2014年12月4日木曜日

公開試行錯誤を面白がっていただけることを願っています

私は神学者でも翻訳者でもなく、教会の牧師です
とまあ、こんな感じの公開試行錯誤を、私は「ファン・ルーラー研究会(1999~2014)」のメーリングリストの中で10年以上続けてきたわけで、そのまんまのことを、これからは「研究会」というフレームを取り払って続けようとしているだけです。

私自身はオランダ語は完全に独学です。そのような者がファン・ルーラーという日本では未知なる神学者のオランダ語テキストを辞書と首っ引きで「解読」しようとしている現場を、写真付きで公開するというのは、けっこうレアな感じがすると思うんですよね。

「訳者と読者の一体感」とまで言うのは大げさかもしれませんが、それに近いものがあるのではないかと。

私はそういう思いでやっていますので、むしろどうか、いろいろと皆さまから言っていただけることを願っております。

いちばん困るのは、「そういう恥ずかしいことはやめろ」と、たぶん心配して善意で言ってくださっているのだと思うのですが、結局は足を引っ張られ、妨害されてしまうことですね。

私は、神学でも翻訳でも、いまだかつてそれで実益を得たことはなく、すべて持ち出しで来ましたので、私の失敗の不利益はすべて、私個人が負うだけのことです。

神学や翻訳の専門家がファン・ルーラーをどんどん訳してくださるようになれば、私の出る幕はないので、喜んで引き下がります。

しかし、現状はそうではないので、シロウトの私がやっているだけのことです。

2014年12月3日水曜日

神学はベッドではできません!

ファン・ルーラーは難しいけど面白いです

今日の書き込みで大きな過ちを、少なくとも二箇所、犯しました。尊敬する先生がご指摘くださいました。心から感謝しかつお詫びしつつ、以下「大訂正版」を書きます。

「神学はベッドでもできる」というタイトルの元記事は、申し訳ありませんが、削除しました。

(訂正 その1)

問題個所は「bedding」をどう理解するかです。これをどう訳せばよいか15年ほど分かりませんでした。それで、「あれ?もしかしたら」と「気づいた」ことが、やっぱり違っていたようです。申し訳ございません。

結論だけいえば、beddingは「ベッド」(という意味もあると辞書で確認したつもりでしたが)ではなく「基底」か「基盤」、あるいは「川床」と訳すべきでした。

私の手元にある『ファン・ダーレオランダ語大辞典(第6版)』(1924年版!)では、beddingの意味の最初に「rivierbed」が出てきます。これは「川床」ですね。

なるほど、それで、意味不明のまま(意味不明のままだったのです、すみません)「後ろからも前からも」と訳した部分の意味が分かった気がします。これは「後ろから」とか「前から」は、「伝統」の《流れ》を指しているようです。

しかし「川床」そのものが「流れる」ことはないと思うので、そのあたりは難しいですね(混乱中)。

こういうことで、私の語感でとりあえずある程度直訳させていただけば、「神学の仕事もまた、共同体がその主体であり、伝統(後ろからの伝統と前からの伝統)は川床である」という感じかな、というところです。

あるいは、こういう読み替えが許されるでしょうか(また冒険しようとする)。

「神学を営む主体はあくまでも共同体であり、神学の川床は(後ろからも前からも流れてくる)伝統である。」

これでファン・ルーラーが言いたいことはお分かりいただけると思います(やっと光が見えてきました)。要するに「神学は個人プレーではない」ということです。

そして、これはやはり、20世紀の文脈でいえば、「カール・バルトの神学」とか「パウル・ティリッヒの神学」というような論じ方に対する批判を含んでいることだと思います。「誰々さんの神学」は無理(不可能)だと言っているわけです。

とは言っても、我々の書く論文でタイトルをつけるとしたら「ファン・ルーラーの神学」と言わざるをえない面が出てくるとは思うのですが、ファン・ルーラー先生は「そういうのはダメだ」とおっしゃっているわけです。自分の『神学著作集』も「自分の神学の構築ではない」とおっしゃっているわけです。

(訂正 その2)

3段落目の訳も完全に読み間違えていました。申し訳ございません。

(以下、再び冒険ぎみの試訳)

本巻に収録した古い論文についても、私は責任をとるつもりである。ただし、自然神学(直訳すれば「自然的神認識」)についての考え方と、倫理的な問題についての考え方は、今ではいくつかの点で微妙に変わっていることを認める。

というわけで、

「テオロヒー」と「ヘオロヒー」の比較はジョークとして維持できそうですが、「神学はベッドでもできる」は無理でした。

訂正します。「神学はベッドではできません」。ちゃんと机の前に座りましょう。

あとは言い訳というより感謝のつもりですが、こういうネット上のやりとりは、「神学は個人プレーではない」の見本になりますよねっ?ねっ?(やっぱり言い訳ですね、すみません)。

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(差し替え版 試訳)

A. A. ファン・ルーラー『神学著作集』第一巻「序文」

関口 康訳

『神学著作集』第一巻の読者各位にご覧いただくのは、非常に異なる時期にさまざまなテーマで私が書いた神学論文である。本書には、以前出版したが現時点では入手困難になっている論文を収録した。さらに、未出版のものや、完全に書きなおしたものも収録した。

そういうのを束ねて本にした理由は二つある。第一の理由は、私の論文に関心を持ってくれているが、古い雑誌を探し回るのが難しい青年たちや外国人たちを助けるためである。第二の理由は、今はまだ議論になってはいないが、将来議論されることになるであろう神学議論に役立てていただくためである。独立した「自分の」神学を構築してやろうという思いなどは持っていない。「誰々さんの神学(テオロヒー)」という言い方は「誰々さんの地質学(ヘオロヒー)」という言い方が無理なのと同じくらい無理なことだと思っておくべきである。神学を営む主体はあくまでも共同体であり、神学の川床は(後ろからも前からも流れてくる)伝統である。自分一人が神学に貢献しているなどと高望みすることはできない。

本巻に収録した古い論文についても、私は責任をとるつもりである。ただし、自然神学(直訳すれば「自然的神認識」)についての考え方と、倫理的な問題についての考え方は、今ではいくつかの点で微妙に変わっていることを認める。

A. A. ファン・ルーラー

(原文)

WOORD VOOAF

Der lezer vindt in dit eerste deel van de reeks ‘Theologisch Werk’ Theologische verhandelingen over zeer uiteenlopende onderwerpen en uit zeer verschillende periods. Voor een deel zijn de stukken reeds eerder gepubliceerd, maar moeilijk toegankelijk. Voor een ander deel zijn ze of nooit gepubliceerd of totaal omgewerkt.

Een en ander wordt nu gebundeld ten eerste om de belangstellenden uit de jongere generaties ene uit het buitenland het moeizaam zoeken in oude jaargangen van tijdschriften te besparen en ten tweede om een bijdrage aan de theologische discussie te leveren als het niet de discussie van nu is, dan misschien toch de discussie van de toekomst. Het is uitdrukkelijk niet de bedoeling een ‘eigen’, aparte theologie in omtrekken te ontwerpen. Uitdrukkingen als ‘de theologie van die en die’ zijn goed beschouwd even onmogelijk als ‘de uitdrukking ‘de geologie van die en die’. Ook van de theologische arbeid is de gemeenschap het subject en de traditie (naar achteren en naar voren) de bedding. De enkele mens kan niet meer willen dan aan deze arbeid een – zij het persoonlijke, eventueel zelfs kritische – bijdrage leveren.

Ook de oudste stukken uit deze bundel neem ik nog steeds gaane voor mijn rekening, als zou ik thans op sommige punten wat genuaceerder willen oordelen, met name terzake van de natuurlijke kennis van God en terzake van de plaats van het ethische.

A. A. van Ruler.

2014年12月1日月曜日

日記「草の根ブロガーにも五分の魂」


「先生が出した宿題に正解を答える」式でなく、 「基本が世間知らずでウカツな発言をしてしまう系の人が、自分の発言の釈明を余儀なくされ、自分で作った問題(というか「自分自身の問題性」)の後始末をせざるをえない」式の人のほうが、文筆家としても、草の根ブロガーとしても、息が長い感じです。

文筆家なりブロガーなりは、だれが育てるものでもなく、勝手に育つ。自分で壁を突破して飛び出してくる。妨害されようと、資金が尽きようと、家庭が崩壊しようと、世界が滅亡しようと、書き続けてしまう。それはたぶん、多くの人や自分自身を不幸にしているに違いけど、別の面もちょっとくらいはある。

金がかかっていない字に価値はない(勉強代をケチった価値ある文章は僅少)が、その字で金が儲かるわけではない(ほとんどの場合)。「紙の書籍」の形になっているかどうかはやっぱり違いますよね。権威主義に弱い人たちを圧倒的に幻惑できるものが紙の書籍にある。字であることに変わりはないのにね。

今日内田樹氏が書いておられた「ノブレス・オブリージュ」のことを考えています。書き魔系ブロガーを「ノブレス」と呼べるかどうかはともかく、「わしが書かねばだれが書く。いま書かねばいつ書ける」という厳粛な自負(なのかそれ)はキリスト教的「召命」にちょっとだけ似ているかもしれません。

ちなみに今、牧師館に引き返して洗濯機を回しているところです。食器洗いは午前中に済ませました。洗濯物を干したら出かけます。今夜は「東関東中会設立10周年委員会」です。委員長は私(来年は他の方に代わってもらう予定)。再来年(2016年)が東関東中会設立10周年です。やっとここまで来ました。

2014年11月27日木曜日

日記「チャンスというのは自分でつかむものですよ(真顔)」

前に同じようなことを書いたことがあるような気がしますが、まあいつも同じようなことしか書いていませんのでお許しください。

来年50のすっかり老けこんだポンコツなので、「これからの方々への遺言」を書き始めようと、まじめに考え始めています。

何を書こうとしているかというと、まじめなタイトルをつけるとしたら、「論文の発表の仕方」のようなことです。

ただし、一般論ではなく、純粋に私の体験です。

私がこれまで書かせていただいた、まあまあ「学術的な」と評価していただけるかもしれないいくつかの論文が掲載された雑誌や書籍の「共通点」があるのです。

それは「周年もの」か「キリ番記念号」か「○○特別号」です。

(写真の説明:左から)

『三色旗』「特集 オランダ」慶応義塾大学通信教育部、2009年
『改革派神学』「第30号特別記念号」神戸改革派神学校、2003年
『改革派神学』「第34号牧田吉和校長退職記念号」同上、2007年
『改革派神学』「第35号神戸改革派神学校創立60周年特別記念号」同上、2008年
『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』キリスト新聞社、2009年

拙論を掲載・収録していただいた雑誌・書籍に「共通点」があります

要するに「お祭り」に関係あるものばかりです。

これ、けっこう参考になると思うんです。

私みたいに致命的に「背景の弱い」人間にとって「発表の場」がないというのは、本当につらいことです。

私にとって、神学に関する「発表の場」といえば、基本的にはブログかfacebookかツイッターしかありません。本を出す金はないし、有力紙に連載記事を持てるほどの政治力もないし。学校関係からは危険人物視されているのかもしれないし。

そういう私のような「背景が弱い」が「発表の場」が欲しいという方は、けっこう多くおられると思うのです。そういう方にとって「周年もの」か「キリ番記念号」か「○○特別号」は、めっちゃチャンスです。

なぜそれが「チャンス」なのかといえば、そういうときの雑誌はふだんより分厚く作ることが多いので採用してもらえる投稿者の数が相対的に多い。

あとは、赤い文字とかで「○○記念号」と表紙に書かれている号は、通常の号よりもほんのちょっとだけ目立つ。メリットはそれくらいかな。ま、いいや。

自慢げに書かせていただきますが、私にとって唯一「ハードカバーつき」の本の中に収録していただいた論文「カルヴァンにおける人間的なるものの評価」は後にも先にもこれだけなのですが、

その(ハードカバー本としては唯一の!!)論文を、金子晴勇先生の『キリスト教霊性思想史』(教文館、2012年)に引用していただけました(この金子先生の本を私は今に至るまで買ってもないし、触ったこともないんですが)。

こんなことって、「カルヴァン」の「周年もの」の「500年」という「キリ番」をゲットできたからに決まってるじゃないですか。

「チャンス」っていうのはね、それはやっぱり「自分でつかむもの」なんですよ、たぶんね。ボケっとして待ってたって、来ない来ない。>チャンス

こんなこと、牧師が書く言葉じゃないかもしれませんけどね。「遺言」ですから。

というわけで「キリ番ゲット」、みなさんもぜひ狙ってくださいね。よろしく。

2014年11月26日水曜日

『教会史』と『世界史』の両方を読むことをお勧めします

高校時代に泣かされた「世界史」の教科書(中央)

さっきから、必要あって高校時代の世界史の教科書(『詳説 世界史(再訂版)』山川出版社、1981年)を引っぱり出し、数年前に買った『もういちど読む山川世界史』(山川出版社、2009年)と読み比べながら、唸っているところです。

「やっぱりか」と今さらながら気づかされるのは、「近代ヨーロッパの誕生」(『もういちど読む』版では「近代ヨーロッパの形成」)の章あたりの論調は、ほぼ一貫して、「教会支配から自由になること」こそが近代ヨーロッパの目標であるという描き方だということです。

そういう描き方が全く間違っていると言いたいわけではないのです。でも、そういう話を「教会支配」など自分自身で一度たりとも体験したことがない日本の高校生たちが、一方的に聞かされ、大学入試のために覚えなくちゃならなかった。

私がこういう授業を受けていた当時は、どういう言葉で表現すればいいのかが分かりませんでしたが、正直言って不快感しかありませんでした。ゼロ歳から教会に通っていた人間としては、とてもじゃないが教室の椅子に黙って座って聞いていられないという気分でした。

今ならば、ほんの少しくらいなら、当時の私が何を感じていたのかを説明するための言葉が浮かんできます。だいたい上に書いたとおりです。「教会支配」など自分自身では一度たりとも体験したことがない人たちに、「教会支配からの自由」の喜びとか口にしてもらいたくない、という気持ちです。

その後、私が「救われた」のは、東京神学大学で教会史の講義を受けたときです。事情を書くと長くなるので割愛しますが、教会史の「古代史」から「宗教改革史」までを、私は(私たちの学年は、というべきか)隣接する日本ルーテル神学大学(現「ルーテル学院大学」)の徳善義和先生から学びました。教科書はウォーカーの『キリスト教史』でした。

どういう意味での「救い」なのかといえば、「教会史も教会支配の現実も知らない人たち」が発する「一方的な教会批判」からの「救い」でした。教会に問題がないなどとは、当時から思っていませんでした。問題だらけですよ、教会は。しかし、「一方的に」言うな。「知らずに」言うな。それを私は言いたかった。

もし「そういう」問題で悩んでいる方がおられるなら、お勧めしたいのは、『もういちど読む山川世界史』とウォーカーの『キリスト教史』(全巻)を両方読むことです。「救われる」こと、請け合います。

私たぶん、小学生くらいの頃から変わっていないですね。どんなことであれ、一方的な押しつけというのが、とにかく不愉快でたまらない。アンフェアだと感じる。「卑怯だ」と言いたくなります。私を怒らせるのは簡単ですよ(怒るなよ、笑)。

2014年11月25日火曜日

スーパーで買い物しながら神学する

近所のスーパー(マルエツ小金原店)でお買い物

今日は早めのお買い物。ちょうど正午です。

この時間帯で男性客は約半数。夕方頃には7割か8割が男性客です。10年前とは状況が全く違います。

そういうことも毎日スーパーに行ってると分かる。これが社会学です。ソシオロジー。

年齢層の変化は、あまり感じないです。日中にスーパーで買い物できるのは「通勤していない」人たちだけであることはほぼ確実なので、退職なり、失職なり(ごめんなさいキツイ言葉でどなたかを傷つける意図は皆無です)あとは内職なり(SOHOといえばかっこいい)住職なり(牧師はこれかな)の人が、日中の買い物客です。平均はだいたい70代くらいかな、というところです。

夕方の一時期、午後7時前後は、東京あたりの勤務地から電車とバスで帰ってきた女性たちがどっと流入してきて、その時間帯は女性が増えますが(マルエツ小金原店はバス停の前です)、ピークをすぎれば、また男性客が多い感じになります。スーパーの買い物は男性の仕事、という感覚が定着しつつあるのかもしれません。

というか、女性たちが、大して役にも立たない男性たちに「買い物ぐらいしてくださいよ」と、仕事を与えている(命じている)というところかもしれません。

東京都(葛飾区)に隣接している千葉県松戸市、とくに松戸市小金原は、東京都の爆発的な人口増の緩和政策として、国策で人口誘導するために約50年前(1960年代)に作られた典型的な「ニュータウン」の一つです。

ですから、50年前の「入植者」のほとんどは、元東京都民です。「入植後」においても、職場が(そして「教会」も)東京にあることは変わらないのでバスと電車を使って東京まで通っていた人たちの町です。町にいる時間は、純粋に寝るだけ。文字通りの「ベッドタウン」でした。

私が松戸市小金原に来た2004年4月(10年8ヶ月前)には、まだその様相(純粋な「ベッドタウン」)がはっきりあったと思います。しかし、急激に変わった感じになったのは、ここ1、2年というところです。

日中のスーパーの男性客の加速度的急増の理由は、「団塊の世代」の定年退職、でしょう。それ以前を知っている者(私)としては、驚くべき変化です。

しかし、逆に言えば、この状況は、おそらく一時的なものに終わる、ということです。「団塊の世代」の方々の多くが100歳を超えて生きられれば話は別ですが、現実はそうではない。

だとしたら、今の状況(日中のスーパーの男性客の増加)は、10年後には全く異なる様相になる、ということではないかと予想できます。

ちなみに私は純粋な買い物客の一人です。社会学者ではありません。

「実践神学部門」ではアンケートとか統計とか、社会学のいわゆる「社会調査」の方法論を積極的に取り入れていこうという動きは、海外にはあるようです。

日本の実践神学は説教学ばっかりが極端に肥大化していて「釈義、釈義、また釈義」とか言ってしまうところが今でもあるようですが、教会が宣教しようとしている人や町の現実が「釈義、釈義、また釈義」だけで見えてくればいいのですけど、そうは問屋は卸さないです。

それで、そのような「社会調査」の方法論やパースペクティヴを、私は「組織神学部門」の中に、そして「教義学」の中に取り入れることはできないだろうかと考えてきた面があるつもりです。実現の可能性は十分あるという感触を得ています。神学とピーマンの関係を考えるのは重要なことです。

お恥ずかしながら愚息が大学に入るまで知らなかった言葉ですが、エスノメソドロジーなどの社会学の方法論は、組織神学、教義学の中にどんどん取り入れられることを、私は願っています。

聖書学にはフェミニズム批評やポストコロニアル批評、宣教学にはマーケティングやマネジメントやエスノグラフィなどの方法論が、すでに導入されていると教えていただきました。ありがとうございます。素晴らしいです。

私が考えているのは、キリスト教の教義そのものを扱う部分、たとえば三位一体論やキリスト論や聖霊論や救済論や終末論などを展開していく中で、論拠にしうるのは聖書と教会会議の決定事項のみであるという姿勢を貫くのは、大事なことではあると思いますが、一面的すぎるきらいもあるというあたりのことです。

改革派教会以外の方々からはしばしば目の敵にされてきた「二重予定論」なども、それを「慰めの教理」として語るか「恐怖の裁きの教理」として語るかで、まるきり印象が違いますよね。

なぜその教えを多くの人に受け入れていただくことができないのか、語り方を換えれば済むのか、思想の根本構造の問題なのかをチェックしなおすにしても、その教理を伝える「相手」との「対話」や「交流」の中身に踏み込んでいくような考察がないような組織神学、教義学で良いだろうかというようなことは、考えられて然るべきことだと思うわけです。あくまでも一例です。

いずれにせよ、「現場」との対話なしには組織神学は成立しません。そうであると私は考えてきましたので、ファン・ルーラーやバルトや他の組織神学者の「論」を扱うときも、なぜその神学者がその「論」を扱うに至ったのか、つまり、時代的背景とか文脈とかを明らかにすることから書き起こすことをしてきたつもりです。

「教会」と「社会」は実際には「交流」していますし(教会員は社会の一員であるという意味を含む)、かなりの面で等号(イコール)で結んでもいいのではないか(良い意味でも悪い意味でも)と言いたくなるほどの類似点・共通点があると思いますが、両者の違いを言えないようなら「教会」など無理して続ける意味はないとも言えますよね。

そのことを十分に考えたうえで、「教会」のほうも「社会」のほうもイデアではなく実在そのものであり、社会的な現象でもあることを考える必要があります。

もう少し具体的な言い方をすれば、それぞれの「教会」がその中へとほとんど入り込んでいるそれぞれの「社会」に違いがあるので、その違いを丁寧に見ていく必要があるということです。

教会の会員数や礼拝出席者の人数、年間予算といった「数字」を見るにしても、それぞれの「教会」のそれぞれの「社会」があっての数字であることは、わざわざ書き立てるほどのことではない当然すぎることではあるのですが、そのあたりのディティールが全く無視されて、「大きな教会/小さな教会」という評価やラベルだけがひとり歩きするとか、「大きな教会に属している人や役員や教師は偉大である」が、そうでない教会はそうでないというような話になってしまっていたりする。

そのうち「大きな教会」が「小さな教会」を叩き壊そうとしているのではないかと感じられる動きまで出てくる。

こういうのは、本当のところを言えば、神学の大問題なのだと思うのですが、表立った場所でのそういう議論は寡聞にして知りません。そういう問題について議論が起こらないのは、神学部や神学校の経営が「大きな教会」の手に握られているようなところがあるからかもしれません。良い傾向だとは思えませんけどね。

なんと言えばよいのでしょうか、「神学利権」(?)みたいなものがあるのかないのか(「ないだろ!」と言いたいところですが)、在野でいくら声を大にして訴えても、鼻であしらわれるイヤな感覚がありますね。

いったん自分が「(その世界の)エリート」だと思い込んでしまった「神学者」は取り付く島がなくなりますね。アンタッチャブルになっていくところがあります。そんな妄想野郎に負けてる場合じゃないんですが。

自分ひとりとか少数の「エリート(笑)」の指先で日本の全キリスト教界をつまんでいるような錯覚に陥っているのかもしれない人たちに冷水をぶっかけて、正気に戻ってもらう必要がありますね。

2014年11月24日月曜日

アジア・カルヴァン学会 日本カルヴァン研究会 合同講演会 開催のお知らせ

カルヴァン(16世紀)
ファン・ルーラー(20世紀)

PDF版はここをクリックしてください

「アジア・カルヴァン学会 日本カルヴァン研究会 合同講演会」を以下のように開催いたします。

◆日 時 2015年3月9日(月)13時~17時

◆場 所 青山学院大学(渋谷キャンパス)
     (総合研究所ビル5階、正門を入ってすぐ右の建物です)

【講 演】

「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」
元・ファン・ルーラー研究会代表   関口 康

「カルヴァンの聖書解釈の技法」
本学会代表 東北学院大学教授   野村 信

【研究発表】

「カルヴァンとルターのマリア理解」
テュービンゲン大学プロテスタント神学部留学中   木村あすか

どなたでも、自由にご参加ください (入場無料)

連絡先 野村 信 Tel:090-2990-4109 email : sn111@hotmail.co.jp

アジア・カルヴァン学会ブログ http://calvin-research.blogspot.jp

2014年11月22日土曜日

ヒマになりたかったのは我々自身だと思うんだけど

すべては「夢の道具」(当時)でした

なんか我々「ヒマだヒマだ」と言いたくなることあると思うんですけど、デジタルツールとインターネットがなかった頃にはものすごく時間がかかっていたことが、今はものすごく短時間でできるようになったので、「外見上何もしていないように見える」時間が増えただけ、という面があると思いますよ。

私は来年で50歳になるので、47年くらい前までの記憶はかろうじて残っています。大人たちがガリ版刷りしていた頃のことを覚えています。白黒テレビで浅間山荘の立てこもりだの突入だのをリアルタイムで見ていた記憶がはっきりあります。故郷の岡山には地下鉄はありませんでした(今もありません)。

手間や時間がかかることを億劫に思い、「こんな面倒くさいことはもうイヤだ。こんなことをぜんぶ代わりにやってくれるロボがほしい。そういう世の中にならないかなあ」と当時の人は大真面目に願っていました。忘れたとは言わせません。私ははっきり覚えています。当時の夢の多くが今叶っているのです。

「ヒマになりたいヒマになりたい」とみんな願っていました。いまその夢が見事に叶い、多くの人がヒマになりました。そうなった途端、わりと多くの人が「ヒマだヒマだ。何もすることがない。むなしくて仕方ない。生きている意味を感じない」と言い出しました。その流れを全部見ました。それなんなのと。

だれかの悪口を言ってるんじゃないですよ。私も「同じ時代を生きてきた仲間」だからね。面倒なことをなんでも代わりにやってくれるロボが欲しいと思ってたじゃん。コンピュータとか、携帯通信ツールとか、夢のまた夢だったじゃん。それ、「ヒマになりたかった」んだよね。その夢が今かなったんだよね。

だったらね、いま「ヒマでヒマで仕方がない」ことを、今の40代以上くらいの人はもっと喜ばなくっちゃ。自分だけがヒマだと思わないほうがいいですよ。みんな条件は同じです。指先をちょいちょいと動かすだけで、何でも欲しいものを注文できて、寝そべってても宅配してもらえる時代になったんですよ。

時代に逆行してもらいたいとは私は思いません。「過去に」帰りたい方はどうぞご自由に。尊重はします。しかし私はイヤです。レトロの趣味はありません。はっきり言ってどうでもいいです。過去を今よりも良いものと考えるノスタルジアもありません。帰るなら「未来に」帰りたいです。帰らせてください。

目ばかりギョロギョロ動いていることを除けば、せいぜい両手の第一関節のチャカチャカした動きだけで(キーボードへの打ち込みの様子を字にしてみました)、我々の子どもの頃は特撮かアニメの中だけで実現していたことが、本当にできるようになりました。当時と比べれば便利になったんだと思いますよ。

でも、実際にそういう世の中になったらなったで「ああ、空しい空しい。ヒマだヒマだ。何もすることがない」みたいなことを言いだしてしまった我々でした。「ヒマでいいじゃん。なにが文句あるのよ」と言いたいんだけど。だれかに言ってるんじゃないですよ。自分自身に言い聞かせているだけですよ。ね。

日記「改革派教会」


今夜はヘッセリンク先生の『改革派とは何か』(廣瀬久允訳、教文館、1995年)をちょっとだけ読み直して、大いに励まされています。

「今日では、オランダの改革派教会は極めて活気に満ち、また大きな影響力を持っているが、改革派という用語とオランダの教会とを同一視すべきではない。オランダの改革派系の信者は、全部併せても総人口の約40パーセントに過ぎない。

より重要なことは、スイス、ハンガリーおよびフランスで最も有力な教会が改革派だということである。その神学から言って、イタリアのヴァルドー派は基本的には改革派である。またドイツやポーランドにも、有力な改革派教会が今もなお存在している。これらに、スコットランド、イングランドおよびアイルランドの長老派教会を加えれば、改革派がヨーロッパで最大の教派の一つであることは明白であろう。

今日、自らの改革派に属すると考えているキリスト者の数は、全世界で2500万人以上と推定されている。

アメリカでは、改革派/長老派の教会は、プロテスタントで第三位の教派である。アジア、アフリカ、およびラテン・アメリカでも、プロテスタント教派の最大のものの幾つかは、改革派/長老派の背景を持っている。メキシコ、ブラジル、韓国、台湾およびインドネシアでも、(また、改革派という名前が必要以上に悪名の高い南アフリカは言うに及ばず)、最有力の教派はみな改革派/長老派である。

今日では、改革派/長老派の教会として最大のものは、ジュネーヴ、アムステルダム、エディンバラ、あるいはピッツバーグといった伝統的な中心地にではなく、ナイロビやソウル、またサン・パオロに存在しているのである!」(25~26ページ)

すっかり遅くなりましたので、お祈りしてから休みます。それでは、おやすみなさい。

2014年11月21日金曜日

希望は最後までぼくらの味方だ


エンジンを切り 夕闇の中 人を待つ

また聴いている ガラケーで 昔の歌

思い出があるわけでない ただ好きな歌

あの頃は忙しかった 記憶がないくらい

ちょっと変だったかもしれない 今も変か

状況が似てるのか 違うのか まだ分からない

「希望の神学」と口にしてみたものの

出てくるのは ためいきばかりだ

ルララ 宇宙の風に乗るぜ

それ パクリだから

希望は最後までぼくらの味方だ