私のネットつながりは、最古層は幼稚園時代から今日に至るまでのどこかで接点があった方々を含むワイドレンジな関係者と、面識ない方々とで構成されているので、過去の記憶が共有されている可能性があって、書きづらい。でも書きたいことがある。たしか中学生か高校生だった頃の「教会での」出来事だ。
初めて教会に来た男の子がいた。時系列や舞台設定の記憶があやしいが、教会主催の中学生か高校生の修養会のような場所だったかもしれない。私は生後まもなくから通っていた常連組。他にも何人かいたし、若い副牧師もたぶんいた。円座だったかも。説教か、読んだ聖書の感想を述べ合うことが求められた。
その問いかけに、その日初めて教会に来たその男の子が口を開いた。何か言えと求められたから応えたのだろうが、教会が初めてで、聖書を読むのも初めてのようだったから、発言すること自体にけっこう勇気が必要だっただろう。教会慣れしすぎていた私(当時中学生か高校生)のほうがよほど口が重かった。
「えーと、聖書とかよく分かんないですけど、さっき読んだ箇所に『父』とか『子』とか出てくるのを読んで、おれ父親とあんまりうまく行ってなくて悩んでるところがあるんで、ちょっと気になりました」みたいなことを、その子がたしか言った。私の記憶が書き換えられていなければ、そういう内容だった。
そのときの私(当時中学生か高校生)の内心の反応は「あちゃー」というようなものだった。「それ聖書の読み方間違ってるよ、聖書のその箇所の『父』と『子』の関係というのは、人間の親子関係のことなんか関係なくて『父なる神』と『子なるイエス・キリスト』の関係のことを意味しているのだから」と。
でも、そのとき私はたしか黙っていた。黙ったまま心の中で「あちゃー」と言っているだけだった。そうしたら、他の子だったか若い副牧師だったかが、私が内心で考えたのとほぼ同じことを口に出して説明しはじめた。「その聖書の箇所のそれは、あなたが考えたそういう意味ではなくて、どうでこうで」と。
そうしたら、その自分の親との関係がうまく行ってなくて悩んでいるということをみんなの前で打ち明けた男の子が不機嫌になった。座っていた椅子を蹴飛ばして部屋を出て行くというような行動まではとらなかったが、そこから先は、だれから何を聞かれても、何を言われても、何も応えなくなってしまった。
私がかれこれ40年近くこの記憶を抱え続け、忘れられずにいるのは、そのとき感じた強い衝撃と、反省ゆえだと思う。内心で「あちゃー」と言ってしまったこと。そして、その子が聖書の言葉から自分なりに連想して自分の父親との関係という深刻な問題を告白したことを、ぞんざいに扱ってしまったことを。
「教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください」と、教会の人たちは百万回くらい言う。だけど、勇気を出して行ってみて、「何か言え」と言われて勇気を出して何か言ったら「それは違う。それはこうでああで」と指南だけされる。そんな教会にだれが二度と行くか。
自分が逆の立場なら「うるせーよ」の一言しかないだろう。何が「間違ったこと」なのかの判断自体が難しいことでもあるが、教会に初めて来た人に「間違ったこと」を教会の中で言わせたくないなら、初めから「何か言え」と求めなければいい。質問しておいて応えが返ってくると文句つけるのはどうなのか。
50歳で50年の教会生活を続け、半分の25年を牧師生活に費やした私だが、教会というものがますます謎に思えてきたし、伝道というのがいまだに分からない。こう書くからと言って「信仰」を失ったわけでも「召命感」を失ったわけでもない。悩むことをやめることが最悪だよなと感じているだけである。