2017年11月12日日曜日

キリストと共に生きる(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)

ヨハネによる福音書6章54~56節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

おはようございます。ご無沙汰して申し訳ございません。皆さんにお会いする機会はもうないかと思いましたが、新たにチャンスを与えられました。ありがとうございます。最後に千葉若葉キリスト教会に参りましたのは8月13日日曜日ですので、2か月半ぶりです。今日もどうかよろしくお願いいたします。

先ほど朗読していただきましたのはイエスさまのみことばです。このようなことをイエスさまがおっしゃったと、ヨハネが記しています。

すぐあとに「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)と記されています。そして「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と記されています。

はっきり言えば、気味が悪い話だったのです。「わたしの肉を食べなさい、わたしの血を飲みなさい」と言われたイエスさまの言葉を文字どおりに受けとめたのです。それでとても耐えがたい言葉だと思えたので、イエスさまについていくのをやめたのです。

ただ、その「弟子たちの多く」の中に十二人の弟子が含まれていなかったことは、67節に書かれていることで分かります。「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた」(67節)。イエスさまから離れて行った弟子たちの中に十二人の弟子たち(十二使徒)は含まれていなかったということです。

しかし問題はイエスさまの言葉を聴いて離れて行った弟子たちのことです。その人々はイエスさまがおっしゃったことをまっすぐ受けとめたのです。まさに文字通り受けとめたのです。だからこそ、ついていけなくなったのです。

しかしもしそうだとすると、イエスさまから離れて行った人々が悪いと言えるでしょうか。その人々はイエスさまのみ言葉の真意を理解する力が足りなかった愚かな人々だった、というようなことが言えるでしょうか。

あるいはそれに対して、イエスさまから離れて行かなかった十二人の弟子たちはとても賢い人々であり、イエスさまの言葉を文字通り受けとめることをせず、いつも言葉の裏側を考えながら聴く人々だったので、イエスさまから離れなかった、というようなことが言えるでしょうか。

そして、もし仮に私がいま申し上げたようなことが言えるとして、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐ受けとめた人々は、その結果としてイエスさまから離れて行ったので間違っている。逆に、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐに受けとめないで常に言葉の裏側を読みながら聴いていた人々は、その結果としてイエスさまから離れなかったので正しい、というようなことが言えるでしょうか。

そういうふうに言ってしまうことに、私にはとても抵抗があります。わたしたちはいつも人の言葉の裏を考えなければならないのでしょうか。そういう人の話の聴き方自体に問題がないでしょうか。

なんとなく心が歪んでいる、ひねくれている人にならなければ、イエスさまの弟子になることができないのでしょうか。まっすぐ聞いてはいけないような話をしたイエスさまに責任はないでしょうか。人をつまずかせるようなことを言ったイエスさまが悪いと反発するのは、間違っているでしょうか。

しかし、そういうふうにまたはっきり言ってしまうのは、イエスさまから離れていった人々の言い分に加担することを意味します。加担するのは私は構わないと思います。しかし、そこで私はもう一方のイエスさまの側のことも考えます。

イエスさまは失言なさったのでしょうか。口を滑らして、人前で言うべきでないことをうっかり言ってしまわれたのでしょうか。それで弟子たちの多くが離れて行ってしまったので、大慌てで取り消そうとしても後の祭り、というようなことだったでしょうか。

それもおかしな気がします。それは違うと私は思います。イエスさまは明らかに、意図的にこのことをおっしゃっています。私がここで申し上げたいのは、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐに受けとめたからこそつまずいたその人々のほうが悪いと私は思わない、ということです。

そういう話の聴き方を常に求められても困ると思う人々は多いでしょう。「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」という言葉を聞いた人々は、具体的に何を想像すればよいのでしょうか。聞いたとおりのことしかイメージできない人がいてもおかしくありません。

それではだれが悪いのでしょうか。最も正しいのはだれでしょうか。私なりの答えを申しますと、だれも悪くありません。イエスさまは失言なさったのではありません。イエスさまから離れていった弟子たちは、イエスさまの言葉を文字通りに受けとめたこと自体を責められるべきではありません。イエスさまから離れなかった十二人の弟子たちだけが特別に賢かったわけでもありません。

どちらが悪い、だれが悪いと犯人捜しをしたがるのは、わたしたちの悪いくせです。しかしそのようなことをついしてしまうことがあります。その理由も分かります。人がつまずく、離れていくという言葉を聴けば、わたしたちの胸が痛みます。それはわたしたちの眼前の教会の現実を考えざるをえないからです。どうすれば人が増えるか、どうすれば人が減らないかと、そればかりを考えてしまいます。原因究明を考えます。そしてつい、犯人捜しをしてしまいます。

私も教会の牧師でしたから、おそらく私の言葉につまずいて教会に来なくなったに違いない方々がおられたことを記憶していますし、自覚しています。別の教会に通っておられるのであれば安心ですが、そうでないなら私は一生謝り続けなくてはなりません。ただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。

しかし、ここで私が申し上げたいのは、教会に通う人々はイエスさまの弟子なのだということです。その中にいる人々が、もしイエスさまご自身の言葉を聴いてつまずいたということであれば、わたしたちにはどうしようもないと言わざるをえないのです。

わたしたちがイエスさまの言葉を勝手にオブラートに包んで飲み込みやすくしてみたところで、お腹の中に入れば効き目は同じです。体質に合わない人にとっては、副作用ばかり強くて、かえって体を壊してしまうことがありえます。

今私が申し上げているのは、冷たく突き放す意味で言っているのではありません。むしろ尊重する意味で申し上げています。そして、そんなのは逃げの一手だと思われることを覚悟して申し上げますが、イエスさまの言葉においても聖書全体の言葉においても理解できない、分からない、納得がいかない、つまずくと感じる箇所はたくさんあります。

多くの牧師たちが参考にしているような信頼されている学問的な聖書注解書を実際に読んでみれば分かることですが、この箇所は理解できない、よく分からない、納得いかない、つまずくと、その著者である聖書学者自身が書いています。聖書は分からないことだらけです。そういう本だと思いながら読む必要があります。

しかし、今日皆さんにお話ししようと思って準備してきたことの一番大切なことを、私はまだ言っていません。それをこれから申し上げます。

私が今日最も大事なこととして申し上げたいのは、イエスさまが弟子たちに「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」とおっしゃった言葉は他の言葉で言い換えることができないということです。

そうとしか言いようがないことなので、たとえそれで多くの弟子たちがつまずき、イエスさまから離れていく原因になったとしても、それでイエスさまが責められる理由にはならない、ということです。

つい最近、大きく報道された猟奇的な事件があったばかりですので、そういうのと混同されるのは避けなければなりません。しかし、いま申し上げているのも、人の話の聴き方の問題です。

「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」と言われて「はいそうですか、分かりました」と、言われたとおりに行動を起こすような猟奇的な人はそうそういないし、いたら困ります。そのようなことは通常ありません。しかし、イエスさまとしては、そうとしか言いようがない、他の言葉で言い換えることができない、そのような思いでこのことをおっしゃったのだと考えることができると思うのです。

「私は思います」と説教で言いますと、厳しく批判されることがあります。「牧師の意見など聞いていない。我々は神の言葉を求めているだけだ」と猛烈に反発されることがあるのですが、そういうのも人の話の聴き方の問題です。はっきり言えることについては、はっきり言う。はっきり言えないことについては、はっきり言わない。断言できないことは断言しない。それもわたしたちが聖書を読むときに大事なことです。

別の言葉で言い換えることができない言葉は、聖書の中にたくさん出てきます。たとえば「神さま」は他のどの言葉で言い換えることができるでしょうか。「救い」という言葉はどうでしょうか。「罪」という言葉はどうでしょうか。

「聖書は現代人にはよく分からない書物なのだから現代人の言葉に置き換えることによって分かりやすくすべきである」という議論がなされることがあります。しかし、そう言われてもどうしようもない、他の言葉で置き換えようのない言葉が、聖書の中には満ち満ちています。

「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」とイエスさまが弟子たちにおっしゃったことは、実はおそらく文字通りの意味しかありません。イエスさまは本当に、本気でそう思われたので、そうおっしゃったのです。

そういうふうに言いますと、みなさんは驚かれるでしょうか。しかし、全く同じではないかもしれませんが、ここでイエスさまがおっしゃっているのと似ていることをわたしたち自身が考えたり言ったりすることはありうると、私は思うのです。それとも、こんなことはたったの一度もお考えになったことも言ったこともないでしょうか。

たとえばわたしたちは「あなたにわたしのすべてをあげる」とだれかに言ったことはないでしょうか。私はたぶん言ったことがあります。妻に。あるいは子どもたちに。みなさんはないでしょうか。そういうことを、いまだかつて一度も考えたことがないでしょうか。

そんなはずはないと思うのです。口にしたことがなくても、考えたことくらいはあると思うのです。それとも、あなたのものはわたしのもの。世界のすべてはわたしのもの。わたしのものはわたしのもの、でしょうか。それはあまりにも個人主義的すぎないでしょうか。利己的すぎないでしょうか。

イエスさまは弟子たちに、本当にご自分の肉を食べ、血を飲んでもらいたかったのだと思います。このたびこの箇所を改めて読み直してみて、そう思いました。

そして、これはイエスさまが弟子たちに、そしてわたしたちに示してくださった愛の究極表現であると思いました。その意味を言うとしたら、「あなたにわたしのすべてをあげる」ということだと思います。

自分の分をしっかりとキープして「残ったかすをあなたにあげる」とイエスさまは言っておられません。「あなたはあなたで生きてください、わたしはわたしで生きていきます」とも言っておられません。

今日の箇所の言葉は、私が言っていることではなくイエスさまがおっしゃったことですので、私が勝手にオブラートに包むことはできません。しかし、どうかみなさんはつまずかないでいただきたいと願っています。

イエス・キリストと共に生きるとはそのようなことです。キリスト者であるというだけで、世間の中で誤解されたり、教会の中ですら難しい要素があります。しかし責任はすべてイエスさまがとってくださいます。

(2017年11月12日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)