2016年4月10日日曜日

人生をもっと楽しめ(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年4月10日、千葉市若葉区千城台東)
マタイによる福音書25・24~30

「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

前回の説教を「次回に続く」という形で終わらせていただきました。先ほどお読みいただきましたマタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」を前回も取り上げました。このたとえ話についての説教の続きをこれからお話しします。内容をなるべく繰り返さないようにと願っていますが、前回いらしていなかった方々もおられますので、少しだけ振り返ります。

このたとえ話は「天の国」(14節)、すなわち天国のたとえです。天国にはどのような人が歓迎され、どのような人は歓迎されないのかという話であると考えることができます。ある人が必ず戻ってくる「旅行」(14節)に出かけました。その前にその人は3人の僕を呼んで1タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。タラントンは当時のお金の単位で、今の日本円に換算すればざっと5億円、2億円、1億円だと言ってよいほど莫大な規模のお金です。

今の日本では資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を「大会社」と呼びます。資本金2億円でも1億円でも小さな会社とは言えないでしょう。つまり、このたとえ話を読んでわたしたちが思い描いてよいイメージは、資本金5億円、2億円、1億円のそれぞれ大会社の社長が3人いて、その人々が「僕」で、3つの会社を統合するグループの会長が「主人」であるというようなことです。

そういう話であると言ってしまえば、なんとなく身も蓋もない感じになってしまうかもしれません。これは天国のたとえ話であると、すでに申し上げました。天国というのは結局のところ、生きている間に仕事がうまく行ってたくさんお金を儲けて成功した勝ち組だけが入ることができて、そうでない人は地獄の火に焼かれてしまう。それがイエス・キリストの教えの趣旨なのかと考えられてしまうかもしれません。そのあたりで私は、前回の説教を終わりました。

しかし、私がそのあたりで説教を終えることができたのは、皆さんに対する信頼ゆえです。それは、皆さんがそのような誤解をなさることはありえないだろうという信頼です。「天国」なるところが成功者だけの集まりで、失敗者は地獄送りであるというのがイエス・キリストの教えであるというようなことを、よもやみなさんがお考えになるはずはないだろうと信頼しました。

もちろん、そんな話ではありません。私自身もそのようなことを全く考えたこともないし、信じたこともありませんので、どうぞご安心ください。ただ、今日これからお話しさせていただきたいのは、このたとえ話の中で比較的見落とされやすいのではないかと思われる要素です。

それは、五タラントン預けられた僕と二タラントン預けられた僕の二人について、「商売」(16節)をしたと書かれているところです。彼らは商売をしたのです。つまり働いたのです。仕事をしました。そして、それによって主人から預かったお金を倍に増やすことができました。このことは重要な点だと思いますが、案外見落とされやすいところです。

私自身は本当に会社勤めをしたことがないので、会社というのがどのようなものかは想像でものを言うしかない面があります。ただ、そんな私でも想像できるのは、資本金5億円の会社の社員が一人だけということは考えにくいということです。必ず多くの社員を雇うのではないでしょうか。

また、商売というのは、ただ金儲けをすることだけが目的ではないでしょう。何かを作ったり生み出したりする。しかも、良いものを作り、生み出す努力をする。悪いものを売って暴利を貪るだけなら商売ではなく詐欺です。良いものを売って、買ってもらって世と人にとって役立つことをする。それが会社の仕事でしょう。そして、そのような仕事をした結果として、あるいは報酬として利益を得ることができるのであって、何もしないのに収入を得られるということは、通常考えにくいわけです。

しかしまた、いま私が申し上げていることの中に仕事していない人を責める意図は全くありません。私が言いたいのは「商売」には必ずリスクが伴うということだけです。必ず成功する商売はありえません。5億円が自動的に10億円になるわけではありません。そういうことが書いてある本があれば、それは商売ではなく詐欺の本です。

ちゃんとした商売をしようと思うなら、社員に給料を払わなくてはならないし、社員の家族の面倒を見なくてはならないし、新しくて良いものを作り、生み出すことにも莫大な費用がかかります。「商売」を始めれば、お金が増えるどころか、どんどん減っていくものです。

先ほども申しましたが、今の日本の「大会社」の定義は、5億円以上の資本金か、200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を指します。200億円以上の負債を抱えるリスクを背負うのが会社の使命です。

しかし、だからといって、「商売」は、ただひたすら苦痛に耐えて、嫌々ながら、借金を返さなければならないからする、というような暗くネガティヴな思いだけで取り組むようなことなのだろうかということをよく考える必要があると思います。そういう感覚で取り組む人がいないとは思いません。しかし、5タラントン預けられた僕と2タラントン預けられた僕の二人には、そのような悲壮感がないと思われるのです。

「借りた金は返さなければならない、借りた金は返さなければならない」と、ただひたすら憂うつな気持ちでいる。「それを返すために働かなければならない。失敗したらどうしよう。返せなかったら貸してもらった人に怒られる。ああ、どうしよう、どうしよう」と、そのようなことばかり考えて、身動きがとれなくなってしまう。そのような悲壮な面持ちを前二者の僕には感じられません。

イエスさまは、5タラントンを10タラントンに増やした人も、2タラントンを4タラントンに増やした人も「商売」をしたと、ちゃんとおっしゃっています。手品ではなく(手品が悪いという意味ではありません)、タネも仕掛けもある方法で、彼らは利益を得たのです。その彼らの努力は決して過小評価されてはならないと私は思います。

そういうことを全くしなかった人が三番目の僕です。そして、次のように言う。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる恐ろしい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」(24~25節)。

これを読んで私が思うことは、もし私自身がこの主人の立場でこんなことを言う人の言葉を聞くと腹が立つだろうということです。私を馬鹿にするなと言いたくなります。「あなたは恐ろしい人だ」とか言われると、あなたに私の何が分かるのかと言いたくなります。もし本当に、あなたの言うとおり私が恐ろしい人間であるならば、最初から1タラントン(1億円相当)を預けたりはしない。何のためにあなたにそれだけのものを託したか、その思いと期待をなぜそうやって踏みにじり、裏切るのかと言いたくなります。

私は会社勤めはしたことがありませんが、子どもを2人育ててきました。子どもたちの教育にお金がかかります。親が借金しなければならないほど。それでやっと分かるようになりました。親が子どもに期待するとはどういうことか、が。

もし子どもたちが私に三番目の僕と同じようなことを言ってきたら、手を出したりはしませんが、こっぴどく説教すると思います。何のために私がお前たちのためにリスクを背負っているのか。将来何かを返してもらいたいからではない。世で成功してもらいたいからでもない。世のため人のために役立つ働きができるようになってもらいたいだけだ。そして、人の役に立つことができるようになることが、お前たち自身の喜びや楽しみになる。人生を楽しめ。そのための投資を惜しむことはない。私ならそう言います。

イエスさまが私とは全く違うお考えを持っておられるかどうかは分かりません。ただ、言えることは、自分に預けられた1億円を地に埋めて隠した僕は、こっぴどく叱られた、ということだけです。

わたしたちの人生にチャンスがあるのではありません。わたしたちの人生そのものがチャンスです。生きていること自体がチャンスです。一人で生まれる人はいません。必ず親がいます。一人で生きる人はいません。必ず他者がいます。社会があります。国があります。世界も宇宙もあります。

意識が自分ひとりだけの中に閉じこもってしまうことは、わたしたちによくあることです。その状態がひどくなると病気になります。なんとかして意識を自分の外側に向けることが必要です。

この主人は僕たちに、預けたタラントンを増やしてもらいたかったのでしょうか、それとも、使ってもらいたかったのでしょうか。私は後者だと思います。使ってもらいたかったのです。増やすことができた僕たちは、使ったから増えたのです。それが「商売」です。

地に埋めて隠した僕が叱られたのは、増やせなかったからではなく、使わなかったからです。世のためにも、人のためにも、そして自分のためにも使わなかったので、叱られたのです。

結論:人生は楽しむものです。お金は使うものです。飾っておくものではないし、しまいこむものでもありません。そして、お金は使わなければ増えません。

神さまはわたしたちに、生命と課題と目標を与えてくださいました。世のため、人のため、そして自分のためにも生きることが、わたしたちの主人である神さまの御心です。その御心を踏みにじる人は、神さまから叱られます。

神さまから叱られるのは、人生を楽しもうとしない人です。悔い改めて、もっと人生を楽しんでください。そのことを今日はみなさんにお伝えしに来ました。

(2016年4月10日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)