一昨年の後半は、25年もゴミ山の中に放置していた教員免許を探し、更新講習を受講して修了試験を受け、教員採用試験(筆記、模擬授業、面接)を受け、日本基督教団転入試験(補教師試験、正教師試験、改革派加入試験に次ぐ4度目の牧師試験)を受けるという三段階認証をクリアするために必死だった。
それを毎週説教し、牧師の仕事を続けながらしていた。なので私は、試験を前にしてプレッシャーを感じている人の気持ちが痛いほど分かる。だけどね、逆の立場に立ってみれば、いいかげんな試験で「牧師」だの「教員」だの名乗っている人間がいたらどうだろうと思うのよ。厳しい試験のほうがいいよねえ。
「三段階認証」と書いたが、それはもののたとえとして書いたまでだ。日本基督教団転入試験は、教員免許更新試験とも教員採用試験ともリンクしていたわけではない。採用条件の中に「日本基督教団教師に限る」と明示されていたわけではない。誤解されると困るので、はっきり書いておくほうがよいだろう。
その3つの試験の準備をしながら、転居先の借家を探したり、家の片づけをしていた。こういうことを少し書けるようになったのは、時間に人の心をいやしてくれる面があるからだ。時間は偉大だ。記憶力が低下しているだけかもしれないが、それも含めて時間は偉大だ。すべて鮮明に覚えていたらたぶん狂う。
あの苦しかったときもネットつながりの方々に助けていただいた。あのお励ましがなかったらたぶん心が折れていたと思う。感謝の言葉以外にない。ありがとうございました。「ただいいねのみ」(ソラ・イーネ)で人は結構立っていられるものだ。不思議なこととは思わない。人はそういうものだと思うから。
ついにブルンナーの教義学を読み始めた。バルトの教義学と比較しながら読み進めるのも面白そうだが、混ぜながら読むのも面白そうだ。バルンナーとかブルトがいてもよいだろう。読者はどちらかの、あるいは誰かの主義者になる必要はないし、他方を全否定する必要もない。すべての神学に一長一短がある。
1931年発行ブルンネル『危機の神学』(新生堂)の「訳者序」に岡田五作氏が次のように書いている。「ボン大学に於けるバルト教授と相並んで、此の学派の重きをなす指導者の一人は、スウィッツル、ツーリヒ大学の組織神学教授、H. エーミル・ブルンネル博士であらう」(2頁。新漢字に改めた)。
そうなのだ。ブルンナーとバルトは勝ち負けの関係ではなく「相並ぶ関係」なのだ。両神学者の日本での紹介のされ方がバルト側に偏りすぎていただけだ。21世紀神学は、前々世紀生まれのこの2人を対等に重んじつつ、両者に対して等距離を保ち、それぞれの長所と短所を見抜く作業に取り組むほうがいい。
どうにも持って行きどころのない、ふつふつわいてくるものは、どこと限らず「学校を作ればもうかる」という前提でもなければ今の事態にそもそもなっていないだろうと感じられてならないことだが、学歴だ経歴だ、プライドだ屈辱だという人の最も弱いところを。みんながもっと独学すれば前提崩れるかも。
教員の受け取りをとやかく言うつもりはない。非常勤だけでなく有期の常勤講師も不安定そのもの。専任者も定年で終わるので、それはそれで戦々恐々。それより、いつから学校が真顔で「教育ビジネス」だのほざくようになったのか。私なんか古い頭の人間なので、そういうことを思うのだ。くっだらねえと。
2017年7月26日水曜日
2017年7月24日月曜日
拙「説教」アクセスランキング
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| 日本基督教団置戸教会(北海道置戸町、2016年2月14日) |
2016年1月から2017年7月24日現在までの拙ブログ掲載「説教」(全47編)のアクセスランキングトップ10を調べた。興味深い結果となった。「学校」の影響は強大だった。しかし「教会」も負けていない。
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拙「説教」アクセスランキング(2016年1月1日~2017年7月24日)
第1位「一タラントンを地に埋めたしもべはなぜ主人に叱られたのか」
2017年3月19日、日本基督教団習志野教会(千葉市花見川区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/03/19.html
第2位「神は世界を傲慢から救う」
2016年8月21日、日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/08/21.html
第3位「熱く生きろ!」
2017年6月27日、東京女子大学(東京都杉並区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/06/27.html
第4位「失敗を恐れるな」
2016年3月13日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/03/13.html
第5位「礼拝の意味」
2016年7月14日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/07/04.html
第6位「人を助ける働きをするとは」
2017年2月13日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/02/13.html
第7位「互いに重荷を担いなさい」
2016年6月6日、千葉英和高等学校(千葉県八千代市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/06/06.html
第8位「新しい時代に伝道を」
2017年5月14日、日本基督教団青戸教会(東京都葛飾区)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2017/05/14.html
第9位「友達を作りなさい」
2016年8月14日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/08/14.html
第10位「神があなたと共に苦悶する」
2016年11月13日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/11/13.html
第10位「キリストに従う」
2016年2月14日、日本基督教団置戸教会(北海道置戸町)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/02-14.html
2017年7月23日日曜日
信じる前に失望しない(千葉若葉教会)
ヨハネによる福音書4章48~50節
関口 康(日本基督教団教師)
「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」
ヨハネによる福音書の学びの5回目です。前回が4章で、今日も4章です。
回数を数えやすいように1章ずつ進めていくことも考えましたが、今日の箇所にはどうしても触れておきたいと思いました。と言いますのは、今日の箇所の出来事は、2回目(2017年5月28日「喜びを追い求めよう」)の2章の出来事と密接な関連があるからです。
それはイエスさまがカナでの結婚式のときに水をぶどう酒にされた出来事です。それと今日の箇所が密接に関係しています。次のように記されています。
「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に替えられた所である」(46節)。「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」(54節)。これは明らかに、2章の出来事と今日の箇所の出来事は関係があるということを読者に教えようとしている言葉です。
別の言い方をすれば、今日の箇所の出来事にはイエスさまが水をぶどう酒にしたあの出来事と本質的に共通する要素があるということです。それが「しるし」です。前回も今回も「しるし」だった。そしてこれは「二回目のしるし」だったと記されているのです。
まとめていえば、そもそもの大前提として、今日の箇所に記されている出来事は「しるし」なのだという観点からすべてを読み解く必要があるということです。
しかし、その場合の問題は「しるし」とは何かということです。その答えははっきりしています。それを見ればイエスさまこそ救い主キリストであると信じることができる、信仰の理由ないし根拠が「しるし」です。空が黒い雲でおおわれる。まもなく雨が降る。その雲が雨の「しるし」です。
そして、それはもちろん、単にイエスさまが救い主であるという客観的な事実がその「しるし」によって明らかにされたというだけで済む問題ではありません。救い主であるイエスさまがかつて大昔の人を救ったことがあるというだけでなく、そのイエスさまが今もこの私を救ってくださっているという事実が重要です。以上のことを最初に申し上げておきます。
さて、ここから内容に入ります。カナにおられたイエスさまのもとに、カファルナウムから「王の役人」(46節)が来ました。カファルナウムはイエスさまが伝道活動をお始めになった最初の拠点です。ガリラヤ湖畔の漁師の町。
そのカファルナウムから「王の役人」がイエスさまのもとに来たその目的は、その人の「息子」が「病気」だったので、イエスさまに「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼む」ためでした(47節)。
「息子が死にかかっていたからである」(47節)と記されています。自分の子どもを失うことの親の悲しみは体験した方にしか分かりません。体験したことのない者には語る資格はありません。想像をめぐらして物を言うこと自体、慎重でなければなりません。ただ確実に言えるのは、この「王の役人」は、あらゆる意味で切羽詰まった思いでいたに違いないということです。
そして、そのような追い詰められた、窮地に立たされたこの人が自分の子どもの命を救ってほしいとイエスさまのもとに助けを求めてきたということは、助けてくれるならイエスさまでなくてもだれでもよかったが、たまたまイエスさまにお願いした、ということではなかっただろうと思うのです。
今の世の中ではいろいろ語弊が出てくるところではありますが、たとえば、この人が「王の役人」であったということは、客観的な意味で社会的地位の高い人であったと考えられます。その人の息子さんであるということは、いわゆる跡取りのことなどが関係してくるかもしれない、将来を相当嘱望されていた子どもさんだったかもしれない、などなど。
だからどうしたと、それ以上のことは言えません。しかし、「王の役人」にとって自分の息子の命を預け、なんとかして助けてもらいたいと願ってイエスさまのところに来たときに、助けてもらえさえすればイエスさまでなくてもだれでもいいと思っていたわけではありません。イエスさまに対する絶大なる信頼をすでに持っていたからこそ、イエスさまに助けを求めて来たのです。
しかし、ここから先はまた非常に難しい問題に立ち入ることになります。問題はこの「王の役人」がイエスさまにそれほどまでの絶大なる信頼をすでに持っていた理由ないし根拠です。それが先ほどから申し上げている「しるし」の問題です。
最初のしるし、すなわち、カナでの結婚式でイエスさまが水をぶどう酒に変えるという、とんでもなくありえない、異常なことをなさった。そういうことができる方ならば、私の息子の死に至る病もいやしてもらえるに違いない。そういう信じ方をしたのだと思います。
すると、イエスさまはこの人に次のようにおっしゃいました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。イエスさまは冷たいことをおっしゃっているわけではありません。しかし、突き放しておられるようでもあります。
イエスさまがおっしゃっていることの意図は、「なぜあなたはわたしを信頼するのか」ということです。自分の子どもの命を他人に託すという重大な事柄をこのわたしに任せようとする、そのあなたの理由ないし根拠は何なのかという問いかけです。「しるし」なのか、「不思議な業」なのか。そんなことが理由なのかと。
このイエスさまの言葉を聞いて、「ああうるさい」と、「ああ、もうそんなことを言われるならここに来るんじゃなかった。ただ助けてほしいだけだ。助けてくれるなら、あなたではなくても、だれでもいい。うるさいことを言われるなら、もう結構だ」と、そのような反応が、もしかしたらこの人の心の中に起こったかもしれません。
そうする権利はこの人にあったと思います。しかしそれは、逆の視点に立てばイエスさまも同じだということです。ここから先は、イエスさまならそうお考えになるだろうという意味ではなく、あくまでも私の感覚で申し上げることですが、イエスさまのほうにも断る権利があるといえばあるわけです。
皆さんはどうでしょうか。わたしたちはどうでしょうか。「助けてください」と死にそうな顔と声で頼ってくる人を必ずすべて助けてきたでしょうか。今の私はひどく困っていますが、私が死にそうな顔で「助けてください」と言えば、みなさんは私を助けてくださいますか。
教会にはいろんな問題を抱えた方々が具体的な助けを求めてこられます。そのすべての人々を教会は必ず助けてきたでしょうか。そういうことは実際には不可能ですし、本人のためにならないという理由でお断りする場合も多くあります。
私たちも体験することがあると思います。私もあります。助けを求めてきた人を助けたら、他でも同じことを繰り返している詐欺師だった。あるいは、助けを求められたがやむをえずお断りしたら、あとで逆恨みされた。
いま私が申し上げていることと、今日の箇所に書かれていることとは全く関係ないと思われるかもしれません。この王の役人の子どもさんは死にそうになっていたのですよ。人の命がかかっていたのですよ。そのような切羽詰まった場面でイエスさまが「なぜ私を信頼するのか」などと、そのようなことを問題になさるはずがない。たとえ詐欺師であってもイエスさまなら助けてくださるに違いない。イエスさまを侮辱しないでほしいと思われるかもしれない。
しかし、今日の箇所に確かに記されているのは、イエスさまがこの人に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃったその言葉です。この言葉の意味をわたしたちはよくよく考える必要があると思うのです。
この人が他の人ではなくイエスさまをあえて選んで助けを求めに来た理由は、イエスさまがカナで行われた「最初のしるし」だったことは間違いありません。つまりこの人は、魔法使いか超能力者が引き起こす奇々怪々の超常現象をイエスさまに期待したのです。そういう助けの求め方をしたのです。
しかしイエスさまは、そのような理由でご自分を信頼し、助けを求めてくる人々を退けておられました。そのことがはっきり書かれている箇所があります。「最初のしるし」が描かれていた箇所のすぐ後です。2章23節から25節です。次のように記されています。
「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2章23~25節)。
さっと読むだけではよく分からない難しい言葉が並んでいますが、はっきり分かるのは、イエスさまは、御自身が行われた「しるし」を見て信じる人々を信用なさらなかった、ということです。
しかし、これは本当に難しい問題です。こういうたとえはどうでしょうか。会社が社員を募集し、応募してくれた人と面接する。その場合、客観的な意味での才能や技能や業績などをその人が持っているかどうかが全く分からない、正体不明の相手をいきなり信用して採用することがありうるでしょうか。
まして、自分の子どもの命を預けるという重大な決断を、何の「しるし」もない正体不明の相手に対してできる人がいるだろうかと考えていただけば、私が今ムニャムニャ口ごもりながら申し上げていることの趣旨をお分かりいただけるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
いま私が申し上げているのは、「イエスさまが、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と指摘されたことは全く反論の余地がないということです。全くイエスさまのおっしゃるとおりです。しかし、イエスさまはそういう相手は信用なさらないということです。さて困りました。
イエスさまがお求めになるのは、「しるし」ではなく、「わたし」を信じることです。イエスさまがなさる「しるし」や「わざ」を信じるのではなく、イエスさまご自身を信じることです。
その意味は、イエスさまという方はこんなにすごいことができる方だから信じるとか、こんなことを私にしてくださった方だから信じるというような、相手の業績を見て、その評価として信じるというような信じ方をする相手を、イエスさまは信用しない、ということです。
「王の役人」がイエスさまに必死でお願いしている言葉の中に、一つ気になる点があります。本人に悪気などは全くないと思います。しかし、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(48節)と言っています。
気持ちはものすごく分かります。しかし「子供が死なないうちに」という言葉には脅しの要素があります。あるいは命令。私の子どもが死にそうなのはあなたのせいだという意味を持ちはじめます。あのマルタとマリアが弟ラザロが死んで4日も経ってやっと来てくださったイエスさまに向かって「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言い放ったように(ヨハネ11章)。
イエスさまは、だれの脅迫にも命令にも、お従いになりません。人から頼まれるとどんなことでも断ることができないというような、お人よしの方でもありません。「しるし」を見ました、そのご立派な業績の評価としてあなたを信じてあげます、というような近づき方をする相手はお嫌いになります。
イエスさまがお求めになるのは「わたしを信じること」です。その相手を必ず助けてくださいます。私たちも同じです。私たちにもイエスさまが行った「しるし」ではなく「イエスさま」を信じることが求められています。
イエスさまは私たちの願いを願い通りに叶えてくださらないかもしれません。なぜなら、イエスさまは、私たちの自己実現の手助けをしてくださらないからです。そういうふうな求め方をする相手を退けられるからです。
イエスさまは、私たちの要望に応じるのではなくご自身の御心に従って私たちを助けてくださいます。だから、私たちは「イエスさまを信じる前に」失望してはならないのです。
(2017年7月23日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)
2017年7月22日土曜日
ファン・ルーラーと私
| ブーケンセントルム版『ファン・ルーラー著作集』 |
いろんな教会で説教するようになったのは昨年度教務教師だったときからで、それ以前は教会定住の牧師として基本的に毎週同じ教会で説教していた。その頃の説教スタイルは一定していたが、現在は各教会の実情に合わせて変えている。不統一感は自分でも否めないが、ぜひ事情と趣旨をご理解いただきたい。
ただし、教会定住の牧師だったときから(現在復帰を希望している)今日に至るまで私の説教において一貫している「人間と人間性への全面的な肯定」(その中には「自己肯定」が含まれる)という神学的論点は、ファン・ルーラーの神学への同意と共感に基づいている。これはおそらく生涯変わらないだろう。
この論点は私がファン・ルーラーの著作を読み始めてから加わってきたことではない。記憶にないほど相当以前から悩んでいた問題(私の教会生活は0歳から開始され現在51歳まで中断なく継続されている)にファン・ルーラーが、私が生まれるよりもはるか前から取り組んでくれていたことが分かったのだ。
1950年代後半のドイツで、若き説教学者ボーレンと若き教義学者モルトマンがオランダからドイツに講演旅行に来たファン・ルーラーと出会い、甚大な影響を受けた。世界的な神学者と自分を並べて語るおこがましさはないつもりだが、彼らがどれほど感動し、全く新しい視野が開けたかが私はよく分かる。
ファン・ルーラーの神学は、説教と教義学を根本から問い直す。教会の心臓にメスを入れる。軽々しいことではありえない。しかし、強い決心と勇気をもって取り組み、道半ばで62歳で病気で倒れた。世界的知名度に乏しいのはオランダ国内の教会と神学の改革に集中していたからだ。海外旅行をしなかった。
ファン・ルーラーは生涯「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde Kerk)のメンバーだったが、ファン・ルーラーの神学的視野は広く、教派を超え、国境を越えて重んじられた。彼の神学について書かれた多くの博士論文の中にカトリック教会の神学者が著したものもある。
私がファン・ルーラーのオランダ語著作を読み始めて20年になる。もっと前からファン・ルーラーの著作を読んでおられた先輩がたもおられる。私の願いは、今後も研究を続行し、日本の教会と神学に貢献することである。しかし現在は、研究はおろか生活もままならない。支援していただきたく願っている。
2017年7月20日木曜日
「ファン・ルーラー研究会」の思い出
| カレンバッハ版『ファン・ルーラー神学論文集』全6巻 |
ふと思い出した。ファン・ルーラーは日本で全く知られていないので「ファン・ルーラー研究会」という名前より「オランダ改革派神学研究会」のほうがいいのではないかと何人くらいだったかから言われたことがある。それで仲間と相談して「これからもファン・ルーラー研究会で行こう」という話になった。
そのとき私が考えたのは、他の神学者の研究会が必要であれば別に作ればいいし、間口を広くしすぎるとすでに著名な神学者の影響力に引っ張られてしまうだろうということだ。ファン・ルーラーをオランダ語から日本語に訳す。これくらいハードルを高くしておけばなかなか追随者は現れないだろうと思った。
競争したかったわけではなく、むしろ正反対で、全く競争したくなかった。競争になるようなことからは手を引こうと思った。ありがたかったのは、研究会の仲間たちの性格がどなたも温厚で、競争が嫌いで、のんびりしている方々ばかりだったことだ。生き馬の目を抜くようなタイプの人はだれもいなかった。
「ファン・ルーラー研究会」は2014年に解散したので今さらどうしたいわけでもない。当時は日本キリスト改革派教会の教師だったが、今は日本基督教団の教師である。しかしまさか日本基督教団をどうしたいわけでもないし、無力感しかないし、事実無力である。何も考えていないというのが最も近い。
しかしファン・ルーラーを読むことはこれからも続けるつもりである。いちばん励まされるし、面白くて元気が出てくるし、いろいろ考えさせられる。教団の違いを十分超えうる汎用性も順応性もある。ファン・ルーラーの神学思想の土台は三位一体論にあるので、彼の神学と無関係なキリスト教はないはずだ。
2017年7月19日水曜日
LINEをPCで再開しました
![]() |
| LINE(Windows10) |
LINEをPCで再開したらメッセージが来るようになった。最近のメールは商売系DMばかり。知人との連絡はSNSに移行。faceookもtwitterも、タイムラインよりメッセージを使うことが多くなった。複数の相手と同時進行になることもある(申し訳ない)。それをたぶん「混線」と言う。
対面でも電話でも「話し中」というのがあるが、ネットにはそれがない。自慢ではないが、たぶん年齢に関係していそうだが、私のほうからどなたかに連絡することより、他の方から連絡を受けて始まるやりとりのほうが最近は多い。「いま話し中だから後にして」とネットでは断りにくい、というか断れない。
仕事柄、深刻な相談を受ける場合もあるので、心ここにあらずの対応ではまずい。「混線」を避けるためには、連絡ツールをひとつに絞る(メールなのかfacebookなのかtwitterなのかLINEなのか)ほうがいいのかもしれないが、それぞれつながっている相手が異なるので、どれも切れない。
便利な世の中になったが、その分だけ新たな問題が発生し続ける。そうであることを苦にしているわけではないが、常に手探りの試行錯誤状態なので、いっぱい申し訳ないことをし、いっぱい謝り、いっぱい後悔と恥と苦痛を味わう。昔のままでずっと同じというのが一番楽なのさ。でも、それでは前進はない。
これからの時代を生きるための必須課題は「混線」と「コンセントレーション」(集中)を同時に成り立たせることだ(うまいことを言ったつもりだ)。「字のやりとり」ではあるので、エアでのやりとりのように「メモをとりながらでないと話の筋が分からなくなる」ことは意外に少ない。読み返せば分かる。
2017年7月16日日曜日
互いに愛し合いなさい(上総大原教会)
![]() |
| 日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市大原9696) |
ローマの信徒への手紙13章8~10節
関口 康(日本キリスト教団教師)
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』。そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」
上総大原教会の皆さま、おはようございます。日本キリスト教団教師の関口康です。この教会で3回目の説教をさせていただきます。今日もどうかよろしくお願いいたします。
3回目のご依頼をいただいてすぐ、どんな話をさせていただこうかと考えました。1回目は1月1日の新年礼拝、2回目は4月2日でした。2回とも「伝道」の話をしました。
それで結局、今日も「伝道」の話をします。しかし、いわゆるハウツーの話ではありません。そういう話が私にできないわけではありません。むしろいくらでもできます。
しかし、はっきり言わせていただきますが、ハウツーの話というのはこの教会の状況にそぐいません。現実味が全くありません。お題目のような話であれば、目をつぶったままでも言えます。こんな感じでしょうか。
とにかく人を誘わなくては教会に誰もいなくなるので、人を教会に誘いましょう。まず家族に伝道しましょう、次は友人に伝道しましょう。ご近所の人を教会に誘いましょう。
言葉で伝えるのが難しいようなら、チラシを配りましょう。トラクトというのがキリスト教書店に売っているので、そういうのを買って配りましょう。いろいろ有名人に来てもらって講演会やコンサートを開きましょう。
いろいろやってみました。結局教会に人は集まりませんでした。そうか、いろいろやってもダメなのだ。日曜日の礼拝が教会のすべてなのだ。とにかく大事なのは礼拝なのだ。
聖歌隊が欲しいが、人がいないからうちでは無理だ。奏楽者がいて欲しいが、自動演奏機でもやむをえない。とにかく礼拝は説教を聴くことだ。神の言葉を聴くことだ。
そこまで追い詰められて、思い詰めて、とにかく礼拝を重んじることにした。説教を重んじることにした。ところが、その説教がいつもつまらない。私の心に届かない。礼拝しかない教会で、説教しかない礼拝で、説教がつまらないとなると、この教会どうなるの。
よし分かった。私が牧師になってやろう。私が説教してやろう。そうすれば、この教会は以前の活気を取り戻すことができるだろう。などなど。こんなふうに、わたしたちは考え続けていくわけです。
そんなことまで考えている人はいないなどと、どうか思わないでほしいです。教会に来ている人たちはみんな、大なり小なり、こういうことを真剣に考えています。
そして私は今日このことを皆さんにはっきり申し上げておきたいのですが、教会のことを心配しているのは教会に来ている人たちだけではありません。教会に来ていない人たちも教会のことを真剣に考えてくださっています。教会の門を一度もくぐったことがない人たちも同じです。
昨年度私が勤務した学校でのことです。生徒たちにとって例外なく興味があったのは「教会は儲かるのか」ということでした。「牧師はどれくらい給料をもらえるのか」ということでした。
そういうことを、授業中でも、廊下を歩いているときでも、繰り返し質問されました。そんなに興味あるならと、私が担当していたすべてのクラスで「教会の経済と牧師の生活」というテーマで黒板に図解しながら解説したくらいです。
「へえ、たいへんなのですね、それではとても生活できないではありませんか」と心配してくれた生徒もいました。「ええっ、教会の献金はかわいそうな子どもたちや貧しい国の人々に送られているのではなかったのですか」と悲しそうな顔をする生徒もいました。
あるいは、宗教団体というのはとかくお金に汚い人たちの集まりだと教えられてきたのかどうかは分かりませんが、「教会の経済と牧師の生活」についての図解付きの私の説明を聞いて、「なんだ、意外に普通のようだ。つまらない」という反応をした生徒もいました。お金の話をすれば私の鼻を明かせると思ったのかもしれません。
いまお話ししているのは、教会の運営や経済について心配しているのは教会員だけではないということです。多くの人たちが、そして高校生たちも、心配してくれています。
「そういうのはただの興味本位である」と言ってしまえば、それまでです。しかし、わたしたちが見逃してはならないのは、教会の存在は多くの人々から関心を持たれているということです。教会は社会の中で全く孤立しているわけではないということです。
そして、その教会に対する人々の関心は、必ずしも批判的な視線ではありません。好意的な視線を多く含んでいます。
なぜ今私はこんな話をしているのかというと、わたしたちが教会の存在をこの社会の中でとにかく必死で守り抜いていかなければならないと思っているときに、つい自分たちのことを社会の中で完全に孤立し、非難を受け、中傷誹謗にさらされているかのように感じてしまうことがあるからです。しかし、そんなふうに考える必要はないと言いたいのです。
そろそろ今日の聖書の箇所のお話をしなければならないと思っています。しかしここまで話してきたことは今日の聖書の箇所とは無関係なおしゃべりではありません。ものすごく関係していることだと思っているので、このような話をしています。
「互いに愛し合うことのほかに、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)と書いてあります。これは裏返していえば「互いに愛し合うことに限っては借りがあっても構いません」ということになります。論理的に考えれば、そういうことになります。
しかし「借りがある愛」とは何のことでしょうか。「愛を貸してもらう」はどういうことでしょう。「愛を返す」という話であれば、少しは理解可能になるかもしれません。
これは愛の話です。最初は「アイ・ラブ・ユー」から始まります。そうでない始まり方はありえません。しかし、その最初のプロポーズは、必ずどちらか一方が先に言うと思います。必ずそうなります。例外はありません。事前の打ち合わせでもあれば別ですが、それもなしに互いに同時に「アイ・ラブ・ユー」を言って同時に相互の愛が始まったという人は、通常いません。
そしてそこから先は危険な状態です。もしかしたらそのプロポーズを相手に断られるかもしれないからです。その「アイ・ラブ・ユー」のボールは、ピッチャーの手からとにかく離れました。しかし、それをバッターが打たないかもしれません。キャッチャーが捕らないかもしれません。デッドボールになるかもしれません。バックネットにダイレクトで突き刺さるかもしれません。
しかしその「アイ・ラブ・ユー」ボールをホームランにするバッターもいます。サヨナラホームランでさようならという寂しい話ではありません。ピッチャーの全力投球を全力で打ち返したバッターは真剣なプロポーズに誠実に応えたのです。「私はあなたを愛している」と言われて「私もあなたを愛している」と愛し返したという意味です。ということにしておきます。
今申し上げているのは「借りのある愛」とは何なのかについての説明です。はっきりしているのは、愛は必ずどちらかから一方から始まるものだということです。必ず片想いから始まります。例外はありません。それを別の言い方でいえば、愛が貸し借りの関係にあったということです。先に愛されて、その愛を返すということですから。
しかし、ここでパウロが言おうとしていることの中心が「愛に限っては借りがあっても構いません」ということかどうかについては、疑問があるかもしれません。そうではない。パウロが言おうとしているのは「貸し借り」があってはいけないという、ただそれだけであるという見方は出てくるかもしれません。
しかし、その問題については、前後の文脈との関係を考える必要があります。「愛」の話は12章9節から始まっています。13章10節まで「愛」の話が続いています。これで分かるのは、今日の箇所でパウロが「愛」について語っていることは間違いないということです。
それはつまり、パウロがしているのは、人間関係の中には貸し借りがあってはならないという話「ではなく」愛には貸し借りがあってもよいという話「である」ということです。
ここでもう一つ、今日の箇所で大事なことをお話しします。それは「人を愛する者は、律法を全うしているのです」という言葉に続く部分に関することです。
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(8~9節)とあります。
これについて簡単に説明しますと、モーセの十戒の前半の4つの戒めは「対神関係」(神との関係)についての戒めであり、後半の6つの戒めは「対人関係」(人との関係)についての戒めであると整理できます。
そしてパウロが言っているのは、そのモーセの十戒の後半の「人との関係」についての戒めの部分を要約すると「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節、マタイによる福音素19章19節)という一言でまとめることができるということです。Love your neighbor as yourselfです。これを校訓にしているキリスト教学校があります。
そして「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(10節)と書かれています。ここに至ってわたしたちが考えなければならないのは、「隣人とは誰のことか」という問いです。それは、あの「善きサマリア人のたとえ」(ルカによる福音書10章25節以下)でイエスさまが発せられたのと同じ「隣人とは誰のことか」という問いです。
この問いの答えははっきりしています。「隣人」とは教会の人々だけではありません。キリスト者だけではありません。教会の「内」にいるか「外」にいるかの区別がない「すべての人」を指しています。それが「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めの「隣人」の意味です。
そのことが、今日最初のほうでお話しした「教会に関心を持っている人々が教会の外にも大勢いる」という話に関係してきます。また、次にお話しした「貸し借りのある愛」の話につながってきます。
今のわたしたちは、教会が無くならないように、教会の存在を守り抜くことでとにかく必死です。しかし祈っても願っても、教会にはなかなか人が来てくれません。そのようなときに、わたしたちがもしかしたら陥るかもしれないのは、教会の周りにいるのは敵だらけだ、という感覚です。
孤立感がきわまり、深刻な疑心暗鬼の状態に陥ってくると、そういう感覚が去来します。そして、それが「敵」であるならば、その存在がだんだん憎らしく思えてきます。愛することなどとんでもないという感情が生まれてきます。
しかし、それではだめです。教会の外にいる人々を心から愛することなしに、伝道は成立しません。「隣人」はキリスト者だけではありません、教会員だけではありません。教会に来てくれない、洗礼を受けてくれない、神にも聖書にもキリスト教にも興味を持ってくれない方々が「隣人」です。
その人々をわたしたちが愛することが、神から求められています。それができないと伝道はできません。わたしたちが世界を敵視しているかぎり、教会は孤立の一途です。もしそのような感覚にわたしたちが少しでも陥っているなら、根本的な方向転換が必要です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書3章16節)と書かれているではありませんか。神が愛された「世」は、世界の「世」、世間の「世」です。字が同じであるだけでなく、意味も同じです。「神は世界を愛された」のです。「神は世間を愛された」のです。
この意味での「世」も、すでに神を愛し返した人々ではなく、むしろ、そうではない「すべての人」を指しています。
神が世間を「その独り子をお与えになったほどに」愛しておられるなら、わたしたちも世間を心から愛するべきです。そうでなければ「伝道」というものは成り立ちません。
この件についてみなさんによく分かっていただけそうな「たとえ」が見つかりました。
わたしたちが教会の中から窓の外を指さしながら「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」などと言っているような教会に、だれが行こうと思うでしょうか。
この問題をよく考えていただけば、教会の進むべき道が見えてくると思います。
(2017年7月16日、日本キリスト教団上総大原教会 主日礼拝)
2017年7月13日木曜日
ブルンナーとバルトの「自然神学論争」の背景
ブルンナーとバルトの対決の背景に、当時の若手神学者バルト、トゥルナイゼン、ゴーガルテン、メルツの共同編集同人誌『時の間』をバルトがいきなり廃刊にしたことへのブルンナーの抗議がある。売れっ子バンドが「方向性の違い」で解散。第三者による仲裁が失敗して炎上拡大、といったような話である。
字と思想で仕事をする人にとって発表の場を失うこと、あるいはそれが減ることの持つ実害性は非常に大きい。インターネットがなかった時代。新聞記事にしてもらえるほど知名度があるわけでなし、本にするまでには至らない試行錯誤状態の原稿を公表するためにちょうどよかったのは同人雑誌だっただろう。
そして、同人雑誌とブログやSNSとの大きな違いは、その字と思想をマネタイズできるかどうかだとやっぱり思う。前者は可能、後者はほぼ不可能。80年ほど前の神学者たちが周囲の人々から「食うために書くのは不純だ」と言われたかどうかは分からないが、食えないと書けない、それだけは人類の不動の事実だ。
神学に「安全地帯」は存在しないが、「今日の状況」に直接絡まない書き方ができる部門がないわけではない。歴史的文献の翻訳や研究、辞書の編纂など。それでも「今日の状況」と無関係ではありえないと私は思うが、直接的言及は回避できる。しかし回避型でない直接性をバルトたちは模索したわけだ。
「教会」の存在は「教会の教師」が発する字と思想を常に無条件に支援するだろうか。そういうことは、大げさにいえば教会史上一度もなかったのではないか。両者は対立関係にあるわけではないが(それでは困る)、緊張関係はあり続けるだろう。どちらが常に善で、どちらが常に悪だということもない。
はっきり言われた経験を持つ「教会の教師」は少なくないはずだ。「ぜひとも教会の宣伝になるようなことだけを書いてほしい」とか、「教会にとって不都合なことをお書きになりたいなら、教会をおやめになってからならいくらでも」とか。こういう要求に「教会の教師」が服するなら教会は腐敗の一途だ。
おっと、私まで「直接的言及」の世界に連れ込まれそうだ。ブルンナーとバルトの対決についての昔話をしていただけなのに。「むかしむかし、あるところにブルンナーとバルトがいました。ブルンナーは山に芝刈りに、バルトは川に洗濯に行きました」という程度の当たり障りのない話にとどめておこう。
ネットでお借りした画像で申し訳ないが、これがバルト、トゥルナイゼン、ゴーガルテン、メルツ共同編集神学同人誌『時の間』(Zwischen den Zeiten)の表紙だ。ロゴのヘビメタ感たるや。このド迫力でダルダルした神学と教会を蹴散らしたわけだ。一方で絶賛され、他方で拒絶された。
いま気づいたが、画像の表紙のフラクトールは
Unter Mitarbeit von
Karl Barth
Friedrich Gogarten Dr.
Eduard Thurneysen
herausgegeben von
Georg Merz
だと思うが、いろいろ興味深い。
これを見て慰められる人がいるのではないか。『時の間』編集人筆頭者バルトは改革派で無学位で大学教授になりたてでデビュー作売り出し中。2人目ゴーガルテンはルーテル派でドクター(名誉学位)で大学教授になりたて。3人目トゥルナイゼンは改革派で無学位で教会の牧師さん。メルツは編集実務担当。
神学も同人誌から出発していいし、学位も査読もなくていい。「だれだこいつ」と思われても気にせず自分たちの書きたいことを書いて、自分たちで売ればいい。すぐ売れなくてもいいし。80年後にオークションで高額取引されているかも。ただ冊子になっているほうがいい。ブログは本棚に立たないからね。
神学の学会や研究会はどこでも、始まり方は同じだと思う。「こういうのやりたいね」「おもしろそうだね」「よしやるか」で始まる。あとは「あの先生の講義泣きそうにつまんない」「説教も意味不明だし」「本もおもしろくないし」「早くやめてほしいわ」「よし倒すか」というのも始まり方かもしれない。
ヘビメタといえば私が最初に思い浮かべるのはキッスだ。ブルンナーもバルトも「危機神学」(Theology of Crisis)と本当に呼ばれていた。そして彼らは熱心に愛を教える。I WAS MADE FOR LOVIN' YOU BABYだ。思わずイメージイラストを描いてしまった。
こうしてみると松谷信司新社長率いる新装「キリスト新聞(Kirishin)」の方向性は今の時流にかなっている。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」(マタイ9章17節)。いいぞピューリたん。負けるなキョウカイジャー。先輩がたが応援しているぞ。
字と思想で仕事をする人にとって発表の場を失うこと、あるいはそれが減ることの持つ実害性は非常に大きい。インターネットがなかった時代。新聞記事にしてもらえるほど知名度があるわけでなし、本にするまでには至らない試行錯誤状態の原稿を公表するためにちょうどよかったのは同人雑誌だっただろう。
そして、同人雑誌とブログやSNSとの大きな違いは、その字と思想をマネタイズできるかどうかだとやっぱり思う。前者は可能、後者はほぼ不可能。80年ほど前の神学者たちが周囲の人々から「食うために書くのは不純だ」と言われたかどうかは分からないが、食えないと書けない、それだけは人類の不動の事実だ。
神学に「安全地帯」は存在しないが、「今日の状況」に直接絡まない書き方ができる部門がないわけではない。歴史的文献の翻訳や研究、辞書の編纂など。それでも「今日の状況」と無関係ではありえないと私は思うが、直接的言及は回避できる。しかし回避型でない直接性をバルトたちは模索したわけだ。
「教会」の存在は「教会の教師」が発する字と思想を常に無条件に支援するだろうか。そういうことは、大げさにいえば教会史上一度もなかったのではないか。両者は対立関係にあるわけではないが(それでは困る)、緊張関係はあり続けるだろう。どちらが常に善で、どちらが常に悪だということもない。
はっきり言われた経験を持つ「教会の教師」は少なくないはずだ。「ぜひとも教会の宣伝になるようなことだけを書いてほしい」とか、「教会にとって不都合なことをお書きになりたいなら、教会をおやめになってからならいくらでも」とか。こういう要求に「教会の教師」が服するなら教会は腐敗の一途だ。
おっと、私まで「直接的言及」の世界に連れ込まれそうだ。ブルンナーとバルトの対決についての昔話をしていただけなのに。「むかしむかし、あるところにブルンナーとバルトがいました。ブルンナーは山に芝刈りに、バルトは川に洗濯に行きました」という程度の当たり障りのない話にとどめておこう。
ネットでお借りした画像で申し訳ないが、これがバルト、トゥルナイゼン、ゴーガルテン、メルツ共同編集神学同人誌『時の間』(Zwischen den Zeiten)の表紙だ。ロゴのヘビメタ感たるや。このド迫力でダルダルした神学と教会を蹴散らしたわけだ。一方で絶賛され、他方で拒絶された。
いま気づいたが、画像の表紙のフラクトールは
Unter Mitarbeit von
Karl Barth
Friedrich Gogarten Dr.
Eduard Thurneysen
herausgegeben von
Georg Merz
だと思うが、いろいろ興味深い。
これを見て慰められる人がいるのではないか。『時の間』編集人筆頭者バルトは改革派で無学位で大学教授になりたてでデビュー作売り出し中。2人目ゴーガルテンはルーテル派でドクター(名誉学位)で大学教授になりたて。3人目トゥルナイゼンは改革派で無学位で教会の牧師さん。メルツは編集実務担当。
神学も同人誌から出発していいし、学位も査読もなくていい。「だれだこいつ」と思われても気にせず自分たちの書きたいことを書いて、自分たちで売ればいい。すぐ売れなくてもいいし。80年後にオークションで高額取引されているかも。ただ冊子になっているほうがいい。ブログは本棚に立たないからね。
神学の学会や研究会はどこでも、始まり方は同じだと思う。「こういうのやりたいね」「おもしろそうだね」「よしやるか」で始まる。あとは「あの先生の講義泣きそうにつまんない」「説教も意味不明だし」「本もおもしろくないし」「早くやめてほしいわ」「よし倒すか」というのも始まり方かもしれない。
ヘビメタといえば私が最初に思い浮かべるのはキッスだ。ブルンナーもバルトも「危機神学」(Theology of Crisis)と本当に呼ばれていた。そして彼らは熱心に愛を教える。I WAS MADE FOR LOVIN' YOU BABYだ。思わずイメージイラストを描いてしまった。
こうしてみると松谷信司新社長率いる新装「キリスト新聞(Kirishin)」の方向性は今の時流にかなっている。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」(マタイ9章17節)。いいぞピューリたん。負けるなキョウカイジャー。先輩がたが応援しているぞ。
2017年7月10日月曜日
「松戸の地、小金の地への伝道を!」に巡る思い
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| デイリーヤマザキ松戸小金原店(松戸市小金原6-11-5)の阿藤経司店長(右) |
昨日日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)主日礼拝で今泉幹夫先生がお語りになった「松戸の地、小金の地への伝道を!」という言葉が胸に強く迫ったのは、13年前の2004年に私が「松戸小金原教会」の牧師になったとき自分に言い聞かせたのと同じ言葉だったことと無関係ではありえない。
私自身の成育歴からすれば、13年前(2004年)まで千葉県も松戸市も縁もゆかりもなかった。ただ、父が60年前に卒業した大学が松戸市にあった(今もある)ことで、父の口から何度となく聞いた地名ではあったが、親戚や友人がいるわけでなし、特に行く用事もなく、足を踏み入れたことがなかった。
しかも、私が「松戸小金原教会」に来たのはその教会から「招聘」があったので赴任したのであって、自分の意志でいわゆる就職活動をして来たわけではない。赴任する前に私が知っていたことといえば「千葉県松戸市は東京都(葛飾区)との県境に位置する」というだけのことで、本当に何も知らなかった。
松戸に来た当時、息子は小4、娘は小1だった。私の妻は、松戸に来た最初の年に子どもたちの小学校のPTA役員になり、翌年にはPTA副会長になった。前任地の山梨県にいたときも娘の幼稚園のPTA会長だった。私も松戸に来た初年から市の少年補導員になった。その後中学校のPTA会長にもなった。
「PTAをやれば信者が増える」わけではない。それでも「町に友達ができた」。スーパーで会えば挨拶できる。「暑いですね」「寒いですね」「お疲れさま」。なんだそれだけかと言われればそれだけだ。しかし、挨拶も成立しないで伝道が成立するのか。難しく言えば、自然神学論争の「結合点」の問題だ。
しかも「理事長です、園長です、町の名士です」然とした形でなく「いつもヒマそうなおじさん」として普通に佇む。毎日スーパーやコンビニで買い物する。牧師シャツを着ない(持っていない)し、イクスースのステッカーを車に貼らない。して悪いとは思わないが、しなければならないとはもっと思わない。
そうこうしているうちに町内から教会に通う方が次第に増えてきた。PTAで友達になった人たちが教会に、という関係ではない。そういう「これをしたからこうなった」式のストレートな対応関係はなかったが、徒歩や自転車で通える範囲内の高齢者が教会に増えてきた。その方々が洗礼を受けてくださった。
その教会には11年9か月在職し、2015年12月に辞職した。受洗した方、信仰告白した方、転入した方は少なくはなかったと思う。今も目と鼻の先に住んではいるが、連絡等は一切とっていない。教団が違うので競合はしない。「松戸の地、小金の地への伝道を!」祈り願う思いは、今も全く変わらない。
13年前(2004年)に松戸市に来てから仲良くなった「親友」と呼ばせていただきたいのはデイリーヤマザキ松戸小金原店(松戸市小金原6-11-5)の阿藤経司店長だ。PTAでも一緒だったが、2011年3月11日、震災当日の夜「絶対に店を閉めない」と言ってくれた阿藤さんを心から尊敬した。
2017年7月9日日曜日
小金教会の主日礼拝に出席しました
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