2017年11月22日水曜日

弁当画像(100枚)

記録によれば2011年11月から2013年1月まで、妻が福祉施設の夜勤をしていたころ、子どもたちの弁当を私が作った。その画像がちょうど100枚。高校生は毎日、中学生は給食がない日。早起きすることと毎日違うメニューを考えることの大変さを学んだ。





































































































2017年11月21日火曜日

上総大原教会クリスマス礼拝ご案内

今年のクリスマス礼拝は日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市大原9696)で説教させていただきます。2017年12月24日(日)午前10時30分から12時迄。遠方の方も初めての方も大勢でおいでください。サーファーの方はウェットスーツ持参でどうぞ。心から歓迎いたします。

画像をクリックすると拡大します

*PDF版はここをクリックしてください。掲示・配布・拡散のご協力をお願いします。

2017年11月20日月曜日

オランダ改革派神学への手引き

ヘルマン・バーフィンク著『改革派教義学』全4巻(オランダ語版)

「オランダ改革派教会」の狭義の「教義学者」の中で著書の日本語版がある人として、アブラハム・カイパー、ヘルマン・バーフィンク、クラース・スキルダー、アーノルト・ファン・ルーラー、ヘンドリクス・ベルコフの5人を挙げることができる。ただし、他国に移住したオランダ人神学者は、もっといる。

しかし、日本語版はいまだにないが重要な「オランダ改革派教会」の狭義の「教義学者」は、他にも多くいる。挙げていけばきりがないが、オランダ国内で「大」神学者と呼ばれているウプケ・ノールトマンス、コルネーリス・ハイコ・ミスコッテの2人と、ヘリット・ベルカウワーの存在を無視すべきでない。

「オランダ改革派教会の」と書いたが、すべて「当時の」という連体修飾語を語頭に加える必要がある。スキルダー以外の7人の「当時の」所属教団は、現時点では存在しない。彼らの教団は、2004年の合同によって生まれた「オランダプロテスタント教会」(Protestantse Kerk in Nederland)へと合流した。

しかもノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラー、ベルコフの4人と、カイパー、バーフィンク、ベルカウワーの3人と、スキルダーは、最終的な所属教団が異なる。最初の4人はNederlandse Hervormde Kerk(略称NHK)に所属し、次の3人はGereformeerde Kerken in Nederlands(略称GKN)に所属した。

細かく言えば、カイパーとバーフィンクは元NHK教師(牧師)だったが、カイパーがGKNを創設し、バーフィンクもGKNに参加したので、NHKからGKNが分離した形だ。スキルダーの最終的な所属教団はGereformeerde Kerken in Nederlands Vrijgemaakt(略称GKNV)である。スキルダーは元GKN教師(牧師)だった。

そのスキルダーが創設した教団がGKNVなので、GKNからGKNVが分離した形だ。GKNVは「オランダ改革派教会解放派」などと訳される。NHKもGKNも、英訳するとどちらもDutch Reformed Churchになるし、日本語訳するとどちらも「オランダ改革派教会」になる。このあたりはとてもややこしいので、注意が必要だ。

教団成立史の観点からみれば、NHKからGKNが分離し、GKNからGKNVが分離したので、NHKが最も古く、次に古いのがGKNで、最も新しいのがGKNVである。しかし神学思想史の観点からみれば、GKNのほうがNHKよりも古いものへと戻ろうとした。教団成立史上の「新しさ」と神学思想史上の「新しさ」は一致しない。

GKNの「三大」神学者は、カイパー、バーフィンク、ベルカウワーでいまだに通用すると思われる。NHKの「三大」神学者は、ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラーである。私の主観的な判断ではなく、典拠がある。NHKの「三大」神学者について語られるとき、ヘンドリクス・ベルコフは含まれない。

なぜベルコフが「三大」神学者に含まれないかについて正確な事情は分からないが、独創性において秀でた「三大」神学者に対して、ベルコフは教義学の教科書を書くことに秀でていたからではないか。スキルダーが創設したGKNVは2004年に創設された「オランダプロテスタント教会」(PKN)に合流しなかった。

さて、ここから先は私見である。ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラー、ヘンドリクス・ベルコフ(以上NHK)、カイパー、バーフィンク、ベルカウワー(以上GKN)の著書は、「今日における改革派神学」を本質的に解明するための少なくとも「必携」の書であり、可能であれば「必読」の書である。

カール・バルトとの関係をいえば、カイパーもバーフィンクも、バルトを知らないもっと上の世代である。ノールトマンス、ミスコッテ、ベルカウワー、ファン・ルーラー、ベルコフはバルトを知っている。明確にバルト主義者になったのはミスコッテであり、バルトにかなり近づいたのはベルカウワーである。

2017年11月15日水曜日

ユルゲン・モルトマンに影響を与えた20世紀の神学者:バルト、ボンヘッファー、ファン・ルーラー


Googleブックスで面白そうな本を見つけたので、無料で立ち読み。全部は読めないので、そのうち紙の本を購入したい。以下はモルトマンを描いている箇所のひとつ。

(試訳)

ユルゲン・モルトマンは1926年4月8日、ドイツのハンブルク近郊で生まれた。ヒトラーの戦争の不本意な徴集兵になり、戦争捕虜としてスコットランドに上陸し、そこで詩編を読んでキリスト教徒になった。そして神学を学び、最後はテュービンゲン大学の組織神学教授になった。 彼はカール・バルト、ディートリヒ・ボンヘッファー、アーノルト・ファン・ルーラーの影響を強く受けた。後年、ファン・ルーラーの宣教の神学が「バルトの後に神学なし(=バルトが神学を完成した)」という思い込みから私を解放してくれたと記した。初期バルト神学は神のラディカルな超越性を強調した。しかしモルトマンは、安息日、神のシェキナ(内住)、メシアの道、アドベント(キリストの到来)などのカテゴリーを用いて、神の存在を(人類の)歴史の中で確かめることを目指す。モルトマンの対話相手の中に、新マルクス主義者のエルンスト・ブロッホの哲学や数名のユダヤ教学者が含まれる。

(原文)

Moltmann was born on 8 April 1926 near Hamburg in Germany. He became an unwilling conscript in Hitler's war effort and landed up as a prisoner of war in Scotland where he became a Christian through reading the book of Psalms. He then studied theology and eventually became professor of systematic theology in Tübingen. He was deeply influenced by Karl Barth, Dietrich Bonhoeffer and Arnold van Ruler, whose positions have been discussed earlier in this volume. The latter's theology of the apostolate, he later commented, liberated him from the presumption that there could be no theology after Barth. While Barth's early theology emphasises the radical transcendence of God, Moltmann seeks to affirm God's presence in (human) history in terms of categories such as the Sabbath, God's Shekinah, the Messianic Way and the notion of adventus (the coming of Christ). Moltmann's conversation partners also include the neo-Marxist philosophy of Ernst Bloch and several Jewish scholars.

(Cf. Ernst M. Conradie (Ed.), Creation and Salvation: A Companion on Recent Theological Movements (Studies in Religion and the Environment / Studien Zur Religion Und Umwelt) p.136)

「亡命者の宗教改革」とカルヴァンの予定論の関係

日本語版(左)とオランダ語版(右)

オーバーマン『二つの宗教改革』第10章「カルヴァンの遺産」を毎日読んでいる。他の章も目を通したが、私の問いにあまりにも的確に答えてくれるのは第10章だ。オーバーマンほどの人が、神の選びについてのカルヴァンの教え(二重予定論)を、明確な論拠を挙げて擁護してくれていることが何より心強い。

第10章「カルヴァンの遺産」においてオーバーマンが強調しているのは、カルヴァンの宗教改革を決定づけもしかつ限界づけてもいる要因は、それが「亡命者の宗教改革の幕開け」だったという点である。そのことが神の選びについてのカルヴァンの教えと密接に関連していると、オーバーマンが主張している。

カルヴァンの宗教改革が「亡命者の宗教改革」であったことと神の選びについての彼の教えの関係をオーバーマンがどのように描いているかについては、自分の目で確かめてほしい。「神の摂理以外に我らの逃げ場なし」(Nous n'avons autre refuge qu'à sa providence)というカルヴァンの心の叫びが鍵だ。

2017年11月12日日曜日

キリストと共に生きる(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)

ヨハネによる福音書6章54~56節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

おはようございます。ご無沙汰して申し訳ございません。皆さんにお会いする機会はもうないかと思いましたが、新たにチャンスを与えられました。ありがとうございます。最後に千葉若葉キリスト教会に参りましたのは8月13日日曜日ですので、2か月半ぶりです。今日もどうかよろしくお願いいたします。

先ほど朗読していただきましたのはイエスさまのみことばです。このようなことをイエスさまがおっしゃったと、ヨハネが記しています。

すぐあとに「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)と記されています。そして「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と記されています。

はっきり言えば、気味が悪い話だったのです。「わたしの肉を食べなさい、わたしの血を飲みなさい」と言われたイエスさまの言葉を文字どおりに受けとめたのです。それでとても耐えがたい言葉だと思えたので、イエスさまについていくのをやめたのです。

ただ、その「弟子たちの多く」の中に十二人の弟子が含まれていなかったことは、67節に書かれていることで分かります。「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた」(67節)。イエスさまから離れて行った弟子たちの中に十二人の弟子たち(十二使徒)は含まれていなかったということです。

しかし問題はイエスさまの言葉を聴いて離れて行った弟子たちのことです。その人々はイエスさまがおっしゃったことをまっすぐ受けとめたのです。まさに文字通り受けとめたのです。だからこそ、ついていけなくなったのです。

しかしもしそうだとすると、イエスさまから離れて行った人々が悪いと言えるでしょうか。その人々はイエスさまのみ言葉の真意を理解する力が足りなかった愚かな人々だった、というようなことが言えるでしょうか。

あるいはそれに対して、イエスさまから離れて行かなかった十二人の弟子たちはとても賢い人々であり、イエスさまの言葉を文字通り受けとめることをせず、いつも言葉の裏側を考えながら聴く人々だったので、イエスさまから離れなかった、というようなことが言えるでしょうか。

そして、もし仮に私がいま申し上げたようなことが言えるとして、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐ受けとめた人々は、その結果としてイエスさまから離れて行ったので間違っている。逆に、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐに受けとめないで常に言葉の裏側を読みながら聴いていた人々は、その結果としてイエスさまから離れなかったので正しい、というようなことが言えるでしょうか。

そういうふうに言ってしまうことに、私にはとても抵抗があります。わたしたちはいつも人の言葉の裏を考えなければならないのでしょうか。そういう人の話の聴き方自体に問題がないでしょうか。

なんとなく心が歪んでいる、ひねくれている人にならなければ、イエスさまの弟子になることができないのでしょうか。まっすぐ聞いてはいけないような話をしたイエスさまに責任はないでしょうか。人をつまずかせるようなことを言ったイエスさまが悪いと反発するのは、間違っているでしょうか。

しかし、そういうふうにまたはっきり言ってしまうのは、イエスさまから離れていった人々の言い分に加担することを意味します。加担するのは私は構わないと思います。しかし、そこで私はもう一方のイエスさまの側のことも考えます。

イエスさまは失言なさったのでしょうか。口を滑らして、人前で言うべきでないことをうっかり言ってしまわれたのでしょうか。それで弟子たちの多くが離れて行ってしまったので、大慌てで取り消そうとしても後の祭り、というようなことだったでしょうか。

それもおかしな気がします。それは違うと私は思います。イエスさまは明らかに、意図的にこのことをおっしゃっています。私がここで申し上げたいのは、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐに受けとめたからこそつまずいたその人々のほうが悪いと私は思わない、ということです。

そういう話の聴き方を常に求められても困ると思う人々は多いでしょう。「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」という言葉を聞いた人々は、具体的に何を想像すればよいのでしょうか。聞いたとおりのことしかイメージできない人がいてもおかしくありません。

それではだれが悪いのでしょうか。最も正しいのはだれでしょうか。私なりの答えを申しますと、だれも悪くありません。イエスさまは失言なさったのではありません。イエスさまから離れていった弟子たちは、イエスさまの言葉を文字通りに受けとめたこと自体を責められるべきではありません。イエスさまから離れなかった十二人の弟子たちだけが特別に賢かったわけでもありません。

どちらが悪い、だれが悪いと犯人捜しをしたがるのは、わたしたちの悪いくせです。しかしそのようなことをついしてしまうことがあります。その理由も分かります。人がつまずく、離れていくという言葉を聴けば、わたしたちの胸が痛みます。それはわたしたちの眼前の教会の現実を考えざるをえないからです。どうすれば人が増えるか、どうすれば人が減らないかと、そればかりを考えてしまいます。原因究明を考えます。そしてつい、犯人捜しをしてしまいます。

私も教会の牧師でしたから、おそらく私の言葉につまずいて教会に来なくなったに違いない方々がおられたことを記憶していますし、自覚しています。別の教会に通っておられるのであれば安心ですが、そうでないなら私は一生謝り続けなくてはなりません。ただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。

しかし、ここで私が申し上げたいのは、教会に通う人々はイエスさまの弟子なのだということです。その中にいる人々が、もしイエスさまご自身の言葉を聴いてつまずいたということであれば、わたしたちにはどうしようもないと言わざるをえないのです。

わたしたちがイエスさまの言葉を勝手にオブラートに包んで飲み込みやすくしてみたところで、お腹の中に入れば効き目は同じです。体質に合わない人にとっては、副作用ばかり強くて、かえって体を壊してしまうことがありえます。

今私が申し上げているのは、冷たく突き放す意味で言っているのではありません。むしろ尊重する意味で申し上げています。そして、そんなのは逃げの一手だと思われることを覚悟して申し上げますが、イエスさまの言葉においても聖書全体の言葉においても理解できない、分からない、納得がいかない、つまずくと感じる箇所はたくさんあります。

多くの牧師たちが参考にしているような信頼されている学問的な聖書注解書を実際に読んでみれば分かることですが、この箇所は理解できない、よく分からない、納得いかない、つまずくと、その著者である聖書学者自身が書いています。聖書は分からないことだらけです。そういう本だと思いながら読む必要があります。

しかし、今日皆さんにお話ししようと思って準備してきたことの一番大切なことを、私はまだ言っていません。それをこれから申し上げます。

私が今日最も大事なこととして申し上げたいのは、イエスさまが弟子たちに「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」とおっしゃった言葉は他の言葉で言い換えることができないということです。

そうとしか言いようがないことなので、たとえそれで多くの弟子たちがつまずき、イエスさまから離れていく原因になったとしても、それでイエスさまが責められる理由にはならない、ということです。

つい最近、大きく報道された猟奇的な事件があったばかりですので、そういうのと混同されるのは避けなければなりません。しかし、いま申し上げているのも、人の話の聴き方の問題です。

「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」と言われて「はいそうですか、分かりました」と、言われたとおりに行動を起こすような猟奇的な人はそうそういないし、いたら困ります。そのようなことは通常ありません。しかし、イエスさまとしては、そうとしか言いようがない、他の言葉で言い換えることができない、そのような思いでこのことをおっしゃったのだと考えることができると思うのです。

「私は思います」と説教で言いますと、厳しく批判されることがあります。「牧師の意見など聞いていない。我々は神の言葉を求めているだけだ」と猛烈に反発されることがあるのですが、そういうのも人の話の聴き方の問題です。はっきり言えることについては、はっきり言う。はっきり言えないことについては、はっきり言わない。断言できないことは断言しない。それもわたしたちが聖書を読むときに大事なことです。

別の言葉で言い換えることができない言葉は、聖書の中にたくさん出てきます。たとえば「神さま」は他のどの言葉で言い換えることができるでしょうか。「救い」という言葉はどうでしょうか。「罪」という言葉はどうでしょうか。

「聖書は現代人にはよく分からない書物なのだから現代人の言葉に置き換えることによって分かりやすくすべきである」という議論がなされることがあります。しかし、そう言われてもどうしようもない、他の言葉で置き換えようのない言葉が、聖書の中には満ち満ちています。

「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」とイエスさまが弟子たちにおっしゃったことは、実はおそらく文字通りの意味しかありません。イエスさまは本当に、本気でそう思われたので、そうおっしゃったのです。

そういうふうに言いますと、みなさんは驚かれるでしょうか。しかし、全く同じではないかもしれませんが、ここでイエスさまがおっしゃっているのと似ていることをわたしたち自身が考えたり言ったりすることはありうると、私は思うのです。それとも、こんなことはたったの一度もお考えになったことも言ったこともないでしょうか。

たとえばわたしたちは「あなたにわたしのすべてをあげる」とだれかに言ったことはないでしょうか。私はたぶん言ったことがあります。妻に。あるいは子どもたちに。みなさんはないでしょうか。そういうことを、いまだかつて一度も考えたことがないでしょうか。

そんなはずはないと思うのです。口にしたことがなくても、考えたことくらいはあると思うのです。それとも、あなたのものはわたしのもの。世界のすべてはわたしのもの。わたしのものはわたしのもの、でしょうか。それはあまりにも個人主義的すぎないでしょうか。利己的すぎないでしょうか。

イエスさまは弟子たちに、本当にご自分の肉を食べ、血を飲んでもらいたかったのだと思います。このたびこの箇所を改めて読み直してみて、そう思いました。

そして、これはイエスさまが弟子たちに、そしてわたしたちに示してくださった愛の究極表現であると思いました。その意味を言うとしたら、「あなたにわたしのすべてをあげる」ということだと思います。

自分の分をしっかりとキープして「残ったかすをあなたにあげる」とイエスさまは言っておられません。「あなたはあなたで生きてください、わたしはわたしで生きていきます」とも言っておられません。

今日の箇所の言葉は、私が言っていることではなくイエスさまがおっしゃったことですので、私が勝手にオブラートに包むことはできません。しかし、どうかみなさんはつまずかないでいただきたいと願っています。

イエス・キリストと共に生きるとはそのようなことです。キリスト者であるというだけで、世間の中で誤解されたり、教会の中ですら難しい要素があります。しかし責任はすべてイエスさまがとってくださいます。

(2017年11月12日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

2017年10月17日火曜日

岡山市内にも大空襲があった

岡山市内にも大空襲があった。私の母方の祖父は山陽新聞の記者だった。私が生まれる前に亡くなったので会ったことはないが、祖母が持っていた戦時中の報道写真を見せてもらったことがある。岡山の今の繁栄は戦後復興の証しだ。今の平和憲法を破棄したい人は岡山にいないと私は信じる。選挙結果を待つ。


2017年10月16日月曜日

どうすれば人を好きになれるか(関西学院大学)

理工学部チャペルアワー(2017年10月16日、関西学院大学三田キャンパス)

ローマの信徒への手紙7章19~20節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」

関西学院大学のみなさん、はじめまして。関口康と申します。今日はよろしくお願いいたします。

私は千葉県に住んでいます。昨日電車で三田(さんだ)まで来ました。しかし、私は生まれも育ちも岡山です。岡山朝日高校の卒業生です。みなさんの中に岡山の方はおられませんか。

岡山の高校生にとって関西学院大学は憧れ中の憧れの大学です。その関西学院大学でこのようにしてお話しさせていただく機会を与えられましたことは、私にとっては光栄の極みです。ありがとうございます。

私が今日選ばせていただいたテーマは「どうすれば人を好きになれるか」というものです。しかしこれからお話しするのは、大学生のみなさんへの恋愛指南のような話ではありません。私はそういう話ができるタイプの人間ではありません。

そうではなく、聖書やキリスト教についてのよくある誤解に関することです。しかも、どちらかといえば真面目な人や熱心な人が抱きやすい誤解です。しかもそれは、聖書の中途半端な読み方に起因する誤解です。

それは何かといえば、学校であれ教会であれ、聖書とキリスト教を学びはじめ、その学びが次第に面白くなり、聖書に出てくる神さまのことが好きになってきた人々の中に、極度の「人間嫌い」になる人々が出てくる、という問題です。

もともと人間嫌いだった人が宗教にハマり、現実逃避に走るようになったという図式に当てはまる場合がないとは言えません。しかし、その順序だけでなく、もともとは人間愛に満ち満ちていたような人が、聖書を読みはじめ、聖書に出てくる神さまを知るようになると、だんだん人間嫌いになっていくという順序の場合もあります。

その人々が口を開いて「人間」もしくは「人間的」という言葉を発すると、それは常にネガティヴな意味です。「あの人は人間だ」という言葉がなぜか常に悪い意味です。「あの人は人間的な人だ」と言えば、その相手に対する最大限の侮辱の言葉です。

しかし、考えてみればおかしな話です。人間とは人間であると言っているだけです。人間と人間を等号で結んでいるだけです。ただの同語反復です。それがなぜかいつも悪い意味なのです。

その原因は比較的単純です。「あの人は人間だ」とか「あの人は人間的な人だ」という言葉を常にネガティヴな意味でしか言わなくなる人々は、人間を神と比較しているのです。その人々は神と人間を対比し、両者を対立関係でとらえています。だから「人間」は常に悪い意味になります。

神は完璧で偉大な存在である。その神と比べると人間は不完全で失敗だらけ。ひどく愚かで罪を犯す。そんな人間を愛することなど私には不可能である。存在の価値すらないゴミのような存在であるとしか認識できない。もはや憎しみと軽蔑しか感じない。このようなことを真顔で言い出す人々がいます。

私は、それはとてもまずいことだと思っています。そもそも神と人間と比較すること自体が問題です。次元の違う存在同士をどうすれば比較できるのでしょうか。

しかし他方で、これは一筋縄で片づけることができるような単純な問題ではないとも考えています。なぜでしょうか。「それでは人間は全面的に肯定できる存在なのか」という深刻な問いが必ず残り続けることになるだろうと思えてならないからです。

自然という自然をめちゃくちゃに破壊してきたのは人間です。人が2人いればすぐにケンカになる。3人いれば収拾がつかなくなる。常に争い合い、憎しみ合い、傷つけ合うのが人間です。こんな存在を無条件に全面的に肯定することができるでしょうか。そんなことをしてよいでしょうか。それもそれでまずいことのような気がしてなりません。

しかし、その場合の問題は、人間を相対化する方法は何かということです。神を信じない人は神の存在を前提にして考えることはできませんので、神以外の何ものか、しかも人間よりも大きな存在と人間を比較して、人間を相対化するしかないと思われます。

たとえば宇宙や地球と人間を比較すれば、人間がいかに小さく無力で無能であるかを少しくらいは思い知ることができるかもしれません。

しかしそれだけでは生ぬるいのではないでしょうか。その話には深みが全くありません。その方法では人間の罪の問題を指摘することができません。人間はもっと責められる必要があるのではないでしょうか。

先ほど朗読していただいたのは、使徒パウロのローマの信徒への手紙7章19節と20節の言葉です。ここに書かれていることを一言で言えば、人間とはいかに矛盾し、内面的に葛藤する存在であるかということを、ある意味でパウロ自身の告白として、しかしまたすべての人間の普遍的な現実として、嘆き悲しんでいる言葉です。

「わたしは望んでいる善を行わず、望まない悪を行っている」(19節)と書かれています。善いことをしたいという願いはある。悪いことをしたくないという願いもある。しかしその願いに反して自分は悪いことをしてしまう。自分の意志を自分でコントロールできない状態です。

それでパウロはとんでもないことを言います。「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(20節)。

こんな言い訳が通用するでしょうか。「私がしたのではなく、私にとりついたバルタン星人がしたことです。だから私は悪くありません。信じてください」と言っているようなものです。こんな話をだれが信じてくれるでしょうか。

しかし、こうとでも言わないかぎり到底説明できないほどまでに人間とは激しく矛盾に満ちた存在であるということについては、全く理解できない話ではありません。この箇所に描かれているのは、自分の罪の問題を抱えて葛藤し、苦しむ人間の姿です。

さて、そろそろ結論を急ぎます。今日のテーマである「どうすれば人を好きになれるのか」という問いの答えです。二つの可能性を申し上げておきます。ただし、あくまでも「論理的な」可能性です。考え方の筋道としてありうるというだけです。

第一の可能性は、聖書を読むのをやめることです。そうすれば極度の人間嫌いに陥らなくて済むかもしれません。私は牧師ですのでこういうことを言ったということだけで問題になるかもしれませんが、ひとつの可能性として否定することはできません。

聖書を読むのをやめるとは、人間以上の存在としての神を知ることをやめることです。神や宗教のようなことを考える思考回路を完全に取り外してしまうことです。そうすれば、神と比較して人間をおとしめるようなことを考えなくて済むようになるでしょう。

そしてそうなれば、人間を上の方から抑えつけて批判し非難する存在はもはやどこにもいません。人間はすべてのプレッシャーから解放され、世界最強のルールとなります。誰も人間を裁くことはできません。まさに人間最強説です。

しかし、もう一つの可能性があります。それは、もっと深く聖書を読むことです。聖書の真意を理解することです。そうすれば、人を好きになれるかもしれません。

「聖書を読むと人間嫌いになる」というのは、実は聖書の誤解であり、中途半端な聖書の読み方です。

たしかに聖書は人間の罪深さ、愚かさ、惨めさを容赦なく描いています。人間がいかに激しい自己矛盾を抱えて悶々と葛藤し続ける存在であるかを聖書は知っています。読めば読むほど自分が人間であることが嫌になるようなことが聖書に書かれているのは事実です。しかし聖書に書かれているのはそれだけではありません。

小さく愚かで惨めなわたしたち人間を、神はイエス・キリストにおいて無条件に愛してくださり、受け容れてくださっているということを、聖書は確かに記しています。今日の聖書の箇所の続きにパウロが書いているのも、そのようなことです。

聖書をもっと深く読めば分かるのは、そういう神がおられるということです。神が人間を愛してくださっている。そしてわたしたち人間は神に愛されている存在であるということです。

もし神が人間を愛してくださっているなら、そんな人間を私も好きになってみようかと、もしそのように考えることができるようになれば、今よりもっと人を好きになることができるようになるかもしれません。

(2017年10月16日、関西学院大学理工学部チャペルトーク)

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関西学院大学理工学部チャペルアワー 報告

関西学院大学理工学部チャペルアワー(2017年10月16日)

本日(2017年10月16日月曜日)関西学院大学理工学部チャペルアワーでチャペルトークをさせていだだきました。好意的なレスポンスを複数いただきました。ありがとうございました!