしたちの「外見」ではなく「内面」であるということです。聖書の御言葉に外見的・形式的に従うだけなら、悪い意味の律法主義者と同じです。私たちの内面に、わたしたちの心の奥底に、聖書の御言葉をしっかり当てはめることが求められています。

そのことをしっかり行ったうえで教えられると、どのような教え方になるかを最後に申し上げます。聖書の言葉を自分に当てはめずに自分以外の人に当てはめて裁きの説教をすれば、もしかしたら説教者自身はスカッと爽やかな気分になれるかもしれません。「言ってやった」と。その説教者の個人的な支援者も同じかもしれません。「よくぞ言ってくださった」と。あるいは聖書に出てくる「悪役」を「これはあの人のことだ」と自分以外の人に当てはめるのも同じです。

しかし、真っ先に自分に当てはめたうえで聖書を教える人の言葉は、自分の心が痛くて辛くてたまらない状態で「この痛みをあの人にもこの人にも味わわせなければならないのか」と躊躇や葛藤を覚えながらのなんとなく歯切れの悪い説教になるかもしれません。それはもしかしたら、曖昧で優柔不断な説教です。肯定的に言い換えれば、説教者自身がクッションもしくは防波堤になっていて、人当たりの柔らかい説教です。

重要なことは、その聖書の言葉で説教者自身がどれほど傷ついているかです。人を慰める言葉になっているか、人を傷つけるだけの言葉になっているかです。家族に対しても、友人に対しても、わたしたちがふだん「キリスト者として」何を語っているかをよく吟味すべきです。

(2018年4月22日)

2018年4月15日日曜日

神を知る

ローマの信徒への手紙2章1~16節

関口 康

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」

先週申し上げたとおり、今年度1年間、私が説教を担当する礼拝ではローマの信徒への手紙を続けて読みます。ちょうど1年で終わるように、聖書箇所の割り振りと説教題と、その日に歌う讃美歌まで、もう決めました。それは私のメモとして自分で持っておきます。

しかしそれは、ローマの信徒への手紙そのものを歴史的・文献学的に研究した成果を披露するというようなことではありません。私の意図は、この手紙の構造に基づいて、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の中身を分かりやすく解説することにあります。

それはある意味で、皆さんに対する私自身の自己紹介であると考えています。この牧師はどういう筋道でキリスト教信仰をとらえているのか、どういう立場に立っているかをお話しすることが、最も意味のある私の自己紹介になるだろうと期待しています。

それこそが、パウロがローマの信徒への手紙を書いた意図でした。なぜパウロはこの手紙をまだ行ったことがない、これからあなたがたに会いたいと願っているローマのキリスト者たちに宛てて書いたのでしょうか。それは自己紹介をするためでした。

「私はこういう信仰を持っています。こういう福音理解を持っています。この福音をあなたがたと一緒に宣べ伝えたいのです」と言おうとしています。私はパウロではありませんが、パウロの弟子ではあります。パウロ先生のやり方を真似することは許されているでしょう。

それで、今日は2章に入ります。先週お話ししたのは1章18節から32節までの箇所でした。それはローマの信徒への手紙の本文の最初といえる箇所ですが、そこにパウロがいきなり人間は「罪人だ、罪人だ」とまるで機関銃のように書き連ねていることに多くの人が驚き、また多くの人がつまずきを覚える、そういう箇所でした。

しかし私は申し上げました。パウロは決して、天地創造の初めから神が人間を「罪人として」創造されたという信仰を持っていたわけではありません。初めに神は人間を「極めて良い」存在として創造なさったことが創世記1章31節に書かれています。それをパウロが知らないわけがありません。

だからこそパウロは先週の箇所に、罪を「堕落」として描いています。「変わった、堕ちた、逆らった」状態が「罪」であるということは「本来、人間は罪人ではなかった」という大前提なしには、決して成立しえない話です。

わたしたちがよく知っている、多くの人に愛されているイエス・キリストの説教のひとつに、ルカによる福音書15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」があります。このたとえ話が記されているルカによる福音書の直前の箇所に、99匹の羊を残してでも1匹の迷子の羊を探しに行く羊飼いのたとえがあります。さらに、見失った銀貨を捜して見つけて喜ぶ人のたとえもあります。

語られていることの趣旨はどれもみな同じです。たとえられているのは、人間が「罪人」であるとは何を意味するのかです。それは本来「極めて良きもの」に創造されたにもかかわらず、そこから「変わり、堕ち、逆らう」存在になりました。それが「罪」です。

もしそうだとしたら「罪から救われる」とは何を意味するかということも、おのずから分かることです。放蕩息子が父の家に帰ることです。迷子の羊が飼い主に抱かれることです。見失った銀貨が持ち主のもとに戻ることです。本来の場所に戻り、本来の姿へと回復されることです。

ですから、私はそれを「救われるとは人間が人間になることを意味する」と申しました。本来の姿へ回復すること以上のことは起こりません。何がどうなろうと、わたしたちは「人間以上の存在」になりません。人間は「神」にも「天使」にもなりません。そうなる必要がありません。

ここまでが先週のおさらいです。今日は2章を開いていただいています。今日の箇所にはいろんなことが書かれていますが、主旨ははっきりしています。ユダヤ人もギリシア人も神の前では同じ人間であるということです。そしてその場合の「ユダヤ人」と「ギリシア人」の意味は、今のわたしたちの常識とは全くかけ離れたものです。

パウロにとって全世界は「ユダヤ人」と「ギリシア人」の二種類だけで構成されていました。両者の違いは「律法を持っているかどうか」です。当時の「律法」は今の「聖書」です。聖書を物心つくころから知っているのがパウロの言う「ユダヤ人」であり、そうではないすべての人が「ギリシア人」です。民族の違いや国の違いを話しているのではありません。

ここで、先週宿題にした点に触れます。それならば、なぜパウロはローマの信徒への手紙を「人類の罪」から書き始めたのかという問題です。それを一言でいえば、この手紙は、主として今申し上げている意味の「ギリシア人」すなわち「異邦人」に宛てて書かれたものだからです。

「異邦人」(「ギリシア人」)は「ユダヤ人」とは違って、天地創造の初めから罪人として創造されたという意味ではありません。異邦人も「極めて良き存在」として創造されました。しかし異邦人はユダヤ人ほど「本来の状態」を自覚しにくい面があります。異邦人は、罪からの救いを「回復モチーフ」でとらえるのが難しい。自分を「放蕩息子」としてとらえるのが難しい。

たとえば、伝道集会の説教や証しの中でよく聞く話があります。「私はもともと信者の家庭で生まれ育ちました。途中、反抗して教会から出て行きましたが、また戻ってきました」という話を聞いてピンと来る人と来ない人がいます。ピンと来るのは、パウロの言う意味の「ユダヤ人」です。ピンと来ない人は「ギリシア人」(「異邦人」)です。

あるいは、ヨーロッパのような十数世紀も前からのキリスト教国や、そこから派生してできたアメリカで「リバイバル」(信仰復興)を訴えることでピンと来る人は、きっといるでしょう。しかし、日本で「リバイバル」と言われてもお困りになる人が多いでしょう。

そのことと、この手紙が「異邦人に宛てられたゆえに人類の罪から書き始められたこと」が関係していると思われます。断言はできません。十分な答えでないことをお許しください。

しかし、その「ギリシア人」も「ユダヤ人」も神の前では全く同じ人間であると、パウロは主張しています。どちらが「上」であり、どちらが「下」であるということはありません。神は両者を差別なさいません。「神は人を分け隔てなさいません」(11節)と書かれているとおりです。

「ユダヤ人」のほうはどれほど罪を犯しても、神がその人々を特別扱いして見逃してくださるが、「ギリシア人」(「異邦人」)のほうはそうではなく、神の厳しい裁きにあうということはありません。同じ罪を犯せば、どちらも同じ扱いです。そのような依怙贔屓を神はなさいません。

しかし問題はその先です。パウロの言う意味の「ユダヤ人」は傲慢になりやすいとパウロは考えています。

物心つくころから聖書を知り、「神の教え」を知っている。その者たちがまるで自分が神になったかのように、神の戒めは自分には当てはまらないかのように、自分の罪を棚に上げて、自分自身を神の立場に置いて、神の視点から人を裁きはじめるのです。教会の窓から外を見ながら「あの人々を悔い改めに導いてあげなければならない」などと言いはじめるのです。

パウロ自身は「ユダヤ人」ですから、それが自分自身の姿でもあることを強く自覚しています。しかしそのうえでパウロはそのような態度がいかに傲慢であり、根本的に間違っているかを強く訴えています。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(1節)と記されているのは、まさにその意味です。

この「あなた」がパウロの言う意味の「ユダヤ人」です。物心つくころから聖書を知り、神の教えを知っている人々。その人々が「神の教え」をひたすら自分に当てはめ、自分自身の反省と悔い改めの機会にし、常に謙遜に生きようとするのであれば、問題はないかもしれません。

しかし、自分に当てはめることを忘れ、あるいは意図的に拒絶し、「神の教え」を傘に着て、自分以外のだれかを裁く。そういうことをする「あなた」自身も、そのこと自体で神の前で重大な罪を犯していることを自覚せよと、パウロは厳しく警告しています。

しかし、続きに書かれていることを見てください。「神はこのようなことを行うものを正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをするものを裁きながら、自分も同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」(2節)。

ここで分からないのは「このようなこと」の意味です。文脈を考えれば、神の教えを傘に着て他人を断罪することを指しています。そういうことをするのは、たいてい牧師です。教会の説教者です。「このようなこと」をすること自体が罪であるとするパウロの言葉は、教会の信徒の方々から歓迎されるかもしれません。「牧師こそが神の裁きにあう」「そうだそうだ」と。

しかし、それはそれで、人を裁く罪として全く同じことをしていることになるとパウロは言っています。「喧嘩両成敗」を言いたいわけではありませんが、「お互いさま」の面があるかもしれません。

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(3節)と記されています。この意味は、人が自分の罪を認めて悔い改めるのは、神の憐れみによる、ということです。

これこそ、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の真髄です。教会が「世の人」を断罪しても、そのこと自体で人が悔い改めるわけではありません。心が頑なになるだけです。叱られれば萎縮します。見下げられれば恨みを抱きます。教会の場合は「二度と行かない」と決意する人々を生み出します。

「神の憐れみ」のみが、人を造りかえます。「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐」が、人を罪から救います。人間は神ではありません。神になれませんし、なる必要がありません。神になろうとすること自体が罪です。わたしたちは、人間とは全く別の「神」がおられることをよく知る必要があります。

(2018年4月15日)

2018年4月8日日曜日

人間を知る

ローマの信徒への手紙1章18~25節

関口 康

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」

今日からこの教会の副牧師として、毎月第1日曜以外の説教を担当させていただきます。よろしくお願いいたします。

1年間の説教計画を私なりに立てました。いろいろ考えた結果、1年かけてローマの信徒への手紙を最初から最後まで取り上げることにしました。しかし、ローマの信徒への手紙を学ぶというよりも、ローマの信徒への手紙の構造に従って、我々が共有すべきキリスト教信仰の内容を分かりやすく解説させていただこうと考えました。

難しいことをお勉強しましょうと言いたいのではありません。「ローマの信徒への手紙は難しい」とよく言われます。何を言っているのかさっぱり分からないと。いろんな解釈があってどれが正しいかが分からないと。そうであることは私も分かります。

キリスト教の教理のお勉強をしましょうと言いたいのでもありません。「キリスト教の教理は難しい」とよく言われます。それも分かります。

私はいろんな話し方をします。教会が違えば違う話し方をしますし、同じ教会でも場面や状況が違えば違う話し方をします。学校での話し方も教会とは違います。当然と言えば当然です。とにかく心がけたいのは「分かりやすい話をしたい」ということです。

先ほど朗読していただきました箇所は、1章冒頭の挨拶文が終わり、前回取り上げた「私は福音を恥としない」と書かれた直後の部分です。そこにパウロが書いているのは、新共同訳聖書の小見出しどおり「人類の罪」についてです。人間とはいかに罪深い存在であるか、ということです。

しかし、ここでさっそく誤解が生じます。パウロという人は、人間をはなから「罪人だ、罪人だ」と決めつける人だと。何はさておいても、ひとつの手紙の初めから「人間は罪深い、人間は罪深い」と書く人ですから。まるで機関銃のように、徹底的に人間に弾を打ち込み、痛めつけ、人間を抹殺する人だと。

パウロが普遍的な人間愛に満ち満ちた人だったかどうかは分かりません。もしかしたら、いくらか人間嫌いだったところがあるかもしれません。しかし、人間嫌いであるということは自分嫌いであるということでもあります。自分自身も人間ですから。

もちろん、自分以外のすべての人間が嫌いだという人がいないとは限りません。しかし、そういう人に私からお願いしたいのは「ぜひあなた自身も人間の中に加えてください」ということです。そうすれば人間を完全に否定することは難しくなるでしょう。もっと自分を愛しましょう。自分を愛するように、もっと人間を愛しましょう。

しかし、今申し上げているのは、パウロにお願いしたいことではありません。それは誤解だからです。ローマの信徒への手紙の本文を、パウロが「人類の罪」について書くことから始めたことには、パウロなりの理由がありました。そのことには今日は触れません。

私が今日申し上げたいのは、だからといってパウロは「人間は天地創造の初めから罪人として創造された」と考えているわけではないということです。そのような考えはパウロにはないし、聖書全体にもありません。

もしそういう考えが正しいのであれば、人間が犯す罪の責任は、人間自身には全くありません。「もし神が天地創造の初めから全人類を罪人として創造されたのであれば」、人類の罪の責任も、世界の悪の責任も、百パーセント神御自身にあります。そうとしか言いようがありません。

しかし、聖書全体の教えも、パウロの信仰も、そのようなものではありえません。ここでわたしたちが思い起こさなければならないのは創世記1章31節の言葉です。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とはっきり記されています。

この「お造りになったすべてのもの」に「人間」が含まれています。神は「人間」を「極めて良い」存在として創造されました。神が人間を初めから極めて悪い、極めて罪深い存在として創造されたわけではないということを創世記1章が強く主張しています。

ですから本当はパウロも、ローマの信徒への手紙の本文を「人類の罪」から書き始めるのでなく「極めて良い存在としての人類」という点から書き始めれば良かったのです。そのほうが誤解されなくて済んだでしょう。

「パウロが嫌い」とおっしゃる方がいます。何はさておき「人間は罪深い、罪深い」と言う。そう言ったうえで「その罪深いわたしたちを神がイエス・キリストにおいて罪から救い出してくださった」と言う。相手を「下げて上げる」。そういうパウロのやり方が嫌いだ。

疑問の感じ方はそれぞれ違うかもしれませんが、「パウロが嫌い」とおっしゃる方の話を聞くと、だいたい今申し上げたようなところに原因があるように私には思えます。

しかし、違うのです。神は人間を初めから罪人として創造なさったのではありません。初めに神は人間を「極めて良い」存在としてお造りになったのです。それが聖書全体の教えでありパウロの信仰です。「そんなことはもう分かっている」と思われる方は、ぜひもう一度自分の信仰を見直すきっかけにしていただきたいですし、驚きをお感じになる方は心にとめていただきたいです。

人間だけでなく「天地万物」も同じです。

私は子どもの頃から海が好きでした。私が生まれ育ったのは岡山県岡山市南端の岡山港のすぐ近くです。岡山県は瀬戸内海に面していますが、岡山市は瀬戸内海の一部の児島湾に面しています。

岡山港に面する海は、波もなければ風もない、見てもつまらない何も起こらない海です。しかし私は、そういう海を見に、学校帰りに自転車で毎日のように行き、日が沈むまでじっと佇んでいたような少年でした。

しかしそんな私が、海が怖くなりました。7年前(2011年)の東日本大震災以来です。しばらくは海に近づくことも見ることもできない状態でした。

しかし神は、空も海も陸も、山も川も動物も、初めから「恐ろしい」存在として創造されたのではありません。「極めて良い」存在として創造されました。今申し上げていることで、聖書についての正しい知識を問題にしているのではありません。私が申し上げたいのは、わたしたちが人間と世界を見るときの根本的な姿勢の問題です。

「人を見たら泥棒と思え」という諺があります。その意味は「他人は信用できないものなので、人は軽々しく信用しないで疑ってかかれ」ということです。リアルで説得力がある教えです。

しかし、聖書の教えもパウロの信仰も要するにそういうことなのかというと、全くそうではありません。「神は泥棒を御覧になった。見よ、すべては極めて悪かった」と創世記1章31節に書かれていません。

言い換えれば「罪は第一のものではなく、第二のものである」ということです。話が急に難しくなったかもしれません。

今申し上げたのは有名な神学者の言葉です。典拠を明示しておきます。戦後の日本の国際基督教大学で教えたことでも知られる神学者エーミル・ブルンナーの言葉です。

「罪は第一のものではなく、第二のものである」(教文館『ブルンナー著作集』第3巻、108頁)。ブルンナーがそのように書いていることの意味は、第一のものは「神の創造」であり、第二のものである「罪」は「創造への反逆」であるということです。

「極めて良かったものが悪くなった」状態が「罪」であり、「罪」は「堕落の結果」です。「堕落」とは良い状態から堕ちた状態です。今日の箇所に描かれている「変わった、堕ちた、逆らった」人間の状態は「堕落」もしくは「倒錯」としての「罪」です。

なぜ私はこのようなことを強調しているのかといえば、このことを受け入れることこそがキリスト教信仰にとって重要であると私が信じているからです。最も関係してくるのは、神がイエス・キリストにおいてわたしたちを罪から救い出してくださった、その「救い」とは何かという問題です。

その答えは単純です。人間は本来ないし元来、良い存在でした。しかし、その良い存在としての人間が、堕ちて悪くなりました。それが「罪」です。

もしそうであれば、「救い」とは人間の本来の「良い状態」へと戻されることです。人間の本来性の回復が「救い」です。

それは「人間が真に人間らしくなること」です。それ以上にはなりません。救われた人は「人間以上の存在」になりません。たとえイエス・キリストの十字架の力によっても、熱心な祈りによっても、わたしたちが「本来の人間性」へと回復されること以上に高められることはありません。

だから教会は絶対に傲慢になることはできません。教会の窓から外を見て「我々はあの人々よりも高い位置にある」などと考えることは絶対にできません。「分からず屋のあの人たちに、わたしたちが伝道してあげる」などと。わたしたちは「人間以上」になることはできませんし、なる必要がありません。

私はよく「人間的な牧師である」と言われます。それは、ある人々にとってはもしかしたら悪い意味です。もしかしたら私は厳しく批判されているのかもしれません。しかし、私はうれしくて仕方がありません。「人間」だと認めてもらえたことへの感謝以外ありません。「救われる」とは「人間が人間になること」を意味するからです。

誤解がないように言いますが、今申し上げたことをそのままひっくり返して「救われていない人は人間ではない」とか「人間未満である」などと言いたいのではありません。それはとんでもない誤解です。それこそ傲慢の極みです。

パウロが「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任がある」(1章14節)と書いていることも、パウロが福音を告げ知らせたいと願っている相手に対して自分が「上」に立ち、相手を「下」に見ているという意味ではありません。

「未開の人にも知恵のない人にも福音を宣べ伝えてあげる責任がある」と言っているのではありません。そのような態度で伝道が進むわけがありません。「見下げられた」と腹を立てられるだけです。

教会と世界の関係は垂直の関係ではなく、水平の関係にあります。両者は同じ地平に立っています。

そのことをわたしたち自身がすっきり自覚できるようになるとき初めて、教会の伝道が力強く進んでいきます。福音が前進します。

(2018年4月8日)

2018年3月18日日曜日

私は福音を恥としない

ローマの信徒への手紙1章16~17節

関口 康

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

おはようございます。関口康です。この教会で3度目の説教をさせていただきます。「3度目の正直」と言います。賭け事や勝負事に関する諺です。1度や2度は当てにならないが、3度目があれば確実であるという意味です。「まぐれではない」ということでしょうか。

これからお話しすることはどうでしょうか。3度目のチャンスを皆さまから与えていただきました。今日もどうかよろしくお願いいたします。

聖書のどの箇所についてお話しするかは、2度目に説教をさせていただいたときに決めていました。3度目があるかどうかは分からなかったわけですが、神が道を開いてくださるならこの箇所にしようと決めていました。

「わたしは福音を恥としない」(16節)とパウロが書いています。しかし、この一文にも、原文では「なぜなら」(γαρ)と記されています。それが新共同訳聖書では訳されていません。原文通りに訳せば「なぜなら私は福音を恥としないからである」となります。

この訳されていない「なぜなら」の意味はすぐにお分かりになるでしょう。前の文章の内容を受けているということです。どこからの内容を受けているかといえば、14節と15節です。

なぜこのようなことを申し上げるかといえば、今日の箇所に書かれていることの意味を正確に把握したいと思うからです。「わたしは福音を恥としない」を言い換えれば「私にとって福音は恥ではない」ということでしょう。

しかし、疑問を感じる方がおられませんでしょうか。なぜパウロはこのようなことをわざわざ言わなくてはならないのかと。福音というのは恥ずかしいものなのかと。

ここに記されている意味の「福音」は、いわば聖書の教え全体を指しています。もちろん「福音」は狭い意味では救い主イエス・キリストに関する教えです。しかしイエス・キリストの教えは旧約聖書の教えとの関係の中で成立するものですので、旧約聖書を含む聖書全体の教えが「福音」です。

そして「福音」と「説教(宣教)」は区別しなければなりません。ですから、ここでパウロが書いていないのは「私は説教(宣教)を恥としない」または「私にとって説教(宣教)は恥ではない」ということです。

しかし、そういう話ならば理解できるという方がおられるかもしれません。「説教(宣教)」はいわば教会の教師である者の仕事です。説教者にとっての自分の職業です。「私は自分の仕事を恥としない」ということであれば、そのまま裏返せば「自分の仕事に誇りを持っている」という意味になります。

「そういう話であればよく分かる。自分の職業にプライドを持って生きるのは当然のことである」というふうに受け入れることができる、分かりやすい話になるかもしれません。

しかし、パウロがここに書いているのはそういう話ではありません。「わたしは福音を恥としない」というのはそういう意味ではありません。それならば、これはどういう話なのでしょうか。

そのことを正確に把握するために、先ほど申し上げたことが関係してきます。新共同訳聖書では訳されていない「なぜなら」の存在です。それが直前の14節と15節の内容を受けていると申し上げたことです。

それは具体的に言えば「ギリシア人」にも「未開の人」にも「知恵のある人」にも「知恵のない人」にもパウロには「果たすべき責任」があると述べていることです。さらに「ローマにいるあなたがた」にも「ぜひ福音を告げ知らせたい」とパウロは願っています。

これで分かることは、パウロが人間をいくつかの区分に分けているということです。現代社会の中でこういう言い方をするとすぐに大きな問題になりますので、よくよく気を付けなければなりません。しかし、とにかくパウロが挙げているのは「ギリシア人」と「未開人」と「知恵のある人」と「知恵のない人」、そして「ローマにいるあなたがた」です。ここで「知恵」とは「教養」のことです。

ただし、最後の「ローマにいるあなたがた」は他の区分に属する人々と区別しなくてはなりません。と言いますのは、「ローマにいるあなたがた」とパウロが書いているのは地域の話だからです。

いわば「東京都民」と言っているのと同じです。東京都民の中にいろんな人がいるわけです。私のように岡山県の出身者もいれば全国各地の出身者もいます。外国の方々もたくさんいます。東京に住んでいれば、みんな東京都民です。いわばそれだけのことです。

しかしパウロが「ギリシア人」と「未開人」と「教養人」とそうでない人を挙げているのは、地域の話ではありません。ここでわたしたちは普通の常識とは全く違うことを考えなくてはなりませんが、パウロが「ギリシア人」と言っているのは「ユダヤ人ではないすべての人々」です。それが西暦1世紀のパウロの人間観・世界観です。「ユダヤ人」と「ギリシア人」の2種類で全人類が構成されています。

そして、パウロにとって「ユダヤ人」とはユダヤ教徒のことです。つまり、ここで「ギリシア人」はユダヤ教徒ではない人すべてを指しています。そしてもちろん、それはあくまでも当時の話です。

当時の「ユダヤ人」の意味は、幼い頃から聖書に親しみ、その教えに基づく倫理観や生活感覚を身に着けていた。あるいは実際には聖書の教えからかけ離れた生活をしているとしても、知識として知っていた。それがパウロにとって「ユダヤ人」です。そして、それ以外のすべての人が「ギリシア人」です。そういう意味でパウロが書いているということを理解しないかぎり、ここでパウロが何を書いているのかがさっぱり分からないということになるでしょう。

その「ギリシア人」にパウロは福音を告げ知らせたいと願っています。つまり、その意味は、聖書の教えに接したり親しんだりした経験が全くなく、その教えに基づく生活などいまだかつて一度もしたことがないし、そんなことをしようと思ったこともないような人々にこそ福音を告げ知らせたいし、その責任があるとパウロは言っているのだ、ということです。

そしてパウロは、そのためにローマに行きたいと願いました。その人々の生活領域の只中へと突入することを願いました。この点はとても重要です。

聖書の教えをよく知り、忠実に実践している人々の中にもっぱらとどまり、その人々とだけ人生を共にし、他の人々とは一切付き合わないというような生き方のほうが、パウロにとっては楽な生き方だったはずです。

なぜなら、今申し上げた意味での「ギリシア人」にとって「福音」は、自分が実際に長年生きてきた生活領域においては未知のものであり、違和感しかなく、非常識で現実離れしていると認識する対象になりやすいからです。「間違っているとまでは言わないが、我々の常識とは違う」というような理由ではねのけられたりします。

しかし、そのような自分が実際の生活を営んでいる範囲の人々から「非常識」と言われてしまうようなことを、それでも続けていくのは、恐ろしくもあり、恥ずかしくもあるというのは、わたしたちにも理解できることでしょう。このあたりに「恥」の問題が浮上してくると私は考えます。

しかし、パウロは、だからこそ「なぜなら、私は福音を恥としないからである」と公に宣言します。「恥としない」というギリシア語の言葉は「告白する(公に宣言する)」という別のギリシア語の言葉の言い換えであると言われます。つまりパウロは、聖書の教えとしての「福音」を非常識とする人々を念頭に置いたうえで「私にとって福音は恥ではない」と宣言しています。

しかし、これこそが大事なことだと私が申し上げたいのは、パウロがそのことを、その人々の中へと入って言おうとする点です。その人々から距離を置き、遠くから言っているという態度とは違います。パウロはローマに到着した後も「福音を恥としない」点は変わりなかったはずです。

文明が進んでいる「ギリシア人」にも、そうでない「未開人」にも、「教養ある人」にも、はっきりいえば「教養がない人」にも、とパウロが書いている点にも、ある意味で同じことが当てはまります。知恵や知識、教育や教養については、生まれつきの要素や本人の努力の要素が全く関係ないということは考えにくいでしょう。しかし、だからといって社会や政治によって強いられる要素が全くないということは、昔も今もありえません。

パウロが「教養人」と書いているのは当時の支配階級のエリートのことです。そして、その支配階級から閉め出された人々が「教養のない人」です。つまり、この区別は当時の社会と政治が意図的に作り出したものです。「努力した人」と「努力しなかった人」の区別ではありません。

言っておきますが、パウロは「教養ある人」には伝道しないと言っているのではありません。また、「ギリシア人にも」と言っているときも、ユダヤ人のことは全く見向きもしないと言っているのではありません。

パウロは常に一方だけを選んで他方は必ず切り捨てるという思考も態度も採りません。常に往復運動(Back-and-forth movement)をし続けた人です。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」抱え込んで生きようとした人です。この点は重要です。

しかし、だからこそパウロは「ギリシア人」だけではなく「未開人」にも福音を告げ知らせたいし、その責任があると考えました。「教養人」だけでなく「教養のない人にも」と。しかも、その人々の中にパウロ自身が入っていきます。自分の体と心はしっかり文明人と教養人の中にとどめ、未開人や教養のない人を遠目で見て哀れんでいるというようなこととパウロの生き方は異なります。

しかも、パウロにとっての「未開人」は、今のわたしたちが現代の科学文明の進み具合が遅いという意味でとらえる存在とは違います。それは西暦1世紀と21世紀の混同です。パウロの関心は、言葉が通じるかどうかです。もっといえば聖書を理解できる力があるかどうかです。

一を聞いて十を知る人に聖書の話をするのは簡単です。そうでない人々にこそ福音を告げ知らせることのほうが大変です。言葉が通じない相手には言葉を教えることから始めるのです。その言葉を用いて聖書を教えるのです。そのために、その人々の中へと自ら入っていくのです。自分の教養をひけらかすためではありません。同じ次元に立ち、同じ次元で生き、その人々に「伝わる言葉」で福音を伝えるためです。

未開人や教養のない人の中へと自ら入っていくことの中に「恥」の要素が姿を現すかもしれません。なぜ私が行かなければならないのか、もっと若い人に行ってもらえばいいではないか、など。しかし、「福音」を告げ知らせるためなら、わたしはどんなことでもする。そう言い切ることができ、実践することができたのがパウロです。

わたしたちはどうか、教会はどうか、私自身はどうかと、繰り返し問い返すことが大切です。

(2018年3月18日 日本基督教団昭島教会 主日礼拝)

2018年2月18日日曜日

信仰の力

ローマの信徒への手紙1章8~15節

関口 康

「わたしはギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも果たすべき責任があります」

皆さま、おはようございます。日本キリスト教団教師の関口康です。1月28日に続き、再びお招きいただきましたことを感謝いたします。今日もどうかよろしくお願いいたします。

前回はマタイによる福音書20章1節以下の「ぶどう園の労働者のたとえ」についてお話しいたしました。天国とは、9時から働いた人々にも、12時から働いた人々にも、15時から働いた人々にも、17時から働いた人々にも、全く同じ賃金をもらえるところであるとイエス・キリストがおっしゃったことについてお話ししました。

このたとえ話はわたしたちが教会を考えるときの材料になります、と申し上げたつもりです。教会そのものは天国そのものではありません。しかし、教会は天国を目指す人々の集まりではあるはずでしょう。もしそうだとしたら、17時から来た人々にぶどう園の園主が9時から来た人々と同じ支払いをしたことに、9時から来た人々が腹を立てるようであってはならないはずです。

教会生活が長くて教会への貢献度が高い人々は、天国の中の特別ルームに迎え入れていただけるというような考えは、イエス・キリストの教えの中にはありません。どの人も全く同じです。最近教会に来はじめたばかりの人たちも、子どもたちも、教会生活が長い人々と同じように扱っていただけるのが天国です。もしそうだとしたら、天国を目指す人々の集まりとしての教会もそうでなければならないでしょう。

それで、このたび二度目のお招きをいただきましたとき、聖書のどの箇所についてお話しするかを考えました。内容が前回から完全に続いていなくてもよいだろうとは思いましたが、全くちぐはぐでないほうがよいとも考えました。それで今日の箇所を選ばせていただきました。使徒パウロのローマの信徒への手紙の冒頭の挨拶が終わった直後の、本文の書き出しの部分です。

使徒パウロは新約聖書に登場する、イエス・キリストの福音を宣べ伝える伝道者として最大の人物です。私はいま「伝道者」と言いました。教会で「伝道者」といえば狭い意味での教職者を指す場合が少なくありません。私も「伝道者」という言葉をその意味で用いることがよくあります。

しかし、これは気を付けなければならないといつも思っているのは、狭い意味での教職者だけを「伝道者」と呼んでしまいますと、教職者以外の人々は伝道しなくてもよいというような誤解を与えてしまうかもしれないということです。伝道は教会全体のわざです。すべての信徒が伝道者です。

しかしその一方で、「伝道」とは何かという問いに対する答えが必ずしも明確でないというのが、わたしたちの実際の状況ではないでしょうか。「伝道」とは「何をすること」でしょうか。そのことにわたしたちははっきり答えることができるでしょうか。

言葉の定義の問題を申し上げたいのではありません。教会の信徒すべてが「伝道者」であると言われた場合、わたしたちひとりひとりが「伝道」しなければならないと言われた場合、それは具体的に「何をすること」なのかをはっきり認識できているでしょうかと申し上げています。

そこがぼんやりしているようであれば、教会の存立危機事態に至っていると言わざるをえません。何のために教会が存在するのかを教会自身が認識できていない状態なのですから。しかし、それは何なのか、「伝道」とは何を意味するのかということについて、わたしたちが頭をひねって各自の考えを出し合うだけでは問題は解決しないことも事実です。

その答えを得るために、何よりもまず、聖書を開かなければなりません。聖書は「伝道」について何を教えているかについて、わたしたちは聖書から学ぶ必要があります。そういうことを考えた結論として今日の箇所を選ばせていただきました。

使徒パウロはローマに行きたがっています。「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(10節)とパウロ自身が書いています。

もっとも、ここで「何とかして」と訳されているギリシア語には「いろいろ努力や工夫をこらして」という意味はありません。そうではなく、幸運、ラッキーを待ち望む意味です。「何とかする」のはパウロではなく神です。「神の御心によって」と書かれているとおりです。人間の努力の可能性の話ではなく、神の奇跡の可能性の話です。

つまりパウロが書いているのは、客観的な可能性としては断念せざるをえない状況だが、もし神が奇跡を起こしてくださるならば行くことができるでしょうというような意味です。もしわたしたちがそのような状況の中に立たされたときに「それは大いに可能性があるぞ」ととらえるか、「ほとんど可能性がないぞ」ととらえるかで判断が全く異なるでしょう。そこで問われるのは信仰です。そこで求められるのは信仰の力です。

しかしそれはパウロに海外旅行の趣味があって、ローマの美しい景色を見たいという関心に基づく願いだったわけではありません。何のためにローマに行きたいのかといえば、それが「伝道」です。

しかし先ほども申し上げたとおり、私は言葉の定義の問題を申し上げたいのではありません。伝道を「宣教」を呼んでも構いませんし、他のどんな言葉でも構いません。しかし、もしパウロがローマに行きたがっている理由を「伝道」と呼ぶとすれば、その具体的な内容は何なのか、つまりパウロは「何をしに」ローマに行きたがっているかが今日の箇所に書かれていますので、それをお話しさせていただこうと願った次第です。

その「伝道」について、私の読み方では3つのことを、パウロが書いています。もっと細かく分析することが可能かもしれませんので、「大きく分けて」3つであると申し上げておきます。

パウロがローマに行きたいと願っている第一の理由は、「あなたがたに会うこと」によって「霊の賜物をいくらかでも分け与えて力になること」です。それがパウロにとっての「伝道」の第一の意味です。この場合の「あなたがた」の直接的な意味はローマのキリスト者ですが、それは要するに教会を指しています。

つまり、パウロにとって「伝道」の第一の意味は「教会の人々と出会い、霊の賜物をシェアしあうことによって教会の人々を力づける」を指しています。「力づける」と訳されているギリシア語には「固める」という意味もあります。

「それは伝道ではない。伝道とは教会の外に出て行き、まだキリスト者でない人々と出会うことを意味するのではないか。そうでないかぎり新しい魂を獲得することはできないのではないか」というご意見があるかもしれません。それはかなり鋭いご指摘なので尊重されるべきです、しかし、そこでわたしたちはよく考える必要があります。

最初のほうで申し上げましたが、「伝道者」という言葉を聞くと多くの場合、狭い意味での教職者のことを思い出すというのは、わたしたちの悪い癖です。伝道は教会全体のわざです。逆の言い方をすれば、狭い意味での教職者ばかりが何人集まったところで伝道は進みません。はっきりいえば何もできません。

教区や支区で牧師会を何回開こうと、牧師ばかり集まる有志の勉強会を何回開こうと、それは伝道ではありませんし、伝道になりません。伝道に備えての訓練の意味はあるかもしれませんが、伝道そのものではありえません。伝道は、教会全体の助け合いの中でしか成立しません。伝道のためには教会の皆さんに動いていただく必要があります。

パウロは伝道するためにこそ、教会のみんなを励ましました。教会が元気にならないと伝道は進みません。その理由は、新しい魂を獲得して連れてくる先はどこなのかということを考えていただけばすぐにお分かりになるはずです。それは教会です。

「教会に来てください」とお誘いしたはいいけれど、その教会にちっとも元気がない。教会に来るとその人はきっと躓いてしまうだろうということが目に見えているようであれば、伝道は進みません。

第二の理由を申し上げます。それは「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合うこと」(12節)です。これは第一の理由と同じことを別の言葉で言い換えただけにも見えますが、ここで重要な言葉は「信仰によって互いに励ましあうこと」です。

それは第一の理由の中の「霊の賜物をシェアしあうこと」と内容において重なる部分もありますが、全くイコールとも言いがたいところがあります。「霊の賜物」のほうが「信仰」よりも広い内容を持ちます。「信仰」は「霊の賜物」の一つです。

パウロが「霊の賜物」について書いている有名な箇所はコリントの信徒への手紙一12章から14章にかけてです。その中でとくに有名なのは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13章13節)という御言葉です。その中に「信仰」があります。いつまでも残るのが「信仰」です。

パウロが「信仰によって互いに励まし合うこと」を第二の理由として挙げていることの意味は重大であると私は思います。「互いに励まし合う」(συμπαρακαλεω)はギリシア語では一つの単語です。「共に(シュン)傍らに(パラ)呼ぶ(カレオー)」です。

パウロはローマのキリスト者と同じ信仰をもって共に立っているという意識を持っていました。しかしそれだけでなく、ローマに直接行って物理的な意味でローマのキリスト者と同じ場所に立って共に励まし合いたいと願いました。手紙だけでは伝えきれない溢れる思いを直接会って伝えたいと願っていました。それも「伝道」です。

そしてパウロは第三の理由として「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があること」そして「ローマにいるあなたがたにも福音を告げ知らせること」を挙げています。順序が最初でないから重要でないとは言えません。しかし、この順序には何の意味もないとも思いません。

教会を励まし、教会をしっかり固めることが先決問題です。そのために求められるのが信仰です。わたしたちは「神を信じる」必要があります。「信仰は問いません」というのは教会ではありません。教会は「信じるか信じないか」を問います。教会は信仰共同体です。それが新しい魂の獲得の土台作りになります。

「新しい魂の獲得が先か、教会形成が先か」は鶏卵論争になるかもしれません。しかし、全く新規の開拓伝道でないかぎり、教会は新しい魂の獲得より先に存在するのですから、教会形成を優先することは間違っていません。パウロにとって「伝道」とは単独プレイではなく、常に教会全体との共同作業であったことが記憶されるべきです。

(2018年2月18日)

2018年1月28日日曜日

天国と十字架

マタイによる福音書20章1~19節

関口 康

「『主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」』」

皆さま、おはようございます。日本キリスト教団教師の関口康と申します。今日はお招きいただき、ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします。

初めてお会いする方々ですので自己紹介から始めさせていただきたいところです。しかし皆さまは私の個人的な話を聴きに来られたのではなく、聖書のみことばを聴きに来られたのですから、無駄な時間は使いたくありません。すぐに聖書の解き明かしに入らせていただきます。

ただ、今日の聖書の箇所を選んだ理由についてだけ申し上げさせていただきます。私は現在、日本キリスト教団の無任所教師です。特定の教会を担任していない教師です。昨年度(2016年度)の4月から3月までの1年間は、千葉県にある日本キリスト教団関係学校の高等学校で聖書科の代用教員として働きました。高等学校だけを運営している学校法人で、私が教えたのも高校生たちでした。本当に有意義な1年間を過ごさせていただきました。

いま申し上げたことと今日の聖書の箇所を選んだ理由がどのように関係しているのかと言いますと、現在私は無任所教師としていろんな教会で説教させていただいていますが、説教奉仕がない日曜日はいま住んでいる家の近くの教会の礼拝に出席しています。その教会の先週(1月21日)の礼拝で今日のこの箇所の説教を聴いたばかりなのです。先週の説教を聴いて「よし、来週はこの箇所にしよう」と思い定めました。それが第一の理由です。

第二の理由があります。それは昨年度1年間働いた高等学校との関係です。その高校はチャプレン(宗教主事)が聖書科の授業カリキュラムを定め、それに基づいて何人かの教員が授業を行う方式を採っておりました。そのカリキュラムで今日のこの箇所について授業することが決められていました。私はこの箇所について昨年度、高校生たちに何度も話しました。そのことを先週の説教を聴いているときに思い出しました。それで今日はぜひこの箇所で説教させていただこうと思い至った次第です。
 
しかし、取り上げ方の違いがあることにも気づきました。教会の説教という形で取り上げるときと、学校の授業で取り上げるときとでこの箇所の理解の仕方や教え方が変わってくることに気づきました。それはもちろんこの箇所に限ったことではありません。聖書を「どこで」読むか、「どのような文脈で」読むかで、読み方が変わってくるのは当然です。
 
ここから内容に入ります。これはイエス・キリストがお語りになったたとえ話です。「天の国は次のようにたとえられる」(1節)と書いてあるとおりです。登場するのはぶどう園の園主と何人かの労働者です。園主は1日の働きの対価として1デナリオンを支払うという契約を労働者と結びました。
 
1デナリオンが今の日本円でいくらなのかがよく話題になります。5千円かもしれませんし、1万円かもしれません。はっきりとは分かりませんが、当時の普通の支払いでした。多すぎもせず少なすぎもせず。
 
それで、朝9時から労働を始めた人たちと、12時から始めた人たちと、15時から始めた人たちと、17時から始めた人たちがいました。ところが、園主は全員に全く同じ1デナリオンを払ったというのです。それで腹を立てたのが9時から労働を始めた人たちでした。9節以下に記されています。
 
「そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』」(9~12節)。
 
しかし、園主は彼らの言葉を聴いても動じることはありませんでした。「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい』」(13~14節)。
 
園主の言う通りです。9時から働きを始めた人たちと園主との労働契約は、1日につき1デナリオンを支払うということでした。園主は契約違反をしていません。1デナリオン以上もらえると期待した人たちのほうが要求しすぎです。
 
それなのに、なぜそのようなクレームを彼らが園主に突きつける気になったのかといえば、後から来た人たちがもらった分を見て、自分たちがもらったのと全く同じであることが分かったからです。「だったら私も後から来るべきだった。朝から働いたのは愚かだった」と後悔した人がいたかもしれませんし、後から来た人たちを恨んだり呪ったりする思いにかられた人がいたかもしれません。
 
しかし、これがイエス・キリストが「天の国は次のようにたとえられる」とおっしゃった内容です。つまり天国とは、9時から働いた人にも、12時からの人にも、15時からの人にも、17時からの人にも同じ賃金が支払われるようなところであると、イエス・キリストがお語りになったのです。
 
このたとえ話をどのように理解するかについてですが、ここで最初にお話ししたことに戻ります。それは、今日私が皆さんにこの箇所についてお話ししようと思い至った二つの理由です。
 
先週出席した教会で聴いた説教の話のほうを先にします。それは「教会の視点」です。「教会は天国をどう教えるか」ということです。先週この箇所で説教してくださった牧師は、神の一方的な恵みということを強調してお話しになりました。

人が救われるのは、努力や行いや業績によるのではないのだ。どの人に対しても神は等しく恵みを与えてくださるのだ。わたしたちは他の人と自分を比較するのではなく、神の恵みを感謝して受け取るのみである。本当にそのとおりだと感銘を受けました。
 
私にも経験があります。私は現在52歳ですが、生まれたときから52年間教会に通ってきました。教会に通うと言っても、24歳から牧師(最初の2年間は伝道師)になりましたので、教会の牧師館に住み、爾来25年、毎週の礼拝で説教する職務に就きました。しかし、風邪を引いたとき以外に日曜日に教会に行かなかったことがない人間です。52歳で52年間、教会から離れたことはありません。
 
しかし、こういうことを私が言いますと、必ずと言っていいほど教会の中で私に張り合って来る人が出てきます。「私は60年です」。「私は70年」。「私は80年」。私は教会生活の長さの自慢をしているわけではありません。生まれたときから教会から一度も離れたことがない、と言っているだけです。しかし、たいていいつも、長さ自慢大会が始まってしまいます。
 
しかし、私が牧師として働いた最後の教会で、10年ほど前にうれしい出来事がありました。その方は当時70歳でした。20歳のとき四国の教会で洗礼を受けられ、その直後から教会を離れて50年一度も教会に行かなかった方が、70歳になって千葉県の私がいた教会で教会生活を再開されました。それ以後は熱心に教会に通われるようになりました。まもなく復帰の願いが出されましたので、役員会で慎重に協議した末、復帰を承認しました。
 
私も教会員もその方が教会に復帰してくださったことを心から喜びました。その方自身は教会から離れておられた50年間のことを気にしておられましたが、私は「それは関係ない」と申し上げました。天国は神の一方的な恵みによって救われた人々が迎え入れられるところだからです。教会生活の長さは関係ありません。

逆に、もし関係あるとすれば、どういうことになるのでしょうか。天国には教会生活が最も長かった人だけのゴールド部屋と、中ぐらいの人たちのシルバー部屋と、最も短かった人のブロンズ部屋とを分ける間仕切りでもあるのでしょうか。そのような差は天国にはありません。
 
もう一つの視点に話を移します。私が昨年度勤めた高等学校の授業のことです。「学校の視点」です。「学校は天国をどう教えるか」ということです。聖書科のカリキュラムでこの箇所をどう教えることになっていたかといえば、我々人間には能力や才能の違いがある。しかし、神はすべての人を等しく扱ってくださるということです。
 
学校がどうしても避けて通ることができないのは、生徒の答案に点数をつけ、評価することです。教員はある意味で最も嫌な仕事です。どの生徒のどの答案にも百点満点をつけてあげたかったです。しかし、そうは行きません。それは職務放棄です。

しかし、答案の点数の差は人間としての価値の差ではない。人間の価値は神が決めるのだ。神はすべての人に等しい価値を与えてくださる方なのだ。こういうふうに教えるとき、特に遅れがちの生徒は慰めや励ましを受けるのです。
 
しかし、いま二つの視点について申し上げましたが、もう一つ視点があることに先週気づきました。それは先週の説教で教わったことですが、このたとえ話の日本語訳で、口語訳聖書でも新共同訳聖書でも訳されていない部分があるということです。原文には「天の国は次のようにたとえられる」(1節)の前に「なぜなら」(γαρ)と記されています。それが訳されていないと教えていただきました。
 
その話を聞いて私の目からうろこが落ちました。「なぜなら」と言う限り、これまで書いてきた内容を受けていることを意味しています。そしてそれはどこからの内容を受けているかをよく考える必要があります。直接的には直前の「金持ちの青年」の箇所からですが、もっと長くとれば16章21節にイエス・キリストがエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されるとご自分でおっしゃったところからです。
 
そこから始まるすべては、イエス・キリストがなぜ殺されることになったかについて理由を述べている箇所だからです。そして、その理由の中に、このたとえ話が含まれています。だからこそ、直後の17節以下に再びイエス・キリストがご自分の死についてお語りになっているのです。
 
なぜ今日の箇所に記されているたとえ話をお語りになったことが、イエス・キリストが殺害される理由になるのかといえば、このたとえ話は当時の祭司長や律法学者や長老たち、すなわちエルサレム神殿を中心に働く宗教的特権意識を持つ人たちへの批判を意味していたからです。
 
その人たちは長年がんばって努力してその地位まで昇り詰めたのかもしれません。しかし、だからといって一般庶民を見下げてよい理由にはなりません。それを彼らはしました。その彼らをイエス・キリストは責めたのです。
 
これはわたしたちが教会を考える材料になります。ともすれば教会生活の長さ自慢大会が始まってしまう。教会での貢献度が高いかどうか。教団や教区の役職に就いたかどうか。それは大切なことかもしれませんが、そのようなことでお互いに差をつけあって争うのは話が別です。そのようなことをイエス・キリストが最もお嫌いになりました。もはや「イエス・キリストの教会」ではありません。
 
19章13節以下にはイエス・キリストのもとに子どもたちを連れて来た人たちをイエス・キリストの弟子たちが叱ったという記事が出てきます。その弟子たちをイエス・キリストがお叱りになりました。「子供たち」は、教会生活の長さ自慢大会に参加できない存在です。その意味では、17時から仕事を始めた労働者の立場に近い存在です。
 
あるいは、「5S」(整理、整頓、清掃、清潔、躾)が行き届いていない、未熟な存在が「子供たち」です。教会に対する貢献度がないのが「子供たち」です。そのような存在に大人たちは、神聖な礼拝の静寂を乱されたくないと言うべきでしょうか。

しかし、イエス・キリストは「子供たち」を庇ってくださいました。教会の秩序が維持されることも大事です。しかし、常に新しい人や子供たちを迎え入れる教会であることとそれは両立させなければなりません。なんとかして。しかし、こういうことをはっきり言うと教会はもめるかもしれません。
 
最後に申し上げたのは、今日のたとえ話を理解するための第三の視点です。「十字架の視点」です。イエス・キリストはこのたとえ話を、十字架へと向かう決意の中でお語りになりました。そのことを忘れるべきではありません。訳されていない「なぜなら」の意味をよく考える必要があります。

(2018年1月28日)