今日(2016年12月25日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)のクリスマス礼拝に出席しました。小澤昂平先生(千葉英和高等学校宗教科)の説教は素晴らしかったです。午後の祝会で「われらはきたりぬ」(讃美歌第二編52)を東方の博士に扮して私が独唱しました。
2016年12月25日日曜日
2016年12月24日土曜日
新松戸幸谷教会のクリスマスイブ礼拝に出席しました
今日(2016年12月24日土曜日)は日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市新松戸2ー169)のクリスマスイブ礼拝(18時開始)に出席させていただきました。聖歌隊の賛美が素晴らしかったです。「幼子はいと高き方」と題する吉田好里牧師の説教で心熱くされました。ありがとうございます!
2016年12月23日金曜日
2016年の反省 エンタメ編
4月から9ヶ月間の状況をいえば、録画したサンダーバード(終了)以外のテレビ番組を観ず、映画を観ず、紙の新聞を講読していない。ニュースはネットから得ているが、他のことは、他の人たちが盛り上がっていても全くついていけない。真田なんとかもPPなんとかも逃げなんとかもさっぱり分からない。
音楽は1月から8月まで毎日レベッカさん。9月以降は毎日ずっとガーネットクロウさんを聴いている。今の流行歌は知らないし、ついていけていない。レベッカさんは私にとっては学生時代(ということは30年前だが)のリバイバルだったので最近はさすがに食傷。ガーネットクロウさんは初めての出会い。
何を書きたがっているかといえば、「2016年の反省」のつもり。1年を振り返って自分のしてきたことを省みないと。それのエンタメ編。その結論が、今年はテレビも映画も観ず、紙の新聞も読まず、音楽は最新のものは聴かず、もう解散しているレベッカさんやガーネットクロウさんを聴いたという話。
最新の流行についていけていないことを私はとても苦にしているが、「苦にしているふりをしているだけ」でもあり、実はどうでもいい。私の関心は宗教と聖書と神学、そして学校教育と生徒ひとりひとりの成長にある。宗教も学校も人類の歴史と共にある。その中にずっと引きこもる価値のある世界でもある。
出かけていた家族がたくさん買い物の荷物を抱えて帰ってきた。コストコでいろいろ買い込んできた。帰りみちに大好きなインドカレー店でいろんなカレーとナンをテイクアウトしてきてくれた。みんなでいろんなカレーを味わった。私は丸一日書斎に引きこもり。寝て起きて字を書いた。コンビニには行った。
音楽は1月から8月まで毎日レベッカさん。9月以降は毎日ずっとガーネットクロウさんを聴いている。今の流行歌は知らないし、ついていけていない。レベッカさんは私にとっては学生時代(ということは30年前だが)のリバイバルだったので最近はさすがに食傷。ガーネットクロウさんは初めての出会い。
何を書きたがっているかといえば、「2016年の反省」のつもり。1年を振り返って自分のしてきたことを省みないと。それのエンタメ編。その結論が、今年はテレビも映画も観ず、紙の新聞も読まず、音楽は最新のものは聴かず、もう解散しているレベッカさんやガーネットクロウさんを聴いたという話。最新の流行についていけていないことを私はとても苦にしているが、「苦にしているふりをしているだけ」でもあり、実はどうでもいい。私の関心は宗教と聖書と神学、そして学校教育と生徒ひとりひとりの成長にある。宗教も学校も人類の歴史と共にある。その中にずっと引きこもる価値のある世界でもある。
出かけていた家族がたくさん買い物の荷物を抱えて帰ってきた。コストコでいろいろ買い込んできた。帰りみちに大好きなインドカレー店でいろんなカレーとナンをテイクアウトしてきてくれた。みんなでいろんなカレーを味わった。私は丸一日書斎に引きこもり。寝て起きて字を書いた。コンビニには行った。
教会面白化宣言
どうしたら教会が面白くなるかを考えてきたし、これからも考える。同じ志の人と意見交換をしたし、これからもする。そもそも教会が面白くなることはありえないという混ぜ返しに応じたことはないし、これからも応じない。自分だけ面白いとか特定の少数者だけが面白いというのでない教会面白化をめざす。
私がこれまでネット経由で発言してきたことを少しでも覚えてくださっている方には、「どうしたら教会が面白くなるか」について私が抱く関心は「何をもって面白いとするか」であり、その点こそを問題にしてきた人間であることをご理解いただけるだろう。私はそれを「教義学の課題」としてとらえている。
字にすると(あざ)笑われるだけだろうが、私は「教会面白化の神学」の必要性を真剣に訴えたい。高校の倫理の教科書でも教えられているホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」という人間の定義を真剣に考える必要がある。人間の本質が「遊戯」にあるなら、教会の本質に「遊戯」がないはずがない。
「教会とは遊戯である」という意味の「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)がどうして言えないかと繰り返し考えさせられている。そして最終的に「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)を厳密に神学的に語ることが十分可能であると私は考えている。この発想の先駆者がアーノルト・ファン・ルーラーである。
ともかく私は「どうしたら教会が面白くなるか」という問題は「教義学の課題」であるととらえている。それは教会の本質についてのきわめて深刻な神学的問いである。「教会に人を集めるために子どもや若者向けに遊びの要素を取り入れて楽しくする」というハウツーのレベルの問題ではないと認識している。
それと私は、「教団・教派」も「教会」の範疇に含まれるのは当然であると考えている。そのうえで、教団・教派を「面白くなくしているもの」は何かを考えている。人間の集まりなのでドロドロしているのは一向に構わないが、イエスの再解釈を経たモーセの十戒の線くらいは守ろうよくらいのことは考える。
それは「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」だ。互いに敬意を持つ。ばかだアホだ言わない。あやしげな目を使わない(とくにセクハラだめ)。説教盗用も盗み。うそやだましはだめ。ねたみやひがみはたとえ心に浮かんでも軽々に口にしない、おおっぴらにしない、放置しない。
しかし今書いているようなことは、あえて言挙げするまでもないほど当たり前のことだ。常軌を逸した状態になったときだけ緊急発動するが、ふだんは忘れていてもよい。「どうしたら教会が面白くなるか」という問いの中では必ずしも中心課題ではない。ネガティヴなことばかり考えている教会は面白くない。
ただ、「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)にせよ「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)にせよこういうことを言うと激しく拒絶し激怒するのも「教会」であることを私は認識している。「苦難の民の歴史」とも「十字架のイエス」とも矛盾すると感じてしまうようだ。まさにこれが「教義学の課題」である。
教会が「面白いところ」になることを不快に思う人々がいる。教会の中にもいるし、教会の外にもいる。まるで教会が「面白く」なってもらっては困るかのようだ。あくまでも「面白くないところ」であり続けてくれることが望まれているかのようだ。なぜそう思う人々がいるのかを、丁寧に考える必要がある。
そしてこういうことを共同で考えるグループが必要であると私は思う。各教会や「教団・教派」には特性の違いがあるので、たとえば「日本の教会を面白くする会」と言ってもほとんど意味はない。結局ハウツーの問題で終わってしまう。それより、たとえば「日本基督教団を面白くする会」と言うほうがいい。
そういうのが全国の各教会やそれぞれの「教団・教派」の中で立ち上がっていけばいい。「○○教会を面白くする会」や「○○教団を面白くする会」がたくさん生まれてくること自体が面白い。「そもそも教会は面白くないところなので、面白くなることはありえない」という混ぜ返しに応じないことが重要だ。
私が今日こういうことを書いているのは、理想論や空想を言いたいのではなく、具体的な行動を起こすための結党宣言のひな形のようなものを提供したいという意図がある。私もすでに具体的に動いている。同じ志の人々はぜひ行動を起こしてほしい。くれぐれも言うがハウツーの問題で済ましてはならない。
一方の意見だけを言わせ、他方の意見を封じるやり方で人を切り捨てる団体や組織が切り捨てた後にするのは、封じた人物の存在を否定するだけにとどまらず、でっちあげの噂、悪口、罵詈雑言を浴びせることだ。プラマイゼロではなく、挽臼で粉砕するまで徹底的に貶める。そういう団体や組織に気をつけよ。
2016年12月23日
関口 康
私がこれまでネット経由で発言してきたことを少しでも覚えてくださっている方には、「どうしたら教会が面白くなるか」について私が抱く関心は「何をもって面白いとするか」であり、その点こそを問題にしてきた人間であることをご理解いただけるだろう。私はそれを「教義学の課題」としてとらえている。
字にすると(あざ)笑われるだけだろうが、私は「教会面白化の神学」の必要性を真剣に訴えたい。高校の倫理の教科書でも教えられているホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」という人間の定義を真剣に考える必要がある。人間の本質が「遊戯」にあるなら、教会の本質に「遊戯」がないはずがない。
「教会とは遊戯である」という意味の「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)がどうして言えないかと繰り返し考えさせられている。そして最終的に「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)を厳密に神学的に語ることが十分可能であると私は考えている。この発想の先駆者がアーノルト・ファン・ルーラーである。
ともかく私は「どうしたら教会が面白くなるか」という問題は「教義学の課題」であるととらえている。それは教会の本質についてのきわめて深刻な神学的問いである。「教会に人を集めるために子どもや若者向けに遊びの要素を取り入れて楽しくする」というハウツーのレベルの問題ではないと認識している。
それと私は、「教団・教派」も「教会」の範疇に含まれるのは当然であると考えている。そのうえで、教団・教派を「面白くなくしているもの」は何かを考えている。人間の集まりなのでドロドロしているのは一向に構わないが、イエスの再解釈を経たモーセの十戒の線くらいは守ろうよくらいのことは考える。
それは「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」だ。互いに敬意を持つ。ばかだアホだ言わない。あやしげな目を使わない(とくにセクハラだめ)。説教盗用も盗み。うそやだましはだめ。ねたみやひがみはたとえ心に浮かんでも軽々に口にしない、おおっぴらにしない、放置しない。
しかし今書いているようなことは、あえて言挙げするまでもないほど当たり前のことだ。常軌を逸した状態になったときだけ緊急発動するが、ふだんは忘れていてもよい。「どうしたら教会が面白くなるか」という問いの中では必ずしも中心課題ではない。ネガティヴなことばかり考えている教会は面白くない。
ただ、「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)にせよ「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)にせよこういうことを言うと激しく拒絶し激怒するのも「教会」であることを私は認識している。「苦難の民の歴史」とも「十字架のイエス」とも矛盾すると感じてしまうようだ。まさにこれが「教義学の課題」である。
教会が「面白いところ」になることを不快に思う人々がいる。教会の中にもいるし、教会の外にもいる。まるで教会が「面白く」なってもらっては困るかのようだ。あくまでも「面白くないところ」であり続けてくれることが望まれているかのようだ。なぜそう思う人々がいるのかを、丁寧に考える必要がある。
そしてこういうことを共同で考えるグループが必要であると私は思う。各教会や「教団・教派」には特性の違いがあるので、たとえば「日本の教会を面白くする会」と言ってもほとんど意味はない。結局ハウツーの問題で終わってしまう。それより、たとえば「日本基督教団を面白くする会」と言うほうがいい。
そういうのが全国の各教会やそれぞれの「教団・教派」の中で立ち上がっていけばいい。「○○教会を面白くする会」や「○○教団を面白くする会」がたくさん生まれてくること自体が面白い。「そもそも教会は面白くないところなので、面白くなることはありえない」という混ぜ返しに応じないことが重要だ。
私が今日こういうことを書いているのは、理想論や空想を言いたいのではなく、具体的な行動を起こすための結党宣言のひな形のようなものを提供したいという意図がある。私もすでに具体的に動いている。同じ志の人々はぜひ行動を起こしてほしい。くれぐれも言うがハウツーの問題で済ましてはならない。
一方の意見だけを言わせ、他方の意見を封じるやり方で人を切り捨てる団体や組織が切り捨てた後にするのは、封じた人物の存在を否定するだけにとどまらず、でっちあげの噂、悪口、罵詈雑言を浴びせることだ。プラマイゼロではなく、挽臼で粉砕するまで徹底的に貶める。そういう団体や組織に気をつけよ。
2016年12月23日
関口 康
2016年12月22日木曜日
年末年始の予定
関口 康(日本基督教団教務教師)
年末年始の予定
【2016年】
12月24日(土)
日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市)
クリスマスイブ礼拝〈出席〉
12月25日(日)
日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)
クリスマス礼拝〈出席〉
【2017年】
1月1日(日)
日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市)
新年礼拝〈説教〉
1月8日(日)
日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
主日礼拝〈説教〉
2016年12月21日水曜日
新年の年賀状について
各位
誠に心苦しいことですが、現住所(借家)を非公開にしている関係で、新年の年賀状のやりとりはすべて控えさせていただきます。日本基督教団年鑑には勤務校の住所を掲載しています。連絡はメールかSNSでお願いします。ご理解いただけますと幸いです。
2016年12月21日
関口 康
誠に心苦しいことですが、現住所(借家)を非公開にしている関係で、新年の年賀状のやりとりはすべて控えさせていただきます。日本基督教団年鑑には勤務校の住所を掲載しています。連絡はメールかSNSでお願いします。ご理解いただけますと幸いです。
2016年12月21日
関口 康
2016年12月20日火曜日
「2011年の」クリスマス礼拝の説教を公開しました
| 2011年12月18日 クリスマス礼拝 |
「星空の下で喜び生きる(2011年クリスマス礼拝)」
ルカによる福音書2章1~21節
2016年12月19日月曜日
教会を面白くするヒントの学校
| 2013年6月23日、立教大学ゲスト講義 |
新しい経験の中で、教会を面白くするヒントがいろいろあると感じている。週報に説教要旨を載せて、ところどころ穴埋め式にして「さて問題です。ねないで説教を聴いてないと答えられませんよ」と遊ぶとか面白そう。あとは礼拝中にグループディスカッションとかプレゼンとか。アクティヴラーニング教会。
いくつかのチームに分けて、来週の説教の聖書箇所を読んで歴史的背景を調べてくるチームとか、言葉の意味を調べてくるチームとか、自分の生活にあてはめて考えるチームとかにそれぞれ発表してもらうというやり方もよさそう。教会に行かなくちゃという自覚も出てきそうだし。死蔵本を読む動機にもなる。
あとはだんぜん教会にも黒板が必要だと思う。すごく反発されそうだけど。でも「ずっと前から使ってるよ」とおっしゃる方もおられるはず。テレビでテロップを見慣れている人多いので、耳で聴くだけでは分からない同音異義語なんかをちょっと板書するだけで、ずっと分かりやすい説教になること請け合う。
パワポを使っている教会は増えていると見受けるが、パワポが悪いわけではないが、話の流れの中でその場の思いつきで字を書いて見せるのはパワポだと難しいのではないかと。黒板とチョークならさっさとできるし、すぐ消せる。前準備は要らないし、字だけでなく、絵でも図でもなんでも書けるマルチ対応。
ややきつめの言い方だけど、黒板を嫌がる教会が少なくないのは、立派すぎる教会堂のせいではないかと思ったりする。うっとりしたい場所なのに、学校時代の悪夢を思い出したくないのかなんなのか。そういうのどうなのと思ってしまう。説教の意味なんか分からなくてもいいんだろねとイヤミ言いたくなる。
今の学校が果敢に取り組んでいる新しい方法なんか全く見向きもしないで、「教会に若い人が来ない若い人が来ない、教会の将来が危ない危ない」と、まるで来ない人のほうが悪いかのように言ってみてもどうしようもない。教会が学校に教えることは、ほとんど何もない。学校から教会が教わるべきだと思う。
2016年12月18日日曜日
勉強しましょ、そうしましょ
字にすると身も蓋も無くなる気がするし、自分も同じだった(今も)ので、考えると心が痛くなるが、理系はともかく文系の研究者は金も職もないところから「無からの創造」をする感じになると思う。でも、自分で研究会つくって、自ら代表名乗って「立派する」(派閥の領袖になる)のが文系学問の王道かも。
よく知らない分野に首突っ込んだこと書くのをお許しいただきたいが、たとえばの話、夏目漱石研究やりましたな方々はたぶんすごくたくさんおられてライバルも多そうだけど、「だれそれ知らん」と言われる作家の研究なら研究会なくて寂しいけどライバルは少ないないしいない。すきま狙えるチャンスあり。
でも、ここから先のことはいま書いたことの逆面かもしれないが、その「だれそれ知らん」さんがあまりにも歴史にからまない珍奇すぎる存在だと、もしかしたらかえってマイナスのような気もする。歴史の主役につかみかかったけど敗北したが、そのとき主役に致命傷を与えた人みたいなのだと評価高いかも。
あとは、哲学や神学ならはっきり言えるが、プラトン「を」研究する、ヘーゲル「を」研究する、だけでなく、プラトンやヘーゲル「になる」的な。彼らの視点から世界や人間を見てみる。追思考(Nachdenken)することを経て、それでは見えないし分からないことがあるのに気づき、修正を加える。
プラトンやヘーゲル「を」研究することと、プラトンやヘーゲル「になる」のとではどちらが容易いか。私は前者のほうが容易いと思う。彼らのテキストはすでに存在するわけだから。そして前者なしに後者は成り立たない関係にもある。だから先に前者に取り組む。しかし、それをするのは後者に至るためだ。
とまあ、こんな感じのことをジンメルが『哲学の根本問題』の冒頭でえんえんと書いていたなあと今思い出す。そのことを忘れていたくらいジンメル「になっていた」書きっぷりだったわけだ。夏目さんでも芥川さんでも同じことが言えるのではないか。彼ら「を」研究するのは彼ら「になる」ためではないか。
聖書を読むことだって結局そうなので。聖書を読む人は結局いつかはイエス「になったり」パウロ「になったり」する。不遜なことを言っていると思わないほうがいい。「お前は水の上を歩けるのか」とか茶々入れされても無視。イエスにしろパウロにしろ、聖書の読者は彼らに憑依される。のりうつられる。
読書というのはそういうものだろう。映画やテレビなどはもっとそうだろう。最近の映画やテレビを観ていないので分からないが、ひと昔前「さてはこの人、昨日のテレビを観てたな」と分かる物腰や口ぶりになっている人に気づいたことがある。キムタク「になったり」織田裕二「になったり」している人に。
まあしかし、私がいつもつい書いてしまうのは、王道とはこういうものだろうということなので、いま困っている人、いま焦っている人には、何の答えにも解決にもならないことばかりだ。だから、がっかりされる。がっかりされることを苦にしない人間なので、なんともない。へへえだ。あっかんべー。笑。
よく知らない分野に首突っ込んだこと書くのをお許しいただきたいが、たとえばの話、夏目漱石研究やりましたな方々はたぶんすごくたくさんおられてライバルも多そうだけど、「だれそれ知らん」と言われる作家の研究なら研究会なくて寂しいけどライバルは少ないないしいない。すきま狙えるチャンスあり。
でも、ここから先のことはいま書いたことの逆面かもしれないが、その「だれそれ知らん」さんがあまりにも歴史にからまない珍奇すぎる存在だと、もしかしたらかえってマイナスのような気もする。歴史の主役につかみかかったけど敗北したが、そのとき主役に致命傷を与えた人みたいなのだと評価高いかも。
あとは、哲学や神学ならはっきり言えるが、プラトン「を」研究する、ヘーゲル「を」研究する、だけでなく、プラトンやヘーゲル「になる」的な。彼らの視点から世界や人間を見てみる。追思考(Nachdenken)することを経て、それでは見えないし分からないことがあるのに気づき、修正を加える。
プラトンやヘーゲル「を」研究することと、プラトンやヘーゲル「になる」のとではどちらが容易いか。私は前者のほうが容易いと思う。彼らのテキストはすでに存在するわけだから。そして前者なしに後者は成り立たない関係にもある。だから先に前者に取り組む。しかし、それをするのは後者に至るためだ。
とまあ、こんな感じのことをジンメルが『哲学の根本問題』の冒頭でえんえんと書いていたなあと今思い出す。そのことを忘れていたくらいジンメル「になっていた」書きっぷりだったわけだ。夏目さんでも芥川さんでも同じことが言えるのではないか。彼ら「を」研究するのは彼ら「になる」ためではないか。
聖書を読むことだって結局そうなので。聖書を読む人は結局いつかはイエス「になったり」パウロ「になったり」する。不遜なことを言っていると思わないほうがいい。「お前は水の上を歩けるのか」とか茶々入れされても無視。イエスにしろパウロにしろ、聖書の読者は彼らに憑依される。のりうつられる。
読書というのはそういうものだろう。映画やテレビなどはもっとそうだろう。最近の映画やテレビを観ていないので分からないが、ひと昔前「さてはこの人、昨日のテレビを観てたな」と分かる物腰や口ぶりになっている人に気づいたことがある。キムタク「になったり」織田裕二「になったり」している人に。
まあしかし、私がいつもつい書いてしまうのは、王道とはこういうものだろうということなので、いま困っている人、いま焦っている人には、何の答えにも解決にもならないことばかりだ。だから、がっかりされる。がっかりされることを苦にしない人間なので、なんともない。へへえだ。あっかんべー。笑。
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