2016年4月16日土曜日

いつも喜んでいなさい(東京プレヤーセンター)

東京プレヤーセンター礼拝(2016年4月16日、御茶ノ水クリスチャンセンター、東京都千代田区)
テサロニケの信徒への手紙一5・16~18

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

今日、私が選ばせていただいた聖書のことばは、使徒パウロの言葉です。聖書の御言は神の言葉です。そして同時に紛れもなく人間の言葉です。

その意味では、今日のみことばは、ムチャクチャです。これを書いているパウロ本人が、そのことをいちばんよく自覚していたに違いありません。パウロは人間ですから。疲れやすい、傷つきやすい肉体を持っている人間ですから。

「いつも喜んで」など、いられるはずがないではありませんか。ムチャを言うなと言いたくなります。「絶えず祈っているか」と問われれば、絶句するしかないでしょう。形式的に祈りのポーズをとっているかもしれないが、その祈りにいつも心が伴っているのかと問われれば答えられないでしょう。

そして、感謝。どんなことにも感謝することなどできるわけがないではありませんか。「感謝しろ」と無理強いされれば、形式的に感謝のポーズをとることはできるかもしれない。しかし、心の中は荒れている。無理強いされた感謝など、ナチス式敬礼と大差ありません。

そういうことを、これを書いているパウロ自身が知らずにいるわけがないのです。彼こそ弱い人間でした。腹も立つ、落胆もする、涙も流す、絶望もする。その人間パウロがこの言葉を書き記したのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と。

今日は東京プレヤーセンターにお招きいただき、ありがとうございます。上野九五先生から依頼の連絡をいただいたのが今年(2016年)1月7日でした。そのとき私は無職の状態でした。昨年12月末に、それまで11年9ヶ月働かせていただいた教会の牧師を辞職しました。同時にそれまで19年所属していた教派を退会しました。

その後3ヶ月間は、無職で無所属でした。3ヶ月間、全く無関係のアルバイトをしていました。同時に家事をしました。主夫をしました。自分で望んで計画的にそうなったのではありません。私の願う方向とは真逆の方向に引きずられて、そうなりました。詳しい事情はお話しできません。ぞっとする要素を含みますので、お話ししたくないという意味です。

それで、上野先生から1月7日にご連絡いただいたとき一瞬どうしようかと迷いました。無職だし無所属だし。教会の牧師の仕事を辞めれば牧師館に住むことはできないので、近所のマンションに転居しましたが、私の書斎は片付かないし、これから先の見通しが全く立たない状態でした。

高校の常勤講師になることについては、内定をいただいてはいましたが、手元にあるのは紙一枚。一度もしたことがない仕事ですし、どういうことになるのか何も分からない状態の1月7日でした。

上野先生から最初は3月頃にメッセージをお願いできませんかというご連絡でしたが、せめて高校での仕事が始まる4月以降にしていただけませんかと私のほうからお願いしました。それで最終的に今日(4月16日)私がお話しさせていただくことに決まったのが1月26日でした。

そして昨日(4月15日)が、高校教員としての初めての授業でした。45分授業を2コマ続ける形で90分。それを第1学年と第2学年で1クラスずつ担当しました。多くの大学の講義が1コマ90分ですので、それを2つしたのと同じです。

しかし私は、無職で無所属になった直後に上野先生からご連絡をいただいたとき、今日(4月16日)の私がどういう状態になっているかを知りたいという思いを持ちました。そして同時に、この「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というみことばについてお話ししようと決めました。

それは一種の人体実験です。聖書の御言を自分に当てはめて、実験する。どんなふうに想像してもボロボロの状態になっていることが容易に予想できる日に、あえて「いつも喜んでいなさい」という御言について語ることを自分に強いるように設定する実験です。

聖書のみことばを自分に当てはめることをしないで、他人に説教するようなことをしてはダメです。それは危険なことです。しかし、人体実験のほうも一般的には禁止事項です。専門家の指導のもとでやってください。

さて、人体実験の結果を発表します。なるほどそういうことかということが分かるものがありました。パウロが書いていることの意味が必ずそういう意味であるという意味ではありませんが、私なりに分かったと思えることがあります。

それは、喜びと祈りと感謝を失うと、そこで私の中の「何か」が本当に終わってしまうので、立つことも歩くこともできない状態になるということです。そして、とくに大事なのは「喜び」だということも改めて分かりました。

しかも、この「喜び」は普通の喜びです。普通の喜びということで私が言いたいのは、日常生活を普通に営むことができること自体を喜ぶことです。一日一日を丁寧に生きることが大事です。

人生の「微分」が必要です。1億円をもらって1億円のものを買うというような大雑把な生き方でなく、千円なら千円を徹底的に細かく割って配分する生き方です。そのほうが、よほど豊かで贅沢な生活です。

だいこん一本、にんじん一本の価値と味を知る。どのように料理すれば美味しいごちそうになるかを知る。探求し続ける。そういう人生は毎日本当に楽しいです。「いつも喜んでいる」とは、私に言わせていただけば、そのようなことです。

無理に作り笑いをする必要はありません。そういうのはすぐバレます。楽しいイベントを常に企画して、精神的・心理的な高揚を図り続けることではありません。そんなことではなく、普通の喜びが大切であり、必要です。

自分で食事を作り、皿を洗い、掃除し、洗濯することです。「そういうことはすべていつも自分でやっています」などと、いばる必要はありません。当たり前のことなのですから。

私が言いたいのは、そういうことを自分で全くやらないで、「私の日常生活には何の喜びも楽しみもない。だから感謝の思いはまるでない」と言い出す人たちに対する懲らしめです。身に覚えのある人は懲らしめられてください。

4月16日、私はまだ立っています。歩いています。笑うことができます。ガードを下げたボクサーが顔面を打たれるだけ打たれたような状態でそれでも立っている。それと似たような状況です。その状態でもなお、私の心に「喜び」があります。「祈り」があります。「感謝」があります。まだ残っています。

ただし、その「喜び」は、感覚的には、私の垂直的な真上ではなく、私の前にあります。垂直的な真上を見上げて、わたしたちには神さまのおられる天国に行ける希望があるということを強調するのが悪いわけではありません。しかし、私の希望は「上」というより「前」です。「上」を目指しながら地に足がついている、その意味での「前」です。「斜め上」かもしれません。あくまで感覚的な話です。

それでも、さすがの私も疲れていますので、ズルをしようと思いまして、今日の聖書の箇所について私のブログに貼り付けてある過去に教会で行った私自身の説教の原稿を探してみました。他人の説教の盗作はいけませんが、自分の説教であれば使い回しは可能だろうと。

すると、ブログで公開している今日の箇所についての説教の原稿が、2つ見つかりました。自分で驚いたのは、ひとつは「葬儀説教」で、またもうひとつは「結婚式説教」だったということです。それで説教原稿の使い回しのほうは断念しました。

そのとき何を話したかは、今でも自分でよく覚えています。ああ私は、結婚式でもお葬式でも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と説教する牧師だったのかと、思い返せるものがありました。

「喜び」と「祈り」と「感謝」は、状況によってあってもなくてもよいようなものではありません。特に「喜び」は、あればラッキーで、無くても構わないというようなものではないです。

「喜び」は人生の付録(オプション)ではなく、土台(ベース)です。それがないと立てないし、生きていけない。それほど切迫しているものです。

4月16日、私は今日立っています。これが人体実験の結果です。

(2016年4月16日、東京プレヤーセンター礼拝、御茶ノ水クリスチャンセンター404号室)

2016年4月13日水曜日

「日本基督教団教務教師」登録のお知らせ

このたび私こと関口康は、2016年4月12日付けで「日本基督教団教務教師」としての登録が、教団において正式に承認されました。所属は東京教区(千葉支区)となります。諸教会の皆さまにおかれましては、これからも小さなしもべのため、お祈りとお支えをいただきたく、よろしくお願いいたします。
これからもよろしくお願いいたします

2016年4月10日日曜日

人生をもっと楽しめ(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年4月10日、千葉市若葉区千城台東)
マタイによる福音書25・24~30

「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

前回の説教を「次回に続く」という形で終わらせていただきました。先ほどお読みいただきましたマタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」を前回も取り上げました。このたとえ話についての説教の続きをこれからお話しします。内容をなるべく繰り返さないようにと願っていますが、前回いらしていなかった方々もおられますので、少しだけ振り返ります。

このたとえ話は「天の国」(14節)、すなわち天国のたとえです。天国にはどのような人が歓迎され、どのような人は歓迎されないのかという話であると考えることができます。ある人が必ず戻ってくる「旅行」(14節)に出かけました。その前にその人は3人の僕を呼んで1タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。タラントンは当時のお金の単位で、今の日本円に換算すればざっと5億円、2億円、1億円だと言ってよいほど莫大な規模のお金です。

今の日本では資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を「大会社」と呼びます。資本金2億円でも1億円でも小さな会社とは言えないでしょう。つまり、このたとえ話を読んでわたしたちが思い描いてよいイメージは、資本金5億円、2億円、1億円のそれぞれ大会社の社長が3人いて、その人々が「僕」で、3つの会社を統合するグループの会長が「主人」であるというようなことです。

そういう話であると言ってしまえば、なんとなく身も蓋もない感じになってしまうかもしれません。これは天国のたとえ話であると、すでに申し上げました。天国というのは結局のところ、生きている間に仕事がうまく行ってたくさんお金を儲けて成功した勝ち組だけが入ることができて、そうでない人は地獄の火に焼かれてしまう。それがイエス・キリストの教えの趣旨なのかと考えられてしまうかもしれません。そのあたりで私は、前回の説教を終わりました。

しかし、私がそのあたりで説教を終えることができたのは、皆さんに対する信頼ゆえです。それは、皆さんがそのような誤解をなさることはありえないだろうという信頼です。「天国」なるところが成功者だけの集まりで、失敗者は地獄送りであるというのがイエス・キリストの教えであるというようなことを、よもやみなさんがお考えになるはずはないだろうと信頼しました。

もちろん、そんな話ではありません。私自身もそのようなことを全く考えたこともないし、信じたこともありませんので、どうぞご安心ください。ただ、今日これからお話しさせていただきたいのは、このたとえ話の中で比較的見落とされやすいのではないかと思われる要素です。

それは、五タラントン預けられた僕と二タラントン預けられた僕の二人について、「商売」(16節)をしたと書かれているところです。彼らは商売をしたのです。つまり働いたのです。仕事をしました。そして、それによって主人から預かったお金を倍に増やすことができました。このことは重要な点だと思いますが、案外見落とされやすいところです。

私自身は本当に会社勤めをしたことがないので、会社というのがどのようなものかは想像でものを言うしかない面があります。ただ、そんな私でも想像できるのは、資本金5億円の会社の社員が一人だけということは考えにくいということです。必ず多くの社員を雇うのではないでしょうか。

また、商売というのは、ただ金儲けをすることだけが目的ではないでしょう。何かを作ったり生み出したりする。しかも、良いものを作り、生み出す努力をする。悪いものを売って暴利を貪るだけなら商売ではなく詐欺です。良いものを売って、買ってもらって世と人にとって役立つことをする。それが会社の仕事でしょう。そして、そのような仕事をした結果として、あるいは報酬として利益を得ることができるのであって、何もしないのに収入を得られるということは、通常考えにくいわけです。

しかしまた、いま私が申し上げていることの中に仕事していない人を責める意図は全くありません。私が言いたいのは「商売」には必ずリスクが伴うということだけです。必ず成功する商売はありえません。5億円が自動的に10億円になるわけではありません。そういうことが書いてある本があれば、それは商売ではなく詐欺の本です。

ちゃんとした商売をしようと思うなら、社員に給料を払わなくてはならないし、社員の家族の面倒を見なくてはならないし、新しくて良いものを作り、生み出すことにも莫大な費用がかかります。「商売」を始めれば、お金が増えるどころか、どんどん減っていくものです。

先ほども申しましたが、今の日本の「大会社」の定義は、5億円以上の資本金か、200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を指します。200億円以上の負債を抱えるリスクを背負うのが会社の使命です。

しかし、だからといって、「商売」は、ただひたすら苦痛に耐えて、嫌々ながら、借金を返さなければならないからする、というような暗くネガティヴな思いだけで取り組むようなことなのだろうかということをよく考える必要があると思います。そういう感覚で取り組む人がいないとは思いません。しかし、5タラントン預けられた僕と2タラントン預けられた僕の二人には、そのような悲壮感がないと思われるのです。

「借りた金は返さなければならない、借りた金は返さなければならない」と、ただひたすら憂うつな気持ちでいる。「それを返すために働かなければならない。失敗したらどうしよう。返せなかったら貸してもらった人に怒られる。ああ、どうしよう、どうしよう」と、そのようなことばかり考えて、身動きがとれなくなってしまう。そのような悲壮な面持ちを前二者の僕には感じられません。

イエスさまは、5タラントンを10タラントンに増やした人も、2タラントンを4タラントンに増やした人も「商売」をしたと、ちゃんとおっしゃっています。手品ではなく(手品が悪いという意味ではありません)、タネも仕掛けもある方法で、彼らは利益を得たのです。その彼らの努力は決して過小評価されてはならないと私は思います。

そういうことを全くしなかった人が三番目の僕です。そして、次のように言う。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる恐ろしい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」(24~25節)。

これを読んで私が思うことは、もし私自身がこの主人の立場でこんなことを言う人の言葉を聞くと腹が立つだろうということです。私を馬鹿にするなと言いたくなります。「あなたは恐ろしい人だ」とか言われると、あなたに私の何が分かるのかと言いたくなります。もし本当に、あなたの言うとおり私が恐ろしい人間であるならば、最初から1タラントン(1億円相当)を預けたりはしない。何のためにあなたにそれだけのものを託したか、その思いと期待をなぜそうやって踏みにじり、裏切るのかと言いたくなります。

私は会社勤めはしたことがありませんが、子どもを2人育ててきました。子どもたちの教育にお金がかかります。親が借金しなければならないほど。それでやっと分かるようになりました。親が子どもに期待するとはどういうことか、が。

もし子どもたちが私に三番目の僕と同じようなことを言ってきたら、手を出したりはしませんが、こっぴどく説教すると思います。何のために私がお前たちのためにリスクを背負っているのか。将来何かを返してもらいたいからではない。世で成功してもらいたいからでもない。世のため人のために役立つ働きができるようになってもらいたいだけだ。そして、人の役に立つことができるようになることが、お前たち自身の喜びや楽しみになる。人生を楽しめ。そのための投資を惜しむことはない。私ならそう言います。

イエスさまが私とは全く違うお考えを持っておられるかどうかは分かりません。ただ、言えることは、自分に預けられた1億円を地に埋めて隠した僕は、こっぴどく叱られた、ということだけです。

わたしたちの人生にチャンスがあるのではありません。わたしたちの人生そのものがチャンスです。生きていること自体がチャンスです。一人で生まれる人はいません。必ず親がいます。一人で生きる人はいません。必ず他者がいます。社会があります。国があります。世界も宇宙もあります。

意識が自分ひとりだけの中に閉じこもってしまうことは、わたしたちによくあることです。その状態がひどくなると病気になります。なんとかして意識を自分の外側に向けることが必要です。

この主人は僕たちに、預けたタラントンを増やしてもらいたかったのでしょうか、それとも、使ってもらいたかったのでしょうか。私は後者だと思います。使ってもらいたかったのです。増やすことができた僕たちは、使ったから増えたのです。それが「商売」です。

地に埋めて隠した僕が叱られたのは、増やせなかったからではなく、使わなかったからです。世のためにも、人のためにも、そして自分のためにも使わなかったので、叱られたのです。

結論:人生は楽しむものです。お金は使うものです。飾っておくものではないし、しまいこむものでもありません。そして、お金は使わなければ増えません。

神さまはわたしたちに、生命と課題と目標を与えてくださいました。世のため、人のため、そして自分のためにも生きることが、わたしたちの主人である神さまの御心です。その御心を踏みにじる人は、神さまから叱られます。

神さまから叱られるのは、人生を楽しもうとしない人です。悔い改めて、もっと人生を楽しんでください。そのことを今日はみなさんにお伝えしに来ました。

(2016年4月10日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

2016年4月3日日曜日

千葉本町教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年4月3日日曜日)は日本基督教団千葉本町教会(千葉市中央区)の主日礼拝に出席させていただきました。岸憲秀牧師はまもなく30年の知己ですが、説教を聴くのは初めてでした。素晴らしい説教でした。ありがとうございました。

2016年4月1日金曜日

就職のお知らせ

私こと関口康は、2016年4月1日付けで「学校法人聖書学園 千葉英和高等学校」(千葉県八千代市村上709-1)の「宗教科常勤講師」になりました。日本基督教団においては「教務教師」としての登録となります。これからもご支援いただきたく、よろしくお願いいたします。

よろしくお願いいたします

2016年3月27日日曜日

千葉若葉教会イースター礼拝

今日(2016年3月27日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(若葉区千城台東)のイースター礼拝に出席させていただきました。永田泰三副牧師の明快な説教に励まされました。午後の祝会も楽しかったです。ありがとうございました!



2016年3月24日木曜日

転籍のお知らせ

親愛なる各位

本日、正式な通知が届きましたので、謹んでご報告申し上げます。

このたび私こと関口康は、2016年3月22日付けで「日本基督教団」への転入が承認され、同教団の正教師となりました。

任地はキリスト教主義の高等学校で、宗教科の常勤講師になります。来週3月29日(火)に同校で行われる辞令交付の後、改めてご報告いたします。

同校は「日本基督教団関係学校」であるため、教団教規第128条1項に基づき、教団の「教務教師」として登録させていただきます。

ご心配とお祈りをいただきました皆さまに、心から感謝いたします。

これからもどうかよろしくお願いいたします。

2016年3月24日

関口 康

これからもどうかよろしくお願いいたします。関口 康

2016年3月20日日曜日

鎌ヶ谷教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年3月20日日曜日)は、日本基督教団鎌ヶ谷教会(千葉県鎌ケ谷市)の主日礼拝に出席させていただきました。車で30分(12キロ)。柏木英雄牧師の丁寧で力強い説教に励まされました。鎌ヶ谷教会の皆さま、ありがとうございました。


苦い「教会の」思い出

私のネットつながりは、最古層は幼稚園時代から今日に至るまでのどこかで接点があった方々を含むワイドレンジな関係者と、面識ない方々とで構成されているので、過去の記憶が共有されている可能性があって、書きづらい。でも書きたいことがある。たしか中学生か高校生だった頃の「教会での」出来事だ。

初めて教会に来た男の子がいた。時系列や舞台設定の記憶があやしいが、教会主催の中学生か高校生の修養会のような場所だったかもしれない。私は生後まもなくから通っていた常連組。他にも何人かいたし、若い副牧師もたぶんいた。円座だったかも。説教か、読んだ聖書の感想を述べ合うことが求められた。

その問いかけに、その日初めて教会に来たその男の子が口を開いた。何か言えと求められたから応えたのだろうが、教会が初めてで、聖書を読むのも初めてのようだったから、発言すること自体にけっこう勇気が必要だっただろう。教会慣れしすぎていた私(当時中学生か高校生)のほうがよほど口が重かった。

「えーと、聖書とかよく分かんないですけど、さっき読んだ箇所に『父』とか『子』とか出てくるのを読んで、おれ父親とあんまりうまく行ってなくて悩んでるところがあるんで、ちょっと気になりました」みたいなことを、その子がたしか言った。私の記憶が書き換えられていなければ、そういう内容だった。

そのときの私(当時中学生か高校生)の内心の反応は「あちゃー」というようなものだった。「それ聖書の読み方間違ってるよ、聖書のその箇所の『父』と『子』の関係というのは、人間の親子関係のことなんか関係なくて『父なる神』と『子なるイエス・キリスト』の関係のことを意味しているのだから」と。

でも、そのとき私はたしか黙っていた。黙ったまま心の中で「あちゃー」と言っているだけだった。そうしたら、他の子だったか若い副牧師だったかが、私が内心で考えたのとほぼ同じことを口に出して説明しはじめた。「その聖書の箇所のそれは、あなたが考えたそういう意味ではなくて、どうでこうで」と。

そうしたら、その自分の親との関係がうまく行ってなくて悩んでいるということをみんなの前で打ち明けた男の子が不機嫌になった。座っていた椅子を蹴飛ばして部屋を出て行くというような行動まではとらなかったが、そこから先は、だれから何を聞かれても、何を言われても、何も応えなくなってしまった。

私がかれこれ40年近くこの記憶を抱え続け、忘れられずにいるのは、そのとき感じた強い衝撃と、反省ゆえだと思う。内心で「あちゃー」と言ってしまったこと。そして、その子が聖書の言葉から自分なりに連想して自分の父親との関係という深刻な問題を告白したことを、ぞんざいに扱ってしまったことを。

「教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください」と、教会の人たちは百万回くらい言う。だけど、勇気を出して行ってみて、「何か言え」と言われて勇気を出して何か言ったら「それは違う。それはこうでああで」と指南だけされる。そんな教会にだれが二度と行くか。

自分が逆の立場なら「うるせーよ」の一言しかないだろう。何が「間違ったこと」なのかの判断自体が難しいことでもあるが、教会に初めて来た人に「間違ったこと」を教会の中で言わせたくないなら、初めから「何か言え」と求めなければいい。質問しておいて応えが返ってくると文句つけるのはどうなのか。

50歳で50年の教会生活を続け、半分の25年を牧師生活に費やした私だが、教会というものがますます謎に思えてきたし、伝道というのがいまだに分からない。こう書くからと言って「信仰」を失ったわけでも「召命感」を失ったわけでもない。悩むことをやめることが最悪だよなと感じているだけである。

2016年3月13日日曜日

失敗を恐れるな(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年3月13日、千葉市若葉区千城台東)
マタイによる福音書25・14~30

「『天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」

今日お話ししますのは、マタイによる福音書25章14節から30節までの「タラントンのたとえ」の箇所です。この箇所を選ばせていただいたのは、やや個人的ではありますが、理由があります。

1ヶ月以上前になりましたが、2月はじめに4日間、来月から勤務となる高校で新年度の宗教科新教員研修をしていただきました。そのとき現在の宗教科の先生の授業を見学させていただく時間がありました。その授業の中で取り上げられていたのが「タラントンのたとえ」の箇所でした。

それで、言い方は雑で申し訳ないのですが、単純に面白いなと思ったのです。先生たちが教会ではなく学校という場所で高校生に「タラントン」とは何か、これをきみたちは持っているのか、持っているとしたらそれをどうやって使うのかということを一生懸命教えておられました。その先生たちのお姿に感動しました。私も来年からあんなふうに聖書を高校生に教えることができたらいいな、でも大変そうだな、とも思いました。

そして、それと同時に私自身も「タラントンのたとえ」が伝えようとしている聖書のメッセージは何なのかを改めて考えるきっかけになりました。それで、今日はぜひこの箇所の説教をさせていただきたいと願った次第です。

しかしまたこの箇所は、学校はともかく、教会ではあまりにも有名な箇所です。みなさんも、この箇所の説教を何度も聴いてこられたでしょう。それで、みなさまにあらかじめお願いしておきます。この箇所の説教をするチャンスをもう一度与えてください。2回に分けてお話しします。考えなければならないことがたくさんあります。今日は「続きは次回に」という終わり方をさせていただきます。そのことをどうかお許しください。

ここから中身に入っていきます。最初に申し上げなければならないことは、「タラントンのたとえ」は、イエス・キリストが御自身の説教の中でこのようなたとえ話をお用いになったことを、マタイが紹介しているものだということです。本当にこういうことをイエスさまがおっしゃったのか、マタイが後から考えてイエスさまがこういうことをおっしゃったことにしたのかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。それ以上のことは言えません。

次に「天の国はまた次のようにたとえられる」(14節)に書かれているとおり、たとえられているのは「天国」であるという点が重要です。天国天国と言うけれど、だれも行ったことがないし見たことがない。天国に行って帰って来た人がいれば、天国の写真を撮って来てくれたり、音を録音してきてくれたりできるもしれませんが、それは無理だという場合、天国とはどんなところなのか教えてくれと問われたときに、それは「こういうふうなところ」だと、たとえを用いて説明することです。

さて、たとえの中身に入っていきます。最初に「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」(14節)と書かれています。この「ある人」(アンスローポス)は、すぐ後の18節で「主人」(キュリオス)と呼び替えられています。その人には複数の「僕」がいました。この「僕」(ドゥーロス)は「主人」(キュリオス)の対義語です。重要なことは、この「僕」は、わたしたちが「奴隷」という言葉を聞くとだいたいすぐに思い浮かべることになる存在とは区別して考える必要があるということです。

わたしたちの多くが「奴隷」という言葉でイメージする可能性があるのは、24章45節の「使用人」(オイケテース)のほうだと思います。これは「僕」(ドゥーロス)とは異なる言葉です。「使用人」と訳されているオイケテースは「家」を意味するオイコスという言葉が含まれます。家の中で主人の妻や子どもとは区別され、家の仕事をするために低賃金で雇われた「使用人」という意味での「奴隷」がオイケテースです。

しかし、今日の箇所に出てくる「僕」(ドゥーロス)は、ただちに今申し上げた意味での「奴隷」を意味しません。「僕」の中に「奴隷」は含まれていますが、イコールではありません。「僕」は「主人」の対義語であるだけです。これは全体の理解の中で重要な点だと思います。

なぜ重要かと言いますと、この主人が旅行に出かけるとき僕たちを呼んで、一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンを預けたことが書かれているからです。今申し上げたことの中に3つ、重要なキーワードがあります。「旅行」、「預けた」、「タラントン」です。

第一のキーワードは「旅行」(アポデメオー)です。主人は旅行に出かけただけです。必ず帰ってきます。二度と帰ってこない旅行はまずいです。片道切符の旅行には行かないでください。必ず帰ってくるのが「旅行」です。これで分かるのは、この主人が僕たちに「タラントン」なるものを預けたのは、あくまでも一時的なことだということです。僕の視点からいえば、一時的に預けられたものは、いつか必ず返さなければならない性格のものです。

第二のキーワードは「預けた」(パラディドーミ)です。この意味はもうお分かりでしょう。「与えられた」のではないということです。彼らは「タラントン」を主人からもらったのではありません。その意味では「タラントン」は彼らのものではありません。私物化してはなりません。主人の旅行中に預かったという意味は、管理を任されたということです。勝手に使ってよいわけではないのです。

そして第三のキーワードは「タラントン」です。これは、よく知られているとおり、当時のお金の単位です。しかも、かなり高額です。「1タラントンは約1億円だと覚えてください」と、先日の教員研修のときの授業で教えていただきました。とても分かりやすい説明でしたので、よく覚えています。

つまり、この箇所に登場する3人の僕が主人から預かった「タラントン」は、今の日本で言えば、一人は5億円、一人は2億円、一人は1億円であると考えることができます。とんでもない金額です。いくら主人がお金持ちだからといって、「はい、あなたは5億円。あなたは2億円、あなたは1億円」とキャッシュでポンと渡して「どうぞご自由に」と言うなどという状況は通常考えられないわけです。

この主人がどこに、どれくらいの年数、旅行に行っていたのかは分かりませんが、3人の僕に5億円と2億円と1億円を預けたとしたら合計8億円。主人自身も2億円くらいはもって旅行してきたかもしれません。それで全部で10億円。

しかし重要なことは、主人が彼らに自分の財産を「預けた」のは、プレゼントしたという意味ではないということです。それは主人から僕への贈り物ではありません。主人から僕への「贈り物」は、あとで出てきます。しかし「タラントン」は贈り物ではありません。管理を任せただけです。しかも、非常に高額です。

そのことを考え合わせますと「僕」(ドゥーロス)と「使用人」(オイケテース)の区別の問題の答えが見えてきます。「使用人」という意味での「奴隷」に5億円、2億円、1億円を手渡して「自由に使っていいよ」とプレゼントする「主人」がいるだろうかと考えてみれば、通常ありえないと考えざるをえないわけです。

そういう意味ではありえません。彼らは「主人」の対義語として「僕」と呼ばれているだけです。会社でいえば、上司と部下の関係、あるいは社長と社員の関係であると考えるほうが近いです。言い方を換えれば、この主人が僕たちに「タラントン」を預けたことには初めから目的があったということです。

それは要するに事業展開です。お金を預けたということの意味は、仕事を任せたということです。それは、たとえていえば、5億円の事業、2億円の事業、1億円の事業です。ただし、その事業内容はお前たちが決めろという話です。内容まで指図はしない。その意味では自由に使え。しかし、私物化していいわけではないし、ばくちに使っていいわけでもない。とにかくうまくやってくれ。お前たちに期待しているよと、部下を信頼して仕事を任せてくれた上司の話であると考えるほうが近いです。

膨大な資本金を預けられたその瞬間から、自分はこれを用いて何をすべきかを自分で考えて、すぐ動きはじめ、あらゆる手を尽くして働く。そのことを主人は僕たちに初めから期待していたと考えるべきです。誰かの指示がなければ自分では何の判断もできず、何の働きもできない僕では困るのです。そうであるかどうか、僕の判断力を主人が試そうとしていると考えることができるかもしれません。

そのような主人の思いを察し、適確に理解し、その期待に応えるべく努力し、成果をおさめることができたのは、5タラントン預けられた僕と、2タラントン預けられた僕でした。それは資本金5億円の事業の責任者と、資本金2億円の事業の責任者の2人だと考えることができます。

インターネットで調べたら、今の日本では、資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社のことを「大会社」と呼ぶそうです。そのように日本の法律の「会社法」で定義されているそうです。2億円の会社や1億円の会社はどうでしょうか。会社勤めをしたことがない私には正確な知識はありませんが、決して小さい会社であるとは言えないと思います。

いま申し上げたいのは今日開いていただいた聖書の箇所の「タラントンのたとえ」でわたしたちが思い描くべきイメージの問題だけです。3人の僕は、たとえていえば、資本金5億円の会社の社長と、資本金2億円の会社の社長と、資本金1億円の会社の社長。そして、彼らにお金を預けた主人は3つの会社を統合するグループの会長のような存在です。

事業に成功した前二者の社長はグループの会長からごほうびをいただきました。21節と23節に同じ言葉で「主人と一緒に喜んでくれ」とあるのは「祝宴に出席してください」という招待の言葉です。この「祝宴への招待」が先ほど申し上げた、主人から僕への「贈り物」の中身です。「タラントン」は贈り物ではありません。祝宴で食べたり飲んだりできる「喜び」が、彼らへの贈り物です。

そして、この「祝宴」(このように新共同訳聖書に訳されていませんが)こそが「天国」です。天国という祝宴には、どのような人が招かれるのか、どのような人は招かれないのかということが、このたとえ話のテーマです。

祝宴に招いてもらえなかった人がいます。3人目の僕です。彼は主人の怒りを買い、外の暗闇に追い出されてしまいます。彼は殺されたわけではありません。祝宴に招待してもらえなかっただけです。ひとりぼっちで、外の暗闇で、自分のどこが悪かったのかを反省しろ、と言われているのです。

彼のどこが悪かったのでしょうか。この続きは次回にお話しします。

一点だけ申し上げておきます。

彼は失敗を恐れた。そのことを主人は厳しく責めているのです。

(2016年3月13日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)