2013年11月24日日曜日
ぼくの「ファン・ルーラー文庫」は四種に分類できます
ぼくの「ファン・ルーラー文庫」は次の四種に分類できます。
(1)左端から緑色の本までが旧・新の「著作集」。
(2)その隣から中央の赤い本まで「論文集」。
(3)その隣から右から四分の一あたりまでが「黙想集」。
(4)残りはファン・ルーラーを取り上げた「研究集」です。
ある出版社の方が、ファン・ルーラーの新しいほうの「著作集」(写真の中の緑色の本)を全訳しようと提案してくださったことがあるのですが、
それを実現するためには改革派神学とオランダ語に習熟した最低10人くらいの人材が一致協力して訳業に専念できるようなシステムが必要だと、ぼくは思います。
22世紀ですね。
2013年11月23日土曜日
みなさん、オランダ語を勉強しましょう!
前の記事にアップした本棚の写真の下の三段分がすべて
カール・バルトの本と、バルトについて書かれた本です。
「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」
という言葉は、バルトにも当てはまると思います。ビビるほどの量ではありません。
我々が一人の学者を偶像にしないためにできそうなことは、
複数の神学者たちの本を「揃える」ことかもしれません。
日本では知られていない神学者たちが、
カルヴァンやバルトほど本を書きました。我々が知らないだけです。
複数の神学者の本を「揃える」ことで、何が起こるのか。
メディアなどが作りだした「偉大な」神学者の相対化です。
日本で知られている「偉大な」神学者の代表は
アウグスティヌス、トマス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルトでしょうか。
彼らを相対化することができるようになります。
ベルカウワーもファン・ルーラーも、ドイツ語でも書きましたが、
二人ともオランダ人ですので、著作の大半はオランダ語です。
オランダ語はドイツ語に似ています。ドイツ語の基礎が分かれば、すぐ読めるようになります。
講談社オランダ語辞典は画期的でした。これなしには、ぼくは読めません。
みなさん、オランダ語を勉強しましょう!
カール・バルトの本と、バルトについて書かれた本です。
「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」
という言葉は、バルトにも当てはまると思います。ビビるほどの量ではありません。
我々が一人の学者を偶像にしないためにできそうなことは、
複数の神学者たちの本を「揃える」ことかもしれません。
日本では知られていない神学者たちが、
カルヴァンやバルトほど本を書きました。我々が知らないだけです。
複数の神学者の本を「揃える」ことで、何が起こるのか。
メディアなどが作りだした「偉大な」神学者の相対化です。
日本で知られている「偉大な」神学者の代表は
アウグスティヌス、トマス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルトでしょうか。
彼らを相対化することができるようになります。
ベルカウワーもファン・ルーラーも、ドイツ語でも書きましたが、
二人ともオランダ人ですので、著作の大半はオランダ語です。
オランダ語はドイツ語に似ています。ドイツ語の基礎が分かれば、すぐ読めるようになります。
講談社オランダ語辞典は画期的でした。これなしには、ぼくは読めません。
みなさん、オランダ語を勉強しましょう!
どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません
ふいに思い出したのは、学生時代の先輩の言葉です。
三鷹の学生寮のぼくの部屋の本棚を見て
「きみは揃いものが好きなんだね」
と言われたことがあります。
その先輩が誰だったのかは覚えていません。その人の顔が思い浮かびません。
でも、先輩のおっしゃったこと、当たっていました。
ぼくは揃えたくなる人間です。「収集癖」のようなものが、たぶんあります。
なぜ揃えたくなるのかは分かりません。その理由を知りたいわけではありません。
ただ、分かったことがあります。
それは、どんなに偉大な先生でも 一生の間にできる仕事は限られている、ということです。
当たり前のことですが、揃えてみて納得できました。
この写真の上の段は、ベルカウワー(1903-1996)の本とベルカウワーについて書かれた本です。
下の段は、ファン・ルーラー(1908-1970)の本とファン・ルーラーについて書かれた本です。
いずれもパーフェクトなコレクションではありませんが、かなり網羅できていると思います。
ベルカウワーとファン・ルーラーは二人ともオランダの改革派神学者でした。
ほぼ同時代に活躍しましたが、所属教団が異なるため、主張に違いはありました。
二人の関係を研究することは、大きな意義があります。
それよりぼくがいま言いたいことは、二人の著作の量です。
「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」
ということです。
どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません。人間です。
人ひとりの一生の間に書き残しうる言葉には、限界があります。
「揃えて」みて初めて、そのことが分かりました。
それでぼくは、ほっとしたのです。
神学をなめてはいけません。しかし、むやみに恐れることもありません。
何を言ってるのか分からなくなってきましたので、このへんで終わります。
三鷹の学生寮のぼくの部屋の本棚を見て
「きみは揃いものが好きなんだね」
と言われたことがあります。
その先輩が誰だったのかは覚えていません。その人の顔が思い浮かびません。
でも、先輩のおっしゃったこと、当たっていました。
ぼくは揃えたくなる人間です。「収集癖」のようなものが、たぶんあります。
なぜ揃えたくなるのかは分かりません。その理由を知りたいわけではありません。
ただ、分かったことがあります。
それは、どんなに偉大な先生でも 一生の間にできる仕事は限られている、ということです。
当たり前のことですが、揃えてみて納得できました。
この写真の上の段は、ベルカウワー(1903-1996)の本とベルカウワーについて書かれた本です。
下の段は、ファン・ルーラー(1908-1970)の本とファン・ルーラーについて書かれた本です。
いずれもパーフェクトなコレクションではありませんが、かなり網羅できていると思います。
ベルカウワーとファン・ルーラーは二人ともオランダの改革派神学者でした。
ほぼ同時代に活躍しましたが、所属教団が異なるため、主張に違いはありました。
二人の関係を研究することは、大きな意義があります。
それよりぼくがいま言いたいことは、二人の著作の量です。
「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」
ということです。
どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません。人間です。
人ひとりの一生の間に書き残しうる言葉には、限界があります。
「揃えて」みて初めて、そのことが分かりました。
それでぼくは、ほっとしたのです。
神学をなめてはいけません。しかし、むやみに恐れることもありません。
何を言ってるのか分からなくなってきましたので、このへんで終わります。
2013年11月22日金曜日
ぼくに安住の地は無いような気がします
2013年11月21日木曜日
違憲状態国会が決めた法律に逆らうと禁固刑何十年という話になるのはグロテスクすぎます
違憲状態選挙で選出された(確定)
違憲状態議員による(確定)
違憲状態国会で(確定)
明白に違憲的ななんちゃら法案が審議され(いま)
その法案が「数の力で」成立した場合でも(?)、
その法律に従わなければ、禁固刑何十年(ええーっ?!)という話、
バカバカしすぎて、グロテスクすぎて、ついて行けないです。
ただちに解散総選挙すべきだと思います。
ただし、一票の格差の問題は解決したうえでの再選挙です。
または、なんちゃら法案は審議未了廃案とする。
どちらかです。
ぜひお願いいたします。
【追記】
ぼくごときの意見を無視するのは、そりゃいとも簡単なことですよ。
だけど、ぼくが書いたことは、ごく普通の庶民感覚だと思いますよ。
まさか強行採決するんですか。
違憲状態国会の強行採決。ずいぶんアナーキーですね。前代未聞ですな。
そういうことすると、皆さんの輝かしい経歴に傷がつくんじゃないですかね。
もう二度と法律だの憲法だのという言葉を口にできなくなるんじゃないですか。
恥ずかしいと思わないのかな。結局、権力の亡者だったのか。がっかりですね。
違憲状態議員による(確定)
違憲状態国会で(確定)
明白に違憲的ななんちゃら法案が審議され(いま)
その法案が「数の力で」成立した場合でも(?)、
その法律に従わなければ、禁固刑何十年(ええーっ?!)という話、
バカバカしすぎて、グロテスクすぎて、ついて行けないです。
ただちに解散総選挙すべきだと思います。
ただし、一票の格差の問題は解決したうえでの再選挙です。
または、なんちゃら法案は審議未了廃案とする。
どちらかです。
ぜひお願いいたします。
【追記】
ぼくごときの意見を無視するのは、そりゃいとも簡単なことですよ。
だけど、ぼくが書いたことは、ごく普通の庶民感覚だと思いますよ。
まさか強行採決するんですか。
違憲状態国会の強行採決。ずいぶんアナーキーですね。前代未聞ですな。
そういうことすると、皆さんの輝かしい経歴に傷がつくんじゃないですかね。
もう二度と法律だの憲法だのという言葉を口にできなくなるんじゃないですか。
恥ずかしいと思わないのかな。結局、権力の亡者だったのか。がっかりですね。
2013年11月20日水曜日
2012年12月衆議院議員選挙「違憲状態」についての最高裁大法廷判決に寄せて
1票の格差:12年衆院選は違憲状態 最高裁大法廷(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/m20131120k0000e040232000c.html
ついに最高裁判決出ました。
竹崎博允裁判長は、ぼくらの高校、岡山朝日高校の先輩だったんですね。知りませんでした。
竹崎博允 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹崎博允
今日の判決によると、選挙そのものは有効だそうですので、
せめて「違憲状態議員」と「合憲議員」の区別はされるべきだと思います。
この判決が出ても議席に堂々と座れる人の神経を、ぼくは疑います。
「違憲状態議員」は自主的に傍聴席に座るべきです。
それが不服なら自主的に議員バッジを外すべきです。
考えてもみてください。
「違憲状態議員」を含む国会で決められた法律に、
ぼくらは、どの顔して従えばいいのか。
冗談じゃない。
「違憲状態議員」たちを、どの国民が尊敬できるのか。
ぼくには無理です。
というか、その人自身、国会議員としてのプライドを持てるのか。
ぼくには甚だ疑問です。
早く解散総選挙してあげるほうが、その人たちの尊厳を守れると思います。
http://mainichi.jp/select/news/m20131120k0000e040232000c.html
ついに最高裁判決出ました。
竹崎博允裁判長は、ぼくらの高校、岡山朝日高校の先輩だったんですね。知りませんでした。
竹崎博允 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹崎博允
今日の判決によると、選挙そのものは有効だそうですので、
せめて「違憲状態議員」と「合憲議員」の区別はされるべきだと思います。
この判決が出ても議席に堂々と座れる人の神経を、ぼくは疑います。
「違憲状態議員」は自主的に傍聴席に座るべきです。
それが不服なら自主的に議員バッジを外すべきです。
考えてもみてください。
「違憲状態議員」を含む国会で決められた法律に、
ぼくらは、どの顔して従えばいいのか。
冗談じゃない。
「違憲状態議員」たちを、どの国民が尊敬できるのか。
ぼくには無理です。
というか、その人自身、国会議員としてのプライドを持てるのか。
ぼくには甚だ疑問です。
早く解散総選挙してあげるほうが、その人たちの尊厳を守れると思います。
松戸小金原教会の月報『まきば』最新号が完成しました
松戸小金原教会の月報『まきば』2013年11月号が完成しました。
巻頭言 今月の言葉
「被造物だけではなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます」 (ローマ8:26)
牧師 関口 康
わたしたちは教会のために産みの苦しみを続けているでしょうか。教会に通うことは自分の満足や安心を求めるためであるというだけでは済まないのです。
わたしたちは自分のことで精一杯です。他人の世話までできる余裕はありません。しかし、わたしたちが悩んだり困ったりしたときに教会が助けになった経験をもっているなら、同じような悩みや苦しみを今味わっている人たちのためにも教会が必要だということが分かるはずです。遠くの教会まで苦労して通っていた人たちにとって、自分の家の近くに教会があることの意味や価値が分かるはずです。
いや、今は自動車・バス・電車でどこでも行ける。近所の教会などなくてもよい。もしそのような考え方が、教会も伝道もすっかりあきらめた結果として出ているものだとすれば、反省し、悔い改めなければならないことです。
パウロは教会をあきらめませんでした。どんなことがあっても伝道を続けました。パウロの言う「目に見えないものへの希望」とは伝道の希望です。まだ存在しない教会が、新しく生み出されることの希望です。まだ洗礼を受けていない人が、教会に通い、神の前で喜びと感謝をもって生きはじめることの希望です。
東関東中会の教師会を行いました
2013年11月18日月曜日
千葉の東京 Tokyo in Chiba
東京ディズニーランドが千葉にあることが「偽装」だというなら、東京大学(柏)も、東京歯科大学(千葉)も、東京電機大学(千葉NT)も、東京基督教大学(印西)も、千葉にあるのはすべて「偽装」ですかね。
こういうことをあんまりうるさく言い過ぎると、ギスギスしそう。ネット時代に地名の意味はだんだん薄れてきている気がします。
「新東京」とか「新都心」とか「副都心」というのは、まだちょっと遠慮がある感じですよね。堂々と「東京」を名乗りながら千葉、というのは、ぼくはもう慣れましたが、いまだにネタにされ続けられるところがありますね。
柏・松戸が十分東京であることはぼくもそうだと思います。が、それでどうなるかっていうと、柏・松戸在住の「若い元気なクリスチャン」は、柏・松戸にある教会の前を華麗にスルーして、自動車・バス・電車で東京の教会まで行っちゃうんですよね。悲しい、悲しい、悲しい、悲しい現実です。
しかし、その「若い元気なクリスチャン」だった人たちも、やがて華麗に加齢する。その頃になってやっと、「ああ、しんどい。遠くまで行くの、やんなっちゃった。苦労して東京の教会まで行っても、東京の教会は若い人たちばっかりで、ぼく/あたしの居場所が無くなっちゃったわ。...あれ?よく見ると、うちの近くにも教会あるじゃない、気づかなかったわ(50年くらい前から同じ場所にあるんですが...)。ま あ、仕 方 な い、こ こ で も い い わ。」(ゲシュペルトは筆者)とか言って、来てくれたりします。
これは教会だけの話でなく、病院や商店や学校なども基本的にだいたい同じことが当てはまります。ちょっと大きめの手術をすることになった人は、ほぼ必ず、東京の有名な病院のスーパードクターにやってもらうために、何日でも何か月でも待ちます。松戸・柏にも名医はたくさんいると思うのですが、病院や医師までブランドものです。
商店も基本的に同じことが当てはまると思います。全国チェーンのタコ焼き屋の「松戸小金原店」と、東京の「原宿店」とで、タコ焼きの味が違うとは考えにくいのですが、松戸・柏の「若くて元気な」人たちは、「松戸小金原店」の前を華麗にスルーして、「原宿店」のタコ焼きをハフハフしたりします。
学校も然り。場合によっては小学校くらいから、何時間もかけて東京の有名校に通わせられている子どもたちがいます。それが悪いとは思いませんが、「地元の学校は荒れている」という神話を信じるゆえにそうする、という親もいます。しかし、それは神話です。べつに荒れてません。
こういうことを書くと嫌われることは分かっているのですけどね。
まあ、ぼくは「岡山県人」ですから、千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。
こういうことをあんまりうるさく言い過ぎると、ギスギスしそう。ネット時代に地名の意味はだんだん薄れてきている気がします。
「新東京」とか「新都心」とか「副都心」というのは、まだちょっと遠慮がある感じですよね。堂々と「東京」を名乗りながら千葉、というのは、ぼくはもう慣れましたが、いまだにネタにされ続けられるところがありますね。
柏・松戸が十分東京であることはぼくもそうだと思います。が、それでどうなるかっていうと、柏・松戸在住の「若い元気なクリスチャン」は、柏・松戸にある教会の前を華麗にスルーして、自動車・バス・電車で東京の教会まで行っちゃうんですよね。悲しい、悲しい、悲しい、悲しい現実です。
しかし、その「若い元気なクリスチャン」だった人たちも、やがて華麗に加齢する。その頃になってやっと、「ああ、しんどい。遠くまで行くの、やんなっちゃった。苦労して東京の教会まで行っても、東京の教会は若い人たちばっかりで、ぼく/あたしの居場所が無くなっちゃったわ。...あれ?よく見ると、うちの近くにも教会あるじゃない、気づかなかったわ(50年くらい前から同じ場所にあるんですが...)。ま あ、仕 方 な い、こ こ で も い い わ。」(ゲシュペルトは筆者)とか言って、来てくれたりします。
これは教会だけの話でなく、病院や商店や学校なども基本的にだいたい同じことが当てはまります。ちょっと大きめの手術をすることになった人は、ほぼ必ず、東京の有名な病院のスーパードクターにやってもらうために、何日でも何か月でも待ちます。松戸・柏にも名医はたくさんいると思うのですが、病院や医師までブランドものです。
商店も基本的に同じことが当てはまると思います。全国チェーンのタコ焼き屋の「松戸小金原店」と、東京の「原宿店」とで、タコ焼きの味が違うとは考えにくいのですが、松戸・柏の「若くて元気な」人たちは、「松戸小金原店」の前を華麗にスルーして、「原宿店」のタコ焼きをハフハフしたりします。
学校も然り。場合によっては小学校くらいから、何時間もかけて東京の有名校に通わせられている子どもたちがいます。それが悪いとは思いませんが、「地元の学校は荒れている」という神話を信じるゆえにそうする、という親もいます。しかし、それは神話です。べつに荒れてません。
こういうことを書くと嫌われることは分かっているのですけどね。
まあ、ぼくは「岡山県人」ですから、千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。
ネット時代の教会と牧師
以下、思いつくままに書きます。
注意していただきたいのは、これはぼく自身の直接的な体験ではないという点です。あくまでも可能性であり、一種のフィクションです。悪しからず。
(1)教会関係とネット関係
毎週日曜日に教会に集まる同士(とくに牧師と教会員)と、牧師自身のネット関係の仲間は、別々のほうがいいような気がします。
なぜなら、教会の中にはネットを使わない人がいますので、いわば必然的に、教会員「の一部」と牧師がネット関係にあることになるからです。
そうなりますと、牧師の言葉や牧師経由の情報が「伝わっている人」と「伝わっていない人」が教会の中に併存する格好になることは、必然的です。
それは、教会の中に不信感、不和、対立を引き起こす遠因ないし直接の原因になりかねません。
(2)ネット経由の情報は「パソコン(モバイル含む)の前」でしか得られない
ネット時代の牧師は、(ぼくら日本キリスト改革派教会でいえば)大会や中会の委員会や、その他ありとあらゆる方面からの情報が、今やメールはじめネット経由で送られてきています。
「ネット経由で送られる情報」を入手するための「唯一の」方法は、「パソコンの前に座ること」です。他にどうすることもできません。
しかし、「パソコンの前に座る牧師」の姿が、見る人によっては、非常に「不愉快な存在」に見えてしまうらしいのです。その感情たるや、「人間を相手にするのではなく、パソコンを相手にしている不埒な牧師」だ、みたいな感じのようです。
イヤ、違うんですが。「大昔の」手旗信号とか、モールス信号とか、交換電話とか、わりと最近のファックスとかと、ネットは、基本何も変わらないんですが。
「パソコンの画面を見つめるだけで、ぼく/あたしの顔を見てくれない」とか文句言いたい気持ちも、まあ分からないでもないですが、それ、毎日通っておられる病院のお医者さんへの不満ですよね。そのお医者さんたちに文句言ってくださいね。
(3)ネット時代の「忙しい」牧師は、ハタから見ると、「何もしていない」ように見える
教会は、いますでに、あらゆる情報をネット経由でやりとりしはじめています。
たとえば、ぼくら日本キリスト改革派教会の「東関東中会」では、
中会の会議や各委員会の開催通知、議案書、会議録略報、あるいは緊急連絡や訃報などはPDFやワード文書形式でメールに添付されて送られてきます。プリントアウトやファイリングは各人に任されています。
他にも、多くの委員会が各自のメーリングリストなどを設けて日常的に議論が交わされていますし、最近はfacebookなども積極的に利用されるようになりました。
あるいは、これは大会や中会のケースではありませんが、個人的なグループなどでは、スカイプやハングアウトなどのビデオ通話で、会議や勉強会が行われるようになりました。
このような動きはネットコミュニケーションの発達に連動しているものでもありますが、同時にそれは「教会の伝道不振」という時代的背景を持っています。
それはどういうことかといえば、早い話、各個教会も中会も大会も献金収入が減る一方で、経済的に追い詰められているため、会議や委員会のたびに支出される「日当、交通費、食事代、宿泊費」といったものを切り詰めることに必死です。
その中でのネットコミュニケーションの活用は、きわめて危機的な財政難にある各個教会、中会、大会を「助ける」意義もあるのです。
ところが、ここに大きな問題が発生します。
上記のような多岐にわたるネットコミュニケーションは、すべてパソコン(モバイル含む)の前で行われます。
そして、その姿を「客観的に見れば」、
牧師が書斎にひとりで引きこもり、パソコンの前に座って、目と指を不断に動かし続け、独りごとを言い、時々爆笑したり、大きな声でしゃべっている、
というふうな絵になります。
しかも、多くの牧師は、教会に近接した場所に自宅(牧師館)があり、長時間の通勤などをしていません。
そのため、「ネット時代の忙しい牧師」は、ハタから見ると、「自室に引きこもってパソコンをいじっているだけのヒマな人」に見えてしまうのです。
すると、どうなるか。
「ヒマそうな牧師」は、教会からの尊敬の対象にはなりにくくなります。
「ぼくたち/あたしたちは、毎日毎日、汗水たらして長時間の通勤を耐え、
ひどい人間関係の中でもみくちゃにされ、イヤな仕事をこなしている。
それなのに、うちの牧師は、自室にこもってパソコンをいじっているだけ。
冗談じゃないわ。あんな牧師に耐えられるか」
というような話になりかねません。
イヤイヤ、そんなことないから。
めっちゃ忙しいですよ、まあたしかに「パソコンをいじっている」だけですが。
注意していただきたいのは、これはぼく自身の直接的な体験ではないという点です。あくまでも可能性であり、一種のフィクションです。悪しからず。
(1)教会関係とネット関係
毎週日曜日に教会に集まる同士(とくに牧師と教会員)と、牧師自身のネット関係の仲間は、別々のほうがいいような気がします。
なぜなら、教会の中にはネットを使わない人がいますので、いわば必然的に、教会員「の一部」と牧師がネット関係にあることになるからです。
そうなりますと、牧師の言葉や牧師経由の情報が「伝わっている人」と「伝わっていない人」が教会の中に併存する格好になることは、必然的です。
それは、教会の中に不信感、不和、対立を引き起こす遠因ないし直接の原因になりかねません。
(2)ネット経由の情報は「パソコン(モバイル含む)の前」でしか得られない
ネット時代の牧師は、(ぼくら日本キリスト改革派教会でいえば)大会や中会の委員会や、その他ありとあらゆる方面からの情報が、今やメールはじめネット経由で送られてきています。
「ネット経由で送られる情報」を入手するための「唯一の」方法は、「パソコンの前に座ること」です。他にどうすることもできません。
しかし、「パソコンの前に座る牧師」の姿が、見る人によっては、非常に「不愉快な存在」に見えてしまうらしいのです。その感情たるや、「人間を相手にするのではなく、パソコンを相手にしている不埒な牧師」だ、みたいな感じのようです。
イヤ、違うんですが。「大昔の」手旗信号とか、モールス信号とか、交換電話とか、わりと最近のファックスとかと、ネットは、基本何も変わらないんですが。
「パソコンの画面を見つめるだけで、ぼく/あたしの顔を見てくれない」とか文句言いたい気持ちも、まあ分からないでもないですが、それ、毎日通っておられる病院のお医者さんへの不満ですよね。そのお医者さんたちに文句言ってくださいね。
(3)ネット時代の「忙しい」牧師は、ハタから見ると、「何もしていない」ように見える
教会は、いますでに、あらゆる情報をネット経由でやりとりしはじめています。
たとえば、ぼくら日本キリスト改革派教会の「東関東中会」では、
中会の会議や各委員会の開催通知、議案書、会議録略報、あるいは緊急連絡や訃報などはPDFやワード文書形式でメールに添付されて送られてきます。プリントアウトやファイリングは各人に任されています。
他にも、多くの委員会が各自のメーリングリストなどを設けて日常的に議論が交わされていますし、最近はfacebookなども積極的に利用されるようになりました。
あるいは、これは大会や中会のケースではありませんが、個人的なグループなどでは、スカイプやハングアウトなどのビデオ通話で、会議や勉強会が行われるようになりました。
このような動きはネットコミュニケーションの発達に連動しているものでもありますが、同時にそれは「教会の伝道不振」という時代的背景を持っています。
それはどういうことかといえば、早い話、各個教会も中会も大会も献金収入が減る一方で、経済的に追い詰められているため、会議や委員会のたびに支出される「日当、交通費、食事代、宿泊費」といったものを切り詰めることに必死です。
その中でのネットコミュニケーションの活用は、きわめて危機的な財政難にある各個教会、中会、大会を「助ける」意義もあるのです。
ところが、ここに大きな問題が発生します。
上記のような多岐にわたるネットコミュニケーションは、すべてパソコン(モバイル含む)の前で行われます。
そして、その姿を「客観的に見れば」、
牧師が書斎にひとりで引きこもり、パソコンの前に座って、目と指を不断に動かし続け、独りごとを言い、時々爆笑したり、大きな声でしゃべっている、
というふうな絵になります。
しかも、多くの牧師は、教会に近接した場所に自宅(牧師館)があり、長時間の通勤などをしていません。
そのため、「ネット時代の忙しい牧師」は、ハタから見ると、「自室に引きこもってパソコンをいじっているだけのヒマな人」に見えてしまうのです。
すると、どうなるか。
「ヒマそうな牧師」は、教会からの尊敬の対象にはなりにくくなります。
「ぼくたち/あたしたちは、毎日毎日、汗水たらして長時間の通勤を耐え、
ひどい人間関係の中でもみくちゃにされ、イヤな仕事をこなしている。
それなのに、うちの牧師は、自室にこもってパソコンをいじっているだけ。
冗談じゃないわ。あんな牧師に耐えられるか」
というような話になりかねません。
イヤイヤ、そんなことないから。
めっちゃ忙しいですよ、まあたしかに「パソコンをいじっている」だけですが。
登録:
コメント (Atom)