2015年3月28日土曜日

よく分からない人たち

古本ばかり増え続ける本棚

「牧師さんはしゃべりのプロだと思いますけど」という枕詞をつけたうえで話したことに文句付けられることがたまにありますけど、はて「牧師さん」は「しゃべりのプロ」なんですかね。素朴な疑問。その枕詞を聞くたびに、いやーな気分になるんですよね。はいはい、まあそれでもいいですけどね、ははは。

もう時効なほど昔の話になったので書いていいと思いますが、原稿とか録音とか依頼してくるので受けて書いたりしゃべったりしたら書き直せ録り直せと言われたり、全く違う文章に書きなおされてこれでいいですねとか言われたら「もうしませんので二度と依頼しないでください」と誰でも普通言いますよね。

依頼というのは、そういうものでしょうに。もちろん立場は尊重しますよ。私の書くことしゃべることが違うと思うなら、お気に入りのことを書いたりしゃべったりしてくれる人たちにやってもらえばいいだけのこと。それでいいじゃないですか。でも、そういう態度が気に食わないのか。よく分からないです。

まだいますね、よく分からない人。他人のブログの編集長になっちゃう人。あれは書くべきでないこれは書くべきでない。誤字脱字とか差別語不快語とか事実誤認などの指摘であれば真摯に耳を傾けますが、思想信条レベルのことで編集長のように振る舞われてしまうと、腹は立ちませんが、ひたすら呆れます。

昔は、雑誌や紀要の編集長は大権力者だったかもしれませんけどね。古い感覚なら、苦労して書いた論文やエッセイをあの雑誌あの紀要に載せてもらえて初めてデビューなのかもしれない。でも今は自分のブログに書いてfacebookやツイッターで広報して「いいね」押してもらうほうがよほど名誉です。

ある雑誌(名前は伏せます)は全国の店頭で5冊売れたそうです。作った人たちは「5冊も売れたとも言える」とか苦しいことを言っておられましたが、私はぞっとしました。ブログに書いてfacebookやツイッターで広報すれば、全く同じ内容のものを少なくとも100人200人に読んでもらえます。

ブログに何千万字だか何億字だか書いてもそれがお金になることはありません。でも自費でやるか会費を集めるかして、雑誌の印刷に多額のお金を注ぎ込んで、でも売れず、自宅の倉庫か自室のダンボールの中に眠らせたままであるのと、どっちが得か、よ~く考えてみよう(大昔の欽ちゃんのCMの口真似)。

結局なんなんですかね。「お前がデビューできるかどうかの鍵はおれが握っているんだから、おれの言うこと聞け」みたいなことでも妄想しているのか。要らないし、そういう鍵は。その扉もう開いてるし。というか、そんな扉もうないし。逆に、だれにも読まれない雑誌や紀要に埋もれるほうが、むしろ悲劇。

いま書いているのは喩え話ですからね。比喩の一種です。どの雑誌だろうか、どの紀要だろうかというような詮索は無用です。たぶんすべてハズレです。たぶん知らない方だと思います。だからもう時効だと最初に書いたとおりで、ずっと昔の話ですので、差し障りのない範囲内で書かせていただいたまでです。

2015年3月26日木曜日

教会の一致をめざすことが徒労に終わることはありません

日本の教会が取り組むべき課題はたくさんあります
18世紀英国の「ウェスレー」と20世紀オランダの「ファン・ルーラー」を関係づけて論じることが強引すぎるのは分かっています。しかし、「カルヴァン」と「ウェスレー」の関係の場合と同じ論理が当てはまることは事実です。

「カルヴァンはウェスレーを知らないが、ウェスレーはカルヴァンを知っている」のと同様に「ウェスレーはファン・ルーラーを知らないが、ファン・ルーラーはウェスレーを知っている」のです。これは両者の関係を論じるための手がかりになります。

私はファン・ルーラーが「メソジストのキリスト者」に言及している個所を一つだけ知っています。その部分だけ訳して紹介してもあまり意味はないし、ただ誤解を生むだけであることを避けられそうにないのですが、以下、ご参考までに、訳出します。

「たとえば興味深いのは、ウルトラ改革派のキリスト者とメソジストのキリスト者の出会いに立ち会うことである。私はヒルファーサムの教会協議会で何度か体験した。メソジストのキリスト者も、個人的回心とその絶対的な必要性を盛んに語る。恥じることなく、ときに厚かましく自分の回心について語り、これまで自分が歩んできた道について語る。その時点ですでに、教会に対して同情的な、改革派的な考え方をするキリスト者たちは機嫌が悪い。しかし、そういうとき、ウルトラ改革派の人たちは、相手がいかに浅薄で深みがないかを哀れむそぶりで、首を左右に振りつつ立っている。そして、メソジストのキリスト者仲間に次のように語る。『兄弟よ、あなたが持っているのは言葉だけである。しかし、言葉の中に、あなたがまだ見ていないものがある。それを体験しなさい』。そのようにしてウルトラ改革派の人たちは、教会の庭に生えた霊的な生命の若葉を乱暴に蹴り殺す。これは専制支配(tirannie)の深刻な一形態である。」[1]

[1] A. A. van Ruler, Ultragereformeerd en Vrijzinnig [1970], in: Verzameld Werk IV-B, Boekencentrum, Zoetermeer, 2001, p. 751)

「ウルトラ改革派」とは、ファン・ルーラーが所属していたオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の中の極端なタイプの人々を指している言葉ですが、悪口の一種であることは確実ですので、気に障る方がおられるかもしれません。その点はファン・ルーラー先生に(勝手に)代わってお詫びします。

また、メソジストの方々についてもずいぶんひどい言い方になっているようでもありますので、この点も私が(勝手に)代わってお詫びします。

ファン・ルーラー先生が「ヒルファーサム」の改革派教会の牧師だったのは1940年2月から1946年12月までの6年11ヶ月です。その時期に行われた「ヒルファーサムの教会協議会」(kerkenraad van Hilversum)のことであるとまで断定するのは無理かもしれません。しかし、おそらく今から70年くらいは前の、しかも「オランダのメソジスト」の人々のことを言っていますので、今の日本のメソジスト系の教会の状況とはずいぶん違う、大昔のことだということで大目に見ていただけると幸いです。

ただ、いま申し上げた点を勘案していただいたうえで、ぜひご理解いただきたいのは、ファン・ルーラー先生が、メソジストの方々のことを「尊重する」立場でこの文章を書いておられることは間違いない、ということです。

改革派の(極端な)立場からメソジストの人々を軽蔑する態度をとることはもはや間違っていると言わんがために書かれた文章であることは間違いありません。

私が過去17年ほどファン・ルーラーを学んできた感覚から言わせていただけば、「改革派・長老派VSメソジスト」という図式は過去のものになっています。

そして、ここから先はやや売り込み口調ですが、メソジストの皆さまにおかれましては、ファン・ルーラーの本(キリスト教書店にあるのは「ファン・リューラー」です。どちらでも構いません)を、どうぞ安心してお読みいただきたいですと、心から願っています。

また、改革派・長老派の皆さまにおかれましては、ウェスレーやメソジストの人々が書いた本を、どうぞ安心してお読みいただきたいです、と申し上げたいです。

私の書斎に昨日届いた『標準ウェスレイ日記』(山口徳夫訳、1984年)を、これから真剣に読もうと思っています。

私見によれば、ファン・ルーラーの神学は、(政治的な意味ではなく神学的な意味での)右にも左にも与しない「第三の道」ではなく、むしろ逆で、右と左に分かれて争ってきた者たちの「和解と統合」をめざす道です。それを、神学的論理を徹底的に突き詰める方法で行う道です。

「教会の一致」をめざすことが徒労に終わることはありません。どんどん進めて行きましょう。

2015年3月25日水曜日

もしかして水曜日の私がいちばん牧師らしいかもしれません

今日のおひるは海苔弁当にしました
毎週水曜日の午前中は祈祷会(きとうかい)です。今日の出席は10名でした。内容は賛美、聖書の学び、お祈りです。シンプルですが、元気になります。みことばの糧の味わいを実感できます。午後は有志で会堂清掃。加えて今日は月報の印刷作業をします。

「こひつじ新聞」3月号
2015年1月創刊、松戸小金原教会日曜学校発行「こひつじ新聞」3月号です。すべて小学生が企画・制作しています。号を重ねるたびに紙面のクオリティがアップしています。ご家庭の皆さまと学校の先生がたの日々の苦労の結晶を見る思いです。お見事。

『まきば』第418号と「教会カレンダー2015年4月」
教会月報『まきば』第418号(2015年3月号)と「教会カレンダー2015年4月」が完成しました。編集も印刷も牧師はノータッチです。すべて教会の方々がしてくださっています。私が松戸に来た11年前(2004年4月)からずっとそうです。

祈祷会で配布した聖書研究のプリント
教会の方々が月報などを制作してくださっている間、私は何をしているかといえば、午前中の祈祷会で配布した聖書研究のプリントを清書して、そのPDF版をネットで公開するといったことです。

もしかして水曜日の私がいちばん牧師らしいかもしれません。

午前中の祈祷会で配布した聖書研究のプリント(清書済み)はここをクリックしてください。タイプとしては信仰感話のようなものです。



2015年3月24日火曜日

『標準ウェスレイ日記』ついに到着しました

『標準ウェスレイ日記』全4巻(山口徳夫訳、1984年)

2015年3月24日(火)午前11時現在、千葉県松戸市、晴れ、風速10メートル、湿度44%、気温7度。けっこう肌寒い。体重(非公開)、血圧(非公開)、お腹すいた(非公開)。生ゴミ出し完了。今夜は湖北台教会で東関東中会2014年度第二回臨時会。前向きで建設的な議題ばかりで感謝です。

『標準ウェスレイ日記』(山口徳夫訳、1984年)がついに到着。4,000円で落札。1984年初版もの。1984年は東京神学大学に入学した年。31年前だ。当時から欲しかったのですが、全4巻で定価16,000円。憧れつつ見上げていました。

中身を読んでいないのでコメントは控えるべきですが、18世紀のウェスレーにとっての『日記』は、16世紀のカルヴァン『キリスト教綱要』に匹敵する存在ではないかという期待があります。21世紀の「ブロガー」がただ思いつきの雑談をしているわけでないのと同様に。たかが日記、されど日記なのだ。

2015年3月23日月曜日

ジャーナリストとは毎日日記を書く人のことか

「2015年3月23日(月)正午、千葉県松戸市、晴れ、風速5メートル、気圧1010.10ヘクトパスカル、湿度38%、気温13度」という感じのが「日誌」で、「昨日は楽しい出会いがありましてね、むふふ」という感じのが「日記」かな。使い分け、難しくはないですよね。うん、まあ、だいたい。

先週末ネットのお友達に教えていただいてヤフオクで入落札した『標準ウェスレイ日記』について、営業日三日内に発送しますという通知が古書センターからいま届きました。原著タイトルはJournal of John Wesleyだそうで。ジャーナリストとは毎日日記を書く人のことか(ちがう)。

「あの人の神学はジャーナリスティックだからな」といえば、だいたい見くだす意味がありますよね。ジャーナリストの皆さまに失礼な言い方ではありますね。何さまなんだよと、ちょっと思い出しギレ(笑)。あとは昔からよく聞くのが「サラリーマン牧師」。それが見くだす意味になる。それ失礼だからね。

あるある~とか反応しないでくださいね。あるあるネタ探してるわけではないです。気持ちとしては厳正なる抗議のつもりなのですが。でも、けんかは弱いし、逃げ足速いし、ほぼ優柔不断で、へらへら笑ってごまかすのが得意かも。そういうところがますます激怒を買ってしまう。どうにかならないですかね。

2015年3月20日金曜日

置戸教会の皆さまありがとうございます!

北海道登呂郡置戸町の「オケクラフト」素晴らしいです!
2015年2月22日(日)ビデオ説教をさせていただきました日本基督教団置戸教会(北海道登呂郡)の皆様から、寄せ書きカードと共に素晴らしい贈り物「オケクラフト」をいただきました。置戸教会の皆さま、お気遣いいただきありがとうございます。置戸教会と置戸町の発展のために心よりお祈り申し上げます。

2015年3月20日  関口 康

今思いつくかぎりの「ジョン・ウェスレー研究の意義」

『ウェスレー著作集 第6巻 神学論文上』(新教出版社、1967年)

『ウェスレー著作集 第6巻 神学論文上』(藤井孝夫・野呂芳男訳、新教出版社、1967年)を本日入手しました。お恥ずかしながら、遅ればせながら、人生初の購入です。ネットで格安で売られていました。やっと会えたね。よし読もう。

ジョン・ウェスレーのことを本腰を入れて勉強してみたいという気持ちになった理由の一つは、私の書斎の本棚に「18世紀プロテスタンティズム」のものが皆無に等しいことです。16、17世紀のものはあり、19世紀以降のものもありますが、18世紀がない。ほぼ百年分、すっぽりと抜け落ちています。

その代わり、私が持っている「18世紀的な」文献は、カント、ヘーゲルです。いわゆるドイツ観念論の文献です。フランス革命前夜のものというべきか。ヨーロッパが「脱教会化」の方向に踏み出していく時代というべきか。その18世紀のプロテスタンティズムに関する文献を私はほとんど持っていません。

それでよいと私には思えないのです。プロテスタンティズムは16世紀から始まったとしても、その後今日に至るまで一度も途絶えることなく歴史的な歩みを続けてきました。その継続的な歴史を考える中で「18世紀」の百年分が視野から抜け落ちていることは問題です。何とかカバーしなくてはなりません。

18世紀プロテスタンティズムの世界的な代表者としてジョン・ウェスレーをとらえることは決して強引ではないと私は考えます。カルヴァンを起点とする「改革派・長老派教会」とウェスレーを起点とする「メソジスト教会」が長年対立関係にあったことを私ももちろん知っていますが、それは過去の話です。

しかし、神学や思想のレベルでは「改革派・長老派教会」と「メソジスト教会」との折り合いが付いているとは言いがたい状況かもしれません。だからこそ互いにテキストを読むことが重要です。それ以外に相互理解の方法はありません。相手のテキストを読まずに知ったようなことを言うべきではありません。

その際確実に言えることは、言わずもがなのことですが、「カルヴァンはウェスレーを知らないが、ウェスレーはカルヴァンを知っている」ということです。18世紀のプロテスタンティズムを研究することは、16世紀17世紀のプロテスタンティズムの功罪、とくに「罪」の面の後処理の研究でもあります。

まだ確たる焦点が定まっているわけではありませんが、16世紀17世紀にある種ブームのように大量に産み出されたプロテスタント的な信仰告白文書やカテキズムは、18世紀の教会にとってどのような意味や意義を持っていたのかというような問いが浮かんできます。18世紀は私にとっては未知領域です。

今ではよく知られているのは、17世紀オランダ改革派教会の牧師であり神学者であったヤーコプ・アルミニウスの神学思想の影響を、英国国教会の司祭であったジョン・ウェスレーが受けたということです。アルミニウスはオランダ改革派教会から排斥されましたので、いわばカルヴァン主義の傍流扱いです。

しかし私が考えざるをえないのは、カルヴァン主義者がアルミニウスとアルミニウス主義者を排斥した根拠や経緯はどれほど正当なものであったのかというようなことです。本当に袂を分かたなければならないほどの関係だったのでしょうか。小さなことを大きく騒ぎ立てすぎた可能性はなかったのでしょうか。

カルヴァン主義とアルミニウス主義の関係、あるいは改革派・長老派教会とたとえば(アルミニウス主義の影響下で成立したとされる)メソジスト教会やホーリネス教会の関係を、一方を「主流」、他方を「傍流」とすることの正当の根拠は何でしょうか。それは一方の傲慢、他方の卑屈ではないのでしょうか。

私の「ジョン・ウェスレー研究」は、まだ端緒に付いたばかりですので、何かほんの少しでも結論めいたことを申し上げられるほどの段階には全くありません。しかし、私が思い描いていることを具体的にいえば、だいたいいま書かせていただいたようなことであると思っていただけば、全く間違いありません。

私は生後まもなくから31歳まで、日本基督教団におりました。日本キリスト改革派教会での生活は18年です。私を見て「どちらの人間」かを問う人は今はいませんが、私の自覚の中では「一方を切り捨てて他方に立つ」というような考え方や行動をとったことはなく、どちらにも自由に行き来してきました。

その上で申し上げますが、カルヴァン系とアルミニウス系を、一方を主流、他方を傍流と位置づけて「部」に分けたのが1941年時点の日本基督教団の「部制」によく反映されていると私には見えますが、うがった見方でしょうか。主流だから「第一部」、傍流は後ろ。こういうの、どうだったのでしょうか。

2015年3月19日木曜日

ジョン・ウェスレーとファン・ルーラーを結びつけて考えてみたいという思いは当然あります

ウェスレーとメソジズム双書1『ウェスレーとカルヴィニズム』(1963年)

ネット上では唐突に「ジョン・ウェスレー研究」を開始した私です。実は30年近く前からの宿願でした。しかし、なかなかその環境が整いませんでした。

そして、もちろん強引ではありますが、「ジョン・ウェスレー」と「ファン・ルーラー」を結びつけて考えてみたいという思いが今の私には当然あります。

まだ見たことも触ったこともないデューク神学校版『ジョン・ウェスレー著作集』の構成を見て、ウェスレー先生は「牧師さん」だったのだなということがよく分かります。『著作集』を埋め尽くす要素は、「説教」と「日誌・日記」です。「神学」や「教理」の部分は、全くないわけではないが、多くはない。

あとは対社会的アクションですが、ウェスレー先生は他の要素とのバランスがとれているように見えます。しかしそれは比率の問題です。全部するのが「牧師」です。説教はするけど神学はノータッチ。逆に、神学はのめり込むが説教や教会的実践や対社会的アクションはノータッチ。これはアンバランスです。

ファン・ルーラーも牧師でした。同世代の著名な神学者よりも教会的な人でした。彼の「牧師性」と「教会性」を明らかにするために書いた拙論「説教・教会形成・政治参加、そして神学―A. A. ファン・ルーラーの『教会的実践』の軌跡―」が『改革派神学』第35号(2008)に掲載されています。

拙論の「暗黙の」目的は、神学者ファン・ルーラーの「教会的実践」を明らかにすることにおいて彼の「牧師性」を浮き彫りにすることでした。「牧師なるもの」はもはや「学なるもの」に関わりえないと見なされている今日的状況の中で「現実はそうでもないんだけどね」と言いたい思いだけで書きました。

今年(2015年)に入って2月16日(月)、3月9日(月)と立て続けに2回行ったファン・ルーラーについての講演は、教会の週報のカレンダーの中に書きましたが、それだけにとどめ、教会の中では一切宣伝しませんでした。教会の方々には全く責任のないことですので、批判でも愚痴でもありません。

「牧師は教会に専念しろ。学者は大学・神学校に専念しろ。二兎を追う者は一兎をも得ずだ」。主旨は100パーセント同意します。

「牧師」の存在と「大学」だ「学会」だの存在とは論理的に結びつきえない、まるで相反関係にあるかのように見なされる、わが国のというより現代社会の風潮に配慮しました。

しかし、こういうことを言われる時代の中で私がしきりと考えることは、「それではだれが組織神学をやってくれるのか」という問いです。兼務の人たちは別ですが、教会の職務から解放されて大学・神学校に専念しているはずの学者たちが、組織神学をちゃんとやってくれているようにあまり見えないのです。

その人々に文句を言いたいがために、何の権限も資格もない私ごときが、やたら神学だ神学だと騒いでいます。

現在オランダで刊行中の新しい『ファン・ルーラー著作集』は、それでもかなり「組織神学」の部分が多い構成になっていますが、独立した一冊の本として書かれたものは少なく、大部分は新聞や雑誌に書き散らしたものです。それをかき集めて『著作集』として仕上げている編集者には心から敬意を表します。

デューク神学校版『ジョン・ウェスレー著作集』の大部分が「説教」と「日誌・日記」で埋め尽くされていることに安堵感を覚えつつ、ウェスレーの「神学」に関心がある私です。まとまらない、とりとめのない書き散らしで、すみません。

そして牧師は料理もします。これも比率の問題です。お味噌を加えた「照り焼き鶏」、湯通しした「キャベツの千切り」、3月9日(月)「講演を聴きに来ました」と神戸から青山学院大学までおいでくださった森川甫長老の贈物の「いかなごのくぎ煮」が美味です。

今日の自作料理


2015年3月17日火曜日

ジョン・ウェスレー研究会はぜひやりたいです

昨日(3月16日)、西新井教会の林牧人先生(上)を2年半ぶりにお訪ねしました
「ファン・ルーラー、ファン・ルーラー」と、18年も言い続けた私です。日本の社会はもちろん、教会ですらほとんど誰も口にしない、たまに言及されても「20世紀最大の神学者」を徹底的に批判した危険人物か、「喜び」を強調するファンタスティックな神学者かという扱いでしかない神学者の名前です。

しかし、その私は「ファン・ルーラー主義者」ではありません。「主義者」を名乗れるほど多くのテキストを読んでいませんし、仮にすべてのテキストを読破できても「主義者」になれないでしょう。テキストを忠実に読むことを志す人たちを「主義者」呼ばわりするのは愚かです。研究の妨害さえ意味します。しかし、その私は「ファン・ルーラー主義者」ではありません。

「主義者」にならなければテキストが読めないわけではない。内容に魅了されることはもちろんあります。しかし、神学研究が職務に含まれる者(牧師はそれ。だから牧師志願者は神学全体を履修する)は読書を楽しんでいるわけでもない。砂を噛むようであろうが、読むべきテキストは読まなくてはならない。

昨年10月に解散しましたが「ファン・ルーラー研究会」という名称を考えたのは私です。何度となく「この名称を変えたほうがいいかもしれませんね」と世話人になってくださった方々と相談しましたが、そのたびに「このままでいい」という結論でしたので、私の個人的な趣味や主義の域は超えていました。

しかし、私の自覚は「ファン・ルーラーを研究している」ではなく「組織神学に取り組んでいる」でした。世界でも日本でも無視され、ちょっとでも話題になるや否や、寄ってたかって叩かれるファン・ルーラーを「無視しない」組織神学に取り組むことが日本の伝道と教会形成の益になる、というものでした。

いわばそれだけのことですので、「無視しない」人が増えてくれれば私は別のことを始めます。次は何するかで迷っているのですが、「カール・バルト研究会」は今ちょっとお休みしていて申し訳ないのですが、ほかもいろいろやりたいです。

真面目な話、「ジョン・ウェスレー研究会」は、ぜひやりたいです。

2015年3月15日日曜日

主イエスは十字架を目指して歩まれました

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
PDF版はここをクリックしてください

マルコによる福音書11・1~14

「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。』二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」

今日の個所からマルコによる福音書の後半、「エルサレム編」に入ります。イエスさまの地上の生涯の最後の一週間の様子が描かれています。まさにクライマックスです。

エルサレムは当時の首都です。当時、市街地の周囲に城壁が立っていました。石の壁で守られた町でした。その中に神殿がありました。旧市街地は西暦70年に起こった戦争で破壊されました。同時に神殿も破壊されました。いま残っているのは、当時の残骸と、新しく造られた建物です。

神殿の隣に王宮がありました。神殿と王宮は回廊でつながっていました。神殿は宗教の最高地点、王宮は政治の最高地点です。宗教と政治が一体化した権力の最高地点でした。

そのエルサレムにイエスさまが向かわれました。ただし、イエスさまはおひとりではありません。12人の弟子はもちろんいます。しかし、いま私が申したいのは弟子たちのことではありません。「大勢の群衆」(10・46)が一緒でした。

群衆がエリコからずっと一緒でした。エリコからエルサレムまでの距離は30キロ。その道をイエスさまは12人の弟子、そして大勢の群衆と一緒に歩いてこられました。そして、ついにエルサレムにお着きになりました。

しかし、エリコからエルサレムまで一緒に歩いてきた大勢の群衆は、必ずしもイエスさまを信じ、イエスさまの後に従おうとした人々ではありません。もちろん、全員がそうでないとは言いません。なかにはそういう人もいたでしょう。しかし、すべての人がそうであったとは言えません。むしろ、多くは、エルサレム神殿の毎年の恒例行事の過越祭に参加するため神殿を目指していた参拝客でした。

イエスさまもまた、これから過越祭が始まろうとしている時期だからこそ、神殿に行かれたのです。いつでも良かったが、たまたまその時期に重なったということではありません。明確な意思をもって意図的に、イエスさまは過越祭の日にエルサレム神殿に到着するようにお出かけになりました。

そして、そのことには深い意味がありました。しかし、その意味の中身については、今日はあまり深く立ち入らないでおきます。

しかし、別の観点から見て、この時期にイエスさまがエルサレムに行かれることは安全面で有利であったということが言えると思います。イエスさまと12人の弟子を合わせても13人。大勢の群衆の中に紛れてしまえば目立つことはありません。

イエスさまは命を狙われていた方です。しかし大犯罪をおかして多くの人に知られ、白眼視されていたというような事実は全くない、むしろ多くの人に慕われている方でした。そういうイエスさまを、軍隊を差し向けて群衆を押しのけてでも逮捕するというようなことは、いくらなんでもできません。群衆と一緒ならば、エルサレムまで行く途中で捕まえられることはなかったと言えるでしょう。

しかし、イエスさまは、エルサレムの町にこれからお入りになる直前のところで、驚くべき行動をおとりになりました。オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい」とお命じになりました。

そして、「村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる」ので「それをほどいて、連れて来なさい」(2節)と言われました。

イエスさまはその村の事情をよくご存じだったのでしょうか。あそこに行くと、誰が住んでいる、何がある、どんなふうになっている。まだだれも乗ったことのない子ろばがつないである。その場所にあらかじめイエスさまが行かれたことがあり、その場所や状況をよくご存じだったのでこのようなことをおっしゃられたのでしょうか。全くその可能性がなかったとは言い切れませんが、この個所を読むかぎり、そうでもなさそうな様子が伺えます。

続けてイエスさまがおっしゃっている言葉が気になります。「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」。こんなふうにイエスさまがおっしゃったというのです。

これで分かるのは、イエスさまが「連れて来なさい」と二人の弟子に命じたまだだれも乗ったことのない子ろばの持ち主を、イエスさまご自身はおそらくご存じないし、面識もないし、事前の予約も打ち合わせもなかったということです。

突然行って、持ち主に黙って連れて来いというわけです。それでもし、持ち主に見つかって、「なぜ、そんなことをするのか」、それは泥棒ではないかと言われたら、そのとき初めて事情を説明しなさいというわけです。すぐ返すから貸してくださいと言え、というわけです。しかし、見つからなければ、そのまま黙って連れて来ても構わない、ということでもあるわけです。とんでもないといえばとんでもないことを、おっしゃられたわけです。

実際にそういう展開になりました。イエスさまに命じられたとおりに二人の弟子が行くと、表通りの戸口に子ろばがつながっていたので、それをほどきました。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言ったので、そのとき初めて事情を説明したら、なんとか許してもらえたというのです。

大らかな人たちで良かったと思います。泥棒だ、訴えると言い始める人たちでなかったのは幸いなことでした。しかし、問題はそちら側ではないとお考えになる方々は、当然おられるでしょう。結果的に相手が許してくれたからよかったという話で済ましてしまってよいのかどうか。それが問題なのではなく、黙って連れて行こうとしたこと自体が問題だと考える人は少なくないはずです。

ですから、ここでわたしたちがよく考えなければならないことは、なぜイエスさまはそのようなことをなさったのかということです。

なぜイエスさまは、持ち主の許可を得る前に子ろばをほどいて、連れて来るようにと弟子たちにお命じになったのでしょうか。なぜイエスさまは、エルサレムに入るために子ろばに乗ることをお求めになったのでしょうか。

これから私が申し上げる答えは間違いです。そのことをあらかじめお断りしておきます。これは間違いの答えです。そのことをあらかじめお断りした上で申し上げます。

ずっと歩いてこられたイエスさまはすっかりお疲れになり、歩くのが嫌になられたので、弟子たちや群衆が歩いていてもお構いなしに、御自分だけろばにお乗りになりたかったのでしょうか。これは違います。

しかし、世の中の「偉い人たち」は、そういうことを本当にするかもしれません。イエスさまは世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのでしょうか。それも違います。

いやいや、「もっと偉い人たち」は、世の中にあるすべてのものは自分のものだと思い込んでいて、他人のものでもなんでも、勝手に持って行けると思っているかもしれません。その人たちの真似を、イエスさまがなさったのでしょうか。それも違います。

いま申し上げたすべての答えは、間違いです。しかし、これが間違いであるということの意味は、よく考えなければならないことです。イエスさまは、世の中の「偉い人たち」の真似をなさったわけではありません。しかし、こういうふうに考えることならできます。イエスさまは、世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのではなく、世の中の「偉い人たち」よりも上に立たれたのです。

イエスさまが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのは、エルサレムに住んでいる国王よりも、祭司長や律法学者よりも、ローマ総督よりも、自分は上の立場の者であるということをお示しになるためでした。世の中の「偉い人たち」の真似をなさったのではなく、その人々より私のほうが上であるということをお示しになるためでした。

そしてそれは、御自分が約束のメシア、真の救い主、神の御子であり、御子なる神ご自身であることを人々の前にお示しになるためでした。そのことは、弟子たちでさえ理解していなかったと思われますが、イエスさまははっきり自覚しておられました。

言い方は物騒になりますが、いわばそれは、イエスさまにとっては、エルサレムに住んでいる「偉い人たち」に対する一種の宣戦布告としての意味を持っていた、ということです。

しかし、イエスさまは、全くの丸腰でした。何も持たず、弟子も12人。軍隊を率いておられたわけではありません。全く普通の人の姿で、エルサレムに乗り込んで行かれました。子ろばにまたがって。子どもじみたことをしているように見えたかもしれません。

そしてイエスさまの本当の行き先はまもなくゴルゴタの丘に立てられる十字架でした。群衆は去り、弟子たちは逃げ、冷たい視線と罵声を浴び、槍と釘に刺され、血を流しながら息を引き取る十字架の上でした。

イエスさまは、エルサレム神殿で行われる過越祭にもうでる参拝客の一人ではありませんでした。過越祭で献げられる犠牲の子羊そのものになられるために、エルサレムに来られたのです。

(2015年3月15日、松戸小金原教会主日礼拝)