2017年8月17日木曜日

The Inori (Prayer) Festival 2017 in Okayama


Dear Ladies and Gentlemen,

I heard with big surprise that my beloved city Okayama will become the holy ground of prayer, soon.

It's a big news! Then I will recommend you to participate the event. Not only the persons at Okayama city, but also at more far places.

There is no doubt that the event is interesting. The place will be the Okayama Church, the United Church of Christ in Japan (UCCJ).

The Okayama Church is near from Tenmaya, the most famous, traditional and large department store in the most central of the Okayama city.

The admission is free. I also would like to join from Chiba. But I also heard from one of the chief organizer of the event that...

they are looking for the following persons.

- The cosplayers who can participate the event.

- The attendees of the talk live.

The talk live of the couple of the Buddhist professional Rakugo teller wife and the Christian professional magician husband.

- The Comiket's sellers.

- The advertisers and collaborators of the event.

Then let us cheer and join that by all means.

Especially the persons who have each histories in Okayama (I myself too). This will certainly be an opportunity to make Okayama famous.

I expect this big event even to be taken up in Okayama's newspaper and Television.

If we do not, who else will cheer it?

'If I do not, who else will do it?' This is the word of Denchu Hiragushi , the sculptor in Okayama.

August 17, 2017

Yasushi  Sekiguchi


「いの☆フェス2017」の開催地は「岡山」じゃ!




わしからも謹告するわ。

わしの大事な岡山がついに祈りの聖地になるらしーけーな。すげーじゃろ。

岡山の人だけじゃのーて遠くの人も行かれーよ。

もんげーおもしれーけーな。

場所は日本キリスト教団岡山教会じゃ。

天満屋の近くじゃが。岡山の真ん中のえーとこじゃ。入場無料じゃし。

わしも行きてーなー。

当日コスプレする人と、

「尼さん落語家とクリスチャン曲芸師のぶっちゃけ夫婦(めお)トーク」を聴きに来てくれる人と、

コミケに出品する人と、

宣伝してくれる人・団体がまだまだ足りんらしいけーな。

みんなで応援せんといけんが。岡山を有名にするチャンスじゃが。

岡山の新聞とかテレビとかで取り上げてくれんかなー。

岡山の人が応援せんかったら誰が応援するんで。

「わしがやらねば誰がやる」じゃが。

岡山の人ならだれでも知っとる言葉じゃろ。

(この投稿、爆いいね、爆シェア、爆リツイート歓迎じゃが)


2017年8月13日日曜日

みんなで分け合う喜び(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書6章9~11節

関口 康(日本基督教団牧師)

「『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこにはたくさんの草が生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」

今日もヨハネによる福音書を学びます。先ほど朗読していただきました箇所に描かれているのは、イエスさまが御自身のもとに集まった5千人の人々に食事をふるまったという出来事です。このことは新約聖書の4つの福音書すべてに描かれています。それぞれの福音書に記されている内容には少しずつ違いがないとは言えませんが、大きな差はありません。

出来事の流れは次のとおりです。発端は、イエスさまがガリラヤ湖の向こう岸に渡られたことです(1節)。すると、大勢の群衆がイエスさまの後を追いました(2節)。するとイエスさまは山に登られ、弟子たちと一緒にそこにお座りになりました(3節)。そしてイエスさまは、御自身のもとに集まった大勢の群衆の食事についての心配をなさいました。

「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた」(5節)と書いてあるとおりです。しかし、すぐに続けて、そのようにイエスさまがおっしゃったのは「フィリポを試みるため」(6節)であったとも書かれています。「試みる」とは、テストすることです。イエス先生が学生フィリポに試験問題をお出しになったのです。

そのときのフィリポの答えは次のようなものでした。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)。

「デナリオン」は当時のローマの銀貨の単位です。1デナリオンが当時の労働者の1日分の賃金に当たります。それが今のわたしたちにとってのいくら分かを言うのは難しいことです。労働者の賃金にばらつきがありますので。

しかし、話を単純にするために、1デナリオンを1万円と考えることは不可能ではないかもしれません。それで言えば、フィリポがイエスさまに答えた「二百デナリオン分のパン」は200万円分です。あるいは、1デナリオンを5千円とすれば100万円分です。どちらにしても高額です。

しかし、金額の問題もさることながら、ここでわたしたちが考えなければならないのは、フィリポが返した答えの意味です。それが仮に、今の200万円分のパンに相当するとしても、100万円分のパンに相当するとしても、それだけでは足りないとフィリポがイエスさまに答えたとき、それだけのパンを、それを買うためのお金を、はい分かりました、これからわたしたちが全力で準備いたします、という意味で答えているかどうかが問題です。

全くそうではありませんでした。フィリポは、わたしたちにそれだけのパンやお金を準備する力はありませんと言いたかっただけです。それはわたしたちには不可能です、そのような無理なことを、あなたはわたしたちにご命令なさるおつもりなのですかと、イエスさまに不平を述べているだけです。それを言いたいがために「二百デナリオンのパン」という数字を言っているだけです。

このフィリポの答えをイエスさまはどのようにお聞きになったでしょうか。それが、わたしたちがよく考えるべきことです。5千人に二百デナリオン分のパンが必要だというのは、あなたの言うとおりであると、イエスさまはフィリポをおほめになったでしょうか。

二百デナリオンが200万円なら1人400円、100万円なら1人200円です。コンビニに行けば、それくらいのパンやお弁当が売っている。現実的な答えを考えてくれたフィリポよ、よくやったと喜んでくださったでしょうか。どうやらそうではなさそうです。雲行きは怪しいです。

なぜなら、フィリポの答えは大勢の群衆の食事の心配をなさったイエスさまのお気持ちに同意し、なんとかしてこの事態を打開したいと思いますという意思表示ではないからです。はなからあきらめ、そんなことは無理です、不可能ですと、ただ言いたいがために言っているだけだからです。なんとかしようという姿勢が少しも見られません。イエスさまが了解してくださるはずはありません。

そのとき、イエスさまの弟子のひとりでシモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスさまに次のように言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。

アンデレはフィリポに助け舟を出しているのかもしれません。いくらなんでもフィリポの答え方ではまずい。イエスさまの顔色が悪い。このままだと弟子たちみんながお叱りを受ける。もう少しましな答えを考えなくてはと、大慌てだったかもしれません。

するとそのとき、ちょうどいいところに一人の少年が見つかった。この少年は5つのパンと2匹の魚を持っている。我々の側に全く手持ちがないわけではない。完全にゼロではない。しかし、いくらなんでもこれだけで5千人の食事をどうにかするのは無理であると、アンデレも言おうとしています。

つまり、アンデレの答えもフィリポの答えと結論が同じであるということです。アンデレが少年を見つけ、5つのパンと2匹の魚があるということをイエスさまに知らせたのは、「これだけありました。これでなんとかしましょう」とイエスさまに提案するためではなく、「これだけしかないのであきらめましょう」とイエスさまを説得するための具体的なデータを探してきただけでした。

皆さんはどう思われますでしょうか。つまらない話だとお思いになりませんか。フィリポにしてもアンデレにしても、共通しているのは、危機的な状況に直面したときに「これだけあります。これでなんとかしましょう」と前向きな提案をするのではなく、「これしかありません。だからやめましょう、あきらめましょう」と後ろ向きの提案しかできない人々であったということです。

たとえばの話ですが、もしみなさんが会社の人事部に配属されて新入社員の面接を担当することになったとき、最初から最後まで後ろ向きのことしか言わない、否定的なことしか言わない人を、それでも採用しようと思いますでしょうか。「無理です、無理です、やめましょう」としか言わない人を。

何もイエスさまは、現実離れした大言壮語を弟子たちに言わせようとしたのではないと思われます。しかし、はなからあきらめていて、どこかしら投げやりで、どうせ無理だから、我々にどうすることもできないと一方的に言い張るだけで、それ以上のことを考えるのをやめてしまう。どれほど現実のニードがあっても、わたしたちにその責任を引き受けるのは不可能であると、ひたすら逃げ腰でいる。そのような弟子たちの姿にイエスさまはがっかりなさったのではないでしょうか。溜め息しか出ない。二の句が継げない。そういうお気持ちになられたのではないでしょうか。

実はここで私はもう一つ気になる点があるのですが、それは後回しにします。特にこのアンデレの答えの中に気になることがあります。腹が立つほどに。しかし、それは後で申し上げます。

さて、それでイエスさまがお命じになったのは「人々を座らせなさい」ということでした(10節)。「そこには草がたくさん生えていた」(10節)と記されています。

「草」についてはマタイによる福音書にもマルコによる福音書にも記されていますが、ルカによる福音書には記されていません。まさかとは思いますが、皆さんの中に「ああそうか、この草をむしって食べたのか、そういう話だったのか」と連想なさる方がおられないことを私は願います。

そういう話ではありません。固い地べたの上ではなく柔らかい草の上に座るように群衆に呼びかけたのはイエスさまの優しい配慮だったと考えるほうがよろしいのではないでしょうか。

そしてイエスさまがお始めになったのが、少年が持っていた5つのパンと2匹の魚を、5千人の人々に「分け与える」ことでした。「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいぶんだけ分け与えられた」(11節)と記されています。他の福音書にも基本的に全く同じことが記されています。すべて確認します。

マタイによる福音書の記述は次のとおり。「そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(マタイ14章19節)。

マルコによる福音書の記述は次のとおり。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(マルコ6章41節)。

ルカによる福音書の記述は次のとおり。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(ルカ9章16節)。

今確認したことで分かるのは、すべての福音書に共通しているのは、イエスさまが「五つのパンと二匹の魚」を「5千人に分け与えた」ということです。それ以上のことは記されていません。「五つのパンが五千個に増えました」とも「二匹の魚が二千匹に増えました」とも記されていません。

しかし考えてみれば、「分ける」ということはある意味でそういうことかもしれません。5つのパンを5千個にすることは物理的に可能です。一つのパンを千個に分けるのは難しいことではありません。そこに超自然的な力も奇跡の要素も必要ありません。ただ「分ける」だけであれば。

そんなばかな、と思われるかもしれません。すぐあとに「人々が満腹した」(12節)ことや、パン屑で12の籠がいっぱいになったと記されていること(13節)はどうなるのかと、きっとお思いになるでしょう。

私はそのことを否定したいのではありません。もちろんこの出来事はイエスさまが行われた奇跡として確かに記されています。しかし、聖書に記されているのは、イエスさまはがなさったのは「五つのパンと二匹の魚」を「五千人に分け与えた」ことだけです。それは物理的に可能なことです。

いま私が持っているわけではありませんが、ここに5千円札があることを想像してみてください。この5千円札を5千人に分けることになりました。それは可能です。ただし、ハサミで5千分の1に切って分けるのは、ばかげています。1人1円ずつにして分けるでしょう。ただそれだけです。なんら奇跡の要素はありません。

お金と食べ物は違うと思われるのは当然です。私も一緒くたに考えているわけではありません。ただ、この出来事を理解するためのヒントにはなると思っています。

この出来事に謎の要素はいくつかあります。一つは、5千人もいた人の中で食べ物を持っていたのが一人の少年だけだったということがありうるだろうかということです。もう一つは、少年が持っていた魚は、生だったのか、それともすでに調理済みだったのか、ということです。もし生魚だったら、どうやって分けたのかが気になります。刺身でしょうか。包丁があったのでしょうか。

さてそろそろ、先ほど私が、アンデレの答えの中に腹が立つほど気になることがあると言ったことを申し上げます。アンデレは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」(9節)と言いました。

私が気になるのは、アンデレはこの「五つのパンと二匹の魚」をどうするつもりだったのかということです。食事はすべて自己責任だ、我々の責任ではないと言い放って、5千人の群衆は手ぶらで帰らせて、「五つのパンと二匹の魚」をイエスさまと弟子たちだけで全部せしめるつもりだったのでしょうか。その表現しがたい狡猾さ、ケチくささ、特権意識が、私には気になります。

もし仮に弟子たちがそうしたとしても、群衆にはバレなかったかもしれません。しかしイエスさまがそれをお許しになったでしょうか。「5千円しかない。だから分けられない」と言い張って、5千円を独り占めするか、それとも1円ずつにして全員に分けるか。イエスさまならどちらをお選びになるでしょうか。どちらが「皆の満足」になるでしょうか。

しかし、この箇所についての説教や解説を私は何度となく聴いてきましたが、だいたいいつも奇跡の話で終わってしまい、「分け合うこと」の意味を教える話になりません。それが私にとっていちばん謎です。

人のお腹は不思議なものです。1日2日食べなくても平気なときもありますし、のど元まで食べても満足できないときもあります。「満腹」にせよ「満足」にせよ、人の心の問題と結びついているからです。

「これしかない」からと言って分け合うことをやめ、特定の人々だけがせしめてしまうのがいちばんよくないことです。その問題を、教会こそがよく考える必要があります。

(2017年8月13日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)






2017年8月6日日曜日

聖書はキリストを証しする(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書5章39~40節

関口 康(日本基督教団牧師)

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

今日もヨハネによる福音書を開いていただきました。今日の箇所に記されているのは、イエスさま御自身の言葉です。ただし、他の福音書には出てきそうにない、ヨハネによる福音書独特の雰囲気を持つ言葉であると感じられます。

しかし、本当にこういうことをイエスさまがおっしゃったのかという問題には触れないでおきます。どのみち水かけ論になりますので。はっきり言えるのは、ヨハネによる福音書はこれをイエスさまの言葉として記しているということです。

内容的にわたしたちにとって興味深いことが記されているのは間違いありません。ここで問われている根本問題は「聖書の正しい読み方は何か」であり、そしてまた同時に「そもそも聖書とは何か」ということです。

わたしたちは最低でも毎週日曜日には聖書を開いて読んでいます。日曜日も読まないというのではさすがに困ります。もちろん、日曜日だけでは足りない、毎日読まなければならないとお考えの方もおられるでしょう。

しかし、どうあるべきだというような言い方はしないでおきます。プレッシャーを感じる人が必ずいますので。それぞれ長年続けてきた読み方を守っていけばいいことです。

そのことよりもむしろよく考えなければならない問題は、それがまさに「聖書の正しい読み方は何か」ということであり、そしてまた「そもそも聖書とは何か」という問題です。

みなさんはパソコンをお使いになるでしょうか。機械がてんで苦手だという方もおられるでしょう。私はパソコンでもなんでも「取扱説明書」を全く読まない人間です。そんなものを読まなくてもなんでもすぐに使えるという意味ではありません。むしろ全く使えません。すべては手探りです。だから最初は失敗だらけです。それでも使っているうちにだんだん分かってきます。

私の場合は「取扱説明書」を読むのが面倒くさいだけです。だから無駄な回り道をしてしまいます。しかし、回り道などしている余裕がない方は最短コースを選ぶほうがいいでしょう。そういう方々のために「取扱説明書」があります。

今申し上げているのは、聖書にも「取扱説明書」があるということです。それが今日の箇所であるということです。

わたしたちは聖書をどのように読んでも構いません。聖書はキリスト教書店だけでなく一般の書店で買えます。インターネットでも買えます。だれでもどこでも手にすることができる本の読み方を規制することはできません。しかし、聖書そのものが「聖書の読み方」を教えています。聖書の「取扱説明書」が聖書の中に記されています。それがわたしたちの助けになります。

ここに記されているのは3つの文章です。順を追って説明します。第一の文章は、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」(39節)です。

訳はこれで問題はありませんが、問題は意味です。「聖書の中に永遠の命がある」とはどういうことでしょうか。おそらく「聖書という中に永遠の命を得るための方法が記されているとあなたがたは考えている」という意味です。

ここではっきり申し上げておきたいのは、これは聖書についての正しい理解であるということです。聖書の中には「永遠の命」を得るための方法が確かに記されています。少しも間違っていません。

しかし、ここで言われているのが「聖書の中に永遠の命を得るための方法が記されているとあなたたちは考えている」ので「あなたがたは聖書を研究している」ということです。こういうふうに言われますと、それはいけないことなのでしょうか、間違っているのでしょうかと聞き返したくなります。しかし、決して間違っていません。これで十分、正しい聖書理解であり、正しい聖書の読み方です。

しかし、まだ気になる方がおられるかもしれません。ひょっとしてこの箇所で「あなたたちは聖書を研究している」と言われている、この「研究」が問題ではないかとお考えになるかもしれません。しかし、結論を先に言えば、「研究」そのものは問題ではありません。少しも間違っていません。

ここで「研究」と訳されているギリシア語の言葉は、新約聖書の中で多く用いられている言葉ではありません。この言葉が用いられている最も有名な箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章27節です。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます」。この中に出てくる「見抜く」が今日の箇所の「研究する」と同じ言葉です。

これで分かるのは、今日の箇所で「聖書を研究する」と言われているのは決して悪い意味ではないということです。聖書の意味を深く考え、洞察することです。それは、聖書の中に記された神の御心は何かを「見抜く」ことです。それが悪いということはありません。

「聖書は研究するものではない」と考える人は、教会の中に決して少なくありません。「研究する」と言われるとどうしても学校を思い出すことになります。しかし、教会は学校ではない。聖書は研究するものではなく信じるものである。そう言いたくなる気持ちは私も分かります。

日本の教会でたいてい水曜日か木曜日あたりに行われることが多い「祈祷会」を「聖書研究祈祷会」とか「聖書研究会」と名づけている教会があります。それは間違っている、聖書は研究するものではない、と言われることがあるのですが、間違っていません。教会も聖書を研究しますし、研究してもいいのです。「聖書研究」自体は問題ではありません。

しかし、あらかじめ申し上げておきますが、今日の説教の最後にもう一度この問題に戻ってきます。それは「聖書研究」には限界があるという問題です。それは最後に触れます。今申し上げられるのは、第一の文章に記されていることの中に間違っている部分はないということです。すべて正しいことが言われています。

しかし、第二の文章は「ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(39節)となっています。ここで「ところが」という否定的な接続詞が出てくるので第一の文章を否定しようとしているに違いないと、つい反応してしまいますが、否定ではありません。原文もbutではなくandの意味を持つギリシア語が用いられています。「しかし」ではなく「そして」です。

しかしそれでは、第二の文章の意味はどういうことになるのでしょうか。それをよく考える必要があります。「聖書はわたしについて証しをするものだ」の「わたし」はイエス・キリスト御自身です。そして「証しをする」とは「証言する」ことです。これまでのヨハネによる福音書の学びの中で2回「しるし」の話が出てきました。「しるし」と「証し」は言葉も意味も違いますが、内容的に重なり合うところが多くあります。

しるしの話で用いたたとえを繰り返します。空を見ると、黒い雲が立ち込めている。その雲を見て、まもなく雨が降ることを知る。その場合の「雲」は「雨」のしるしです。雲それ自体は雨ではなく、雨を指し示すものです。

それと「証し」が似ています。聖書はイエス・キリストについて証しをする。それは聖書そのものはイエスさま御自身ではないという意味にもなります。聖書そのものは救い主ではなく神でもない。聖書はあくまでも救い主を指し示し、神を指し示す存在にすぎない。それが「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われていることの意味です。

わたしたちがそんなことをすることはありえませんが、もし聖書そのものが救い主そのものであり、神そのものであるとすれば、わたしたちは聖書そのものを拝み、聖書そのものを信じ、聖書そのものに向かって祈るというようなことをしなくてはならなくなります。しかし、そんなことをわたしたちはしません。

今申し上げたことは脱線です。大事なことは、聖書がイエス・キリストを指し示す書物であり、その意味で「キリスト証言」の書物であるということを第二の文章が明言していることです。しかしそれは第一の文章で言われている「聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究すること」と矛盾することなのかというと全くそうではありません。矛盾も対立もありません。

ここで言われていることの意味は、聖書に記されている「永遠の命を得るための方法」と、聖書が指し示す「イエス・キリスト」を知ることは同じであるということです。一方に「永遠の命」があり、他方に「イエス・キリスト」がおられるので、聖書の読者はどちらか一方を選ばなければならないということではなく、二つのことは一つであると言っているのです。

これで第三の文章の意味ははっきりお分かりになるでしょう。第三の文章は「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(40節)です。

「永遠の命を得る方法を知ること」と「イエス・キリストを知ること」という二つのことは一つのことなのに、まるでそれが二つのままであるかのように思っている。あれかこれかの二者択一を迫られているかのように思い込んでいる。その認識は間違っていると、イエスさまはおっしゃっているのです。

そして、聖書を研究する人々が「わたしのところへ来ようとしない」のはどういうわけなのだとイエスさま御自身がおっしゃっています。イエスさまは腹を立てておられるのではありません。強いて言えば、残念がっておられます。もったいないと思っておられます。そして、早く来てほしいと首を長くして待っておられます。そんなふうにとらえるほうがよさそうです。

そして、ここで「後でお話しします」と申し上げた問題に戻ることになります。「聖書を研究すること」そのものは間違っていませんが、限界があると申しました。

それは、「研究」だけであればすべて自分ひとりでできてしまうことです。「聖書を研究すること」は「イエス・キリストのもとへ行くこと」と同じではありません。自分の部屋に引きこもり、本を読み、想像力を働かせ、自分なりの結論を出して納得することはできます。しかしそれは「イエス・キリストのもとへ行くこと」とは違います。

私にとっては屈辱的な話ですが、私は子どもの頃から肥満体で、人生で一度も痩せていたことがありません。それで、子どもの頃からスポーツが苦手でした。その代わり本はよく読みました。母や伯母が教えてくれたことですが、私の記憶にない2歳くらいの頃から私はじっと黙って一人で本を読んでいるタイプだったそうです。

そして私は、スポーツが苦手だった代わりに、スポーツについて書かれている本を読むのが好きでした。「野球について」、「サッカーについて」、「卓球について」というような本を。

しかし、それは野球そのもの、サッカーそのもの、卓球そのものをプレイすることとは違います。頭の中でただ想像しているだけです。王貞治選手の一本足打法とか、サッカーのルールとか、卓球のラケットのラバーの張り方とか、興味津々でした。しかし、自分でそれをやったことはありません。

聖書も同じであると言いたいのです。聖書を研究すること自体がいけないわけではありません。しかし、そのこととイエス・キリストとの生きた交わりの中に入ることは根本的に違います。

イエス・キリストとの生きた交わりに入るためにはどうしたらいいのでしょうか。途中の議論を省いて結論だけ言えば、イエス・キリストの体なる教会の交わりに入ることです。教会の活動に参加し、教会の仲間と共にイエス・キリストの御心を行うことです。

それが「永遠の命を得ること」とどのように関係しているのかについてお話しする時間は、今日はもうありません。しかし、教会は聖書を研究するだけではなく、聖書に記された神の御心を実践し、実現していくためにあると申し上げておきます。それは神と隣人を心から愛し、互いに助け合うことを意味します。それが「永遠の命」に至る道です。

(2017年8月6日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年8月5日土曜日

牧師の転任と世代の関係

牧師の転任の頻度と世代は関係がある。戦後日本にキリスト教ブームが起こった。ピークは1950年代。その頃作られた教会の牧師になった人は初代牧師でもあり、同じ教会に長くとどまる人がいた。しかし当時30代だった人が仮に40年同じ教会にいたとしても、1990年代には交代を余儀なくされた。

その1990年に私は牧師になった。当時25歳。1990年代以降、どこの教会も牧師交代と教会堂・牧師館の改築・新築ブーム。それでどこの教会も混乱ブーム。それを若い牧師たちの力不足のせいにされたりして。そのあたりの事情との関係で私と同世代の牧師は転任の頻度が高い。私は平均的なほうだ。

しかし、ある意味もう慣れたし、ある意味この状況を楽しんでもいる。ネットがなかったころは、教会の混乱は若い牧師の力不足のせいだなどと明に暗に断じられたりすると凹んで孤立感を深めたものだが、今は違う。同じ境遇の者たち同士で励まし合うことができる。理解者、協力者がいれば、心は折れない。

私は同世代で心が折れそうになっている牧師たちに「あと5年耐えようよ」とよく言っている。理由は書けない。あと5年でかなり変わる。良く変わるか悪く変わるかは分からないし言えない。言えるのは「苦難→忍耐→練達」を経た先に「希望」があるということだ。逆算すれば「今」が大事だということだ。

2017年8月3日木曜日

神学はラベリングではない

ウェスレー研究は実用性高いですよ。日本国内に多くあるいわゆるメソジスト系やウェスレー・アルミニウス系の教会は、ウェスレー本人をもっとお読みになるべきだと思うのに、そちらの方向にあまり行かれていないように見えます。学会があるのは存じていますし、メンバーの中に親しい方々が数名います。

それこそ、ウェスレーの本も、メソジスト教会の歴史も知らないでWikipediaか何かで即席の知識を手に入れただけの部外者然とした人たちがウェスレーについてああだこうだと決めつけるようなことを言ってくるときが、一次文献をちゃんとやってる人たちの出番ですよ。実用性ものすごくあります。

Wikipediaに関しては両面あると思いますけどね。ガチの専門家が追従を許さないほど異様に詳しく書いていて全部読む気を失わせるようなのもありますね。他方全くお話にならないほどシロウトの作文のようなのもある。

まーまー、そんなに結論を急がないでいいですよ。ウェスレー思想の現代的意義は、ある意味で後回しでいいんじゃないですか。それより18世紀当時のコンテクストの中でウェスレーが何を考え、何を言ったかを精密に解明していくほうが。そうすれば聞く耳のある人たちは聞いて理解してくれますよ。ね。

ウェスレーとメソジスト教会の存在は、二千年のキリスト教史の中で脇道のエピソードなどでは決してなく、ど真ん中の本流ですよ。いわゆる「メインライン」です。無視できるわけがありません。まさに大船ですので、どっしり構えて一次文献をコツコツ読んでいくことあるのみですよ。ね。

そういうコツコツやる研究者と成果を待ち望んでいる人は潜在的に日本の教会にたくさんいると思います。私は直接かかわっていませんが、私もメンバー(いちおう書記)のアジア・カルヴァン学会日本支部の方々が、カルヴァン説教集をフランス語版からコツコツ訳して出版しています。そういうのが大事です。

カルヴァンも同じ目に遭うんですよ。1ページもお読みになっていないのではと感じられる方々が、文科省検定教科書『倫理』の数行の文章か、かろうじてヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』くらいまでの知識でカルヴァンの悪口を言ったりする。言葉を失うことしばしばです。

べつに誰が何を言っても構わないんですけどね。言論の自由はある。肌感覚レベルの違和感や拒絶感を持つ人がいるのも尊重されるべきだと私は思う。不可侵の教祖のような扱いをするのはかえってまずい。ただ、批判するならテキストを読んでからにしましょう。そういう当たり前のことを私は思うだけです。

反応ありがとうございます。私が書いたのは、そんな大げさなことではなく、テキストを読みもしないで、どこかで聞いたうわさ話のような、根拠にもならないような根拠で、判で押したような批判をする軽率な人が多すぎるので困ったものだと言っているだけです。でも、おっしゃることの意味は分かります。

和魂洋才ですか。大木先生と古屋先生の日本の神学あたりから出発した議論ですよね。懐かしいです。私は30年前から耳タコで聞かされてきた話です。

相手のテキストを読まないで批判するというのは、たとえていえば、カナダに行ったことがない人が、カナダについての薄っぺらな旅行ガイドブック程度の知識で、世界地図でカナダを指さしながら「カナダとはこういう国である」と論じちゃってるようなものですよ。現地の人からすれば「アホか」ですよね。

神学をやる人たちの中にそういう大げさで大ざっぱな議論する人がいるんですよ。なので、神学を知らない人たちは「神学ってあんな雑なこと言っても許されるんだ。くだらない」と思ってるだろうし、アホらしくて近づかない人多いでしょうね。でも違いますよ。もっとディティールにこだわるのが神学です。

たとえば、無教会の方々がサクラメントを否定する。外部の人が「それはけしからん」の一言で切って捨てることは簡単です。ですが、無教会の方々の言い分がある。その中へと深く分け入って、無教会の方々の側に立って悩みぬくのが本来の神学です。単純な三段論法で軽々しく批判なんかできないんですよ。

そもそも神学は教会の日々の伝道と牧会から生まれたものです。今や似ても似つかぬ大げさで大ざっぱなヘリクツに成り下がっているかもしれませんが。伝道と牧会にとって重要なことは、相手の心と立場に寄り添うことです。「あなたは間違っている。私が正解を教えてあげる」というスタンスの正反対です。

私が現代のいわゆる「批判的な」聖書学が素晴らしいと思っているのは、過去のある時代の聖書の読み方に基づいて成立した教会の教義や教理「に」聖書「を」従わせることをせず、「その聖書の読み方が間違っている」と指摘することで教義や教理そのものを根本から問い直す視座を持っておられるからです。

とにかく私が言いたいのは、テキストを深く読むことがすべての学問の始まりであるのと同様に、神学も全く同じだということです。だから私は、ウェスレーであれ、ファン・ルーラーであれ、ひとりの神学者のテキストをトータルに読む作業が大事だと思っています。つまみ食いでなく、いいとこどりでなく。

私の意図が伝わっていないようですね。私が嫌がっているのは、まさに今お書きになったような、「はいこれは中世カトリック。はいこれは近代主義。はいこれは宗教改革の立場」というような三段論法で問題を単純化して分かった気になることです。世界地図でカナダを見るような視点だと言っているのです。

「宗教改革」と一言で言っても、改革者ひとりひとりの言っていることは違うし、その中のひとりでも時期や状況によって思想や立場が変化していたりするわけでしょう。「これが宗教改革の立場です」だとか、なんでそんな雑なことを大胆に言ってのけることができるのか分からないと思うことがありますよ。

そんなのは神学でもなんでもなくて、ただのラベリングなんですよ。レッテル貼り。それで相手を「理解」したことには全くならないし、「分析」すらできていません。むしろ偏見や差別を助長するだけです。即興のディベートゲームには瞬間的に勝利できるかもしれませんが、それで誰も幸せにはなりません。

厳しいと言っていただけて光栄です。私はツイッターで議論しているつもりはありません。無教会ガーとか、宗教改革ガーとか決めつけるようなことをお書きになるので、いちいち不愉快に思っているだけです。お目にかかったことのない方ですので「忠告」ではありませんよ、そんな責任は私には皆無です。

私は「機嫌」など少しも損ねていません。私には無教会の親友もいるし、カトリックの親友もいるし、聖書学者の親友もいます。その私の親友たちを、あなたの粗雑な言葉で傷つけられることに耐えがたいものを感じているだけです。「いちいち不愉快に思っている」とはそういう意味です。もういいですかね。

(追記)

以上の趣旨は「万国の牧師よ勉強せよ」ということではない。「よそさまの教派・教団のことについて軽々しい口を叩くなよ」と、軽々しい口を叩くクセがあるとおぼしき人に向かって個人的に文句を言っているにすぎない。そこまで言うならその教派・教団の「内部の論理」に寄り添って考えたうえで言えと。

よく知りもしない人たちのことを外部から論評すべきでないと言っている。どこの教派・教団でも、無教会でも、それぞれの内部に葛藤があり、苦しみ、涙を流しながら危機と向き合い、未来を切り開こうとがんばっている。そんなの知るかと言わんばかりのスタンスで、外からガタガタ言うなと、言っている。


2017年8月2日水曜日

真に突き抜けた人は謙虚だ

もちろん「教会」こそがお互いの学歴の自慢大会の場になっていたりする現実も、私はよく分かっています。「くっだらないなあ」と内心ではいつも思っていますが、いちいち目くじらを立てずに適当にお付き合いしています。でも、その自慢大会の中で傷ついている教会員がいることを絶対に忘れないように。

それに、大学でも高校でも「学校」には必ず多くの卒業生がいます。自分だけが卒業したわけではなく非常に多くの「自分と同じ学歴」の人々がいます。自分の学歴を卑下することは「自分と同じ学歴」の人々を貶め、傷つけることを意味します。そういうことを牧師や神学生が率先してすべきではありません。

私は「学歴コンプレックス」は全く持っていませんよ。だって、そういうのを競うレースから降りたのですから。競い合っている人たちを軽蔑するつもりはありませんが、降りる権利がある。マウンティンガー・ゼットみたいな人から距離を置く自由がある。パラダイムシフトですよ。世界が別様に見えますよ。

ここから先は言いにくいことですが、ポスドクで仕事がなくて高校に教えに来る非常勤の先生がたがいますが(聖書科ではない)、生徒の評判が良い先生も良くない先生もいる。自分の学歴を鼻にかけているのが伝わってしまう先生は後者(評判悪い)。そういうオーラを全く感じない先生は前者(愛される)。

今書いたことで私が言いたいのは「学歴コンプレックスを持っていないこと」と「自分の学歴を鼻にかけること」は全く違うことだ、ということです。その違いを説明するのは難しいことですけどね。私が生徒から愛される教員だったとは思いませんが、「どういう先生は嫌われるか」だけはよく分かりますよ笑

すでに始まっていると思いますが、予備校は消滅する可能性があるでしょう。そうでなくても少子化で、大学全入時代で、しかもネットが発達してきて、予備校に行ってもどのみちビデオ講義で、それと同じネット環境が各自宅に完備されている時代ですから。予備校の「功罪」が問われる日が来るでしょうね。

予備校の先生がたを傷つける意図で書いていることではありませんので悪く思わないでくださいね。というか、ご自分たちがいちばんよく分かっておられることだと思う。だって賢い方々だもの。学校の先生がたも同じ。賢いから先生してるんでしょ。自分の道は自分で切り開けよと、周りの人は思ってますよ。

まあ、ここから先は暴言のたぐいですが、中途半端な人がいちばん人を見くだしますよね。自分よりほんの少しでも劣っていると見える(主観の問題)人を見さげ続けることで自分の位置を確認し続けるというか。自信の無さがよく表れている証左じゃないですかね。真に突き抜けた人はそんなことしませんよ。

そう。そのマーチ、マーチのオンパレード。ひとくくりにしすぎですよねえ。MARCHの一校一校ゼンゼン違うだろうと思う。33年前に私がレースから降りた理由も「医学部」か「法学部」かどちらか選べというような進路指導の声を耳にしたから。何それと思った。偏差値教育の空虚さをそれで察知した。


2017年7月31日月曜日

レースはもう終わっている

15年以上前、マウンティングしたがり男と出会った。男の職業は牧師。私が高校を出てストレートで牧師養成専門の「偏差値35と進学塾が表示する大学」に入ったと言っているのに「共通一次は受けただろう。その偏差値はどのくらいだったのか」としつこく聞いてくる。受けていないと言っているのに。

Fランとでも何とでも呼んでもらって構わないが、そういうのからフリーになれよと本気で言いたくなるときがある。もっと大変だけどね。そういうことで評価されることは一切ないから。その代わり手に入れられるものも大きいよ。躊躇なく全く外から(ganz andere)今の競争社会を分析できる。

ちなみに私の出身大学は、私が受験した33年前(1984年)から今日に至るまで、進学塾が「偏差値35」と表示し続けている。高校からのストレート入学者を受け入れる学部1年の定員が、当時も今も10名弱。つまり、その10名弱の椅子を獲得できるかどうかの偏差値が表示されているというわけだ。

よし、争え。その10名弱の椅子を奪い合え。死に物狂いで闘い、見事その椅子をかっさらえ。そういうバトルでも始まれば偏差値はうなぎ上りだろう。ただし、その人は必ず牧師になること。その「牧師になること」という点については最近ごくわずかな緩和策が講じられたようだが、本質は変わっていない。

話を元に戻す。15年以上前に出会ったマウンティングしたがり男。職業は牧師。なんかねえ「牧師のくせに」という言葉はこういうときこそ使うべきだと思う。なんだか意味不明なほど学歴コンプレックス持ちすぎの牧師多すぎなんじゃないの。いいかげん降りてくださいね、レースもう終わってますからね。

あと留学と学位。出身大学の影響であることは間違いないが、私はそういうのに全く興味がなかった。ややナショナリスティックな感覚も含んでいたことを否定しないでおくが、大学や神学校の教授になる方々は別格として、牧師として働くために必然性がないし、何の意味を持つのかが本当に分からなかった。

しかしその後、日本キリスト改革派教会に移ったとき、この教派独特のインターナショナリズムの影響を受けた。いくらか皮肉を込めた言い方をすればインターナショナルな「改革派教会」なるものの日本ブランチであるかのように自らを位置付けることを全く苦にしていないように見える人々の影響を受けた。

神学を重んじる教派にしては日本国内の教派神学校が「大学」でないことが関係しているのかもしれないが、私にはよく分からないほどの外国志向があり、留学と学位に興味津々の牧師たちが結構いたように思う。へえそんなものかと最初は驚いたが、慣れというのは恐ろしいもので、私も興味を持ちはじめた。

ただ、今思えば不覚にも留学と学位にほんの少し興味をもってしまったことの理由は本当にひとつだけだった。ここでまたファン・ルーラーが登場する。ファン・ルーラーの翻訳をしてなんとか出版にこぎつけたいと思った。そのときに訳者の肩書きとしては今のままでは足りないなと思った。ただそれだけだ。

しかしファン・ルーラーに関しては紙の本の出版は私の仕事ではないと悟ったので、その問題は片付いた。今の私のもっぱらの関心は日本語にもっと習熟したいということだ。難読漢字や典雅な古典表現を使えるようになりたいという意味ではない。威圧感がなく安心してもらえる言葉を書けるようになりたい。


2017年7月30日日曜日

善いことを躊躇しない(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書5章15~17節

関口 康(日本キリスト教団教師)

「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』」

ヨハネによる福音書の学びの6回目です。先週から数えてなんと4週連続で私が説教です。今日もどうかよろしくお願いします。

先ほど今日の箇所を朗読していただきました。これだけ読んでも意味がよく分からないと思います。と言いますのは、この箇所には、すでに一つの出来事が起こった後に、その結果として起こったことだけが記されているからです。その部分だけを切り取って朗読していただきました。

どのような結果だったかと言えば、ユダヤ人たちがイエスさまを迫害しはじめたという結果です。「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(15節)と記されているとおりです。

もう一つ、イエスさまがその人をいやした日が「安息日」であったこと(9節)も迫害の理由です。しかし、今日は「安息日」の問題は、時間の都合で割愛します。「いやし」の問題だけを扱います。

しかし、これは奇妙な話です。イエスさまは一人の人の病気をいやしたのです。それをきっかけにイエスさまが迫害されはじめたというのです。原因と結果の関係でいえば、原因が病気のいやしで、結果が迫害だったというのです。

内容はあとで見ますが、この人は38年間も病気で苦しんでいました。しかし、イエスさまがその人を長年の苦しみから解放なさったのです。それは善いことです。悪いことであるはずがありません。しかし、それでイエスさまへの迫害が始まったというのです。理不尽としか言いようがありません。

しかし、ここで一つ考えたいことがあります。このような結果になることをイエスさまが全く予測しておられなかっただろうかという問題です。

イエスさまは純粋にご自分は善いことをしたと思っておられた。しかし、全く予想していなかった結果が生じた。「ええっ、びっくり。なぜ私はこんな目に遭わなきゃならないの。こんなはずではなかった。後悔先に立たず」と狼狽えるばかり、ということだったでしょうか。

それは違うと思います。むしろイエスさまはそういう結果になることをよく分かっておられました。しかし、だからといって躊躇なさらなかったのです。この点が大事です。迫害を恐れて何もしないとか、人目を気にして手を引くとか、そういうことをイエスさまは全くなさいませんでした。

イエスさまが躊躇なさらなかったのは、38年間も病気で苦しんでいた人を助けなければならないとお考えになったからです。そのことを決心なさったからです。その人を助けた結果として御自分の身が危険にさらされることになるとしても、そこで躊躇なさるような方ではなかったのです。

そのようなイエスさまだからこそ十字架につけられました。イエスさまの十字架の死は、ご自身は全く予想していなかった不慮の事故などではありません。イエスさまは、あらかじめの決意と覚悟をもって十字架をめざして歩まれました。その点を後から付け加えられた話であるかのように言われるのは困ります。そのことを最初に確認しておきたいと思いました。

5章の冒頭から始まっているのはイエスさまがエルサレム神殿に来られたときの話です。「ユダヤ人の祭りがあったので」(1節)と記されていることから分かるのは、そのときエルサレムは非常に大勢の参拝客で賑わっていたであろうということです。

「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった」(2節)とあります。「羊の門」はエルサレム神殿の北東に、読んで字のごとく羊が通る門として設けられたものです。その羊は神殿の祭儀に犠牲としてささげられるために連れてこられました。

そして、そこに今日の箇所の出来事に直接関係する二つの重要なポイントが出てきます。一つは「回廊」、もう一つは「ベトザタ」という名の「池」でした。

「回廊」に関して「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(3節)と記されています。その場所が、ここに記されているような人々にとっての「居場所」だったと言えるかもしれません。良い意味でも、もしかしたら悪い意味でも。

「もしかしたら悪い意味でも」と申し上げたのは、神殿の門というのは、まさに入り口、あるいは出口です。神殿の中心ではなく周辺であり隅っこです。そういうところに自らの意思で集まっていたのか、それとも追いやられていたのかが気になります。

そしてもう一つ大事なポイントが、その「回廊」が「ベトザタ」という名の「池」に近かったことです。その池には言い伝えがあったようです。そのことを、これからイエスさまが病気をいやすことになる、その人自身が説明しています。

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)。

これで分かるのは、その「ベトザタ」という池にまつわる言い伝えの内容です。池の水が動くときがある。そのときにその池の中に入れば病気が治る、という言い伝えです。

しかも、この人の言い分をそのまま受け取るとしたら、みんな一緒に入っても効き目がなかったのかもしれません。一回水が動くたびに、ひとりしか入れない。その順番待ちをしていた人々が回廊にいたのかもしれません。

しかし、ここから先は全くの想像ですが、いろいろ考えるべきことがあります。この人はまさか、その同じ場所に38年間も座り続けていたのでしょうか。そういうことがありうるでしょうか。それはさすがにないだろうと私は思います。

むしろ考えられるのは、すでにこれまでにあらゆる手を尽くしてきた可能性です。自分自身もなんとかしてその病気の苦しみから解放されたいと願ってきたが治らなかった。最後の最後にこの池にたどり着いた。来る日も来る日も順番を待っていた。しかし、誰も自分を池に入れてくれる人がいなかったという可能性です。

しかし、私は一つ、とても気になる解説を読みました。それは私がいつも愛読している聖書注解の説明です。それによりますと、ベトザタの池の水の中に入れば病気が治るというようなことは当時のユダヤ人たちは誰も信じていなかったという説明です。つまりそれは迷信であると、当時のユダヤ人たちも考えていたというのです。

それはわたしたちにはよく分かる話です。旧約聖書の教えを思い返してみると、迷信的なこととは全く相容れないものであることがお分かりになるはずです。いわゆる科学的な根拠があり、あの池の水の成分の中には病気をいやす力があるというような実証的な研究が積み重ねられてきたとでもいう話であればともかく、そういう話では全くない。「ベトザタ」に関しては、当時のユダヤ人でさえ、そのような治療効果などは全く信じていなかったことであるというのです。

しかし、そうなるとどうなるのでしょうか。この羊の門の傍らの五つの回廊に集まっていた大勢の病気を抱えた人々は、だまされていたのでしょうか。それとも、自分たちもそんなのは迷信であると分かっていながら、それでも集まっていたのでしょうか。そのどちらであるかは分かりません。

しかし、もし彼らがだまされていたということであれば、問題はきわめて深刻なものになります。だましていたのは誰なのかという問題が必ず生じるからです。エルサレム神殿でしょうか。つまり、当時のユダヤ教団の指導者たちでしょうか。その人々が、エルサレム神殿で行われるお祭りの参拝客をひとりでも多く集めるために、ベトザタの池にまつわる言い伝えなどと称して、ありもしないことを言い広めていたということでしょうか。そういうのを今の私たちは「悪質な宗教ビジネス」と呼ぶのではないでしょうか。

いや、そんなのは全く違うと。そんなのは言いすぎだし、考えすぎだと反論されるかもしれません。回廊に集まっていた病気の人たちも、それが迷信であることくらいみんな分かっていたことなのだと。すべて織り込み済みだった。そのうえで、いわば観光の一環として、遊びの一種として池に入る順番を待つゲームをしていただけなのだと。「悪質な宗教ビジネスだ」などと目くじらを立てて言うようなことでは全くないのだと、そういう見方もできるかもしれません。

しかし、もしそうであれば、事態はもっと深刻になります。この38年間も病気で苦しんでいた人が、イエスさまが「良くなりたいのか」とお尋ねになったときに「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と答えたことの意味は一体何なのかということが、ひどく謎めいたものになります。

2つの可能性を考えることができます。第1の可能性は、もしこの人が自分で言っているとおりのことを本気で信じ込んでいたとしたら、それは完全に詐欺に遭っていたことになります。つまりこの人は100パーセント被害者です。ただし、その場合は誰がこの人をだましていたのかを問題にしなければならなくなります。神殿がだましていたのか、それとも他のだれなのか。

しかし、第2の可能性があります。この人自身も、こんなことは迷信なのだということが分かっていたという可能性です。そんなことは織り込み済みだと。なんだかんだとやかく言われるようなことではないと。

しかし、この人自身もそういうことはよく分かっていたにもかかわらず、イエスさまにこのように答えたのだとしたら、どうなるでしょうか。私はその可能性は十分ありうると思います。しかし、それは最も深刻な状態です。この人の言葉の裏側に潜んでいる、その言葉の「本当の意味」を考えざるをえません。この人の「心の問題」に深く立ち入らざるをえません。

いろんな可能性が思いつきます。もしかしたらすべてジョークで言っているだけかもしれません。皮肉と自嘲の薄笑いを浮かべながら、こんな迷信にすがっている私ってバカでしょう、はははと。

あるいは、自分弁護する意味で言っているかもしれません。病気が治らないのは私のせいではないと言いたがっている。それはそのとおりです。しかし、あの池に私をだれも入れてくれないせいだと言いたがっている。人のせいにし、池のせいにしている。

あるいは、完全な絶望、虚無主義(ニヒリズム)に陥っていたのかもしれません。こんなのが迷信であることなど、とっくの昔に分かっている。しかし、こんなことにでもすがっていなければ、私は生きていられない。いっそ治らなければいい。自分は早く死にたいのだ。早く私を殺してくださいと。そのように言いたがっているのかもしれません。

この人の返事を聞いて、イエスさまはこの人を救う決心をなさいました。このまま放っておくわけにはいかないと思われました。そして言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)と。

そのとき起こったのは、この人を38年間も苦しめてきた病気が一瞬で吹き飛んでいく奇跡でした。しかし、それだけではありません。イエスさまはこの人を、体の苦しみからだけでなく、心の苦しみから解き放ってくださいました。迷信からも、自嘲からも、虚無主義(ニヒリズム)からも、それらすべての背後にある絶望からも、イエスさまはこの人を救い出してくださいました。

わたしたちはどうでしょう。いつまで迷信にとらわれているのでしょうか。いつまで自嘲し続けるのでしょうか。それは何の解決にもなりません。しかし絶望と虚無主義に耐えられる人はいません。

わたしたちにもイエスさまは「良くなりたいか」と、いつも問いかけてくださっています。それは「良くなるための努力をしていますか」という意味ではありません。健康管理をしていますか、とか、ダイエットしていますか、という意味ではありません。しかし、「良くなりたいという希望を捨てていませんか」という意味ではあると思います。

「あなたは絶望していませんか」とイエスさまは今もわたしたちに問いかけてくださっています。そして「絶望してはいけません」と、わたしたちに強く呼びかけてくださっています。

(2017年7月30日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年7月29日土曜日

「宣教の課題」ではあるが「伝道集会」ではない

ブライダルは牧師としての行き場を失った者のバイト先などではありえず(新郎新婦にも司式者にも失礼な言い方だ)、教会の宣教の課題だと私も思います。ただ、結婚式あるいは葬式は「みことばを聞いてもらう良い機会」だとはとらえていません。結婚式も葬式も伝道集会にしてはならないと思うからです。

もちろん牧師であるかぎりどこかの教会ないし教団に所属しているはずであり、その教会ないし教団には「一人でも多くの会員を!」という渇望があり、その要請と事情を熟知する牧師たちが、それでも「無私の奉仕」として結婚式や葬式を行わなければならないなどと、いま申し上げているのではありません。

しかし結婚式も葬式も「みことばを聞いてもらう良い機会」ではありませんし、そういう動機付けでもないかぎり、教会が(教会員以外の)結婚式や葬式を引き受けることも、牧師を式場のブライダルに喜んで送り出すこともできないというのでは困ります。言葉の最も正しい意味で「あざとい」と言うのです。

今書いていることは、先生がお書きくださったことを批判する意図ではなく、もっと自由になりましょうよと、「えらそうに!」と思われるでしょうけど(すみません)お励ましの気持ちです。新郎新婦も参列者も「みことば」を求めていません。そこで牧師だけドン・キホーテになる必要はないと思うのです。

最初から最後まで式文を読み上げるだけでも、我々は結婚式において十分に牧師としての役割を果たせています。あるいは逆に、最初から最後まで冗談を言って笑わせ続けることができる話力があれば、聖書のみことばに一言も触れなくても、結婚式において十分すぎるほど牧師としての役割を果たせています。

しかし結婚式も葬式も伝道集会ではありません。そのような場にしてはなりません。教会が牧師を式場のブライダルに送り出すときに「先生、伝道してきてくださいね」と言うなら、それは間違っています。そういう意味付けができないところなら牧師を送り出すことはできないと阻止するのも間違っています。