今日(2016年6月19日日曜日)は日本基督教団玉川平安教会(東京都世田谷区奥沢)の主日礼拝に出席させていただきました。一般道で片道90分(42キロ)。懐かしい方と27年ぶりに再会できて、うれしかったです。またお訪ねしたいです。
玉川平安教会からの帰り、日本基督教団深沢教会(東京都世田谷区駒沢)に立ち寄らせていただきました。ぼくらのミカタ、齋藤篤牧師が、ご多忙中にもかかわらず歓待してくださいました。とても素敵な青年がたが新しい会堂内を案内してくださいました。
2016年6月18日土曜日
「真の謙虚が堕落に見え、真の堕落が謙虚に見える」かもしれない
| とても暑い一日でした |
唐突に書きますが、フィリピの信徒への手紙2章6~11節の「キリストは神の身分でありながら」以下の箇所は、「キリスト者は謙虚であるべきだ」ということを主張するために「実はキリストも(ものすごく特別な意味で)謙虚だった」と説いている点で、《道徳的な》話として理解していいことですよね。
それで私が何を考えたのかといえば、神の身分であられたキリストが、神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり、人間と同じ者になられたことが、キリスト者がそうであるべき「謙虚」のモデルだというなら、牧師たちなどは率先して「人間的」であるべきですよねということです。
しかも(ここから先が新作の産みの苦しみ)その場合の「人間的」の意味は「本来的には神的であるべき存在の人間化」でなくてはならないと思われますが、たとえそうだとしても、その「人間化」は「堕落」を意味すべきではない。キリストは「本来神だった」が「堕落」して「人間になった」わけではない。
この「謙虚」と「堕落」の区別というのは、字で書くだけなら、直感的には誰でも分かるし、納得してもらえそうなことですが、実際の見分けは意外に難しいし、現実の見てくれ的にはもしかしたら逆に見えるかもしれないと私は思います。「真の謙虚が堕落に見え、真の堕落が謙虚に見える」かもしれません。
そういうことを今日は朝からずっと書斎に引きこもって考えていました。本を開くでもなし、鉛筆やボールペンを持つでもなし。大量の本も宝の持ちぐされ。ぼーっと空を見上げ、ネットの字を読み、ネットに字を書いただけ。昼食は家族揃っていました。それが慰め。明日の夜までには体調戻すぞ。気合いで。
「非指示的説教」をしてきました
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「聖書にこう書いてある。最近こういう事例がある。だからあなたはこうしなさい。そうすればあなたはこうなるであろう」という語り方を私は意図的に避けた。そんなの説教ではないと言われても。「「あとは推して知るべし」だとか言いたかったのではない。説教とはそういうものだと確信していただけだ。
そういう私の説教スタイルに自分で名前をつけたことはまだないが、いま思いつくままに命名すれば「非指示的説教」と呼んでもらって構わない。「非指示的」という語の並びを見た瞬間に、ロジャースの「来談者中心療法」を連想できる方々がおられると思うが、それに近いかと問われれば「はい」と答える。
いわんや学校をや、である。「非指示的教育」とか「非指示的授業」とか「非指示的講義」というのは究極の矛盾概念かもしれないと思いつつではあるが、他方で思うことは、カウンセリングマインドをもって教育のわざに就くとは結局そのようなことを意味せざるをえないのではないか、ということでもある。
幸か不幸かどう間違えても私自身は「理想の牧師」にも「理想の教員」にもなりえない。なりたいと思ったことがないし、その場合の「理想の」とは何を意味するのだろうかと、そのあたりで面倒くさくどんよりと考えこんでしまうたぐいで、ますます「理想のなんちゃら」から遠い、不スマートな人間である。
ただ、そんな私が比較的はっきり語りうるのは、私自身もまた、遠い過去においても、近い過去においても、「教会」でも「学校」でも深い心の痛手を負った経験があるし、進行形の現在においても、おそらくは近未来においても遠未来においても状況は変わらないだろうという予測を持っているということだ。
そんな「教会」と「学校」のある意味ど真ん中で、私は「非指示的説教」と「非指示的授業」をすることで自分自身の心の痛手の問題を解決しようとしているのかもしれない。「教会(の支配)からも学校(の支配)からも救い出されたい」と願う人は潜在的に多い。問題は、救い出されてどこに行くのか、だ。
いま書いていることにも結論はない。「非指示的ツイート」だ。お互いをよく知りもしないのに、ずいぶんと一方的な指示や指南をしたがる人を苦手とする私でもある。自分にしてほしいと思うことを人にもせよ。自分にしてほしくないと思うことは人にもするなと、だいたいいつも考えている。今日は土曜日。
ツイッターで授業内容を改善する方法
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これは私がずっと前から繰り返し書いてきたことなのだが、ツイッターであろうと他のSNSであろうとブログであろうと、はたまた紙のレジュメであろうと雑誌や紀要の論文であろうと、単著共著であろうと、つまり発表媒体の形式はなんであれ、「字を書く」という点では全く同じであると私は考えてきた。
そのうえで思うのは、140字一単位のツイッターは、自分の考えていることや言いたいこと言うべきことを他の人に伝えるために、それをまとめて字にするためにはかなり便利なツールだということだ。140字で伝わらないことは長大な文章を書いても伝わらない、とまで言うのは言い過ぎかもしれないが。
イマドキ学校の授業(小中高大問わず)で教員が教科書や自分のノートや原稿を棒読みすることはありえない。パワポを表示するなりレジュメを配るなりして、あとはひたすらアドリブを多く含むトークライブになる。そのとき論旨明快にしゃべれるとしたら、それがふだんの継続的な物書き訓練の成果なのだ。
いま書いていることに「だから何」はない。誰がいつ何をしようと、その人の思想的判断に基づく行動なので、少なくとも私はそれを尊重する。児童・生徒・学生に内容が伝わりさえすれば流暢に(日本語を)しゃべる授業でなくても構わないとも思う。ただ、ツイッターも訓練になるよと言いたいだけである。
記憶しておられる方もいてくださるのではないかと思うが、いま書いていることとほぼ同趣旨で「ツイッターで説教原稿を改善する方法」を提案したことがある(2015年5月22日発表)。私の基本的な考え方は、1年前から全く進歩していないようだ。
参考:
「ツイッターで説教原稿を改善する方法」(2015年5月22日発表)
2016年6月15日水曜日
多様性の体系化の必要性(難しくいえば)
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私が考えたのは、たとえていえば、算数ができなければ、数学はまあできない。数学ができなければ、建築学はたぶんできない。建築学ができなければ、家は建てられないでしょというくらいの単純なことです。私は小1で算数が苦手になって、その後ずっとその方面はダメなので、家を建てる能力はゼロです。
私が家を建てる必要が生じれば算数からやり直さなくてはなりません。独学するか、教えてもらうしかない。今さら感がパねえ、という気持ちを抱えながら。そしてそれは、聖書とか宗教とかを学校でにせよ教会でにせよ習うことに「も」当てはまるし、というか「こそ」当てはまるのではないかと考えました。
でも、たとえばの話ですが、小学校と中学と高校とそれ以上の学校で学ぶことをすべてひとりの教師から教わることができれば、ある意味で一貫していますが、現実には難しいし、たぶんありえない。いま私が思い浮かべているのは「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(Ⅰコリント3:6)という状況です。
前に教わった人と、いま教わっている人が違う。内容や形式にズレがある。教わる側に「多様性」を包容する幅が形成されていない。どちらが正しいかで迷う、悩む(大いに迷い、悩んでほしい)。両方(あるいは二択ではなく多択)を受容し、それぞれの関係性を体系的・包括的に位置づけられるようになる。
それは至難のわざだけれども、時間をかけて造り上げられていくべき重要な認識ではないかと思った次第。まだまだ抽象的なことしか書いていませんが、私が考えたことのざっくりしたアウトラインはこんな感じのことです。
単なる「競争」という次元だけでない「構築」の喜びのようなものを(レゴみたいなものかな)児童・生徒・学生も教員も味わうことができるといいなと私なんかは思います。甘いのかもしれませんが。
2016年6月13日月曜日
未来へと道をつくれ
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字にすること自体が生まれて初めてのことですが、20年もネットを続けてきた私がいまだかつてネットに書いたことのない話題が少なくとも2つあります。一つは「 」の話で、もう一つは「 」の話です。書けないものは書けないです。そういう心理的規制を幼い頃からインプットされすぎたのでしょうか。
そうなのだ。悩んでいるのは私ではない。生徒のほうがはるかに悩んでいる。「明日、ママがいない」(2014年)の施設長さん(三上博史さん)が言っていたではないか、「子どもを壊すぐらいなら大人が壊れろ」と。忘れられないよ。逆の大人が多すぎるんじゃないか。というかそれって大人じゃないよな。
いまがんばっているのは、私が教科(聖書)を担当している1学年4クラス、2学年4クラスの総勢約300人強の名前と顔が一致できるようになること。就職2ヶ月半だけど、けっこうイケるぞ。ナニそれくらいできなくて教員名乗れるか。えっと、あの生徒の名前なんだっけ。顔は思い浮かぶんだけどなあ。
2016年6月12日日曜日
千葉若葉キリスト教会で説教をしました
今日(2016年6月12日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)の主日礼拝で説教をしました。千葉英和高等学校聖歌合唱部の賛美奉仕がありました。礼拝後、カレー愛餐会にあずかりました。ありがとうございました!
説教「あふれるばかりに感謝しなさい」
説教「あふれるばかりに感謝しなさい」
あふれるばかりに感謝しなさい(千葉若葉教会)
| 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東) |
コロサイの信徒への手紙2・6~7
「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして作り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」
今日はいろんな意味で緊張しています。千葉若葉キリスト教会の皆さんと、そして千葉英和高校の聖歌合唱部のメンバーと共に礼拝をささげています。私は千葉若葉キリスト教会のメンバーでも牧師でもありませんので、どちらかといえば高校生を快く歓迎してくださった教会の皆さんに感謝しなければならない立場ではあるのですが、気持ちのうえでは、私は断然、教会側の人間です。
私はいま千葉英和高校で聖書の先生をしています。1学年4クラス、2学年4クラスで聖書の授業を担当しています。しかし昨年末(2015年12月)までは、教会の牧師でした。1990年4月から25年、牧師の仕事だけをしてきました。そういう立場の人間です。
自己紹介を兼ねて、私がしてきた教会の牧師という仕事について少しお話しさせていただきます。教会の牧師というのは、日曜日しか働いていないわけではありませんが、日曜日以外は、ものすごく自由な時間の使い方ができる立場です。むしろできるだけ自由でなければなりません。
なぜなら、牧師の仕事の基本は、日曜日の礼拝で説教すること(説教)と、教会の方々の実に様々なお世話をすること(牧会)と、新しく教会に通ってくださる方々を探し求めること(伝道)なので、決まった時間、決まった場所だけで仕事するというのでは対応できないことがほとんどだからです。
ちょうど今、1学年の授業でそのあたりのことを話しているのですが、宗教が果たすべき最も大事な役割の一つは人の「死」を深く考えることです。しかし、教会は死を「考える」だけでは済みません。誤解を恐れずに言えば、教会は死を具体的に扱います。死に直接触れます。
病床へのお見舞いとお祈り、看取り、引き取り、納棺、葬儀、火葬、納骨、記念。そのような形で、遺された家族や友人の心に寄り添い、お世話をします。教会自体は、病院でも施設でもありません。牧師自身は、医者でもセラピストでもカウンセラーでもありません。教会は教会であり、牧師は牧師です。他のものに例えようがない、独自の仕事を担っています。
しかしまた、それを「仕事」と呼ぶと嫌がられたり叱られたりします。おやおや、牧師さんはそういうことをビジネスとして割り切っておられるのですかと批判されたりします。もちろんビジネスとして割り切れるものではありえません。ただひたすら奉仕の思いです。しかしまた、これは「仕事」ではないのかというと、そうでもなく、「こういう仕事もあるのです」としか表現しようがないところもあります。
いま言おうとしているのは、牧師の仕事は、日曜日以外はなるべく自由でなければならないことの理由の説明です。人の死を具体的に扱う仕事である以上、いつどなたがどうなるか分からない以上、何か一定の時間を会社勤務などで拘束されることとは、かなりの面で矛盾します。最も短くいえば、牧師はできるだけヒマでなければなりません。
しかし、こういうことを言いますと、これがまたとても誤解されます。いつもぶらぶらしている、まるで遊んでいるようだ、いい御身分だ、などと冷笑されます。しかし、私は大学院を卒業した25歳から25年間、ずっとその仕事をしてきました。25年間ぶらぶら遊んできました。
すでに高校生の何人かから授業中に聞かれたことは「牧師は儲かるのですか」というのと「学校の先生と教会の牧師はどちらが儲かるのですか」という質問です。とても答えにくい質問です。「牧師は儲からないです」と答えるだけで精一杯です。だってお金を儲けるための仕事ではないのですから。その意味でも、私は25年、お金のために働くということをしたことがなく、ただひたすら、ぶらぶら遊んできた次第です。
ついでにいえば、牧師の仕事の中でいちばん中心にあるのは、お話しすることです。聖書について説教することと、お祈りすることと、讃美歌をうたうことです。いわば口を動かしているだけです。そういう批判を受けることがあります。お前は口を動かしているだけではないかと。そんなわけで、教会の牧師はお金儲けもしないし、通勤もしないで、いつもぶらぶら遊んでいて、口を動かしているだけです。そういう25年を私は実際に過ごしてきました。
もう一つだけダメ押し的に付け加えさせていただけば、牧師の仕事のメインは、神の栄光を表すことです。そのため、牧師の自分自身ができるだけ前に出ないようにすることが求められる仕事です。自分がそこにいたこと、働いていたことの形跡が残らないようにする必要があります。
「あの教会は何々先生の教会だ」という言われ方をされているようなら、たちまち批判されます。教会は神のものであり、何々先生のものではありえないと。それは当然の批判ですので、牧師たちは、いかなる意味でも自分の働きの形跡を残してはいけません。何年働こうと、どれほど重くて辛い仕事を果たそうと、まるでその人がいなかったかのように、自分の影もにおいも消し去らねばなりません。
いま言っていることは、半分以上は悪い冗談です。どういうふうに言えば正しく理解してもらえるか分からないので、冗談を言ってごまかしているだけです。しかし、そろそろ冗談は控えめにして、真面目にお話ししなくてはなりません。先ほど司会者に朗読していただきました聖書の箇所に入っていきます。しかし、その前にお断りしておきたいことがあります。
私がいま学校の授業の中で声を大にして言っているのは、「学校は宗教団体ではありません。学校は学校です。学校の中で私が皆さんに特定の宗教をすすめたり特定の宗教団体に勧誘したりするようなことはありません。それは入学時の皆さんと学校との約束事項ですので、どうかご安心ください」ということです。
それに加えて言うことは、「ただし、ここは学校なので、とにかく勉強してください。宗教について徹底的に考えてください。それはしてください。聖書の授業は考える時間(シンキングタイム)です。聖書の授業中は他のことは考えないでください。集中してください。聖書の授業中は内職禁止。他の教科の授業は内職してもいいという意味ではありませんが」ということです。
しかし今日は違います。ここは学校ではありません。教会です。宗教団体です。私は遠慮なく特定の宗教をおすすめしますので、覚悟してください。とか言うと、恐ろしくなって家に帰りたくなるかもしれませんが。
本題に入ります。今日朗読していただいた聖書の箇所に書かれていることの説明です。「あなたがた」は「主キリスト・イエスを受け入れた」人々のことを指しますので、キリスト教の信者のことです。今この教会にいる人たちも同じです。私も同じです。ですから、この「あなたがた」は「教会」そのものを指していると考えることは間違いではありません。「教会」とは、建物の名前ではなく、信者の集まりの名前ですから。
教会の人たちは目的があって集まっています。その目的が今日の箇所にはっきりと書かれています。それは「キリストに結ばれて歩む」という目的です。「結ばれて」がどのような状態かを説明するのはやや難しいことですが、「結婚」の「結」に近い意味だと言えば、ピンとくる方がおられるかもしれません。家族のような関係になり、日々共に生きることです。それ以上のことはうまく説明できません。
しかし、まだだいぶ抽象的かもしれません。その次の文章が少しだけ具体的な説明になっています。「キリストに根を下ろして造り上げられる」とは、ごく一般向けの言葉づかいで言えば、キリスト教の考え方を土台にしながら自分の人生や世界についての考え方を積み上げていくということで間違いとは言えませんが、もう少し深い次元のことです。なぜなら、すぐ後に「教えられたとおりの信仰をしっかり守ること」と記されているとおり、この件は「信仰」の次元にかかわることだからです。
特定の宗教を信じるとか、特定の宗教団体に参加するというようなことは、したくない、すべきでない、ありえないという拒絶反応が学校の中にも日本社会全体にもあることはよく分かっています。しかし、だからといって、日本人の大勢が「無神論者」なのかというと決してそうではない。「無宗教」は政治的な意味での「無党派」に最も近い関係にあると、先日の授業で話したばかりです。
なぜ「無党派」の人が多いのかは分かります。だって信頼できる政党がないんだもの。信頼できる大人がいないんだもの。特定の政党を支持し、特定の政治家に投票しろと言われても、そんなことは無理だもの、と感じている人が多いからです。
それと「無宗教」はかなり近い、よく似ている関係にあると私は思います。だって信頼できる宗教がないんだもの、尊敬できる大人が教会にいないんだもの。私はこれを決して他人事としては考えていません。自分自身に厳しく問われていることだと思っています。
「あふれるばかりに感謝しなさい」。これが教会に人が集まる究極的な目的です。教会は多くの感謝、そして多くの喜びを持ち寄り、みんなで分かち合う場所です。神の豊かな恵みに対する感謝、お互いの奉仕に対する感謝。それを独り占めするのではなく、共有し合うのが教会です。
教会は、お年寄りばかりが集まっていて、自分と同じ世代の人がいないので、つまらないですか。きみたちもいつかお年寄りになるよ。教会に来るのは、そうなってからでいいか。まあ、あまり無理なことは言わないでおきますが。
でも、言っておきます。良いことは、幼いころ、若いうちから始めるほうがいいです。習いごと、お稽古ごとをしている方には、必ず分かるはずです。ピアノを高校生になってから始める。それでは絶対に遅い、間に合わない、とまでは言えないかもしれませんが、かなり厳しい練習が必要でしょう。それと宗教は同じです。
もう一度言います。良いことは、幼いころから、若いうちから始めるほうがいいです。教会も同じです。主キリスト・イエスに結ばれた生活を始めることに早すぎるということはありません。それはとてもしっかりした人生の土台です。その上に、“キャラブレ”しない、筋の通った、しっかりとした考え方と生き方を造り上げることができます。
今日は学校ではないので、こういう話をすることをお許しください。
(2016年6月12日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)
2016年6月11日土曜日
教務教師の日常
やはりというべきか、何度か受ける質問は「牧師はもうかるのか」というものだ。つまり、教会のお金はどうなっているのかという問題。隠す要素は一切ないので、収入と支出の仕組みを黒板で図解して説明する。それでだいたい納得してもらえる。さすがは高校生、毎日数字(数学)に取り組んでいるだけある。
生徒と先生が廊下や校庭ですれ違うときも、先生同士も「こんにちは」と挨拶しあう良い習慣が根付いている。昨日は私が聖書の授業をしている1学年クラスの前を通ろうとしたら生徒5名女子から声を揃えて「ボンジュール!」と挨拶していただけた。さすがにちょっと度肝を抜かれた。うれしかったですよ。
土曜は朝寝坊しようと考えながら寝たが、今朝も5時に目が覚めた。その後、二度寝させてもらった。最近クビや肩や背中が筋肉痛。スポーツしているわけでもないのにと不思議に思っていたが、いま気づいた(にぶい)。毎日黒板に字を書いているではないか。50歳が50肩なのは、いわば当たり前でもある。
「おいこら、土曜日だからといってサボってないで勉強しろよ。そんなことではどんどん取り残されてしまうぞ」と背後から神学者たちが、ご自分たちは寝そべりながら、私をにらみつけています。はいはい、分かりました、やりますよ(反抗的な応え方)。
土曜に勉強をサボっている私の背後で、私をにらみつけている恐ろしい先生たちです。はっきり言って、ぞっとするんですけど。先生たちにアダ名つけてあげましょうか(反抗的な態度)。明日、説教がありますので、そろそろ本腰入れなくてはなりません。
昔話っぽいけど私、尾崎豊さんと同い年。盗んだバイクで走り出したことないし(ない)、校舎の裏でタバコふかしたこともないし(ほんとにない)、夜の校舎の窓ガラス壊して回ったこともない(ないから)けど、あの時代の感覚は覚えている。退屈な授業がきみたちのすべてじゃないよ。それだけは言える。
最近考えたこと。とにかく個人情報保護と情報管理が最重要課題と言っても過言でない時代の中、「人の道を説く話」をするには聖書とか神話(神学)とか哲学とか小説を持ちだして「比喩的に」説明するのが最も現実的だと再認識した次第。唯一できるリアル話は自分を語ることだけかも。家族のこともNG。
「あのね、えっとね、言いにくいことを口ごもりながら分かりにくくお話ししますけどね」と言いながらの授業を実はしている。宗教はデリケートなものだからだ。デリカシーのない人には決して扱うことができない。私もそうとうデリカシーのないほうの人間ではあるが、経験知が少しずつ蓄積されてはいる。
2016年6月10日金曜日
教会訪問が始まりました
今日分かったのは自分の心のバロメーターだ。職員室の中で交わされる先生がたの小さな声の会話(具体的な内容は分からない)が「せいしょ、せいしょ(聖書)」と聞こえるときはナーバスな状態で、「せいと、せいと(生徒)」と聞こえるときはヘルシーな状態だということが。今日は後者ヘルシーでした。
金曜放課後は、週明け月曜の学校礼拝プログラムの印刷・配布。それが終わり、さあ帰ろうと歩いていたら、今日授業の2学年クラス5名が私の名を呼び、1人走り寄ってくれて「先生これ食べてください!」と『激辛!!地獄の晩餐会(最強激辛ハバネロ味)』。ありがとう!おいしかっ...か、からっ!!
キリスト教学校の恒例行事である全生徒による「教会訪問」(教会の礼拝への出席。後日レポート提出)が始まりました。教会の皆さまにはご迷惑な面もあるかと存じますが、教会の時空に身を置くのは人生初という者も多く、馴染みのない場所ですので、ご寛恕いただきたくどうかよろしくお願いいたします。
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