2016年6月9日木曜日
反省しきりです
今日は大失敗しました。クラスごとに少しずつ授業の進度が違ってきていて、その事前確認が不十分で、今日授業があったクラスで前回と同じレジュメを配布してしまいました。すぐに回収しましたが、やや準備不足の退屈な授業をしてしまいました。本当にごめんなさい。次は楽しい授業をしたいと思います。
あと、内容は決して書けませんが、私が個人的に(愛するわが家族とも勤務校の生徒や先生とも全く無関係なことです)とても沈む気持ちになるような出来事が昨日あった関係で、心理的ダメダメ状態のままで教壇に立ってしまいました。こんなのでは必死でがんばっている生徒のみなさんに顔向けできません。
学校の教員たる者、「憩い」や「逃げ場」などあってはならないかもしれませんが、職員室の私の机の近くにおられる大先輩や同期の先生がたがどなたもとても温かい方々で、私の悩みや課題を聞いてくださり、その場で即座に親身になって助けてくださいます。素晴らしい先生がたです。明日もがんばります。
2016年6月8日水曜日
昨日うれしかったこと
昨日の放課後、大きな金属製のカートに大量の資料(進路関係)を載せて押している私を見た数名男女1年生が率先して助けてくれて、あっという間に仕事が片付きました。今日担任の先生に報告したら(私は特定クラスをもたない2年副担任)、とても喜んでくださいました。こんな幸せな気持ち人生初めて。
もう一つうれしいご報告。昨日の放課後、2年生の授業が終わって職員室に帰ってきた私を見た1年生男子が「聖書の授業、楽しみにしてますからね!」と言いながら、私のふくらんだお腹めがけてガシっとタックル、いえ、ハグしてくれました。本当にどうもありがとう。きみたちのおかげで楽しい毎日です。
同僚自慢。高校に「長」含む聖書の先生が5人。私以外は優秀な先生揃い。私の担当でないクラスの1学年の試験監督のとき「聖書の先生はどなた」と質問し「○○先生です」との返事に「面白いでしょ」と聞いたら、うくくくくくと思い出し笑いの後「面白いです!」という答えが返ってきて、うれしかった。
2016年6月6日月曜日
互いに重荷を担いなさい(千葉英和高等学校)
ガラテヤの信徒への手紙6・1~5
関口 康
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」
初めて礼拝で説教させていただきます。4月から聖書の先生になりました関口康です。1年生の4クラス、2年生の4クラスの聖書の授業を担当させていただいています。今年は礼拝で6回説教する予定です。1回15分話すようにとのことですので、1年90分です。よろしくお願いいたします。
宗教委員の生徒の方々に朗読していただきました聖書の箇所についてお話ししたいと思います。今日皆さんに考えていただきたいのは、「互いに重荷を担いなさい」(2節)という御言葉についてです。またすぐ後に出てくる「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(5節)にも注目していただきたいと思いました。
二つのことは似ていますが、違うことでもあります。一つは「互いに重荷を担いなさい」です。もう一つは「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」です。後者は、言い方を換えれば「自分の重荷は自分で担いなさい」ということになります。
「重荷」は読んで字のごとく重い荷物です。毎日学校に持ってくるカバンは重いでしょうか。もし重いとしたら、皆さんのカバンが「重荷」です。「自分のカバンは自分で持ちなさい」ということです。当たり前です。自分のカバンくらい自分で持て。他人に持たせるな。
大人になっても社長さんとかになっても同じです。自分のカバンくらい自分で持て。でも、ひとりで持てないほど中身が増えてしまった場合は、遠慮なく助けてもらいなさい。それは恥ずかしいことではないし、間違ったことでもありません。
これが「互いに重荷を担いなさい」の意味です。他の人に助けてもらっているとき、自分の手を完全に放してしまえば「互いに重荷を担うこと」にならないかもしれません。怪我をしているときや、体調不良などで、自分のカバンに手をかけることが自分で不可能な場合はあります。その場合はあとでお返しすればいい。
「今日は私のカバンを持ってくれてありがとう。今度は私が持つ番だね」と約束して選手交代すればいい。それで「互いに重荷を担うこと」ができます。助け合いの精神は、相手のためにもなりますし、自分のためにもなります。助けてもらった恩は忘れないほうがいい。
しかし、今日の箇所の「重荷」は、カバンでたとえるだけでは不十分です。もっと深刻な内容です。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」が「互いに重荷を担いなさい」の内容です。
そして「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」が「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」の内容です。つまり、この箇所で「重荷」の意味は「罪」です。「罪を互いに担う」とつなげると、なんだかまるで一緒に悪いことをするというような意味になってしまい、話がおかしくなりますが、ここに書かれていることの趣旨は「罪を犯した人を正しい道に立ち帰らせなさい」ということです。
罪を犯した人は、はっきり言えば悪い人です。しかし、だからといって、死んじゃえばいいとか、目の前から消えてほしいとか言い、その人を見捨て、切り捨て、すっきり軽くなることの反対です。罪を犯した悪い人が正しい道に立ち帰るまで見捨てず、見限らず、見殺しにせず、切り捨てず、背負い続けなくてはならないことが求められています。
それがなぜ「互いに」なのかといえば、罪の問題は「お互いさま」だからです。罪を犯さない人は一人もいないからです。お互いに我慢しあっているという面が必ずあるからです。自分はいつも必ずだれかの重荷を背負うだけ、ということはありえないからです。
もっとも、今日の箇所では、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とありますとおり、「不注意」の罪、つまり過失が問題になっています。しかし罪は「わざと」、つまり故意に犯されるものも決して少なくありません。だとしたら、故意の罪を犯した人は見捨てても構いませんという意味でしょうか。そうではありません。
なぜなら、その罪が「故意」なのか「過失」なのかを判断することは、もしかしたらその罪を犯した本人ですら、とても難しいことだからです。人の心の中は第三者には見えません。自分自身ですら制御しきれないのが人間の心です。その心が、罪を犯すのです。故意に罪を犯した人は見捨てるべきだという単純な話にはなりません。
しかし、要求の内容が大変なことであるのは間違いありません。自分の重荷は自分で担いながら、他人の重荷も同時に担うとなると負担が大きすぎることになるのは避けられません。実際にそのようなことは不可能だと感じるかもしれません。それは分かります。
しかし、だからこそ、ここでカバンのたとえが役に立ちます。罪の問題は「お互いさま」ですから。今は他人のカバンを持てるほど余裕がない。それどころか自分のカバンを持ってもらいたいくらいだというときはあります。そのときは、遠慮なく助けを求めてください。そして、助けてもらった人は、いつの日か、誰かのカバンをもってあげてください。
授業では話していることですが、私は大学卒業後25年、教会の牧師の仕事だけをしてきました。学校で教えるのは初めてです。慣れなくてもたもたしているところは、どうかお許しください。
しかし、みなさんからどう見えているかは分かりませんが、私の自覚としては教会と学校は全く違うものだという感覚はほとんどなく、むしろ共通点が多いと感じています。教会で私は聖書を教えてきました。いま学校でも聖書を教える立場です。お話しする相手が人間であるという点では、学校も教会も同じです。そして人間が相手である以上、罪の問題を抱えている存在であるという点で同じです。
聖書を教えるということと同時に、さまざまな個人的な悩みや相談にのり、解決していくためのお助けをしてきました。個人情報の要素が多く、守秘義務の観点からすべてをお話しすることはできません。
ただ、どちらかといえば人間のネガティヴな面の問題に取り組んできました。人間の光の側面よりも、影の側面、闇の側面のほうにどちらかといえばかかわってきました。経済的に行き詰った。家庭が崩壊した。夫婦関係や親子関係が険悪だ。してはいけないことをした。
病院に行った。役所にも相談した。関係諸機関のすべてに相談した。ありとあらゆる手を尽くした。だけどどうにもならなかった、とおっしゃる方が、最後の最後のところで教会に来る。宗教に頼る。神を求める。そういう方々とかかわってきました。
もうちょっと早く教会に来てくださればよかったのに、と言いたくなることも、しばしばでした。でも、私も他人事だとは思えません。自分だっていつ同じ立場に立つことになるか分かりません。一寸先は闇です。
皆さんにお願いしたいことがあります。「教会の牧師になってください」とは言いません。止めもしませんが、お勧めはしません。けっこう大変な仕事ですので。そういうことよりも、最後の最後まで「自分以外の人の重荷を担う」人になってほしいです。簡単に見捨てないで、切り捨てないで。
私も人のことは言えません。しかし、私には私の重荷を担ってもらえる「方々」が、また「方」がいます。最後の最後まで私のことを見捨てないでくれる仲間がいます。そして最後の最後まで私のことを見捨てない神がいてくださいます。皆さんにも必ずそのような仲間が与えられます。神はあなたを見捨てない。それが最後の最後の望みです。
(2016年6月6日、千葉英和高等学校 学校礼拝)
2016年6月5日日曜日
北柏めぐみ教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年6月5日日曜日)は日本基督教団北柏めぐみ教会(千葉県柏市北柏2-3-21)の主日礼拝に出席させていただきました。鈴木脩平牧師の説教によって強く深い慰めをいただきました。聖餐の恵みにも与りました。ありがとうございます。
2016年6月4日土曜日
変貌の山での祈り(松戸朝祷会)
| カトリック松戸教会(千葉県松戸市松戸1126) |
「また、イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。』六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」
勤務している高校の廊下で一人の先生から「関口先生すごいですね」と声をかけられました。「はい、すごいんです」とお応えしましたが、何がすごいのか分からなかったのでお尋ねしたら、「関口先生の名前がカトリック新聞に載っていました」とのこと。私は読んでいませんでしたので、びっくりしました。
松戸朝祷会の広告の中に私の名前があったそうです。私もついにカトリック新聞にデビューすることができました。ありがとうございます。「典礼色オムニバスシリーズ」は、とても興味深い企画だと思います。私に与えられた宿題は「白」です。聖書の箇所も「白」にちなんだ内容のところが選ばれています。
「白」でなぜ今日の箇所が選ばれたのかはすぐに分かりました。イエスさまが特別に選んだ三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られ、山の上で「白く」なられました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」。
これを読むかぎり、白くなったのはイエスさまの「服」です。いま私も毎日、服が白くなる生活をしています。黒板にチョークで字を書くと、チョークの粉で、服が真っ白になります。ごめんなさい、ごめんなさい。全く関係ありません。ここで描かれているのは、そのようなこととは違う次元のことです。
「白く」なったのはイエスさまの「服」だけではないと私は考えます。三人の弟子にははっきり見えたに違いない、ふだんのイエスさまとは明らかに異なる、とても神秘的で美しい「白い」イエスさまのお姿が山の上に立っておられたであろうことを、わたしたち自身も想像することが許されていると思います。
その「白い」イエスさまの前にモーセとエリヤが現れました。二人とも旧約聖書に登場する偉人であり、神の民の指導者です。その二人とイエスさまが山の上で協議会をおはじめになりました。そして、特別に選ばれた三人の弟子は、その協議会への陪席を許可されました。すごいメンバーの、すごい会議です。
そのあまりの緊張感の中、黙っていればいいのに、そそっかしいペトロが、自分でも何を言っているのか分からないような、余計なことを口走る。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」。
せっかく天国から戻ってきてくれたモーセとエリヤがまた天国に帰ってしまうのが寂しくて引き止めたかったのかもしれません。「仮小屋を建てる」と言い出す。だけどイエスさまの分も作りましょうと言わないとイエスさまに失礼だと思ったのかもしれません。ただ思いつきを口走っているだけだと思います。
そうしましたところ、「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした」と記されています。ここから先は「白」ではなく、「黒」ないし「グレー」の話です。弟子たちは急いで辺りを見回しましたが、もはやだれも見えず、ただイエスさまだけが一緒におられました。モーセもエリヤも天国に帰って行きました。
雲の中から聞こえた声の主はイエス・キリストの父なる神です。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と神御自身が弟子たちにお命じになりました。これで分かるのは、この話はイエスさまの神秘的な変貌の情景を描いたものでもありますが、同時に神学的な意味を持っている箇所でもあるということです。
旧約聖書において啓示されていた神の御心は、新約時代においてはイエス・キリストにおいて啓示されます。そのことが主張されています。
典礼色の話からは遠くなりましたことをお許しください。
わたしたちは「白い」イエスさまにこれからも従って生きていきたいと願います。
(2016年6月4日、松戸朝祷会、於カトリック松戸教会)
私の父も高校教員でした
売りにしたことはないが、隠したこともなく、以前も書いたことがあるので書くが、中学校以降(大学、神学校卒業まで)の私の学業成績は常時下位で、どうしようもない状態だった。教員から好かれたことはなく、私も学校なるものが苦手だった。いま学校で教員をしていることが自分で不思議でたまらない。
ただ、ひとつ思い当たる、私と学校を結ぶポジティヴな線は、私の父が高校の教員だったことだ。公立の農業高校の園芸科の教員だった。聖書科と園芸科のたぶん共通点は、いわゆるセンター試験(旧共通一次試験)の科目とは無関係なところ。その目線からは、やや(いやかなり)軽んじられやすいところ。
50歳になったいまだからこそ言えるが、私は父を尊敬している(まだ父は元気でいてくれる)。生徒の前での父の姿は知る由もなく、疲れ果てて帰宅した姿ばかりを記憶しているが、父の心の矜持は子どもなりに感じとっていた。父から園芸を学んだことは一度もないし、私には全く関心がない分野だったが。
私は大学入学以降は、一年に数日の休暇以外は実家に帰っていない。1984年以降、その状態が32年になる。べつに実家と仲が悪いわけではない。高校からストレートで神学大学に行き、卒業後25年、教会の牧師として実家から遠い町を転々としていただけだ。今も実家の岡山からとても遠い千葉にいる。
物理的距離が遠い実家との連絡手段は、今は実はネットだ。私のブログもツイッターもフェイスブックも、第一義的には、父への連絡のつもりで書いている。それを公開し、ハタの方々に読んでいただいているというわけだ。献呈辞をつけるとしたら(つけないが)、「父へ。感謝の心をこめて」となるわけだ。
2016年6月1日水曜日
サタンはサタンを追い出せない(千葉英和高等学校)
マルコによる福音書3・20~35
関口 康
「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」
どんなことにも当てはまりますが、新しいことを始め、軌道に乗りはじめると現れるのが、邪魔する人々です。従来のあり方を変更させられるのは困ると言いはじめる人々です。イエスも同じでした。弟子が少ないうちは、だれも見向きもしない。しかし、群衆を動かしはじめると、妨害する人々が現れました。
なかでも特に厄介だったと思われるのが「身内の人たち」でした。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」。イエスにも親兄弟がいました。その人々がイエスを妨害しはじめました。新しいことを始めれば、賛成して行動を共にしてくれる人々もいれば、反対して妨害し始める人々もいます。
対立が起こり、もめごとが始まります。そのことを嫌がるのが家族かもしれません。「うちの者が世間をお騒がせして申し訳ありません」などと言い出す。身内の評判が下がることは、自分たちの不利益になるからでしょう。イエスもそれは理解しておられたはずです。家族を憎む思いはイエスにはありません。
だからこそイエスは次のように言われます。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。これはイエスがご自分の肉親を切り捨てる発言であると捉えないほうがいいでしょう。それこそが、イエスが批判しておられる「内輪もめ」です。
そうではなく、家族への訴えです。家族が神の御心を行う人になってほしいという願いです。わたしたちも学びうることです。サタンはサタンを追い出せません。自分に逆らう者は切り捨てるという方式の仕事は、失敗に終わります。愛と憐れみをもって神の御心を行う人が増えていくのを願うことが大切です。
そして「神の御心を行うこと」は「行動」ですから、神の御心を思想的に深く学んでいない人にも可能です。信者以外は不可能であると言わなくてはならないようなことではありません。同じ思いで共に行動してくれる仲間を増やしていくことが教育のわざにおいて大切であると思わされている今日この頃です。
(2016年6月1日、千葉英和高等学校 有志祈祷会)
2016年5月29日日曜日
小金教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年5月29日日曜日)も日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただきました。借家から国道6号線経由で徒歩20分(1.6キロ)。近くて便利で、今泉幹夫牧師の説教が素晴らしい旧日基系の教会です。
2016年5月28日土曜日
本の谷でネルシカはオハラ出身だった
パンダ顔しためんどくさいのがまだ若干残っていますが、今夜かなりがんばって片付けましたので、タタミの青さがしみる本の谷になりました。くれぐれも「バルス」と言わないでください(番組違い)。みなさん明日もお元気で。ごきげんよう。ネルシカ。
分かる人には分かる話だと思いますが、ワンピース41巻(2006年)はうちの長男がまだ小学生で、一緒に読んだ関係でもあり、「オハラ編」は当時の私の状況と重なりあうところが多く、いまだに強い影響を受けていることを明かせば、私の書斎の今の状態を理解してもらえるものがあるかもしれません。
「オハラ編」の親子は「母と娘」の関係ですが、私は「父」として「息子」と「娘」がいて、「あなた達の生きる未来を!!私達〔親世代〕が諦めるわけにはいかない!!」(ニコ・オルビアのセリフ)と言うべき立場にいることが確実であることを痛感しながら読みました。前途はいまだに多難なのですが。
「知識とは即ち過去」であり、過去の歴史を語り継ぐためには「本」が必要。価値が分からなければただの紙切れ、ゴミの山ですが、そこに書かれた字が、画像が意味を持つ。捨てられるわけない。内容の重大さを知れば知るほど。デジタル化を否定するものではありませんが、重い価値ある紙切れ、ゴミの山。
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| 本の谷 |
「オハラ編」の親子は「母と娘」の関係ですが、私は「父」として「息子」と「娘」がいて、「あなた達の生きる未来を!!私達〔親世代〕が諦めるわけにはいかない!!」(ニコ・オルビアのセリフ)と言うべき立場にいることが確実であることを痛感しながら読みました。前途はいまだに多難なのですが。
「知識とは即ち過去」であり、過去の歴史を語り継ぐためには「本」が必要。価値が分からなければただの紙切れ、ゴミの山ですが、そこに書かれた字が、画像が意味を持つ。捨てられるわけない。内容の重大さを知れば知るほど。デジタル化を否定するものではありませんが、重い価値ある紙切れ、ゴミの山。
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| ワンピース41巻(2006年) |
2016年5月22日日曜日
小金教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年5月22日日曜日)も先週と同じく、日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただきました。自転車で片道7分(1.3キロ)でした。今泉幹夫先生の力強い説教を伺い、感謝の思いに満たされました。
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