日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年3月13日、千葉市若葉区千城台東) |
「『天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」
今日お話ししますのは、マタイによる福音書25章14節から30節までの「タラントンのたとえ」の箇所です。この箇所を選ばせていただいたのは、やや個人的ではありますが、理由があります。
1ヶ月以上前になりましたが、2月はじめに4日間、来月から勤務となる高校で新年度の宗教科新教員研修をしていただきました。そのとき現在の宗教科の先生の授業を見学させていただく時間がありました。その授業の中で取り上げられていたのが「タラントンのたとえ」の箇所でした。
それで、言い方は雑で申し訳ないのですが、単純に面白いなと思ったのです。先生たちが教会ではなく学校という場所で高校生に「タラントン」とは何か、これをきみたちは持っているのか、持っているとしたらそれをどうやって使うのかということを一生懸命教えておられました。その先生たちのお姿に感動しました。私も来年からあんなふうに聖書を高校生に教えることができたらいいな、でも大変そうだな、とも思いました。
そして、それと同時に私自身も「タラントンのたとえ」が伝えようとしている聖書のメッセージは何なのかを改めて考えるきっかけになりました。それで、今日はぜひこの箇所の説教をさせていただきたいと願った次第です。
しかしまたこの箇所は、学校はともかく、教会ではあまりにも有名な箇所です。みなさんも、この箇所の説教を何度も聴いてこられたでしょう。それで、みなさまにあらかじめお願いしておきます。この箇所の説教をするチャンスをもう一度与えてください。2回に分けてお話しします。考えなければならないことがたくさんあります。今日は「続きは次回に」という終わり方をさせていただきます。そのことをどうかお許しください。
ここから中身に入っていきます。最初に申し上げなければならないことは、「タラントンのたとえ」は、イエス・キリストが御自身の説教の中でこのようなたとえ話をお用いになったことを、マタイが紹介しているものだということです。本当にこういうことをイエスさまがおっしゃったのか、マタイが後から考えてイエスさまがこういうことをおっしゃったことにしたのかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。それ以上のことは言えません。
次に「天の国はまた次のようにたとえられる」(14節)に書かれているとおり、たとえられているのは「天国」であるという点が重要です。天国天国と言うけれど、だれも行ったことがないし見たことがない。天国に行って帰って来た人がいれば、天国の写真を撮って来てくれたり、音を録音してきてくれたりできるもしれませんが、それは無理だという場合、天国とはどんなところなのか教えてくれと問われたときに、それは「こういうふうなところ」だと、たとえを用いて説明することです。
さて、たとえの中身に入っていきます。最初に「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」(14節)と書かれています。この「ある人」(アンスローポス)は、すぐ後の18節で「主人」(キュリオス)と呼び替えられています。その人には複数の「僕」がいました。この「僕」(ドゥーロス)は「主人」(キュリオス)の対義語です。重要なことは、この「僕」は、わたしたちが「奴隷」という言葉を聞くとだいたいすぐに思い浮かべることになる存在とは区別して考える必要があるということです。
わたしたちの多くが「奴隷」という言葉でイメージする可能性があるのは、24章45節の「使用人」(オイケテース)のほうだと思います。これは「僕」(ドゥーロス)とは異なる言葉です。「使用人」と訳されているオイケテースは「家」を意味するオイコスという言葉が含まれます。家の中で主人の妻や子どもとは区別され、家の仕事をするために低賃金で雇われた「使用人」という意味での「奴隷」がオイケテースです。
しかし、今日の箇所に出てくる「僕」(ドゥーロス)は、ただちに今申し上げた意味での「奴隷」を意味しません。「僕」の中に「奴隷」は含まれていますが、イコールではありません。「僕」は「主人」の対義語であるだけです。これは全体の理解の中で重要な点だと思います。
なぜ重要かと言いますと、この主人が旅行に出かけるとき僕たちを呼んで、一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンを預けたことが書かれているからです。今申し上げたことの中に3つ、重要なキーワードがあります。「旅行」、「預けた」、「タラントン」です。
第一のキーワードは「旅行」(アポデメオー)です。主人は旅行に出かけただけです。必ず帰ってきます。二度と帰ってこない旅行はまずいです。片道切符の旅行には行かないでください。必ず帰ってくるのが「旅行」です。これで分かるのは、この主人が僕たちに「タラントン」なるものを預けたのは、あくまでも一時的なことだということです。僕の視点からいえば、一時的に預けられたものは、いつか必ず返さなければならない性格のものです。
第二のキーワードは「預けた」(パラディドーミ)です。この意味はもうお分かりでしょう。「与えられた」のではないということです。彼らは「タラントン」を主人からもらったのではありません。その意味では「タラントン」は彼らのものではありません。私物化してはなりません。主人の旅行中に預かったという意味は、管理を任されたということです。勝手に使ってよいわけではないのです。
そして第三のキーワードは「タラントン」です。これは、よく知られているとおり、当時のお金の単位です。しかも、かなり高額です。「1タラントンは約1億円だと覚えてください」と、先日の教員研修のときの授業で教えていただきました。とても分かりやすい説明でしたので、よく覚えています。
つまり、この箇所に登場する3人の僕が主人から預かった「タラントン」は、今の日本で言えば、一人は5億円、一人は2億円、一人は1億円であると考えることができます。とんでもない金額です。いくら主人がお金持ちだからといって、「はい、あなたは5億円。あなたは2億円、あなたは1億円」とキャッシュでポンと渡して「どうぞご自由に」と言うなどという状況は通常考えられないわけです。
この主人がどこに、どれくらいの年数、旅行に行っていたのかは分かりませんが、3人の僕に5億円と2億円と1億円を預けたとしたら合計8億円。主人自身も2億円くらいはもって旅行してきたかもしれません。それで全部で10億円。
しかし重要なことは、主人が彼らに自分の財産を「預けた」のは、プレゼントしたという意味ではないということです。それは主人から僕への贈り物ではありません。主人から僕への「贈り物」は、あとで出てきます。しかし「タラントン」は贈り物ではありません。管理を任せただけです。しかも、非常に高額です。
そのことを考え合わせますと「僕」(ドゥーロス)と「使用人」(オイケテース)の区別の問題の答えが見えてきます。「使用人」という意味での「奴隷」に5億円、2億円、1億円を手渡して「自由に使っていいよ」とプレゼントする「主人」がいるだろうかと考えてみれば、通常ありえないと考えざるをえないわけです。
そういう意味ではありえません。彼らは「主人」の対義語として「僕」と呼ばれているだけです。会社でいえば、上司と部下の関係、あるいは社長と社員の関係であると考えるほうが近いです。言い方を換えれば、この主人が僕たちに「タラントン」を預けたことには初めから目的があったということです。
それは要するに事業展開です。お金を預けたということの意味は、仕事を任せたということです。それは、たとえていえば、5億円の事業、2億円の事業、1億円の事業です。ただし、その事業内容はお前たちが決めろという話です。内容まで指図はしない。その意味では自由に使え。しかし、私物化していいわけではないし、ばくちに使っていいわけでもない。とにかくうまくやってくれ。お前たちに期待しているよと、部下を信頼して仕事を任せてくれた上司の話であると考えるほうが近いです。
膨大な資本金を預けられたその瞬間から、自分はこれを用いて何をすべきかを自分で考えて、すぐ動きはじめ、あらゆる手を尽くして働く。そのことを主人は僕たちに初めから期待していたと考えるべきです。誰かの指示がなければ自分では何の判断もできず、何の働きもできない僕では困るのです。そうであるかどうか、僕の判断力を主人が試そうとしていると考えることができるかもしれません。
そのような主人の思いを察し、適確に理解し、その期待に応えるべく努力し、成果をおさめることができたのは、5タラントン預けられた僕と、2タラントン預けられた僕でした。それは資本金5億円の事業の責任者と、資本金2億円の事業の責任者の2人だと考えることができます。
インターネットで調べたら、今の日本では、資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社のことを「大会社」と呼ぶそうです。そのように日本の法律の「会社法」で定義されているそうです。2億円の会社や1億円の会社はどうでしょうか。会社勤めをしたことがない私には正確な知識はありませんが、決して小さい会社であるとは言えないと思います。
いま申し上げたいのは今日開いていただいた聖書の箇所の「タラントンのたとえ」でわたしたちが思い描くべきイメージの問題だけです。3人の僕は、たとえていえば、資本金5億円の会社の社長と、資本金2億円の会社の社長と、資本金1億円の会社の社長。そして、彼らにお金を預けた主人は3つの会社を統合するグループの会長のような存在です。
事業に成功した前二者の社長はグループの会長からごほうびをいただきました。21節と23節に同じ言葉で「主人と一緒に喜んでくれ」とあるのは「祝宴に出席してください」という招待の言葉です。この「祝宴への招待」が先ほど申し上げた、主人から僕への「贈り物」の中身です。「タラントン」は贈り物ではありません。祝宴で食べたり飲んだりできる「喜び」が、彼らへの贈り物です。
そして、この「祝宴」(このように新共同訳聖書に訳されていませんが)こそが「天国」です。天国という祝宴には、どのような人が招かれるのか、どのような人は招かれないのかということが、このたとえ話のテーマです。
祝宴に招いてもらえなかった人がいます。3人目の僕です。彼は主人の怒りを買い、外の暗闇に追い出されてしまいます。彼は殺されたわけではありません。祝宴に招待してもらえなかっただけです。ひとりぼっちで、外の暗闇で、自分のどこが悪かったのかを反省しろ、と言われているのです。
彼のどこが悪かったのでしょうか。この続きは次回にお話しします。
一点だけ申し上げておきます。
彼は失敗を恐れた。そのことを主人は厳しく責めているのです。
(2016年3月13日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)